表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

3/28

3. 泣き出したら20秒。そんなに待てっこないのは分かってる

 

 シン…とした、明け方も早朝。

 陽は東に現れたばかり。真上の空は未だ暗く、紫色である。


 冷たい空気と、中の異様に篭った空気を入れ換えようと重い腰を上げた時。


「へけっ、へけっ、へけっ」


「!!」


 ぎょっとして固まる。


 薄っすらと暗い部屋の中、その音に反応して少女が両手を前に掲げる。

 もう一人の少女は耳を塞いでいる。

 そして、最後の一人がガタリと座っていた椅子を、その可愛らしい小さなケツで蹴り倒したのを慌てて制し、しいっと人差し指を立てた。


「ま、待てっ!」


 声を潜めつつ、様子を窺う。


「へけっ、へけっ」


 鼻が詰まったような抜けているような、大人では絶対に出せないか細くて高い声が断続的に鳴っている。


「20秒だ。20秒、待つんだ」


「へけっ、へけっ、ふぇっ、へぇっ」


「9、10、11…」


「いや、これは完全に起きてるでしょ」


「13、じゅうよ…」


「へけっ……」


 庇護欲を掻き立てられる声は10秒辺りで感覚が短くなって、13秒目にして止まった。

 俺はほうっと息を吐いて、ほれみろと勝ち誇った顔で少女らを見据えようとしたのだが。


「ふぇひゃああああぁぁぁああああああ!!!!」

「ああああぁぁぁぁあぁぁぁあ!!!!」

「ほんわぁ!ほんわぁ!ほんわぁ!!」


 耳を劈く不快な声が、建物全体に響き渡った。


「ぐっ…!」


 あまりの声のバカでかさに耳を塞ぐ。真ん中の少女が既にそうしている通りに耳を塞いだ上から枕を被って必死に現実逃避に走る俺だったが。


 ドンガラガッシャンと、部屋の外から何か重いものが落ちる音。次いで悲鳴が聞こえてきたから耳を塞いでも全く意味がないと悟る。


「あんた!!せっかく寝たのに窓なんか開けるから!!」


 朝日に照らされたピンク髪の少女が激怒している。

 大きな瞳の下に、はっきりとした隈。


「うるせー!!どうせ何しても起きたとかで、全部俺の所為にするんだろうが!!」


「はんぎゃああああああ!!!」


 バサバサと戸棚の本が飛んでいく。開けた窓からどんどん放り出されていく。


「あああああ…。30分前にようやく寝たと思ったのに…」


 あわあわと窓を閉めに向かう濃い紫髪の少女?だったが、ギクリと立ち止まりその場から動かない。

 へにゃりと顔を綻ばせ、どうしようと隣のよく似た顔立ちの少女の肩を突いた。


 とても小さなもみじのおててが、少女?の小指をしっかりと握っているのだ。


「はんわぁ!はんわぁ!はんわぁ!!」


「っつか、マジで元気あり過ぎだろ…。一日中泣きまくってんのによ…」


 昼も夜も無かった生活を長年やってきた俺でさえも相当堪えているのだ。

 今まで陽が落ちたら寝るといった贅沢な暮らしをしていた彼女らにとっては、地獄のような辛さであろう。

 現に枕を被って震えているもう一人の淡い紫髪の少女は、静かにシクシクと泣いているだけだ。


 ガタガタガタ!ガタガタ!!


 また部屋の外でなにかの鈍い音がした。

 遠くで女の苛々した叫び声も同時に聞こえる。


「ヒステリックにもなりますよ…。連日この調子なんですから…ぐすっ」


 枕から僅かに顔を上げて、少女は鼻を啜った。


「なあにが20秒よ!!20秒待つ間に大変な事になっちゃってんじゃない!」


「知るか!そう書いてたんだからしょーがねぇだろ!へけへけは、ただの寝言の可能性が高えから、下手に抱き上げたりしたら返って起こしてしまうってよ」


「この人の場合、へけへけからちょっと溜めて本泣きするから期待させられちゃうんだよね…」


「でも、泣きすぎですぅ…」


「へわあああぁぁあ!!へわぁぁあああ!!」


 この赤ん坊が泣き始めてまだ3分。永遠にも感じるが、まだ3分だ。

 なのに部屋はぐちゃぐちゃの大惨事である。

 片付けても片付けても、こやつが泣けば部屋の中は台風が吹き荒れたみたいに凄い事になる。


 だからもういっそ片付けをやめた。

 散乱した物が赤ん坊に当たろうが、どうせこいつに()()()()()()()()()()()

 俺も、どうってことない。


 しかし3人の少女らは違う。

 そして、部屋の外に待機している、何人かの大人たちも。


「赤ん坊ってのは「ほんぎゃあ」って泣くもんだとばかり思ってたけど、全く違うのな」


 このまま赤ん坊をベッドの上に放置するわけにもいかないから、渋々と抱き上げる。

 交代であやしているは、腕はパンパンでかなり痛い。

 左手でだらんとした首を、右腕全体を使って身体を支え、ゆっくりと左右に振る。


「へんわぁ!へんわぁ!へんわぁ!!」


 赤ん坊に泣き止む気配はない。

 こいつは一度泣き出すと、それこそ火が付いたように泣き叫び、どれだけ抱こうがあやそうが全く効果がない。


「ああああ…泣き声が寝不足の頭に響くぅ…」


 そして、こんなにも不快な声だとは知らなかった。


 バタバタバタバタ!ガチャン!!


「おっと、ついに救世主が現れやがった」


 ノックもせず汚い部屋に飛び込んできたのは、恰幅のよい中年の男。

 自慢のちょび髭は可哀想なほど萎れている。

 手入れする気力もないらしい。


 それでも自分の役割だけはきっちりこなす所は流石だと思う。


「ぼんじゅ~る!!コウハさぁん!!3時間経ちました~。おミルクの、お時間で~すよぉ!!」


「朝からテンションマックスなのはどうかと思うけど、待ってましたぜ。サンキューな、オッサン!」


 この男、語尾がトゥルルルと巻き舌で喋るのが鬱陶しいが、寝不足が過ぎて頭の中が多分お花畑になって増して鬱陶しい。


 ピンク髪がジト目でちょび髭親父に近づいて、湯気の立つ哺乳瓶を奪い取った。


「あうち!乱暴で~すねぇ!」


「うるさい」


 それからすかさず、俺の腕の中で喚き散らす小っちゃな口の中に、哺乳瓶の先っちょをこれまた乱暴に突っ込んだ。


「ほんわぁ!ほん…、ぐびゅ、ぐびゅ、ぐびゅ…」


 途端に静かになる部屋。

 どっと疲れ、その場に崩れ落ちる少女達。


 勢いよく吸い込まれていく白い液体が哺乳瓶の中で泡立っていく。


「ふひー…一時はどうなる事かと」


「たまりませんね。もう、一日中突っ込んでいたい気分ですよ」


「同感」


 赤ん坊はあれだけ泣き叫んでいたのに、顔が真っ赤なだけで涙は流れていない。

 開いてんのか瞑ってんのか分からない細い目が、ウロウロと視線を彷徨わせている。


 ミルクの先に吸い付く口は余りに小さく、それなのに力は強い。


「やっぱ、生まれたて…だよなぁ」


 シワシワでくちゃくちゃ

 アニメや漫画、テレビのCMで見かける赤ちゃんというものは、こいつよりかなり成長した姿なのだと知った。


 腕や足は折れそうに細く、頭は(いびつ)でまとまりがない。

 ぎゅうっと硬く握りしめた指の先は、一丁前にほんの小さな小さな爪がくっついているのだ。


「これが、新生児ってやつか」


「そりゃそうでしょうよ。【再生】してまだ一週間よ」


 疲れた顔でピンク髪が言う。

 左手に哺乳瓶を持って、右手は赤ん坊の頬をぷにぷにしながら笑っている。

 ドキリとした。


「どうしてこうなっちゃったんだか。すっごくキツイけど、黙ってれば可愛いとも言えなくもないわね」


 眉を吊り上げて怒っているよりも、今みたいに笑うとめちゃくちゃ可愛いのに。


 思わず喉の先まで出かかって、意識して留める。


 いかんいかん。相手(ピンク)はどう見ても未成年。

 幾ら可愛いとて、大人として手を出すわけにゃあって…何を考えているんだ、俺は。


「ああ、マジでなんでこうなっちまったんだか…」


 この赤ん坊がミルクにがっついている約10分。重みを感じる腕は痛いが、その時間だけは平和である。

 せめてこの僅かなひと時だけでも、仮寝できたらどんなに幸せだろうか。

 俺は目を閉じ、ぐわんぐわんと睡眠を欲する脳と意識を融合させる。


 俺は遠のく意識の中、この怒涛の3日間を回想する。


 慌ただしく過ぎ去った3日間ではあったが、それを開始する直前、俺は何故かここにいたのだ。


 どうしてこうなった。


 まさにその台詞が一番相応しい。


 ああ、そうだ。

 眠りに落ちる前に、これだけは言っておかないとな。



 《本日の俺の子育て持論》

 へけへけ泣き出したら、まずは20秒待て。夜泣きじゃなく、『寝言』の可能性があるからだ。

 すぐ抱き上げたり、ミルクをやったりするのは逆効果ってのを覚えておくんだな。

 ま、それも時と場合によるし、個人差があるから絶対そうだとは言わねえけど。



 そして俺の意識は、完全に落ちた。

 赤子をその腕に、抱いたまま―――。




 俺の名前は、桐山光羽(きりやまこうは)

 年齢は今年で28。オッサンに片足突っ込んだアラサーの元サラリーマンだ。


 長年勤めていたブラック企業を辞め実家に戻り、今は気ままなニート生活をしている。

 といっても、辞めてまだ一週間だから、あまり実感がないのが現状だ。


 どれだけ寝坊しても誰も怒らないのにいつもの時間に起きてしまうし、この間なんかはスーツを着て家を出ようとしたのを母親に止められて辞めた事にようやく気付いたし、鳴らないはずのスマホをいつまでも睨みつけていたりと、染みついた社畜魂はなかなか消えてくれない。


 身も心も会社…いや、顧客に人生を捧げていた俺は、数字(ノルマ)の為とはいえやり過ぎていた。

 初めは契約が取れただけ金が入るからウハウハだった。もっと顧客に寄り添えば、もっと契約が増えると気付いた時には奴隷に成り果てていた。

 それでも俺を慕ってくれる顧客の老人たちを見捨てられなくて、彼女も家族も捨てて仕事に没頭した俺はバカだったとしかいいようがない。


 当てつけのように会社に退職届を出して、目の前でそれを破られ続けてきたが、支店長の気が変わって万が一、それが受理されるのを心の何処かでいつも願っていた。


 だけどこの度。

 一昨年結婚した俺の姉がめでたく妊娠。

 初孫フィーバーに、実家は盛り上がった。めちゃくちゃ盛り上がった。

 そして俺も、自分の血が入った新たな生命の誕生に、心を揺り動かされたのだ。


 ねえちゃんは結婚して、もうすぐ子供が産まれる。

 どんどん前に進んでいるのに、俺はなんなのだ、と。

 来る日も来る日も老人の用事をこなす日々。ノルマを達成するのは分かり切っているから、金だけは溜まる一方、使う暇が全くない。

 ねえちゃんの出産祝いに高いベビーカーをプレゼントしようとしたら、そんなものより俺が赤ちゃんを抱いてくれた方が嬉しいと言ってくれた言葉に、俺は完全に目が覚めた。


 老人の御用達聞きで人生を終わらせたくない。

 俺だって前を向いて、俺だけのあったかい家族が欲しい。

 俺は、俺自身を取り戻したいのだと。


 それからは早かった。

 会社は体裁を気にするから、弁護士を入れたら一発だった。

 顧客にはいろんな人たちがいたから、最後にそのツテを頼ったら快く協力してくれたのも有難かった。

 老人たちは便利屋の俺がいなくなるのを寂しがっていたが、所詮は契約の為に繋がった仲であり、俺そのものを見てくれていた人は誰もいなかったというワケだ。

 だから完全に吹っ切れたってのもある。


 インセンティブのヤバイ額が入った数千万の貯金と、地味に記していた残業と休日出勤の手当て、6年間の退職金、そして失業保険が入った俺はそれこそ数年は働かなくともいいほど金を持っていたが、じっとしているのも落ち着かない性質なのか、早々に職安で資格を得る教室に入り、介護士としての勉強をしている最中である。


 でも、暇なものは暇なのだ。

 今までとにかく忙しすぎた。自分の時間など、皆無なほどに。


 だから手持ち無沙汰で実家をウロウロしていたら、里帰りで帰省していたねえちゃんから買い物を頼まれた。

 臨月を迎えたねえちゃんは、いつ陣痛が来てもおかしくない。

 腹が重くて碌に動けず、ひいひい言いながら頻尿で一時間ごとに便所に駆け込んでいるねえちゃんは、母親とまったりテレビを観ながら束の間の自堕落を味わっている。

 俺はそんなねえちゃんの為に、何かしてやりたいと常日頃思っていたから、二つ返事で買い出しに出掛けたのだ。


 ベッドやベビーカーなど、大きなものは買い揃えている。

 産まれても一週間は病院だからそんなに急がなくてもいいのだけど、暇を持て余しているよりはマシだ。

 ねえちゃんからメモを貰い、母の軽自動車で近くの子供用品専門店に向かった。

 そこでオムツやミルク、哺乳瓶や入浴セットなどを大量に買い込んで、リュックの中に詰め込んだ。


 可愛いうさぎの産着があったから、俺からの餞別としてプレゼント包装に手間取ったのが原因だったのか。


 その日、晴れの予報だったのにやけに曇っていたのを覚えている。

 遠くで雷が引っ切り無しに鳴っていた。


 だけどそこからの記憶が―――飛んでいる。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
小説家になろうSNSシェアツール
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ