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26. 「2」という数字 ①

8月は夏バテしてました。


『魔の二歳児』とはよく言ったもので、子どもに自我が芽生えた最初の反抗期が、この頃なのだという。

 とにかく全ての事が気に入らない思春期独自の反抗ではなくて、自分でやりたいのに出来ない自分と、理解してくれない周りに怒っているそうだ。


 なので、知っている言葉で否定を意味する「イヤ」を連発することから、『イヤイヤ期』とも呼ばれている。


 まだまだ言葉も拙く、出てくる単語も少なかろう。めちゃくちゃ少ないボキャブラリーで何とか意思を伝えようと藻掻くが、それを四六時中やっているので親も大層疲れ果ててしまっており、双方の意思疎通が叶わなくてまた反抗に拍車をかける。

 親だって人間だ。一見わがままにしか見えない子どもにいちいち付き合うのもしんどい。

 子どもの成長の一環と思えば生暖かい目で見守ってあげたい気持ちはあるものの、実際に遭遇してしまうと、俺だったらひたすら殻に籠って子どもと向き合う事から逃げているかもしれない。


 この時期を恐れている親も多かろう。

 大半が「あの頃はとにかく大変だった」と口を揃えて言う子どもの自我の成長は喜ばしい反面、できればそつなく終わって欲しいと願うのは当然の感情である。


 だが、実は皆忘れているのだ。

 子どもの最初の反抗期は、実はもっともっと前に訪れている事を。


 最初の自我の芽生えは2歳でもなんでもない。

 それに気づかないほど疲弊している…というか、必死だったってのがあるけれど。


 その答えは、()()()()()


 赤ん坊がこの世に生を成して二週間のこの時期、可愛いはずの我が子は悪魔と化す。


 自我―――ではなく、赤ん坊はこの時期に、ようやく自分が母親の胎内にいない事に気付くのだそうだ。

 狭くて暖かくて暗くて、これ以上ない安心に包まれていた胎内から放り出された赤ん坊は、寒くて広くて安定感がなくて、いちいち乳を吸わねば腹が減るこの状況に不安を感じて泣き叫ぶ。

 感情表現が「泣く」しかない赤ん坊の、精一杯の慟哭なのだ。


 これがまた辛い。とにかく、めちゃくちゃ泣く。泣きすぎて、オエって言うくらい泣く。

 2週間というと、産後を終えた母親の疲れもピークに達する頃だ。

 三時間ごとの授乳は、とにかく睡眠不足が天敵である。

 まだ悪露も収まらず、風呂にも入れない。下半身のどっかを切っていれば切開の痕はジクジク傷むし、ホルモンバランスの乱れから感情は不安定で、体温の調整もできない。

 自分の事でさえ頭がパンパンなのに、この状態で赤ん坊の世話が入る。

 産後鬱を発症する時期も、この頃以降が一番多い。


 赤ん坊は泣く、泣く、泣く。

 抱っこしてもミルクをやっても、あやしてもオムツを替えても何をしてもダメだ。

 泣くだけならまだしも、意外と暴れる。

 首が据わってないから、それを支えるだけでも大変だ。


 泣き声が近所迷惑にならないか。

 どうして泣くんだ。親なのに子どもの気持ちが分からない。

 自分も辛い。でも、産んだ責任があるから放置もできない。

 寝て欲しいが寝ない。抱っこしたら多少は落ち着くが、ベッドに置いた瞬間に背中スイッチが発動してまた大泣きする。

 どうしよう、どうしようもない。どうしよう。

 ――――となって、最終的には「うがあああ!!」となる。


 今の、この俺のように。


 この時期は誰でもそうなるのだと。親の責任でも扱い方が悪いわけでもないと割り切って接する事が出来れば楽だが、特に初産だったりすると、特に不安になってしまうだろう。

 でも、それこそ安心して欲しいと思う。


 赤ん坊が(そと)に出て、社会に順応しようとする大事な一歩を踏み出した証だという事を。


 それにもう一つ。

 明けない夜は絶対に無いのだという事も。

 気の遠くなりそうな。不透明な毎日が続いてお先真っ暗になりがちな子どもの反抗期はいつか終わる。

 いつか、必ず終わるのだ。


 だから、それまで辛抱強く見守って欲しいと願う。

 俺達もそうして、大きくなっていったのだから。





 …というわけで。


 理屈じゃ分かっているのに苛々の感情が収まらくて年甲斐もなく泣いてしまったのは、決して俺だけの所為じゃないと思う。

 多分、睡眠不足と我が身に降りかかった災難への不安が、俺の許容範囲を超えたのだ。

 眠らせない拷問が存在するように、睡眠は人間にとって不可欠な欲で、足りてないと心身ともに異常をきたす。まともな判断は出来なくなるし、目は虚ろで常に怒りの感情が渦巻いていて、情緒不安定で意味もなく涙が溢れる。それに食欲すらもなくなって、覇気は完全に奪われる。


「ホエエエエエエエエ!!!」


「あ…クソ、いつまで泣いてやがんだこの生き物は…」


「ホンワァ!ホンワァ!ホンワァ!」


「涙出てねえじゃん!嘘泣きじゃねえだろうなオマエ」


「ホギャアアアアアアア!!!オエっ…ホンワァ!ホンワァ!」


「はあ…しんど。はあ…しんど。何度でも言う。はあ…しんど」


 《王都》への旅への切符を手に入れて、さあ!冒険の旅路へ出発だ!!と意気込んでそこそこに準備をしていたはずの神殿御一行どもは、俺も含めてまだダラダラといつもの毎日を過ごしている。

 出発の「し」の字すら出てこないし、その気配も今のところ感じられない。


 手紙が届いてもうすぐ一週間が経とうとしている。

 なんでこんなにグズグズしているんだと思ったら、馬車の調達に手間取っているのだそうだ。それと、保存食に多少の心配があるのと、大所帯で行動するが故の荷物の圧縮に手こずっていた。そして、都までのルートの確保に、アルとパルミラが地図と睨めっこしつつ、連日喧嘩している。


 そんなもん、現地で調達とか、行ってみて判断するとかでいいんじゃないかと思うのだが、ふと思い直すとここは異世界なのである。

 それも、俺がいた世界の、俺の国の便利過ぎる文明の利器が全くない世界(アゼル)だったと。


 旅行に行こうと思い立ったら、スマホと財布とちょっとした高揚感だけ持ち合わせれば他は何も要らない俺の世界とは違う。

 車も電車も飛行機も無い。整備された道もない。当然、夜は街灯なんかないし、案内の看板すらない。

 腹が減ってもコンビニはなく、トイレに行きたくても野ざらしは当たり前、飲み水でさえもおいそれと湧き水に手を出せば腹を下す原因になる。

 病気や怪我をしても診てくれる病院は無く、休憩しようにも辺りは魔物が徘徊して危険がいっぱい。荷物は宅配便が運んでくれるんじゃなくて、自力で持たねばならない。


 RPGは省略しすぎなのだ。

 本当は、これだけ手間がかかる。

 簡単に冒険に行くと言ってくれるな。そこに至るまで、かなりの重労働を強いられる事を忘れちゃいけない。


 っつう事で、不本意ながら馬車がなければ身動きすりゃ取れないので、仕方なく神殿で代わり映えのしない日常を過ごしている俺達なのであった。


「ホエエエエ!ホエエエ!ホエ、ホエ…ホエエエエエエ!!!」


「はあ…耳がどうにかなりそう」


 それでこれである。


 一昨日頃から、リアの様子がおかしくなった。体調が悪いとかそういうのではなくて、彼女で云えばあの傍迷惑な魔法の力が戻ってきた事は朗報なのかもしれないが、実際にこれだけ泣かれるたびに部屋中が竜巻に襲われるものだから、渦中にいる俺はたまったものではない。

 そう、ようやくリアは健康体になったのだ。


 へその緒が付いた状態で神殿の前に放置されていたのが約3週間前。子育て義務のないこの世界の連中に全く世話されずに1週間を生き延び、俺が異世界からやって来た。

 あれよあれよと成り行きでリアを育てて1週間後に《王都》から手紙の返事が戻ってきて、それからまた1週間が過ぎようとした一昨日、リアは弱った身体を復活させた。

 アホみたいにミルクを飲み、良く寝て良く泣き、ひたすら手足をぐーぱーさせてウゴウゴとベッドの上で動いていたリアの姿にホッとしたのも束の間、リアが元気になるという事は魔法の力もまた猛威を振るうわけで。


 どういう理由か、何が気に食わないのか知らないが、ここ数日リアは泣き続けている。

 ついでにリアの声が届く範囲は魔法で滅茶苦茶にされるから、俺はここんとこ部屋に缶詰状態にされて心底参っているというわけである。


 俺は寝不足に拍車をかけて寝不足だった。

 神殿の連中は旅の準備が、とあれこれ理由をつけて、部屋に近づきもしない。

 彼らだって四六時中泣いているリアの声がうるさくて眠れていないのは知っている、パルミラとエリザは特に苛立っているようで、何度か壁ドンを食らってもいる。

 唯一フアナがミルクを作って持ってきてくれるが、俺に渡したらさっさといなくなる。世話話もしてくれないなんて、いくら何でも冷たすぎる扱いじゃないか。

 俺としては、逃れる先が無くて地獄だった。


 赤ん坊の泣き声というものは、どうしてあんなに不快な音をしているのか。

 敢えてそうすることで大人の関心を引いている説が濃厚なんだが、疲れ切っている今は逆効果にしかならない。


「おお~い、いい加減泣き止んでくれよぉ~」


「ホワアアア!!ホワアアアア!!ケヘッケヘッ!ホワアアア!!」


「何が気に食わねえんだよ…せめて30分くらいは連続で寝てくれや…」


「ホンワアアアアアア!!!」


「………」


「ホエエエエエエエ!!ホワアアアアア!!!」


 ああ、今朝も太陽が黄色い。

 人はどれだけ眠らなかったら死ぬんだろうか。


 そんなことをぼんやりと思いながら、リアを抱っこし続けて腱鞘炎になりつつある腕を叱咤しながら、またユラユラと揺れる俺であった。






 ほんの一瞬だけ、うたた寝程度であるが意識を飛ばす時がある。

 リアの泣き声に起こされる僅か数分の事であるが、俺は黄昏の夢を見る。


 まるで蜃気楼のような、曖昧とした夢だ。


 なのに、その内容をはっきりと覚えている。

 夢か現か、極限の睡眠不足は意識を朦朧とさせて、ずっとこれを繰り返している俺は、現実の狭間が見えていない。


(異世界だもんな、ここ)


 変に納得して、夢の中で何かを見る。


 それはひとりの女だった。

 何かをまくしたてるように俺に対して怒鳴っているのだが、その女に見覚えもなければ怒られる筋合いもない。


 曖昧だった輪郭が、夢を繰り返し見るたびに徐々に色濃く鮮明となっていく。

 ふわふわと足元が覚束ない夢の中でも見知らぬ女に騒がれて、俺はひどく不愉快になっている。

 けれど女はそんな俺の心情を知る由もなく、がなり立てて俺を起こそうとするのだ。


「この野郎、いい加減にしろってんだ!」


「ホエエ!ホエエ、ホエエ…ホエエ…ホエエエエ!」


 遠くから何度聞いてもうんざりする赤ん坊の泣き声を聞きつけ、俺はまた目を覚ます。


 夢でも現実でも、俺は休めない。


 もう、限界だった。



次回、9/4(水)8時予定です。

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