60 ワタシには! 本能(ヤツ)に挑む、覚悟があるッ!
ゆっくりと、円盤が宙を駆けていく。
その身を精一杯回転させて、巻き上げた風を孕みながら、柔らかな軌道を描いて浮かび上がっていくのに、ワタシの胸の奥からも浮き上がってくるものがあった。
自由を求めて溢れだした本能は、容易く理性の手を振り払った。
目がフリスビー(彼)と紐でくくられてしまったみたいに視線が引っ張られてしまう、動けない身体のまま少しでも距離を縮めようと、必死になって首を伸ばしてしまう。
どんどんと離れ、小さくなっていくその後姿を見ているだけで、ワタシを独り石川県に残して上京しようとしている彼を駅のホームで見送るみたいな身に覚えのない切なさ心をかき乱して、全身がくすぐられているみたいにムズムズした。
身体さえ動けばすぐにでも追い駆けていけるのに、在来線じゃあ十二時間以上かかるかもしれないけど北陸新幹線なら乗り換えなしの二時間半で貴方の元へ一直線なんだよ!?
――駄目だって分かっている……。でも、あのヒト (?)から目が離せないの!
離れれば離れる程に焦がれる思いは募っていく、会いたいという思いが熱になって最高潮に達して理性を焼き尽くした瞬間、それまで頑なだった戒めは呆気なく解かれ、溜まりに溜まった思いが爆発するみたいに、ワタシの身体は解き放たれていた。
――早く、速く、早く、速く!
立ち上がる時間さえ惜しくて、四足歩行のまま無我夢中で地面を弾いて駆け抜ける。景色が引き延ばされたみたいに背後に流れていく中で、フリスビーの姿だけがハッキリと映しだされて、まるで時が止まっているみたいだった。
ああ、そうか。彼は待っていてくれたんだ。身体の距離は離れても心の距離は少しも離れていなかったんだ。ワタシたちはいつでも心で繋がっていたんだね。
――今、会いにゆくよ。
常識(戒め)もプライド(重荷)も、理性(枷)も引き千切って、風を追い越し光よりも速く、あれだけ離れてしまったと感じていた距離は一息でゼロになって、ワタシたちはまた、一つに結ばれたんだ。
どこまでも広がる青空の下で、自由(本能)に祝福のキスをしたのさ。
「ちくしょおぉおお!」
フリスビーを咥えて再びリィルの元に戻ってきてから、尻尾を存分に振って、お褒めのナデナデをいただきながら叫んだ。
誰だよ、親愛の情が架け橋になったなんて言った奴は、手抜き工事で中身がスカスカとか聞いてないんで地盤調査からやり直して。
でも地盤そのものが、あっちは欲望によってぐずぐずにぬかるんでいるし、こっちは不安定過ぎていつ崩落してもおかしくないので計画の見直しと土壌改良が必要なのは間違いないんだけど、『俺』っていう土壌をいじくり回した結果がワタシだから、もうどうしようもないね。
(責任者でてこいよ!)
でも一番上であろう自称神様が出てこられたんじゃ何も言えないのは分かり切っているから、とりあえず係長辺りからお願いします。
「んふふ~。いい子だね~、イディちゃん。良くできたね~、上手だね~、お利口さんだね~!」
「や、やめ! そんな、褒めたって、褒めたってぇ……、嬉しくなっちゃうだけなんだからぁ!」
どうしてワタシはこうなんだ。こんなチョロいなんて、おバカで有名なハスキーさんだってもう少し思慮深いぞ。
お腹とか頭とかあご下とか撫で回されたくらいで尻尾を振りやがって。
人としての誇りは社会に出る前から捨てていたのは確かだけど、犬としての誇りまで捨てた覚えがないどころか持った覚えすらないからこの話に救いなんてなかった!
――首輪をしてから出直してこいってことですね……自分、涙いいですか?
「リィル……。ワタシは自分が情けないよ……」
「イディちゃん……。割と平常運転だよ」
「そういうことだよ!」
こんな年下の女の子に撫で繰り回されるのがお好みだなんて、元の世界の男性諸君の間では割と普通なのはさて置き、今の身体でそれに依存しているなんて思われてしまった日には、前を向いて歩くこともできなくなってしまうとか考えられたらいいんだけど、ワタシは俯いたままの後ろ向きに前進するのが常だから特に問題ないような気がしてきた。
マイケルジャクソンのムーンウォークはワタシの生き様から生まれたっていうのは、ワタシの中で有名な話だから。
でも、せめて上を向いて歩けるようになりたいんだ。
――涙が零れないようにさ……。
「さっ、もう一回」
「待てや」
今度は投げの体勢に入る前に取り押さえることに成功した。
リィルが掴んでいるフリスビーの反対側に両手の指を食い込ませる勢いで掴みながら、お互いににらみ合う形で制止する。
視線を絡み合わせながら相手の出方を伺い、指先から伝わってくる僅かな挙動を呼んでフェイントをかけ合う高度な駈け引き。
ほんの少しでも隙を見せてしまえば、たちまち主導権を持っていかれてしまう。
――まさに現代に蘇った大岡裁き!
これは意地と意地とをぶつけ合う、人間の尊厳をかけた戦いなんだ。
(彼とワタシを何度も引き離そうだなんて許さないんだから!)
「イ、イディちゃん。何、やら。勘違いしてるんじゃ、ないかなっ!?」
「なんの、話、ですかねっ!?」
互いに一歩も譲らずに、声を震わせながら地面にめり込まんばかりに踏ん張る。手の間から何やら悲鳴が聞こえてきそうだけど、優しいばかりじゃ世界を救えないんだ。
「私は、別にイディちゃんを辱めようとか、そんなこと。これっぽっちも思って、ないんだよ?」
「な、何を言って」
「これは訓練だよ! 本能を抑えきれなくて、これとか、ボールとか、突然飛んできた時、毎回跳びついていたら、大変でしょ?
ただ飛んできただけなら、いいけど、悪意ある人が、お骨とか、おやつを投げてきて、思わず咥えちゃって、問題になったら? 困るでしょう? だから!
今のうちに私で練習しておくの。私となら安全に訓練できるし、いくらでもつき合えるから! 私、イディちゃんのためならどんな辛いことでも一緒に頑張れるから。私ことなら気にしないで。
私はイディちゃんになら、どんなに酷使されても構わない。それだけたくさんのものを貴女から貰ってる。
私、頑張るから! 一所懸命頑張るから!
だから、イディちゃんも少しだけ、頑張ってみよ?」
「リ、リィル……」
ワタシはなんて愚かなんだ。こんなにもワタシの身を案じてくれる友人が、目に涙まで浮かべて、必死になってこの本能という名の悪癖に立ち向かってくれようとしているのに、その思いを欠片も汲むことをせず、ただの先入観で彼女を悪しざまに決めつけてしまうなんて。
「……ああ、分かったよ。リィル」
「……良かった。イディちゃんなら、きっと分かってくれるって信じてたよ」
そうだ、こんな醜い争いなんてする必要なかったんだ。ワタシはただしっかり目を開いて進めば良かったんだ。
前に進む、そのためには前を見ないといけないから。どっちが前なのか、一緒に探しくれるこんなにも心強い友人がいるなら、ワタシはもう、迷わない。
意固地になって握りしめていた手をゆっくりと開き、優しく押しだして、リィルに全てを託した。そして、改めて力強く握りこぶしを胸の前に掲げて宣言する。
「ワタシは、今日! この場で! 自分という敵に打ち勝つ!
本能を克服して、大手を振って大通りを歩けるように、何を前にしても跳びつかない、強靭な理性を手に入れる!」
「その意気だよ! イディちゃん!」
「ああ。だから、リィル! ワタシを導いてくれ!」
独りでは足が竦んで一歩を踏み出すことも戸惑ってしまう暗闇でも、二人なら、手を繋ぐ誰かがいるなら、それだけで勇気が溢れてくるものなんだ。それが、友情ってものなんだ。
「それじゃあ、私はフリスビーを投げた瞬間に『待て!』って言うから、イディちゃんはそれに従って。私が『良し!』って言うまで動いちゃだめだからね。我慢だよ! イディちゃん!」
「どんとこいやぁ!」
「うん! じゃあまずは『お座り!』」
「楽勝だね!」
楽な戦いだなんてことは、あり得ない。分かってる。それでも進むって決めたから。リィルの声にすぐさま従って、手足で地面を力強く踏みしめた。
「ねぇ、ウー」
「な~に? ディッツ」
「これって目上っていうか、群れのリーダーに従っちゃうっていう別の本能なんじゃ……」
「し~。駄目だよ~、そういうのは気がついてても言っちゃあ~」
「そうなんだ、じゃあ黙っとくよ」
――ワタシたちの戦いはこれからだ!




