第三話「咲姫の過去」
風が私の体を透き抜けるように通り過ぎていく。
そんな風を私は肌で感じながらも、咲姫の放った言葉───その言葉を、頭の中で繰り返していた。
「染花さん、もう一度だけ言ってもらえるかしら?」
「……もうここは、私の家じゃない……」
「……聞き間違い、ではないのね…」
真希ちゃんはそう静かに呟くと、何かを察したように溜め息を吐いた。横にいる美里も、同様である。
「咲姫……」
「大丈夫……彩は、私の為に、私との約束を守る為に黙っていてくれたの……彩は、何も悪くない」
私の顔を見た咲姫はそう私に伝えて、「ありがとう……」と呟いた。咲姫は優しく微笑んではいるものの、どこか穏やかではなかった。
そんな咲姫の心情を、私は理解している。咲姫は不安なのだろう、真希ちゃんと美里に話してしまった内容、それらは全て本当なのだから。
「…彩、ある程度は理解できているわ、染花さんの重大そうな事情も、彩が庇おうとした理由も……何となくだけれどね」
「でもさ、なんで私達に声を掛けてくれないのかなぁ……どんな理由であってもそれが重大なら尚更私達に相談して欲しいに決まってるじゃんね」
真希ちゃんと美里はそう私に伝える、そんな二人の姿はとても真剣である。
「真希ちゃん、美里……ごめん!どうしても、咲姫の事を思うと話せなかったんだ……でも、分かったよ、今から話す!……私から話しても良い?咲姫…」
私は真希ちゃんと美里にそう伝えると、咲姫へとそう声を掛けた。
「……うん」
咲姫も真希ちゃんと美里の真剣な姿を目にして、ようやく頷いてくれた。信用してくれたみたいである。
「……とりあえず、二人とも一旦、私の家に来てくれる?」
真希ちゃんと美里にそう伝えると、二人とも即座に頷いてくれた。何らかの深い事情があると理解してくれたのか、すぐに私の家に向かって歩きだしてくれていた。
「……彩、ごめんなさい」
「咲姫は謝らなくて良いよ……とにかく、解決策をみんなで考えよう」
私は咲姫へそう返事を返すと、咲姫の手を握って歩き出す。
正直なところ、真希ちゃんと美里が協力してくれるのはとても心強いのだ。というのも、私一人の力ではどうしようもないのは理解できていたからである。
私自身の無力さというよりも、咲姫の話を聞いている限り、どう考えても解決できない、そう思ってしまったからである。
これは────咲姫のそんな悲しい話なのだから。
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「……誰にも言わないで……って、どういうこと?」
私は咲姫からの言葉に、おそるおそる返事を返した。
咲姫の雰囲気、口調、表情、それらの変化に気付いてしまった私は、不安感を抑える事はできなかった。もしかしたら、真希ちゃんや美里と一緒に行動した今日のこと、それについて何か不満があったのではないかと思ったからである。
誰にも口外してはいけないという約束。
その重さは、女の子なら誰もが経験するであろうとてつもないモノである。ある意味人生の経験値とも呼べるのかも知れない、つまりそれほど重いのである。
何より、私はなんというか、そういうのはあまり好きではないのだ。深い理由はないけれど、内容によってという意味である。
女の子のネットワークは凄まじい、情報共有と言えば聞こえは良いかも知れないけれど、自分か口に出した言葉は拡散されるつもりで話さなくてはいけないのだ、本当にプライバシーの欠片もない。
だから、私は基本的には真希ちゃんや美里以外にはあまり踏み込んだ話をしないのだ。逆に、クラスメイトと会話をしていても、相手から踏み込まれてもあまり乗らないようにしている。
それは、お互いの為でもあるだろうし、何だかんだで気持ちのいい話でもないからである。
話を戻すと、咲姫の雰囲気からはそういう深い話をする時の雰囲気に似たようなものを感じたから、私は聞き返さずにはいられなかったのである。
「そのままの通り……絶対に誰にも言わないで欲しい、ってこと……」
「…………そ、そうだよ、ね……」
咲姫からの返事に、私は戸惑いながらもそう言葉を返す。思っていた返答とは全く違ったけれど、ここまで聞いてしまったのだ、咲姫の話を聞いてあげたい。
……しかし、同時に何だかとても心配になってきたのである。
それは、咲姫が真希ちゃんや美里への不満を私にぶつけてくるのでは…という心配なんてものではなく、咲姫は何か別の事で相談があるのではないか、という事である。
それに、咲姫が手渡したこの巾着袋……、これも気になる。
布越しに触ってみた感覚だと……何か硬い石のような小さいものだと思うんだけれど…気になる。
私は色々と考えてみた結果、ある提案を咲姫に伝える事にした。それが最善だと思い至ったからである。
「ねぇ……咲姫はきっと困っているんだよね?これは、相談なんだよね、咲姫は助けを求めているんだよね…?なら、真希ちゃんと美里にだけは、話してあげたい……それに、真希ちゃんも美里も、咲姫と仲良くなりたいって思っているし、困っているなら、二人ともきっと助けてくれる……ダメかな?」
私がそう咲姫に伝えると、咲姫はすぐさま首を横に振った。
「…彩、これは、私と彩だけの秘密にしたいの……」
「で、でも……っ!」
「今の私には……彩しか信じられない、真希という人も、美里という人も、私にとってはただの他人……とても信用できない……何より、これは相談ではないの……私と彩の、秘密の話」
咲姫は私にそう細々と呟くと、自分の座っていたソファーから立ち上がって、そのまま向かい合っていた私のソファーへと移動すると、私の肩へと寄り添った。
咲姫の顔が私の顔へと近付いていく、咲姫の吐息が耳へと当たる度に、肩がピクリと反応してしまう。
「……今の私に、不安を与えないで欲しい……お願い、彩……」
耳元で囁く咲姫の言葉に、私はこれ以上自分の意見を口に出す事はできなかった。
事情は分からないけれど……今の咲姫は、何だかとても繊細で、ちょっとした力で壊れてしまうような……そんな不安感に襲われてしまう。
「……分かったよ咲姫、約束する。ここで聞いたこと、話したこと……絶対に誰にも言わない」
私はそう咲姫に伝えると、続けて咲姫に言った。
「だから……心配しなくて大丈夫だよ、私はいつでも咲姫の味方だし、咲姫が困っているなら助けてあげる……何があったのか、教えて?」
「……ありがとう、彩」
咲姫は安心したかのようにそう私に呟くと、私の肩に寄り添ったまま私へと口を開いた。
「……私のお父さんの家系は、代々宝石事業をしていたの…だから、私の家庭も裕福だった……でも……それはあくまで資産的な意味で……私自身は、全く裕福には感じていなかった」
「でも、咲姫のお父さんも家系の跡を継いで、宝石事業のお仕事をしていたんでしょ?」
咲姫の言葉に、私はそう質問をすると、咲姫はコクりと頷いた。
「でも……その頃はお父さん忙しかったから…お母さんも私にはあまり構ってはくれなかった……資産的には裕福でも、私は普通の家庭の裕福さを感じた事はなかった……私は、その裕福さを感じたかった……普通の家庭の、和やかな時間を過ごしたかった」
咲姫はそう静かに呟くと、寂しそうにソファーを見つめている。
咲姫の過去に、そんな悩みが埋まっていたとは思わなかった。
確かに、それを子供心で理解するのは難しいのだろう、両親の愛情を肌で感じる事ができた瞬間というのは、確かに両親と共に過ごした空間の中にあったと思う。
お母さんのエプロン姿、お父さんのスーツ姿、あの頃は何気なく見ていた両親の姿も、紛れもない私への愛情表現だったのだと思うと、何だか幸せな気持ちになる。
しかし、咲姫はそれを感じる事ができなかった。確かに、両親への寂しさというものは募るだろう。
「お父さんにとって……私は、年頃になったら何処かのお嫁として家を出ていく存在、お母さんにとっては……面倒な足枷が付いただけ……」
「そ、そんなこと……」
「ううん……両親にとって、私は大した存在じゃなかった。それは……幼い頃の私でも、理解していた……」
咲姫から出た思いがけない言葉に、私は言葉を失ってしまう。咲姫はそんな私を見ながらも、悲しそうに瞳を閉じている。
親と関係が上手くいかない、そんな話はよく耳にする。美里からはいつだって親の愚痴を聞いたりするし、私だって親と上手くいかない時なんてよくある。
しかし、咲姫と私達とではあまりに内容が異なる。何より、幼い頃から今日まで引きずって来たのだから、耐えてきたのだから、大変な思いをしたのも察しがつく。
「……だから、私は家に居たくなかった。学校から帰ってきたらすぐに外に出た……そんな時、私は彩に出会ったの……」
咲姫は私にそう静かに伝えると、ふっと微笑んで私に言った。
「あの頃の彩……何だか私みたいだった……何か見えない大切なものを手探りしているような……だから、声を掛ける事ができた…」
「……そうだったんだね」
確かに、あの頃の私も咲姫と同じだったのかも知れない。
孤独という理由───私は、そんなくだらない理由を一人で悩み続けていたものだ。
しかし、私はそんな悩みを解決する事はできた。それは誰でもない、咲姫のお蔭である。
咲姫の存在が、私の支えとなってくれたのだ、だから乗り越える事ができた。苦手だったコミュニケーション、いわゆる会話も克服する事ができたのだ。
しかし、咲姫はまだ悩みを解決できてはいない。私と同時期に抱えていた悩みを、咲姫は何年も抱えたままである。
あの時の恩を返す機会───しかし、それはとてもできない。
咲姫の悩み───両親との複雑な距離感、すれ違い、過ぎてしまった時間───そんな霧を払うような事など、私なんかができる事ではない。
できる事なら力になりたい、咲姫に恩返しがしたい。しかし、どうしても私には無理な事である。
「……彩、もしかして、何とかしてあげたい、なんて思ってたりしない?」
「えっ…!?」
咲姫は突然私にそう問い掛けた。まるで、私の心を見透かされたようなその言葉に、私は驚きを隠せない。
そんな私の姿を見ていた咲姫は、ふっと微笑んで私に言った。
「私は、彩に何とかしてもらいたくて話した訳じゃない……さっきも伝えたけど、これは相談ではないの……私の事、彩には知ってもらいたかっただけ…」
咲姫はそう私に言って、私の肩へと寄り添い続ける。
咲姫の一つ一つの言葉が、私には寂しく聞こえて、とても悲しい。それは、今の咲姫の姿を見れば誰だってそう感じてくれるはずである。
こんな弱々しい姿を見せられてしまえば────そう感じてしまうはずだ。
本当はこんな時、近くに居てほしいのが両親という存在だというのに……。
───両親、そういえば───。
「…そういえば、咲姫ってあの頃引っ越したよね?」
私はふと思い出した過去の出来事を、咲姫へと訊いてみた。咲姫の傷を抉るような事になるかも知れないけれど、それでも私は訊かずにはいられなかったのだ。
「……彩、あの頃のこと……覚えてる?」
すると、咲姫は何かを思い出したように、私へとそう聞き返した。
「もちろん、覚えてるよ。咲姫とのお別れになっちゃった日だし、何より、私が訊きたいのはその後の事なんだ」
「その後……?」
「そう、咲姫の話を聞いている限りだと……あまり、両親とうまくいってなかったんだよね?引っ越した後も、それは続いていたのかな……なんて、咲姫が話したくないのなら良いよ」
私がそう咲姫に伝えると、咲姫は首を横に振った。
「彩に話したくないことなんて、何も無い……」
咲姫はそう私に言って、そのまま話を続けた。
「……引っ越した理由、別にお父さんの仕事の都合とか、そんなのじゃないの……」
「何か……別の理由?」
「そう……お父さん、お母さんとあんまりうまくいってなかったみたい……夜はいつも口喧嘩ばかりだった」
咲姫はそう静かに呟くと、溜め息を吐いた。その時の両親の事を、思い出しているのかも知れない。
引っ越した理由、それは両親のすれ違い、という事なのだろうか。
「……とうとう、お母さんは家を出ていった。お父さんもお母さんと過ごした家に居たくなかったのか分からないけれど、早々に支度をしていたのを覚えてる」
「……そうなんだ」
「それに、私はこの家に来てからは両親とあまり一緒に過ごしてないから……引っ越す時も、お父さんも、お母さんも誰も居なかった…」
どうやら、そういう事らしい。
両親のすれ違い、それに咲姫が巻き込まれたのだろう。子供には到底理解できそうにない。
「咲姫……ごめん、嫌な事思い出させちゃって」
私は咲姫へとそう言って、頭を下げた。そんな私の様子を見た咲姫は私の頬へと手を伸ばす。
「気にしなくていい……彩には、私の全てを知ってもらいたい」
咲姫はそう私に言って、再び微笑んだ。
咲姫の微笑んだ表情は、何処か寂しげに見えてしまう。それは、私が咲姫の過去について聞いてしまったからなのか、それとも、本当にそう見えているのか分からない。
ただ、咲姫が悲しい思いをしたという事だけは分かる。
両親と仲良く過ごせなかった空白とも呼べる過去は、あまりにも残酷すぎる。それを咲姫が一人で背負ってきたというのなら、尚更である。
でも、咲姫の事をより深く知る事ができたのだ。
何より、咲姫は私に話してくれた、私との距離を縮めてくれた、咲姫の過去を変える事は出来なくても、これから私が咲姫と充実した学校生活を過ごしていけばいい、咲姫にとって大切な思い出を作っていけば良いのだ、もちろん、私だけでなく、真希ちゃんや美里も一緒にである。
それで良いのだろう、咲姫もきっとそれを願っているはずだ。
「咲姫、ありがとう。こんな話、なかなか話せる事じゃないと思うし、それを私に話してくれたこと、とても嬉しいよ!私、咲姫ともっと仲良くなりたいんだ、お互いに色んな事を知っていきたいし、それに真希ちゃんや美里とも仲良くしてほしい……すぐには無理かも知れないけど、咲姫ならきっと仲良くなれると思うんだ!」
私がそう咲姫に伝えると、咲姫は何か考えるような素振りを見せる、そして、私へと静かな声で返事を返した。
「……私、彩以外の人と仲良くできるか分からない……」
「そんな事ないよ、咲姫ならきっと仲良くできる!私に人との接し方を教えてくれたのは咲姫なんだから、私にできて咲姫にできないことはないよ」
私はそう咲姫へと伝えて、笑って見せる。
人との接し方を教えてくれた咲姫は、いわゆる私の師匠みたいなものである。咲姫なら、きっとできる。
「……彩がそこまで言うなら…分かった」
咲姫は私の言葉にそう返事を返すと、咲姫も少しだけ微笑んだ。
「ほ、本当!?良かったぁ…」
「でも、彩……まだ、私の話は終わってない……」
「あ……そうなんだ、咲姫の気持ちが楽になるまで、これまで溜まった分全部私にぶつけて良いよ!」
私は咲姫にそう返事を返して、胸に手を当てて大丈夫だと素振りでも伝えた。
ちらりと見た時計では既に18時を回っていたけれど、家に家族は居ないし、今日くらいは多少は遅くなっても大丈夫だろう。
「よーし、どんどんぶつけてきてよ!私が全部受け止めるから!」
「……彩、昔……私が彩と最後に会った日、その日に交わした約束……覚えてる?」
「へ……?」
咲姫は私の想像内とは異なった話題を、私に言った。
そしてそれは、きっとあの時のこと────咲姫がこの町を離れる前日の日の事を指していた。
「……約束、忘れちゃった…?」
咲姫はそう静かに私に訊くと、さっきとは比べ物にならないくらい真剣な様子で佇んでいる。
「え、えっと……約束、だよね…?確か……」
私は咲姫にそう返事を返しながらも、自分の記憶を探っていく。
しかし、どうしても曖昧にしか思い出せず、断片的な記憶の欠片が妙に合わないのだ。
幼い頃の記憶だといえ、このまま思い出せないのは咲姫に申し訳ない。それに、咲姫の雰囲気から察するに、それなりに重要な事なのだろうか。
「……彩、別に良い。たとえ彩が思い出せなくとも────忘れてしまっていたとしても、私が覚えてる、つまりこの約束は……まだ、交わされたまま……紡がれたまま」
私が何とか思い出そうと慌てていると、咲姫はそんな私の様子を見て、そう静かに呟いた。
咲姫の為に、何とか思い出したい……しかし、どうしても思い出す事が出来ない。咲姫に申し訳ない気持ちで一杯である。
「ご、ごめん咲姫……で、でも!思い出せないとしても、私は約束は守るよ!それがどんな約束だったとしても!」
せめて、その約束の内容だけでも守り抜こうと、私は咲姫にそう伝える。
幼い頃の約束だから、一体どんな約束を交わしていたのかは分からないけれど、きっと年相応なのだろう。
とはいえ、本当にどんな内容なのだろう。咲姫がこんなにも真剣に言うのだから、もしかしたら本当に重要な内容だったのかも知れない。
けれど、あの頃の私達はまだ小学生である。そんなあどけない私達が滅茶苦茶な内容の約束を交わす訳もないし、一緒に遊ぼうみたいな、そんな類いの内容なのだろう。
咲姫も、これをここまで引っ張ってから話すのだから、可愛いものである。確かに、先にこの話をするより、断然後の方がお互いの気分も良いだろう。
私がそう思っていると、咲姫は私の耳元まで寄って、小さな声で私に言った。
「……彩、あの時……私のお願い事聞いてくれるって……」
「お願い事?」
「そう……もし、私達が再会できたら、私のお願い事を聞いてくれるって……だから、私のお願い事、聞いてくれる……?」
咲姫はそう私に言うと、私の目を見ながら返事を待っている。
その姿は、あの頃の咲姫とまるで変わらない、少女のままに見えてしまう。
「うん、良いよ!私に二言はないっ!」
私は決心を固めて、そう咲姫へと返事を返した。
落ち込んでいる咲姫を元気付ける為なのだから、全然苦ではない。むしろ、やる気が出てくるものだ。
「……じゃあ、彩」
「うん!なに!?」
「私を……誘拐してくれる?」
「────え?今、なんて…?」
私は咲姫の言葉に、そう返事を返す。
それにしても、とんでもない聞き間違えをしてしまった、しっかり聞いておかないと。
私がそう思いながらも咲姫の返事を待っていると、咲姫はゆっくりと私の目を見て言った。
「誘拐────少し、言い方が悪いけど……じゃあ、私を連れ去ってくれる?」
「…………ご、ごめん、ちょっと待って…」
咲姫が再び言った言葉───訂正した言葉を、私は頭の中で何度も繰り返し復唱する。
誘拐、連れ去って……どういうことだろう。
咲姫は、私にどういうつもりで言っているのだろうか、咲姫の言葉が理解できていない。
「……彩、そろそろ時間……一刻を争うの」
私が悩み抜いていると、咲姫は時計を指差しながらも私にそう呟いた。
「い、一刻を争う……?」
「そう……早く、彩の手で私の手を引いて……連れ去って」
「え?え?さ、咲姫せめてせ───」
「早く外に連れていって」
「───あ…わ、分かった!」
私は咲姫のその言葉にそう返事を返して、そのまま咲姫の手を握る。そして、そのまま咲姫の言うとおりに咲姫の家を後にする。
全く意味が分からない、状況すら整理できていない、そんな中、私はひたすらに咲姫の手を引いて走り続ける。
───私を、連れ去って───。
咲姫の家の長い廊下を駆けていく中、私は咲姫が言った言葉を頭に過らせながらも、一つだけ確かに分かったこと、それについて考えていた。
……ただ、一つ確かなこと、それは───。
────咲姫は、まだ何か私に伝えたい事があるのではないか───という事である。