49 行く先、着く先
「もうっ! リィル殿!」
「殿なんて、似合わない呼び方する妹なんて持った覚えないから知りませ~ん」
腕を組んだまま頬を膨らませてそっぽを向いたリィルの、この場にいる誰よりも子供っぽい仕草に、ゼタさんはこの場にいる誰よりも母性の詰まった胸でオロアちゃんを抱き留めながら大きく溜息をついた。
どう見ても子供喧嘩を仲裁する母親のそれだったから、この場には母性に溢れかえった存在が一人と一匹もいることになるので、その優しさを僅かでもワタシにも向けてもらいたいのだけど、舐められたら堕ちる未来しか望めないのは知っているから、自然に還れるように空気という存在に同化していることにします。
「うぐっ、うぐっ。おね゛えざま~」
「ああ、オロア。泣き止んでおくれ。そんな悲壮にくれた声を出されては私まで悲しくなってしまうよ」
涙に濁った声をくぐもらせながら、オロアちゃんがゼタさんの胸に額を押しつけるようにぐりぐりと動かす度に、ばるんっばるんっ、てもう母性が擬音化して振動になって伝わってきているというか、空間そのものを揺らしていると言っても過言じゃない。
空気と同化しているワタシはもろに揺さぶられ、胃も精神も真面でいられる筈もなくて、母性に酔っ払って吐きそうなんですけど、精神攻撃は基本とはいえこれはあまりに酷ではないでしょうか。
――暴力的なまでの母性力!!!
その圧倒的な攻勢を前に、放射線状にいた男性は為す術なく被弾し、腰を引いて膝をつくか、顔を血に染めながら倒れ伏すしかなかった。
というか、もしかしなくてもこれはブラをつけていないじゃなかろうか?
いやいや、この世界もブラがあるのはリィルの店で確認済みだし、だとするならば拘束具程度で抑えつけられる程、柔な母性ではないってことなんだろう。
もう見なくても分かる。ゼタさんの母性様は洋服越しにもかかわらず躍動感を持って暴れ回り、暴走状態のそれはたまたま通りかかったり、異変に気づいて駆け寄ってきた男たちを次々と撃ち殺し、二次被害の拡大が止まるところを知らなかった。
――でもさ、みんなさ。いい顔、してるよ……。
それぞれが、それぞれの戦場で。歩いて、歩いて、歩き続けて……。
幾人もの、立ち止まっちまった戦友に背を見送られながら、独りでに流れでてしまった涙は置き土産に、振り返ることなく足を動かし続けて、ここまで来た。
ここまで……、来てしまった。
人生の墓場で眠りこけちまった同胞の思いまで勝手に背負い込んで、どんどん動かなくなっていく身体とは反対に、心ばかりが大きくなって、重くて、重くって。
それでも投げ出すことだけはしたくなくて、意地だけを支えに前だけを向いて進んできたここで、ついに出会ってしまったんだ。
長い長い旅路で疲れ果てていた心も身体も、最後にたどり着いた果てで、なんの前触れもなく現れた圧倒的な母性の塊を前に、ついに足を止めてしまったんだ。止めざるを得なかったのだった。
それでも。ボロボロのその姿こそ、漢の生き様だったんだ。
(――安らかに眠れ。ここが旅の果ての、理想郷さ。……きっとな)
「うっ、うぅっ。お、お姉様。グスッ、くんか、グスグス、くんかくんかッ! ああ゛、あっ、ああお姉様ー! あっあっあっ、お姉あっあっー! スンスンッ、スーハースーハー! すぅ~……、はあ゛ぁおねさま゛~!」
オロアちゃんもアネ(姉)ンをキメてそっちに逝くみたいだから仲良くお願いします。
「あー! オロアちゃんがいかがわしい顔してる! ゼタがそういうのに疎いからってそういうの本当に良くないよ!」
「な゛ぁっ!? そそそ、そんなことありませんわ! 言いがかりはよしてください!
こんな姉妹の心温まる触れ合いを見ていかがわしいだなんてそんな風に見える方がどうかと思いましてことよ!?」
「そうですよ、リィル殿。それに私、疎くなんてありませんよ?」
(――おいおい、誰だよ。彼女の辞書から顧みるって言葉を盗っちまったのはよ。可哀想だろ、返してやれよ)
……まぁ、誰も名乗り出てこないのは知っていたし、むしろ誰かが盗っていたら別の意味で怖くて仕方ないので、やっぱりそのままでお願いします。
でも、リィルとオロアちゃんとワタシ、この瞬間だけは本物の姉妹以上に心を重ね合わせて、全くおんなじことをそっと思い浮かべたのは疑いようもなかった。
つまり、
(――それはないっ)
「まあ、それは置いておいて。いつまでもここで話しててもしょうがないし、とりあえず移動しない?」
「むっ。少々釈然としませんが、確かにここを往来でいつまでも立ち話をしていては、周りの方々にもご迷惑になってしまいますね。オロアもそれでいいかな?」
「すぅー……、はっ!? は、はい! 何も問題ありませんわ、お姉様!」
まだ吸いたりないとか、問題なく中毒になってるからこれから行くのは病院しかあり得ないんじゃないかって思ったけど、行ったら行ったで一番初めに治療すべきはワタシなのは疑いようもないから、あれはきっと医療用で精神安定とか鎮痛作用がある類いの薬だってことできっと政府にも承認を得ているから合法で、ワタシも中身は『俺』だから合法ってことで審査は通過済みなのでやっぱり病院なんて必要なかった。
――法治って、なんて素晴らしいんだろう……。
「しかし、移動すると言ってもどこに行きましょうか?
ただお茶をするだけではイディちゃんにこの街を案内するという目的から離れてしまいますし、お茶はイスゥ殿ところでしたばかりですからね」
「んん~、どうしよっか。本当ならアーセムに登らせてあげたいんだけど……、いくら私やゼタが同伴しててもイディちゃんぐらい小さい子だと難しいよね~」
「空帝騎士団の権限があっても、それは少々難しいでしょう。う~む、困った。ん? そういえばオロアはお付きの人も連れずに、ペスと二人だけでどこに行こうとしていたんだい?」
「う゛っ! そ、それは……」
なにやら喉に詰まらせたような声をだして狼狽えたオロアちゃんは、そわそわと落ち着きなくあちこちに視線を転がした。全体的に挙動不審でしかなくて、どこからどう見ても薬の切れた常習犯でしかなかった。
薬が切れたなんて言い出しづらいのは分かるけど、そんな短期間で切れていたら生きるのも儘ならないのは想像に難くないので早く自首した方が楽になると思います。
しかし、どうやらアネ(姉)ンが切れたからという訳ではなく、ただただオロアちゃんにとってはゴロリとお腹の中で固まった重いモノを吐き出すように苦しげなことらしく、凝り固まったそれをどんな言葉に解してやればいいのか迷っているみたいだった。
それでも愛しのお姉様に嘘をつく訳にもいかなかったらしく、主人の心細さを嗅ぎとったのか脇に擦り寄ってきて下から覗き込んでいるペスに縋るような視線を送りながら、スカートの裾を握りしめて、ぎりぎり聞き取れるぐらいの小さな声で答えた。
「えっと、それは、その。が、『学校』……です」
オロアちゃんの返答を聞いた瞬間、ゼタさんの垂れた大きな耳がピクンッと跳ねた。
「……オロア」
「は、はいっ」
今までの作り込んだ騎士然とした声とは違った、静かな大人の声だった。
「また、家の人に内緒で屋敷を出てきてしまったんだね?」
「で、でも! その」
「オロア」
「うっ、ううぅ。……はい」
観念したように肩を落としながら事実を認めたオロアちゃんは見るからに落ち込んでいて、ゼタさんが一つ大きく溜息をつくと可哀想なくらいビクッと肩が跳ね上がっていた。
さっきまでのお姉様に向けていた眩しいぐらいの瞳の輝きが消沈して、じわっと滲んできた水玉と、俯いた顔の下で何かを我慢するように噛みしめられた唇がちょっと可哀想なぐらい痛々しかった。
少しの間、その様子を腰に手を当てながら見つめていたゼタさんは、ふっと力を抜いた鼻息を零して、手のかかる弟に向けるみたいな笑みを浮かべるとリィルの方に向き直った。
「……仕方ないね。リィル殿、どうでしょう。ここは一つ、学校見学なんて良いのではありませんか?」
「――ッ! お、お姉様!」
バッ、と勢いよく持ち上がった顔から一粒、玉になった雫が弾けるのと同時にオロアちゃんは満面の笑みでゼタさんに抱きついた。
「……んふ~。まぁ、いいんじゃない? そのうちイディちゃんを連れて行こうとも思ってたし、アーセムに登るのに必要な最低限の講習は学校で受けるしね。
場所を知ってた方がいいでしょ。イディちゃんもそれでいいかな?」
「えっ!? あっ、はい。ワタシは街を案内してもらえるなら、なんでも」
「決まりですね。では、行きましょうか。
空師が生まれ、帰る場所――アーセムの揺り籠へ」




