2. prologue Side・K
桐山光羽は本日、通算27通目の退職届を提出した。
長閑な昼下がり。
天気はなかなか良好。空調の行き届いたオフィス内ではあったが、窓を開放しても心地良い風が流れてくるだろう。
だがこの職場に、そんな気の利いた輩はいない。
「またか、桐山。大体月の半ばあたりでやってくるよな。いい加減、お前の行動読めてきてるわ」
「あんたが受け取ってくんないからでしょ」
だだっ広いだけの閑散としたオフィスには、支店を預かる支店長しかいない。
支店長の主な仕事は電話番。基本的に客からの代表電話は鳴らないから、パソコンの前でソリティアの最速記録を日々更新しつつ、外に出ている社員たちの叱咤激励を飛ばすのが業務である。
このオフィス、朝だけは社員が勢ぞろいする。
50人程の規模でそれなりに大きいが、朝礼で重要事項とノルマを告げたら皆外に出る。
帰りはバラバラでタイムカードなんて存在しないから、定時の18時を過ぎても殆どは戻らない。
支店長は22時に帰宅する。
鍵をかけて帰るから、それを過ぎると直帰せねばならない。
GPSを仕込んでいるわけでもないから定時前に勝手に家に帰っている者も多いが、ノルマさえ達成していれば特にお咎めはしない。
外回りの営業とは、そういうものだ。
かくいう桐山光羽も月も半分しか過ぎていないのに、今月分のノルマは早々に達成している。
だからこんな真昼間からオフィスに現れても、支店長は文句を言う筋合いは無かったので黙っている。
「褒められに来たのかと思った」
「まさか」
光羽は鼻で笑う。
このやり取りも毎月なのだ。2か月毎、ではあるが。
それも決まって15日前後。
世間では、年金支給日にあたる。
「何度も言ってるように、お前は営業に向いてるよ。辞める必要は何処にもないんだって」
「分かってますよ」
「自由がないくらいなんだ。オレも若い頃は散々ならしたよ。たくさん出掛け、たくさん働いた。だから今があるんだがね。お前も本社の顔覚えはいい。将来この椅子に座る事だって、夢じゃないんだ」
「……」
「そうすりゃ、個々の顧客は必要なくなる。本社にいい顔して、営業に発破かけてケツ叩いているだけで金がもらえるぞ?」
「そこまで俺がもたねぇよ」
上司の前だというのに光羽の言葉遣いは乱暴だ。
しかし彼の人と成りは理解しているつもりだ。彼は、これでも一応礼儀を通しているらしいから気にしない。
年齢は今年で28になるか。
新卒でこの大手住宅メーカーに入社し、一年間は本社で事務の仕事をしていた。
一年の研修期間が過ぎて田舎と都会がごっちゃになっている政令都市の支店に配属され、初めは建売住宅の販売に就いた。
「住宅展示場で土日が潰れようが、俺はそっちの方が良かった」
家の値段にもよるが、顧客は大抵が30代前後と若かった。
結婚したとか、赤ちゃんが生まれたとか。出世したとか、長年の貯金がようやく貯まったとか、新たな門出に幸せな家族を多く見た。
「誰も損しねぇからな」
月に一戸も売れればいい方である。
給料は低かったが、気は楽だった。
それに、契約にこぎ着けたらちょこっとだけアフターフォローするだけで客との縁が切れたのも、後腐れ無くて良かった。
「お前には才能があるんだよ。給与に釣られて多くの中途入社が入ってくる。だが、営業は誰もができる仕事じゃない。合わなければそれまでだ。金にもならず、会社からは怒られ、やってる方も気に病む」
「住宅業界は特に顕著だかんな」
「お前は新築に向いてなかった。だからリフォームに配属したんだよ。めきめき頭角を現しやがって、今じゃベテランを追い抜いて支店一の稼ぎ頭だぞ」
「でも、もう無理」
ポリポリとワックスで逆立てた黒髪を掻く、
清潔感のあるスーツ。連日動いているからか、不規則な生活の割に身体は引き締まっている。
三白眼気味だが怖さはない。今は仏頂面をしているものの、普段は人好きのする懐っこい顔をしているのだ。
これが、老人たちに受けた。
「お前の目に余る態度、言葉遣い。どの職に就いても通用しないぞ?ここが天職じゃないか。お前そのものが、必要とされているんだぞ?」
それに。
と、支店長は人差し指と親指で輪っかを作る。
ずいとそれを光羽に見せつけ、下種な笑いをした。
「インセンティブでかなり儲けただろ?その年齢で、お前ほど貰ってる会社員はそうそういない」
「金があっても使う暇が無けりゃ意味ねえよ。それにその金は、客の金…だしな」
リフォーム部門に配属された光羽は、とりあえずボロそうな一軒家を手あたり次第回った。
飛び込み営業で契約まで扱ぎ付けるのは至難の業。
ひと月目は成果が上がらなかったから、ターゲットを変えた。
リフォームの必要もなさそうな、しっかりとした平屋の一軒家。玄関先が派手に着飾ってなく、子供の声が一切しない家。
そこに住まう、昔からの独居老人。
光羽の読みは、当たった。
リフォーム云々よりも、光羽は老人のその心に寄り添ったのである。
そして彼らの願うまま、雑用を手掛け信用を獲得していった。
いわば、都合の良すぎる、手駒になったのだ。
簡単に言えば、「何でも屋」である。
もともと困っている人を放っておけないお人好しと、手先の器用さ、そして勉強熱心さが功を成した。
光羽の明け透けない物言いは、人付き合いに飢えた老人たちの心を溶かし、まるで我が孫、息子のようにかわいがってもらった。
その代わり、昼夜問わず、曜日も時間も全く関係なく、顧客から様々な用事が申し付けられた。
光羽は彼らの望みを叶える見返りに、高額のリフォーム契約を締結させていたのである。
「老人どものネットワークの凄さ、フットワークの軽さを甘く見ちゃいけねえ。孤独なんて一握りさ。あの人たちは病院やバス停、公園で日々情報交換しまくってる。嫌われたら村八分だから、残りの人生を穏やかに生きる為に必死。だけど懐柔出来たらそれほど心強いものはない」
紹介が紹介を呼び、光羽の顧客は莫大に増えた。
御用達の件数も、膨大となった。
学生時代から付き合っていた彼女とは、それが原因で別れた。
大手有名企業で年収も高い光羽はATMとしても優秀だ。
だけどひっきり無しに鳴る御用達の電話と、いちいちそれに対応する光羽についに見切りをつけられた。
(デートの間も電話電話電話。お盆も正月も老人の相手。朝も昼も夜も寝ている間も、電話は遠慮なく鳴る。もう、限界。あんたは老人の相手をしなくちゃいけないから遠出も出来ない。やっと取れた休みのデートの行先が近所のホームセンター。そんなの、付き合ってるとは言えないよ)
彼女の言葉が身に染みる。
まさに、その通りなのだから言い訳もできない。
「だから俺は、人並みに戻りたいんだよ」
「……」
光羽のスマホは、多種多様な用事に対応すべく、容量一杯になるまで様々な情報を詰め込んでいる。
リフォームに関するDIYは元より、食事も作ってやるからレシピと栄養素表。病院の付き添いもするから薬の成分表に応急処置の仕方。
何処でなんの情報が必要になるか分からない。
突飛もなく、「孫の入園セットを作れ」と言われたりするから、生活に必要な大抵の情報は詰め込んだ。
老人は年を食っている分、博識で知識を披露したがる癖に、他人に頼りっぱなしなのも特徴である。
「で?年金の日にわざわざオフィスまでやってくるのは、一番暇だからって事だよね」
こくんと光羽は頷いた。
待ちに待った二か月に一度の年金支給日。
老人たちはいそいそと銀行に出向き、僅かばかりの贅沢をするのだ。
食事だったりパチンコだったり、カラオケ喫茶だったりと、おおいに楽しむ。
その日だけは光羽を忘れてくれる。
鳴りっぱなしの彼のスマホは、午前に数件掛かったきりで今は沈黙している。
「俺、世間に置いていかれてる気がしてさ。情報収集に暇がねぇから話題はあるけど、友達とは数年逢ってねぇし、彼女にもフラれた。あんだけ好きだったゲームもやれねぇし、何が楽しくて生きてんだろうって思ってよ」
「だからそれも数年の辛抱だよ」
「俺が相手してる老人たちが、病気やボケとか老衰で死んじまうのも何気にすげぇ堪えるんすわ。今年、結構葬式行ったし。何やってんだろーって」
ふう、と支店長は溜息を吐いた。
でもこのやり取りも毎回なのだ。
光羽はただ愚痴を聞いてもらいたいだけ。
言うだけ言ってスッキリしたら、次の朝には普通に出勤してくる。
退職届は本人の目の前で破って捨てる。一度も本社に話を通した事はない。
何より稼ぎ手の光羽を失うのは会社の損失だ。
本人は辛かろうが、仕事なのだから仕方ないと割り切って貰わねば。
老人の相手など、はいはいと適当に聞いているフリをしていればいい。真面目に聴き手に徹するから、こんなに辛くなるのだ。
「来月ね、ねーちゃんに赤ちゃんが産まれるんだよ」
「そうなのか?」
「里帰りでね、俺の実家に帰ってくんの」
「それは、おめでとう。無事に産まれてくるのを祈っているよ」
支店長は二度の離婚歴があり、子供は5人ほどいる。
忙しさにかまけて育児と教育は妻に任せきりで家庭を顧みなかった結果、二人ともから逃げられた。
当然、立ち合い出産などしたこともない。
口から出まかせは、営業時代に散々やった手口だ。
彼の姉がどうのこうのと、支店長には興味の欠片もない。
それが何だというのだ、辞める理由にはなるまいて。
「俺、今回はほんき―――なんすわ」
「え?」
光羽は薄く笑っている。
どうせ今日も、体よく絆され、退職の意思は無かった事にされるのだ。
今支店長に渡した「退職届」も、中身はカラッポである。見ずに破り捨て去られるのも知っているからである。
「ねーちゃんに子供が生まれて、みんなどんどん前に進んでんのに、俺はちっとも進んでねえ。だからもう迷わない。お陰様で貯金は数千万あるし、結構頑張ったから退職金もヤバイだろうね。俺、抜け目ねえから残業も休日出勤もちゃんとメモってたし、貰えるもんは全部貰う。ま、次の住民税がちょっと怖いけど、貯金で暫く食い繋げるし」
「お、おい」
「俺、あんたみたいに達観できないんすわ。不器用なもんで」
「な…」
「退職届、あんたまた俺の前で破っちまうから、ちゃんと手は打っておいたよ」
そう言って、スーツの内ポケットを探る。
ガサガサと出てきた一枚の紙きれを、支店長の何もない机の上に置いた。
「これ、内容証明の控え」
「お前、まさか俺を飛び抜かして!」
「あんたが本社に話してくれねえから、俺がそうしたんだよ。本社の人事部に、弁護士を通して退職の通知を内容証明で送った。今日、すでに届いてるはずだ」
わなわなと支店長の身体が震えている。
光羽はしてやったりと、にんまり笑った。
「顧客の中には元弁護士のジジイもいてな。相談したら紹介してくれた。俺がいなくなるのは寂しいけど、俺の想いを伝えたらみんな分かってくれたよ」
「そんな…お前の顧客は…」
「今より14日後、俺の退職は受理される。そんで今から俺、入社以来取ってなかった有休も使うから」
「そんなことより、お前の顧客は…あの金の成る契約はどうなるっていうんだ!!」
バン!と勢いよく紙きれが弾き飛ばされた。
「さあ、分かんね。あの人達とは、俺の犠牲の上で成り立ってた関係だ。俺がいなくなったら切れちまうのは当然だろ?そこまで俺もジジイもババアも、お人好しじゃねえよ」
あまりに光羽が成果を上げるものだから、本社が更なる厳しいノルマを課してきたのは知っている。
支店全体が大都会並みに高額の予算を組まれ、その割り振りをどうしようか支店長は頭を悩ませていた。
大半を光羽のいるリフォーム部に回す手筈で何とかいけると踏んでいたのに、これでは今期の目標どころか来年支店長を継続できるかすら分かったものじゃない。
「最悪じゃん」
支店長は笑うしかなかった。
法律を表に出してこられると、一応は上場企業としての体裁があるから従わざるを得ない。
光羽が退職するのを、支店長は今度こそ止める事が出来ないのである。
「新たな営業を見出すんだね。俺はもう一抜けだ。スマホの連絡先も全部消したし、寝に帰るだけの部屋を引き払って実家に帰る準備も出来てる。明日にはこんな町からおさらばできる。まあ、14日間はまだ社員だから、あんたとだけは連絡繋がるようにはしておくし、今月のノルマを達成したのも立つ鳥跡を濁さずってやつだ」
そっから先は知らん。
と、光羽は清々しい顔で言い放つ。
「お前、辞めてからどうすんだ。さっきも言ったけど、お前のその態度と言葉遣い、まともな企業は取らないぞ」
「うーん。とりあえず暫くゆっくりして、ねーちゃんの育児手伝いながら職安にでもいくわ。俺、案外老人たちの相手すんの嫌じゃなかったし、介護の資格取って、そっち系にでも進もうと思ってよ」
自由な時間が皆無だったのが、そして良いように扱われるのが我慢できなかっただけで、博識な老人たちとの会話はむしろ楽しかったとさえ思っている。
支店長は思った。介護職こそ、こいつの天職かもしれないと。
「んなワケで、クソ長い間世話になったな!もう二度と会う事もねえし、あんたんとこで絶対に家は買わねえし、リフォームなんてもっての外だけど…。ま、いい経験にはなったぜ、色々と、な」
「あ、ああ…息災で、な」
その開放された爽やかな笑顔に、支店長は何も言えなかった。
彼が帰ったら、早速中途採用の募集をかけないとな。
颯爽とオフィスを後にする光羽の後姿を見送りながら、支店長はぼんやりとそう思う事しかできなかった。
「…って事で、三週間。俺はついに自由になりましたとさ!!!」
それから色々と手続きして、実家に職場から年金手帳と離職票が届いたと母から連絡があった時、光羽は心身ともに会社の呪縛から逃れ、真から自由を満喫できる事に悦び溢れる感情を抑えきれず、出産する姉の為に色々とベビーグッズを買い揃えるべく出先にいるにも関わらず、大きな声でそう叫んだ。
外は生憎の曇り空。
淀んだ空は安定せず、黒い雲の塊からゴロゴロと雷の音が遠くで聞こえる。
しかし光羽にはそんな雷など、祝福の大砲のように晴れやかなものだと感じていた。
姉は臨月を迎え、実家でゴロゴロとテレビを観ている。
どうせ赤ん坊が生まれてしまえば、数年はゴロゴロなんてできやしないのだから、休める時に休んでもらいたいと光羽は買い出しを申し出た。
病みかけの光羽を心配して、実家の両親は自分を快く受け入れてくれた。
姉も帰省し、実家は久々に家族全員が揃って両親は嬉しそうだった。思えばあの会社に勤めていた頃は、老人の相手で忙しくて碌に帰りもしなかった。姉の結婚式の時だって、数時間だけ暇を貰ってすぐに退散したのだ。
大きなリュックの中に、粉ミルクと哺乳瓶、オムツや入浴セットなどたくさんのものを詰め込んで、光羽はまだ見ぬ赤ん坊の誕生を心待ちにしている。
肩掛けにかけた小さなカバンの中は、財布とスマホと大量の携帯充電器。
長年の癖が抜けきれない。
スマホは老人たちの用事を叶える為の情報をパンパンにダウンロードしている。いつでもスマホを頼りにするから、充電を切らすわけにはいかなかった。
充電器を持ち歩くのは重くて肩が凝るのを忘れていた。
「さっさと前を見据えねえとな」
充電器を置いて、スマホの情報も全て消して。
まっさらな身体に戻って、一からやり直すのだ。
彼女を作るのもいい。貯金の額を言えば、ものの数秒でできる自信がある。
「むなしすぎんだろうがよ…」
ゴロゴロゴロゴロ
雷が近づいてくる音がする。
深い雲はどんどん下界に降りてきていて、一雨どころか土砂降りが予想されそうだ。
「水確率は0%だったけれどな。外れる事もあるもんだ」
光羽はそれほど気にはしていなかった。
買ったばかりの赤ちゃん用品が、雨で濡れてしまうのを避けたかっただけで。
母の軽自動車のキーレスのボタンを押した。
ピピっとライトが瞬き、ガチャリと鍵が開く。
光羽が何の気なしに、その車のドアノブに手をかけた時。
――――雷が、轟いた。
ズガアアアアアア!!!!!
大きな音が、ほんの間近で聞こえた気がした。
鼓膜を直接劈く音。
次の瞬間、光羽は全身を何かが貫く衝撃を得る。自身が体験しているのにどこか遠くで見ているような、言い得て妙な感覚である。
彼は眩しさに目を瞑り、そして数秒だけ待って開けた。
ほんわりとした灯りを瞼の外に感じる。
目を開けた彼が見たものは。
「へけっ、へけっ、へけっ」
地面に寝転がり、泣き叫ぶ一歩手前の赤ん坊と。
「グルルルッルウル!!!!」
得体の知れない生き物が、彼の足に噛みついていた。
「は?」
―――――桐山光羽は、晴れやかな空の下。
森の中にいた。