白髪
「白髪って抜いちゃいけないんだよ」
わたしのママはきれいだ。別にとっても美人というわけではないけど、それなりに見た目に気を使っている。しっかりしたお化粧に、品の良い服。最近はかわいいスリッパを買ったといってしゃぐような、お茶目なママだ。自慢なのは年のわりに白髪が全くないところ。髪にはけっこう気を使ってるもよう。そのママが泣きついてきた。どうやら人生初の白髪を発見したらしい。
「お願い、アヤちゃん。確かにその辺にあったのよ」
ママの髪をいじりながら、白髪を探す。
「あ、あった」
キラッと光る1本の白い髪。色素が抜けただけだって言うのに、他が真っ黒だからなんだか異様だ。
「ほら、あったでしょう? もうショックだわ。お願い、抜いて」
「頭皮が痛むから抜いちゃいけないって、テレビで言ってたよ」
「いいのよ、1本くらい」
お願い、と頼まれれば、娘のわたしは協力するほかない。白髪を1本しっかりつまみ、プチっと抜いた。なんだか感触が気持ちいい。抜いたばかりのそれをママに渡すと「ひゃー」と言いながら、しげしげと見つめていた。
それが最初だったと思う。
「アヤちゃん、また見つけちゃったのよ。白髪。お願いしていい? はあ、嫌だわ」
幾日かぶりに、ママはわたしに髪を探るように言う。仕方がない。椅子に座ってもらって、後ろから白髪を探した。視界には時折ママの赤いスリッパがチラチラと映る。髪をかき分けながら、わたしはママに話しかけた。
「ママ。最近思ってたんだけど、お化粧変えた? なんかちょっと違う」
別に化粧がおかしいわけじゃない。なにかな、なにとなく薄化粧になった感じ。
「ううん、別に変えてないわよ。いつも通り」
わたしはそれを特に気にしてはいなかったので、「そう」とだけ返事をした。発見した白髪を引き抜く。プチっという感触はやはり気持ちがいい。今度は2本あった。
なんだかママがおかしいと思うようになったのは、その後からだった。
わたしが学校から帰ってくると、ポストに新聞の朝刊が挟まったままだった。珍しく思い、それを引き抜き、家へ入る。新聞は主にママが見るので、ポストから取り出すのもママがやっている。わたしはスリッパを履いてキッチンに向かった。黒猫のイラストがついたかわいいやつだ。我が家はママの意向によりスリッパ族である。
「ママ、新聞取り忘れた? ポストに入ったままだったよ」
夕食の準備をしていたママが振り向いた。足元のスリッパはちょっとお上品で赤い。花の刺繍がしてある。
「あら……新聞。忘れてたわ。ごめんなさいね」
にこやかに笑うママはいつも通りだ。忘れるなんてことは誰にだってある。
「いいよ、別に。それより今日の晩ご飯なに?」
「今日はパパが好きな魚の唐揚げよ。アヤちゃんも制服着替えてらっしゃい。そろそろパパも帰ってくるわ」
「はーい」
食卓にはすでに3人分の配膳。ちなみにパパのは黒くて大きなスリッパだ。全然かわいくない。パパの帰宅を待って、一緒に食事をする。普段となんら変わらない日常。特におかしいところなんてない。そう思っていた。この時は気づかなかった。
次の日も、その次の日も。新聞は取られる事なく、わたしが帰るその時までポストに入っていた。何度ママに訴えても「忘れていた」と言うだけだ。違和感を覚えつつも、帰宅時の朝刊回収がわたしの仕事となった。
またママは白髪を発見したらしく、わたしに頼ってきた。髪の表面に白いものが3本、キラリとしている。わたしは1本をつまみ上げた。
髪。元々は頭部を保護する為のものだろう。頭皮から生えているそれは、よくよく考えると気持ちが悪い。頭と直接繋がっている。日々伸びる。生き物みたいに成長する。あり得ないけど、実は髪の毛にも脳みそみたいなものがあったら。頭はカモフラージュで髪の毛が本体だったら。髪の毛に記憶を溜め込んでいるとしたら。もしくは、脳と直結しているとしたら。あり得ないけど、あり得ないけど。
そう考えると、毛髪というものが急に気味悪くなってきた。
「白髪、抜くの良くないんだよ」
そういって、わたしはママから離れ、自分の部屋へ向かった。スリッパがパタパタと軽い音を立てていた。
パパの出張と、わたしの部活の合宿が重なった。夕方の新聞とりが日課になったわたしとしては、少し気になる。いつもは慌ただしいからスルーするけど、朝家を出る時点で朝刊は来ているのだ。その日は先に朝刊を取り、居間に置いておいた。そうした後でわたしは合宿に向け、荷物と共に家を出た。
ほんのり感じていた予感は的中した。3泊4日の合宿を終え帰途についた。が、家の前でついぎょっとしてしまった。
朝刊が3つポストに刺さっている。無理やり押し込まれている。
わたしはそれらを急いで抜き取り、家に入る。
「ただいま! ママ、ママ!」
大きな声で呼んだ。まさかと思うがママになにかあったのだろうか。ペタペタという足音と共に——いつもの、いたって普通のママが顔をだした。
「おかえりなさい、合宿どうだった?」
「 ! 」
久しぶりに顔を見てわかった。ママが最近薄化粧じゃないかと思ったわけ。……目元のメイクをしていない。控えめにひいていたアイラインが、ほんのり着けていたマスカラが、ない。
「……ママ。目元、お化粧しないの? 」
唐突にこんな質問をするわたしは変だろうか。
「目元……? いつもお化粧してたかしら」
おかしい、おかしい。ママはいつもメイクのポイントは目元だって言っていた。
「じゃあママ、新聞は? ポストにいっぱい刺さってたよ? 」
いよいよ変な事を聞いていると、自分でも分かっている。
「あら、新聞。……忘れてたわ。こんなにたくさん……? 」
忘れている。ママは目元をメイクする事を忘れ、新聞を取ることを忘れている。不意にわたしが抜いた、数本の白髪を思い出した。いや、あり得ない。だって髪を数本抜いただけじゃない。……だけど。なにか関係あるの? わたしは何本抜いた? もしかして。まだ忘れているものが、あったりするの?
ふとママの頭を見る。こないだ表面にキラッと存在していた3本はどうなった。遠目だからか、見当たらない。
「ママ。 前に抜いてってわたしに言ってた白髪。あれ、どうしたの?」
「なあに、急に。……あれならアヤちゃんがとってくれなかったから、昨日自分で抜いちゃったわ」
——そんな! わたしなにか取り返しのつかない事になってしまったと思った。なんだか怖い。背中にじっとり汗がにじむ。玄関の壁に掛けてある時計がチクタクと忙しく動いていた。白髪を抜いたからどうこうなるなんて、わたしの思い過ごしかもしれない。チクタク、チクタク。合宿で疲れてるのよ。あんまり眠れなかったし。チクタク、チクタク。そうだよ、なににも関係ないよ。チクタク、チクタク。
「そんな事より、早く着替えておいで。ご飯の準備、もうしてあるのよ」
靄がかった思考を捨て、「うん」と力なく返事をした。時計の針はもうすぐ18時を示す。スリッパに履き替え自室を目指した。キッチンの横を通り過ぎると食卓が目に入る。食器や常備菜などが既に用意されている。2人分だ。
……2人分?
振り返ってママに問う。わたしはきっと怖い顔をしているに違いない。心臓はいやに鼓動し、口が急速に水分を無くしていくのが分かる。
「ねえママ。パパは? パパも今日出張から帰って来るのよね。パパの分は用意しなくていいの?」
ふと、薄暗い部屋にたたずむママの立ち姿にちょっとした違和感を覚えた。なにか変だ。目元を化粧していなかった時と同じ。なにかが足りない。どこだ……そうだ、足元だ。……ママ、スリッパを履いていない。さっきペタペタ足音がしてたじゃない! お気に入りのはずの、あの赤いやつ。ゆるゆると視線を上に戻すと目があった。ねえママ、なんでそんな顔してるの……?
そこからはスローモーションのようだった。ママがゆっくりと口を開く。
「……え、……パパ?」
全身にゆっくりと、
怖気がめぐっていった。
チクタク、チクタク。