19. ミルクを作ってみよう ②
どうせ使った後は厨房で洗わねばならないし、うるさいボンジュールは畑仕事で暫く戻ってこないとの事なので、そのまま厨房の樽の上に座ってリアにミルクをあげた。
フアナはその場から立ち去らず、興味深く俺とリアの様子を見ている。
ちなみに聖女の巫女らの3人は、今日から交代で俺の世話と力を失ったリアの護衛をするようになったらしい。
エメラルドグリーンの透き通った瞳が、食い入るように俺を見つめている。
その視線は熱心で、彼女にそんな気はさらさらないのに思わずドギマギしてしまう。
フアナは美人だ。
ピンクの髪にミニ丈の巫女服、ニーハイの上から覗く絶対領域にツインテールと、オタク心を揺さぶる要素が詰め込まれたあざとい恰好をしているのに、ちっとも嫌味を感じない。
それどころか自然に似合っていて、違和感なんて全くないのが凄い。
あの双子とは違う、少女と女性の中間というか、第二次性徴期を終えて大人になりかけた不安定な年頃の、何ともいえない色気すらフアナには感じるのだ。
こういう外観が完璧なところが異世界っぽい。
ゲームの世界ならばヒロインポジション。もしくは重課金のアバターだ。
「あたしを熱心に見つめているところ悪いんだけど、コウハ」
「へ?み、見てないぞ!」
「鼻、膨れてる。あたしが可愛くて魅力的なのは分かるけど、あんたの実年齢っておじさんなんでしょ?犯罪よ、ハ・ン・ザ・イ」
「ま、まだギリ20代だ!それに俺はガキには興味ないね!お前がピンポイントな恰好してるから悪いんだろ」
「意味分かんない。このロリコン!!」
「ぐぬぬ…。赤ん坊のミルクとかトイレとかいう言葉は通じないくせに、異世界でそんな言葉が共通しているとは…!解せぬ!!」
バシバシと片手で肩を殴り合う。本気じゃないのは俺もフアナも同じだ。
気の滅入った俺を元気づけようとしてくれている行動の末である事も理解している。
フアナは美人で気の利くいい子だ。少々気が短くて物言いが乱暴なところが欠点ではあるが、それを無視しても可愛いと思う。
だからといって、この子とどうにかなりたいワケではない。
異世界召喚されたのだから、この際はっちゃけて現地の娘とハーレムを作っちゃったりするのもアリかとは思うが、先の見えないこの状況で、そんな気持ちにならないというのが正直なところである。
あんなのはやっぱりゲームや漫画の世界だからこそ成り立つものなんだろう。そう簡単に割り切れないし、出会って一秒で恋なんぞにゃ落ちん。
歳の離れた兄妹のような。
双子とはあまり接点がないが、初っ端から突っかかってきてくれたフアナとは明け透けなく話せるそんな関係だと俺は思う。
「そんな事より、コウハ」
「そんな事って、人をロリコン呼ばわりしてそりゃないだろ…」
フアハは俺に向き直る。
リアを片手に抱いて、もう片方は哺乳瓶を持っているから両手の塞がっている俺に見せつけるように、粉ミルクの入った缶を振った。
「ミルク?それがどうかしたか?」
「これ、リア様のご飯なんでしょ?もう半分以上無くなってるけど、お代わりはあるの?このペースだとすぐになくなってしまうわ」
80mlを一日8回。
缶の中身は800グラム。
当然ながら、使えば使うほど中身は消えてしまう。
「ミルクって、いつまであげないといけないものなの?それに、ずっとこの量でいいのかな。なんだか足りないみたい」
「……問題直面だな」
俺は溜息を吐いた。
実のところ、フアナに指摘される以前から、俺はこの問題をどうにかせねばと考えていたのだ。
リアの、ミルク事情である。
俺の世界から俺と一緒に召喚された赤ちゃんグッズには限りがある。
粉ミルクや紙おむつは最たる例で、必然だからこそ問題なのだ。
要は、早くとも一月も経たずに道具が尽きる、のである。
今はこの量でいいらしいが、成長に従って量も増える、
育児マニュアルを読む限り、個人差はあるが1歳を過ぎても授乳しているケースが殆どで、ピークは7,8ヵ月頃、一日あたり250mlを5回と、飲む量も半端なくなる。
流石に俺はもう自分の世界に帰っているだろうから、そんな時期まで心配する必要はないのだけど、今――となると死活問題である。
残りの缶は一つ。
多分、二週間ももたない。
腹一杯だと感じる満腹中枢がまだ未発達な赤ん坊には、『ミルクを飲ませている時間』が重要なのであり、余りにも早く飲ませ過ぎると飲んだ気がせず、まだくれもっとくれといつまでも欲しがって泣いてしまうのだそうだ。
母乳だと片方で10分ずつ。人工ミルクでも大体10分以上は咥えさせていないと満足しない。
リアのミルクを飲むスピードは徐々に上がってきている。
初めは口の周りをベタベタにさせて咥えるだけで精一杯だったのに、今は随分上手くなってしゅごしゅご言わせながら夢中でミルクを吸い取っている。
いずれ近いうちに、リアに与えるミルクの量も増やさねばならないだろう。
「まだ文の返事はないけど、今から代わりのシッターが《王都》を出発しても到着するのは早くて2週間後。その時あんたがいてもいなくても、ミルクはとっくに無くなってる。これ、どうすればいいんだろう」
不死身だと思われていた聖女が、当初はぞんざいに扱われてミルクも碌に飲ませて貰えず、力を失って死にかけたのだ。何も手を打たず呑気に次のシッターを待つ間、リアは今度こそ死んでしまうかもしれない。
これはのんびり構えていい問題ではない。
粉ミルクが尽きればリアの飯も尽きる。早々に解決しなければならない問題なのだ。
「ねえ、コウハ。これと同じもの、作れたりする?」
「は?無理に決まってんだろ。後ろに成分表は書いてあるけど、俺は物理専攻じゃないし全く分からん。それに現代の技術で作った加工食品をここで再現できる気もせんな」
日本の粉ミルクは、世界水準でも高品質でトップクラスと云われている。
初めて日本に粉ミルクが登場したのは大正時代だ。それから色々と改良を重ねて、ほぼ母乳と同じ成分の製品が作られている。
わざわざ外国から買い求める人も多く、日本製の粉ミルクの評価は高いのだ。
正直言ってこんな発展途上の異世界で、日本の最先端技術が再現できると思わない。
「なあ、ここじゃ赤ん坊は全員施設で育つんだろ?母親は産んですぐ帰ると聞いたし、どうやって飯を食わせてるんだ」
「あたしも良く分かんないんだけど、母乳を有償で提供してるって訊いたよ」
「成る程な、貰い乳か」
「もらいちち。なにそれ」
何らかの理由で母乳が与えられない赤ん坊は昔から存在する。
母親とて出産したら必ず母乳が出るとも限らないし、病気や死去などで物理的に母親がいない場合もあるだろう。
その時、積極的に活用されたのが『貰い乳』である。
「昔は子供なんてそこら辺にウロウロしてたもんさ。母乳の出ない母に代わって、誰か別の人があげるんだ。戦時中や被災したとか、そんな時も赤ん坊の食いモンなんてないから、出る人に頼んで飲ませて貰ってたみたいだな。乳母って言葉もあるくらいだし」
「ふぅん…それを貰い乳というのね。確かにそうかも。妊婦は出産したら国からお金を貰ってすぐに帰宅していいんだけど、ずっと《王都》に残り続ける人も多くいるの。そういう人はお乳をじゃんじゃん絞り出して、国にそれを買ってもらうんだって。いいアルバイトになるって、バズのおかみさんが言ってた」
「へえ、金が貰えるならそれに越したことはないな。麓の村に、出産を終えたばかりの人がいればいいんだけどな…いる?」
「いいえ。この辺は小さな集落だもの。出産となると村のみんなの生活が潤うから知れ渡るの。だけど残念ながら聞いたことないわ」
「じゃあ、作るしかないな…」
「コウハ、作れるの!?さっき無理だって言ったじゃない」
リアをフアナに預け、懐からスマホを取り出した。
「ゲップ、させといてくれ」
「はあ?あたしが!?ちょっ…どどどどどうしよう」
「適当に背中トントンしてればいいからさ」
途端にオロオロやり始めたフアナに笑いを抑えられず、思わず吹いてしまった。
一昨日のパルミラと同じ反応で面白い。ついでに言うなら俺が初めてコイツを抱いた時も、全くこれと同じ動きをした。
フアナは俺がミルクを与えた後、縦抱きにして背中をトントンしているのを何度も見ている。
しかし見るのと実際やるのは違うわけで。
思った以上にふにゃふにゃなリアの身体を固定するのに悪戦苦闘している。
スマホの電源を付け、毎度お馴染みになった育児マニュアルではなく、江戸時代の歴史をまとめたテキストを読み込んだ。
俺が知りたい情報は、今ではなく過去だ。
この世界は魔法という摩訶不思議な力は存在するけれど、電気もガスも水道もない。不便な生活はここにいる人からすれば普通の事で、不便である事すら感じないだろう。
俺の世界だって、広い地球の過半数以上もの国が、この未達な生活を未だに送っているのである。俺が近代日本の先進技術に慣れ過ぎて対処できないだけで。
かつて日本もそんな時代があった。ほんの100年にも満たない過去、俺の国もそうだった。だからそこにヒントがあるのだと思ったのだ。
事あるごとにスマホで情報を読んでいたから、すでに持参していたバッテリーを一つ使い果たしてしまった。
何もかもが初めて尽くしなのだから仕方がないと割り切って使っているが、これは唯一の情報源だから充電を絶やすわけにはいかない。
それにしても前職の経験が活かせて良かったと思う。
リフォームの契約欲しさに老人の顧客どもの奴隷となって、暇つぶしに様々な用事を申し付けられる度にスマホにはあらゆる情報がダウンロードされまくった。
これがまさかこんな異世界で役に立つとは誰が思うだろうか。
老人たちの相手はそれはもう大変だったが、辞めてからあまり時は経っていないのに今はとても懐かしい。
「えーと、なになに。一般庶民の暮らし…っと」
「今度は何を調べてるの?」
フアナが画面を覗き込んでくる。リアの頭も一緒についてきた。
しかし俺の世界の文字が読めないので、彼女はしかめ面をするしかない。
「昔の生活だよ。俺らの世界はテクノロジーが発展して随分便利で住みやすくなったけど、ちょっと前までは電気もガスも水道もない、おたくらのような生活をしてたんだ」
「そうなんだ。あたし達は別に不便と思ってないけどね」
「俺の世界だってそうさ。無いなら、無いなりの生活になるのは当たり前だし、卑下する必要すらない。創意工夫してみんな生きてる」
どうして『江戸時代の庶民の暮らしぶり』なんてピンポイントな情報を保存しているかというと、以前とある金持ちの老人から、自伝を書きたいから先祖のあれこれを調べろ、家系図を作れと無茶ぶりされたからである。
契約ノルマが取れるのなら俺に断る理由はなく、大学生でもないのに論文に明け暮れる羽目になったのは嫌な思い出だ。
俺の睡眠時間と引き換えにお陰で顧客の満足する自伝が出来た。江戸、明治、大正と歴史が移ろいゆく中で、老人の先祖が歩んだ道も波乱に満ちていた。
意外に面白くてハマってしまい、深く入り込み過ぎて喋り方がてやんでえ口調になってしまったのを、職場や当時の彼女に揶揄われたのを覚えている。
「昔は貰い乳が当たり前でさ。それが当てに出来ない赤子は良く死んでいたみたいだ。母乳の栄養素に勝るものはない。浄水されてない水で感染症になったり、脱水症状と糖分不足で病気になったりと死亡率が顕著だったみたいだな」
極端な考えだが、生物としての哺乳類に於いて、『授乳できない雌は存在しない』と云われている。
つまり、種の存続に授乳は不可欠であり、それが出来ないのならば淘汰され、子孫を残せず死ぬのみ。
いずれにしても生物が生きている理由は、子を成し子孫を残し、生存競争を勝ち抜いて種を絶やさない事であり、それ以上でもそれ以下でもない。人間も例外ではなく、自然界に生きるモノとしてその仕組みに組み込まれているのだ。
それでも人は動物と違って知恵を得て、道具を使いこなし、学ぶ事でまた違った生態系を作り上げていった。
足りないものは何かで補う。その力を持っているからこそ自然淘汰に抗い、種のトップに君臨し続けているのだと思う。
「代用品は重湯だ。お粥の上澄み水だよ。他にも水に砂糖と塩を混ぜたもの。コンデンスミルクもいいみたいだ」
「ミルクって、要は動物のお乳の事なんでしょ?心当たりあるよ」
「それはいいな。丸っきり同じじゃないが代用品でもなんとかいけそうだ。あくまで代用だし、栄養不足が深刻になる前に離乳食を早めに始める事になるみたいだけど、それまでは代わりのシッターとやらも到着してんだろ」
「で?何が必要なの?今必要?すぐ出かける?」
光る画面から顔を上げると、わくわく顔のフアナと目が合った。
「……(じー)」
「なによ、その目は。あたしだって協力したいのよ。あんたずっと神殿の中にいてヌモっとしてるから、気晴らしになっていいかな、って思っただけよ!」
「…あんがとな」
「うっ、…素直に言われると調子狂うんですけど…」
うううううう!!!
可愛いじゃないか!!!
なにこいつ、口をへの字にしてただのツンデレ美少女かと思いきや、ただのお人好し美少女じゃないか。
まじかよ、可愛すぎんだろ。
「と、とりあえず首も据わってないリアを連れ回す訳にはいかん。こいつが眠ったら外に出てみようと思う。村にも行ってみたいな」
「うん!あたしも着いて行っていい?あんたも土地勘ないままウロウロするのは時間の無駄でしょ?それにあたしと一緒だと、余所者扱いされなくて済むし」
「お前はリアの護衛だろ。その申し出はめちゃくちゃ有難いけどさ」
「それはどうにかするわよ。とにかく、早くリア様を寝かせてきてちょうだい!!」
フアナは手早く哺乳瓶を煮沸消毒し、水気を切って厨房の食器棚に置いた。
「ついでにこの辺を案内するわ、コウハ!」
眩しいくらいの笑顔でそう言われてしまったら、俺に従わない理由はない。
次話、未定です。





