表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

烏翠国物語

還魂記 ~翠浪の白馬、蒼穹の真珠 外伝~

作者: 結城かおる

――鳥達は高みへと飛び立った。そしてお前は、あれらを射落としてしまうのか。



「ふう…」

 大きく息を吐いて、光山弦朗君こうざんげんろうくん安国軒あんこくけんに腰を落ち着けた。

 宮中の法度はっと還宮かんきゅうぎりぎりの時刻に滑り込んだ輿からは、レツィンではなく弦朗君が、そこかしこ傷だらけで、おまけに女官の恰好で転がり出してきた。当然のこととして、彼は王宮の人間を仰天かつ困惑させたのであるが、そのまま明徳太妃めいとくたいひと王の御前にまかり出でて「事情」を説明し、激高する王を太妃に任せて自身は退出したところだった。


 ここ安国軒は、王族が王への拝謁などの際に控えの間として用いる部屋である。そこで弦朗君は、駆け付けた柳承徳りゅうしょうとくに手伝わせながら忌々しい女官の服を脱ぎ、明徳太妃差し回しの典医てんいに傷を処置してもらった。そこかしこの傷を拭われて清められるたび、そして薬を皮膚に塗られるたび、飛び上がりたいような痛さが襲うが、彼は声を上げずに耐えた。


「…今は当座の処置だけを済ませておきますが、一刻も早く府にお帰りになり、もう一度医者に診せることです。金創きんそうを甘く見てはなりません」

「わかっている――」

 処置が終わると弦朗君は典医を帰し、光山府から急ぎ届けられた常服に袖を通した。傷の痛みはまだ引かないが、新しく清潔な服に着替えただけでも、心が落ち着くというものである。


「私は馬を引いてきます、いつもの場所でお待ちしておりますので…」

 承徳が小走りに部屋を出ようとしたそのとき、高官が何人か入ってきた。劉仁桀りゅうじんけつ孟舜宇もうしゅんうといった面々で、みな宰領府さいりょうふの部属である。椅子に座っている弦朗君は上着の袷の紐を結びながら、にこりともしない官僚達を見やった。


「…委細はすでに話してあるが、まだ何か?」

「我ら宰領府から、弦朗君様にご事情をお伺いしたいと」

 揃って彼等は一礼したが、まるで傀儡くぐつの動きのようだった。

「事情?誰が私に説明を求めているって?」

「弦朗君様にお話をお聞きすることになるのは、呉一思ごいっしどので…」

 その名を聞いて、彼は眼を細めた。身体のうちにぴりりとした緊張が走る。


 ――これはまた、手強い相手が出てきたな。


 むろん口にこそ出さなかったが、厄介な局面を迎える予感がした。呉一思とは、若いながらも宰領の佐官さかんとなり、いずれ宰領の座に昇ると噂されている切れ者である。彼は王の側近として裏で一連の粛清の糸を引いているとされ、王と慈聖太妃にとってはこの上なく頼もしいだろうが、類を見ぬ酷薄さで、紫霞派しかは――国君こっくんとその実母である慈聖太妃じせいたいひに敵対する官僚の派閥――からは蛇蝎のごとく嫌われ、また警戒されてもいる。


「宰領府はいったい何をお考えか!弦朗君様は脅迫されて手傷を追われ、まだ仮のお手当しかなさっていません。痣だけではなくそこかしこに刃物の傷もありますから、早く処置をなさらぬと、思わぬことも起きかねません。後日に…」

 脇から承徳が相手に食って掛かるのを、弦朗君は無言のまま片手で制した。


「お怪我のこともありますので、長くはお引止めしませぬ。若干のお時間を頂き、事情を伺い確認したいだけでございます。すぐに済みますし、我らに他意なきこと、どうか光山様にはご了解くだされたく」

 そう言った彼等は無表情を保っている。弦朗君は立ち上がって頷いた。


「役目ご苦労、話を致すゆえ案内を頼む。どこへ行く?」

「弦朗君様!」


 なおも抗議の声を上げる承徳を一睨みして黙らせると――他人を睨みつけるのは彼にとって滅多にないことであった――、弦朗君は官僚らに先導するよう促した。


*****



 昼下がりから始まり、すぐに済むはずの聴取も、気が付けば陽が傾くころとなっても終わる気配がない。


 弦朗君は呉一思とその部属二、三人と向かい合わせになり、碧雲堂へきうんどうの一角に座していた。そこは宰領府の者達が宮中で控室として使用する場所だった。


 ――何度同じことを言わせる気だ?


 傷の痛みと相まってさすがの弦朗君も苛立ってきたが、まさかそれを表情に出すわけにはいかない。


「…では、恐れ多くも王を襲わんとした賊が弦朗君様を脅しつけたばかりか傷まで負わせ、逆恨みの相手である女官の海星かいせい――例のラゴ族の娘レツィンをさらって逃げた。それに相違ありませんか?」

「先ほども説明した筈だが、確かにそれが事実だ」

「奇妙ですな。邸内にはほかに人がいくらもいたのに、誰も敏やその一味に気づかなかったのですか?」

 弦朗君は首の後ろの急所を撫でた。

「部屋では私と彼の二人きりで、ここに刃を当てて、『声を出せば一突きだ』と脅された。そのような状況で大声を上げて人を呼べと?おまけに明徳太妃様の女官まで人質に取られているときに?」

「…確か彼女は武芸に秀で、王宮で二度も見事な剣舞を披露した腕だと聞いております。なのに、みすみす人質に?」

「彼女とて、あの時は宮中に即日帰れぬほど体調が悪く、しかも丸腰で不意を突かれたのだ。どうしようもないではないか?」

「……」

「ただ、自ら賊に襲われる隙を見せ、このような事態を招いた私の不徳については、この身を投げ出して王にお詫びし、罪を償う所存である。しかし、それ以外に問われるべきことはないはずだ」


 答えながら弦朗君はさりげない風を装い、卓の下で左の脇腹に手をやった。ここの傷がじくじくと痛み、熱を持っているようだった。辛抱強く聴取に応じながら、弦朗君は次第に気力と体力が削がれていくのを感じている。


 ――まずいな。

 最初から、事情を尋ねるのが彼等の目的でないことは承知していたが、これは形を変えただけの拷問だ。そう弦朗君が気づいたときには、すでに遅かった。


 たちの悪い弄り方をしてくれる――額に汗が染みだしてくるのがわかり、唇をかむ。


「ご無礼を重々承知でお尋ねしますが、まさか負われた手傷が下手人を逃がすための戯劇しばいということはありませんな?」

 弦朗君の双瞳がきらりと光る。


「よもや戯れに訊いたわけではないだろうが……いったい私を誰だと思っている?光山玉泉君こうざんぎょくせんくんの嗣子にして荘王そうおうの孫、文王の甥、そして現王の従弟の光山房当主である。卿等は忘れたわけではあるまい。私は母の腹を借りて生まれ落ちたその時から、国君と烏翠に忠である」


 口調こそ穏やかだったが、彼の微笑が嘲笑に、そして最後は怜悧なやいばのような笑みに代わったことに、果たして呉一思は気が付いたか否か。


「…失礼いたしました、暴言をお許し賜りたく」

 その呉一思は、表情をぴくりとも動かさない。

「これらの傷が私を潔白とする証明だ。他には何もない」

 最後にそう答え、弦朗君は卓越しに呉一思を見据えた。自分の余力を考えたら、あと一刻も持たない気がする。宰領の佐官は何を考えているか推し量りかねる表情でじっと見返したが、ついに口を開いた。


「…光山様には、体調の優れぬなか長い時間お答えくださり、感謝のことばもありませぬ。どうか、御身お大切に」

 解放された弦朗君は苦痛を髪の毛一筋ほども見せず、優雅に立ち上がる。そして呉一思以下、宰領府の人間達が頭を下げるなか、しっかりとした足取りで部屋を出て行った。


「弦朗君様!」

 柳承徳の声が上がった。殿門を出たとたんふらついた上司を見て慌てて駆け寄り、腕を伸ばして支える。

「…承徳、大きな声を出しては駄目だよ」

 弦朗君は脇を抱えられながら、囁くがごとく叱責した。おろおろする承徳は、とりあえず片手で懐から手巾を出し、上司の額の汗を拭った。


「…いくら待ってもなかなか出ていらっしゃらないと思ったら、あいつ等、弦朗君様をこんな目に遭わせて…」

「だから、声を出すなと言っている。大事ない、事情を聞かれただけだ。連中は私に指の一本さえも触れなかったさ」

 脇腹を押さえた弦朗君は、呻くように言った。顔は青ざめ、唇には色がない。全身を鈍い痛みが覆い、霞のなかに頭を突っ込んでいるように感じられる。

「馬に乗れますか、主君」

 承徳は、引いてきた馬を心配そうに見上げた。

「王宮で私を『主君』と呼んではならないよ。全く、何度同じことを…。それに、乗れるも何も、ここは死んでも乗って帰らねば。悟られては困る…」

 そう、全てをいつも通りに。宮殿に耳目あり、それがたとえ殿門の内であろうと外であろうと同じである。


 鐙に足をかけて馬に乗る瞬間が最も辛く、弦朗君は鈍い痛みに喘いだが、声を殺して馬上の人となった。

 ――この傷をつけた敏の辛さに比べたら、これくらいの痛みなど…。

 あのとき、力を加減していたとはいえ、主人に切りつけ殴りつねり、傷や痣をつけねばならぬ使命に、敏は涙を流しながら耐えていた。彼の震える睫毛やぴくつく肩先、ためらう剣の切っ先を思い出すと、弦朗君も心が痛む。


 いつもならば指呼しこの間に思える帰邸への路も、今日ばかりは千里の遠さに感じた。



******



「…っ!」


 宰領府での聴取には音を上げなかった弦朗君が、ついに声を漏らしてしまった。

「もう少し、優しく手当をできんものかな」

 右腕を差し出す彼の視線の先には、不器用に肌を転がる包帯がある。それの操り手は承徳であった。帰邸後、金創などの重い傷は素人で処置をせず光山府の侍医に診させたが、そのほかの軽い傷は自分で手当てすると、彼が言い張って聞かなかったのである。


「柳の若様、私が致しましょうか」

 手当の無様さを見かねたトルグの申し出を承徳は一蹴し、弦朗君に向き直る。

「主君、これらの傷は本来、敏が手当すべきものです。だけど奴はここにいない、だから俺が彼の代わりにしているんです」


 弦朗君は微笑んだ。彼は寝台に折りたたんだふすまを幾つもかさねて、それにもたれかかった状態になっている。

「何だかよくわからない理屈だが…敏を怒っているのか?」

 包帯を手に、部下はきっとなった。

「当たり前です。恐れ多くも主君の御恩顧を塵芥ちりあくたのように投げ捨てたばかりか、脅迫してお身体を損ない、逃げるなんて……しかもレツィンを逆恨みして」

「友人として、許せないかい?」

「あんな不義不忠もの、友なんかじゃ…」

 黙り込んだ承徳を、弦朗君は優しい眼で見ていた。彼は実のところ、敏とレツィンにまつわる「事実」と「芝居」についてまだ承徳に告げてはいなかった。


 ――今は駄目だ。


 敏に対する承徳の誤解を思うと、弦朗君も辛い気持ちになるが、ただでさえ、心が脆くなっている承徳が真実を知って動揺し、結果として敏の逃亡に加担する、あるいは秘密が外に漏れ「芝居」のからくりが破れてしまうようなことになれば、今度は承徳の身まで危うくなる――弦朗君はそう判断したのである。


「彼等は死んでいるか、それとも生きているか…承徳はどちらだと?」

「生きていて欲しいけれども、実際に生きていると信じているけど…!」

 承徳は盥の水に浮かぶ布をぎこちない手つきで絞り、熱を取るため弦朗君の額に乗せたが、それはべちゃ、と音を立てた。

「…まったく、針仕事だけは玄人並みなのに」

 そう言って眉を寄せた主君からびしょびしょの布を外し、丁寧に絞り直したのはトルグである。

「さあさあ、柳の若様。主君のことをご心配なのはわかりますが、ここは私どもにお任せあそばして。主君もお休みにならなければ」

 額を綺麗に拭かれ、布を乗せ直してもらった弦朗君は微笑した。

「ありがとう、トルグ。承徳、ここはいいからもう帰りなさい」

「…主君、本当に大丈夫でいらっしゃいますか?」

 部下は床に跪いた状態で、上目遣いに上司を見ていた。今夜はここの宿直とのいをしたいと言わんばかりである。

 そんなことをされたら、騒がしくなって寝られやしない――弦朗君はつと右手を伸ばして、ぽんぽんと承徳の頭を軽くたたいた。それは承徳の出仕以来絶えて行ったことはなかったが、まだ彼が光山府で見習いをしていた時分に、弦朗君が時折してやっていた「元気づけ」だった。

「子どもじゃあるまいし、心配は無用だよ」


 いかにも後ろ髪を引かれている様子で承徳が辞したあと、トルグは溜息をついて弦朗君を横目で見た。

「…主君は嘘をおつきになって。承徳様も鈍くていらっしゃるのが幸いしましたが。この状態で大丈夫な筈がないでしょう、お見受けしたところお顔が赤くて、熱が高くなっているようですよ。早く侍医からの薬湯をお飲みいただかなければ」

 そう言って差し出された椀の中身を渋い表情で飲み干し、また口直しの生姜の蜂蜜漬けに手を伸ばした弦朗君ではあったが、しかめた顔がもとに戻らぬところを見ると、その原因は何も薬の苦さだけではなさそうであった。


 彼は重ねた衾を脇に押しやって床に臥し、薄暗い天井をぼんやりと見上げる。

 ――呉一思は私への疑いをにじませていた。

 すでに追討の先手は繰り出しているはずだが、瑞慶府から本格的に兵が出ていないところを見ると、まずは安陽公主とその一党を一網打尽にすることを優先にしているため、と弦朗君は見当をつけていた。

 ――それも明日中には決着するであろうから、次には自分にも追討の王命が下るはずだ。


 そうなれば、傷病の身とはいえ従うより他はないが、せめてその場合は蓬莱北道の捜索ならば、と弦朗君は思っていた。敏とレツィンが二廟を無事に越えて逃げ切ることができればそれに越したことはないが、実現の可能性は五分五分、というのが彼の見立てだった。

 ただ、承徳には逃亡の可能性の低い南道を行かせれば、友が友に討たれるという最悪の事態だけは避けられるだろう。自分とて、かつては敏とレツィンの主君であったのだから、部下を手にかけることなど考えたくもなかったが、承徳のことを思うと、万一の覚悟は決めているつもりだった。


 ――二人を承徳に討たせる、あるいは二人が承徳を殺すくらいなら、いっそこの手で。

 弦朗君は、衾の上に投げ出された右の掌を握り込む。

 ――だが本当に、私は彼等を葬り去らねばならぬのだろうか?同じ屋根のもとで暮らし、敬慕のこもった眼差しを向けてくれた敏を、そして煌めく笑顔を見せてくれたレツィンを。


 自分は山号を名乗る王族の一員として、国君に忠誠を尽くし王統を継承することにのみ存在する意味がある。それは十分過ぎるほどわかっている。だが、肝心の王も国も、すでに天から見放されているとしたら?守るべき理由も価値も失っていたとしたら?

 賀宴のとき、レツィンは図らずも烏翠の国運をも左右する決断を担うことになり、選択の結果に恐れを抱いていたが、本当は、彼女の恐れこそ自分たちが担わねばならぬものであった。


 ――彼女に王を助けてくれたねぎらいの言葉をかけたとき、敏は納得のいかぬ顔をしていたが、私の立場では、そう言うしかない。だが、真に討つべきは果たして敏なのか?私が忠義を尽くす対象は、敏を殺してまで守らねばならぬものか?


 しかし、この問いは彼にとって「禁断」の一言に尽きた。抱くことすら許されぬ疑問に苛まれ、傷の存在を忘れた弦朗君がやや乱暴に寝返りを打つと、背中に痛みが走る。


 檀山房が族滅した日にも、母が狂気の淵に陥ったときも、運命を決して恨まなかった弦朗君が、いまはじめて自らの運命を憎んだ。



*****



 翌日の朝から、弦朗君は枕が上がらなくなり、ひたすら寝台の上で過ごした。思えば、明徳太妃の賀宴の後からぴんと張っていた緊張の糸が緩むことはなく、昨日の聴取から解放されたとたん、傷の痛みと相まって一気に身体が悲鳴を上げた気がする。


 いま弦朗君が横になっている寝台の帳は開けてあるので、花窓の障子に冬の鳥が映っているのが見えた。傷から発した熱がまだ高く、視界がぼうっと霞む。


 彼は看病など身の回りの世話をするのはトルグひとりと決め、承徳の光山府への出入りは一時差し止めた。予想通り承徳は荒れ狂い、また昼間から青黛楼せいたいろうの客となっているという。

 ――仕方のない奴だな。じきに我らにも追討の王令が下るだろうに。

 弦朗君は苦笑した。

 ――それにしても、山場は越えただろうか。

 大捕り物も控えていることだし、まだ油断はできないが、王自らの自分に対する尋問は今のところ予定されていない。恐らくは、祖母である明徳太妃が自身の威光をもって、孫に手が及ばぬよう陰ながら庇護しているのかもしれない。


 だが、問題は宰領府である。自分の聴取に当たった呉一思は、何を考えているのか計り知れぬ人物であるが、光山府に対する嫌疑を完全には拭っていないものと見えた。だからこそ、弦朗君は万一のことを考え承徳には累を及ぼさぬように「出入り禁止」の手を打ったのだが、肝心の本人にはその意が伝わっていない。というより、鈍くて一向に気が付いていない様子である。


 ――あれも、出仕してもう一年は経つというのに。


 部下の成長のなさに、弦朗君は嘆息した。そしてもう一人、本来ならば今頃とうに出仕していた筈の若者を思い出し、寝衣の右袖をまくった。


「『死なない程度に』と頼んだが、思い切り傷をつけていってくれたな…」


 彼の肘から手首近くにかけて、はっきりとした傷跡が残っている。これは時が経っても消えることがないだろう。他にも、そこかしこに切り傷や痣が残っている。自分が立てたはかりごとのため敏に行わせたことといえ、その時の痛みを思い返して弦朗君は顏をしかめた。今となっては、この傷が彼の「形見」とならぬよう祈るほかはない。


 同日の夕刻、弦朗君は承徳の光山府出入りの差し止めを解除して呼び出した。光山府も完全に安全というわけではないが、妓楼に居させるよりもよほどましである。だが、本人が現れたのは弦朗君の夕餉ゆうげも済んで大分経った頃だった。

 まだ熱が完全に下がらぬとはいえ、体調を持ち直した弦朗君は寝衣から常服に着替えた。待ち人がいるためもあったが、何よりいつ王命が下っても良いようにという心積もりである。彼は正堂で書見をしながら、その来るべき人間を辛抱強く待っていたが、やがて戸口でとばりが揺れ、小柄な人影がするりと忍び込んできた。


「…お召しにより参じました」

 弦朗君は眼を細め、不貞腐れたような表情の部下を見やった。

「青黛楼の酒はどうだった?甘露のごとしか?」

 その言葉に皮肉を感じ取ったのか、承徳は仏頂面をさらに硬化させる。


「光山様に、無礼を百も承知で申し上げます。お聞かせ願いたい、いったい私は瑞慶府少尹ずいけいふしょういんの部属ですか?それとも飼い主に呼ばれれば東に西に尾っぽを振り、必死に追いかけて行く犬ころですか?『光山府に来るな』と言われたかと思うと、一日もせずして今度は『府に来い』とは一体どういうおつもりで?」


 激したような、噛みつくような、部下の物言いにしてはあるまじき口調。二人の間には微妙な緊張が落ちた。


*****


 上官はまっすぐに承徳を見て、とん、とんと指で卓を二度叩いた。


「承徳、言いたいことはそれだけかい?では聞くが、今夜か明日にでも私達に追討の王命が下ろうというのに、そなたは一体どこでそれを受けるつもりだ?柳家、瑞慶府治ずいけいふち、我が邸のいずれかならともかく、まさか青黛楼せいたいろうで承ろうと思っているわけではあるまい」

「……」

 部下は、唇を噛みしめ答えない。


 ――親友が大逆罪人として追われる身となるのだ、気持ちは十分にわかるが。


 弦朗君はふうっと息を吐き、手元の書を閉じた。

「敏のことが気がかりか?」

「いいえ、あんな奴のことなんか!王や主君、あまつさえレツィンまで巻き込んで…」

「それがそなたの本心であるならば、王命に従い、躊躇いなく敏を殺せるな?」

「……」


 上司は立ち上がり、いつにない、厳しい目つきで部下を見据えた。

「かりにも命官であるならば、王が討てと命じたら私情を捨てて討たねばならない、それはわかっている筈だ。違うか?」

「わかっています、でも…!」

「でも?」

「そう仰る主君はどうなんですか?本当にお言葉の通り敏を討てるんですか?」

 弦朗君は部下の挑戦的な言辞に対しても、視線を揺るがせることはなかった。


「そうできぬとでも?私は王室の連枝れんしであり、王統を存続させるためだけに存在する。ゆえに、光山房の当主として、王と王室を脅かす者は私情も命も捨てて、――敏であろうとそなたであろうと、この手で必ず討ち果たす」


 鋭く、重く、だが相手にというよりも、まるで己に言い聞かせるかのような口調だった。そして、承徳は「そなたであろうと」という一句に敏感きわまる反応を見せ、やり場のない怒りをおもてにのぼせた。

「俺だって覚悟くらい……でも、あいつに!真面目で、誠実であることしか取り得のないあいつに!大逆罪人の不義不忠者という評価が、これから永久について回る、その汚名を拭い去ることができないのがたまらないんです!」

 それだけを吐き出してしまうと、承徳はがくりと膝をつき、両手で顔を覆った。

「何で……あいつが…」

 くぐもった声が十指の隙間から漏れる。弦朗君は卓を回り込み、承徳の前で片膝をついた。そして、相手の細い肩にそっと右手を置いた。


「承徳……そなた、『四知』という言葉を知っているか?むかしの賢人が『天知る、地知る、君知る、我知る』と言って、悪しき誘いを断った故事のことだ。敏が本当は不義不忠者などでないことは、天も地も、私もそなたも知っているではないか。たとえ歴史には正しく記録されずとも、天地と私達が真実を知っていればそれでよい。それに、たとえ真実が記録に残されずとも、後世の誰かが記録の行間を読み、そこから真実を導き出してくれるかもしれない。承徳、そう思わないか?」


「思いません!いえ、とうていそう思えません…」

「承徳、こんなことを言う私だって、正直なところ辛い。でも、私達は彼の忠誠と真情を信じている。だから…」

 上司の低い声に、部下は激しく首を横に振り、思わず相手にしがみついていった。


「お願いですから……優しいことを仰らないでください。そんなことを言われたら、俺、あいつを許してしまいそうです…!」


 自分の肩口に顔を埋め、嗚咽を漏らす承徳。彼が預けてくる体重は肩の傷にこたえたが、弦朗君はその背に手を回し、軽く叩き続けてやっていた。

「承徳、そなたは何かというと泣いているね。泣き虫もいいところだ。でも、その涙はいつも自分のためではなく、人のために流している。優しい奴だよ、本当に…」。


 

 翌朝、ついに王宮からの使者が光山府に至り、弦朗君は正堂で王命を受けた。今頃、承徳も柳家で同じように命を承っている筈だった。


「光山弦朗君は王命を受けよ!このたびの大逆罪人すなわち趙敏の追討であるが、弦朗君は傷病の身につき、特に君恩を持って追討は免ず。ただし、その代わりとして、部属の柳承徳を蓬莱北道にて捜索せしめ、同じく南道には張英ちょうえいを向かわせることとする。以上!」


 跪いて王命を聞きながら、弦朗君自身はさすがに顔色の変化を自覚せずにはいられなかった。

 ――呉一思!

 弦朗君は唇をかんだ。

 ――これが、連中の意思か。どこまでも…。

 彼等は、承徳がかつて敏と光山府で起居を共にしていた同輩であることを知っている。そして、弦朗君の聴取のとき、宰領府に盾突いたことも忘れていないはずだった。

「…光山様、ご返答はいかに?」

 促されて、やっと彼は我に返った。王命の拝受でこのような不調法を働くなど、初めてのことである。


「…失礼した。私こと光山弦朗君は、王命を謹んでお受けいたします。忝くもこの身に聖慮を賜り、恐懼に堪えませぬ」


――承徳、「狩り」の獲物は敏だけではない、わかるか。上手く罠を飛び越えて行くがいい。


 弦朗君は頭を深々と下げると立ち上がり、さらに瑞慶宮の方角に向かい遥拝ようはいを行った。



*****


 ――敏とレツィンのために陰膳かげぜんをしよう。


 弦朗君がそう承徳に提案したのは、全てが終わった後だった。敏とレツィンは「神の眼」と称する湖に落ちて「死亡」とされ、そして王の弑逆未遂を起こした黒幕の安陽公主は賜死ししとなり、その夫の神南都尉じんなんとい、息子の暁礼尉ぎょうれいいはいずれも東市で首を落とされた。


 瑞慶宮で厳しい尋問を受けた安陽公主が自邸に戻されるその日、弦朗君は自戒を破り、光山府の門前で安陽公主を見届けた。

 公主は明徳太妃に最期の対面だけは許され、母親に死出の髪を結われ、大逆罪人として瑞慶宮を出た。そして、東市で夫と息子の処刑に立ち会わされた後、これから自らの死を迎えるのである。

 なお、彼女に賜死を告げる「告死使こくしし」には炎山鳴海君えんざんめいかいくんが立てられたが、これは炎山に対する王の警告だと、王宮では専らの噂となっていた。


 いま、衆人は公主を見ようと大路に駆けつけ、息をひそめて行列が来るのを待っている。やがて現れた彼女は、警護の兵に囲まれながら徒歩で邸に向かっていた。光山府まで来たところで、公主は甥の姿に気が付いて眉を上げたが、すぐに顔を前に向け、そのまま門前を行き過ぎた。


「伯母上…!」


 弦朗君は、ついに声をかけてしまった。振り返った伯母はいつものような派手な装束ではなく、白い麻の服のみを身にまとっている。すでに髪はほどけて唇には血が滲み、傷だらけの裸足が痛々しかった。だが、彼女は弦朗君を見て微笑んでいた。その笑顔は弦朗君の記憶のどんな時よりも美しく、そして優しかった。

顕秀けんしゅう、駄目よ。見送るなど…」

 伯母は甥を、いみなで呼んだ。


「それに、何なのその顔は?山房の主人たるもの、いまのあなたのような情けない顔をしてはならないの、決してね。いついかなる時も、堂々としていなければ。それを肝に銘じて……王統を繋ぐ者として、生きなさい。山房を守り通して、つよく生き抜きなさい」

 そして安陽公主は昂然と頭をもたげ、衆人の見守るなか歩き続けた。自邸に戻った彼女は中庭で賜死の王命を受けた後、ただちに正堂に入り、同じく賜った絹で首を吊ったという。

 

 檀山だんざん、安陽公主。忌日の祈りがまた増えるな――弦朗君は府の祀堂に赴きながら、そんなことを考えていた。だが、いまは生者のため、すなわち敏とレツィンのため神前に額づくのだ。


 ただし、大逆罪人のことで祈るなど外に漏れては厄介なことになるため、これを知るのは弦朗君、承徳、ならびに陰膳を整えてくれたトルグの三人だけである。すでに祠堂では承徳が待っており、祭壇には、酒や茶、菓子、軽食などの供え物が彩りも美しく並べられていた。


「…それで、宰領府での話はどうだった?」

 承徳は宰領府で「神の眼」での顛末を詳しく調べられたのである。既に彼は、上司から敏に関する真実を告げられていた。

「あれこれ事情を聞かれましたが、まるで尋問でしたよ。弦朗君様のときと同じく、呉一思も同席していました」

「ほう…で、上手くやりおおせたかい?」

「いや、それが……兵の目撃により、レツィンが弓を私に向けてしまったことが知られてしまったので、取り繕うのに苦労しました。彼女も混乱していたんだとか、敏に脅されてやむを得ずしたことだとか何とか言っておきました。……信じてくれたか否かはわかりませんが」

 弦朗君は含み笑いをした。

「あの切れ者の呉が上手く騙されてくれるかはともかくとして、まあ、承徳にしては上出来だね。その調子その調子、何でも、宮仕えが長くなれば長くなるだけ、言い訳の達人になるそうだよ」

「お褒めに預かり、恐縮です」

 部下は悪戯っぽく、両目をくるりと動かした。


「承徳、二人への捧げものは?」

「はい、どちらもここに」

 承徳は恭しく漆塗りの函を差し出した。それには、織りの美しい水色の布地で仕立てられた男物の常服と、刺繍も美しいラゴ族の衣装、そして桃色、青色などの色糸で刺繍された小さな毬が乗せられている。

「ラゴ族の服か……新しいものではないか。これもそなたが?」

「レツィンが主君に託してくれた、彼女の服を参考にして縫ってみました。一度見せて欲しいと彼女にせがんだことがあるのですが、俺との約束を守ってくれましたから」

「敏達が生きているとしても、きっとこの瑞慶府よりも寒い土地で暮らしているはず。そなたの心が彼等に届くといい…」

「二人とも生きています、必ず。俺、そんな気がするんです」

 承徳は確信あり気に言い切ると、函を祭壇の真ん中に置いた。弦朗君は香火を灯す。

「レツィンは、こんなきれいな服と毬をもらってきっと喜ぶだろう」

「ええ、もちろん。そうそう、あいつ――敏は初めて俺の服を着ることになるんですね。この水色は、彼にきっと似合う筈だけど。でも、着ている姿を想像はできても、やはりこの眼で見てみたかったな」

「彼のことだ、きっと派手だの浮ついた色だの、ぶつくさいうさ。そしてそなたと喧嘩になる」

「確かにそうですね」

 ふふふ、と二人は顔を見合わせて笑った。


 今頃、彼等はどこにいるのだろう。吹き付ける冷たい風、乾いた土の上でも寄り添いながら生きているのだろうか――。


「どうか、二人に吹く風が優しくありますように、彼等を照らす陽の光が暖かなものでありますように…我らが烏神とその妃よ、どうかその羽がいのもとで守りたまえ」

 光山府に残された上官と部下は、ともに同じことを考え、ともに同じ床に跪いて祈った。

                           


         【 了 】

本作『還魂記』を読んで下さってありがとうございました。厚く御礼申し上げます。

なお、『翠浪の白馬、蒼穹の真珠』『還魂記』の後の時代を描いた作品として、『手のひらの中の日輪』があります。合わせてご一読賜れば幸いに存じます。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ