第一話「少女との再会」
甲高い音が聴こえる。
その音は、この時間帯になるとけたたましく鳴り響くようにセットされていて、そしてそうなるようにセットをしたのは誰でもない、私である。
私は重い瞼をゆっくり開き、その音の発生源──目覚まし時計へとのろのろと手を伸ばす。そのまま目覚まし時計のボタンを押すと、さっきまでの騒音がまるで嘘のように消えてしまった。
「んっ……!もう朝かぁ…」
私は体を伸ばしながらも、そう静かに呟いた。私はそのままベッドから下りて、外の光を閉ざしていたカーテンを開いた。
「うっ…!眩しい……」
眩しい日差し、その先にある爽やかな晴れ空、庭にある小さな桜の木からは花弁が風に乗ってひらひらと舞う、その桜の花弁の姿は、とても美しく幻想的に瞳に映る。
今年も、この季節、春がやってきた。毎年、桜が満開になるこの時期には、自分自身の意識も高まってくるのを感じる。それは、季節感という言葉、たった一言だけではとても言い表せないくらいのもので、とにかく、この時期は自分にとって、とても大切な季節なのである。
窓際越しに伝わる太陽の光を全身に伝え終えると、カーテンを勢いよく閉めて、私は朝の準備を始める。パジャマを脱ぎ、寝る前に準備しておいた制服へと袖を通していく。
私、中原 彩は、現在私立朝比奈女学園に通う、高校2年生の女子高生である。しかし、女子高生と言っても、日夜部活動に明け暮れている訳でもなく、オシャレや化粧等それら関連に過剰に敏感な訳でもない、いわゆる、普通の女子高校生である。
入学当初から、大人しい性格だと周りに言われてきたし、趣味も友達とショッピングくらいの趣味と言って良いのかも分からないレベル。周りの人はヘアースタイルを変えてみたり、習い事を始めてみたりと自分なりに学園生活に刺激を与えているみたいだけれど、私自身、周りと同じ事をしてみても、きっとそれらに夢中にはなれないと思う。
変化を求めているのに、自分自身から変化する事を避ける。私は、その典型である。
今の学園生活に変化を求めている事は確かな事なのだけれど、自分から変化していくのは、何だかとても気が引けるのだ。
自分から変化はしたくない、つまり、自分から変化する事が怖い、という事である。
自分の意思で変化をしてしまえば、何だかもう戻れないような、やり直しが出来ないような、そんな衝動に刈られてしまう。
そんな自分を変えられると思っていた高校生活、結局人は変わらない、いや、正確には変われない、という事なのだろう。
これらの説明で理解できたと思うけれど、私はだれよりも普通なのである。運動も得意ではなく、成績も良くも悪くもない、典型的な地味な子。
そんな地味な私に、また春からのスタートが巡ってきたのだ。今年こそは、そんな自分を変えられるきっかけを作りたいものである。
それに、今月から私は2年生になったのだから、先輩としての威厳というものを後輩に見せていかなければいけない立場である。気持ちを切り替えて、という意味でも頑張りたいものである。
「…あっ、そろそろ朝食を食べないと……」
私はベッドの側に置いてある目覚まし時計を見て時刻を確認すると、制服に続いてスカート、黒のソックス、生徒手帳、名札と準備を着々と進めていく。
それらを終えて全身鏡の前に立つと、髪型のチェック、制服のチェック等の全ての最終チェックを始める。今日からまた新たなスタートを切るのだから、身だしなみには十分に気を付けなくてはいけない。
「……うん、気になる所は見当たらない♪」
私は全身鏡の前に映っている自分にそう言うと、鞄を持って自分の部屋を飛び出した。そのまま階段を早々と下りると、リビングに入る。
「…あ、おはよう瑞季♪」
「おはよう…って、なんか朝からテンション高過ぎない?」
食卓の椅子に腰を掛け、私にそう返事を返してきたのは、私の妹である「中原 瑞季」。
まだ朝早いというのに、寝癖が見当たらない完璧なセミロングに、赤色の艶やかな髪の毛、華奢な顔や体を見ていると、姉妹贔屓ではないけれど、やっぱり可愛いなぁ、とついつい思ってしまう。
「ふふっ、そうかな~♪瑞季は今日も可愛いよ!羨ましい!」
「はぁ……とりあえず、座ったら?早く食べないと遅刻するよ?」
瑞季は呆れた様にそう私に言うと、テーブルに置かれた瑞季専用のマグカップを手に取った。
「うん、いただきま~す!」
私は瑞季に言われた通りに、自分の定位置である瑞季の隣の椅子に座ると、鞄を隣の椅子へと置いて、目玉焼きが乗った食パンにかぶりつく。
「ん~♪やっぱり、瑞季の朝ごはんは美味しい!」
「テンション高過ぎて疲れる……」
瑞季はマグカップから口を離してそう呟くと、疲れた表情で再び溜め息を吐いた。何だか、今日の瑞季はお疲れのようである。
私の妹、瑞季は幼い頃から病弱であり、小学校の頃に酷い喘息を患って以来、学校にも登校できていない。私と違って、幼い頃からとても苦労しているのである。
しかし、最近は喘息の症状も軽くなっていて、医者からも近い内に登校できると嬉しいお言葉も頂いている。本人も早く登校したいと言ってるくらいだし、嬉しい限りである。それに加えて、瑞季は通信教育を習っている。学校に登校できてはいないけれど、学校で習う範囲内であれば、既に瑞季は学習できてしまっているのだ。
元々、瑞季は勉強が好きで頭も良く、小学校に登校できていた頃までは、クラスで1番の成績だったのだ。そんな瑞季だから、通信教育でも学習するスピードは速く、たまに家庭訪問に来る学校の先生も、今から登校しても学業の遅れはない、と瑞季へと太鼓判を押すほどである。
しかし、だからこそ疲労が溜まってしまうのも無理はないのかも知れない。通信教育、自主勉強、読書、家のお手伝いと病弱な体に鞭を打ってここまで努力してくれているのだから、姉としても私は瑞季を労ってあげなくてはならない立場である。
「……瑞季、なんか今日はお疲れ?言ってくれれば、私が朝ごはんくらい作ったのに、瑞季は無理しなくても良いんだよ?」
私がそう瑞季に伝えると、瑞季はマグカップをテーブルに勢いよく置いて、私の方へと顔を向ける。無表情の瑞季の顔が、何やら不穏な空気を漂わせる。
「……別に、全く疲れてない、むしろ、お姉ちゃんが来てから疲れた」
瑞季はそう私に冷たく言い放つと、ぷいっとそっぽを向いて自分の食パンを口に運ぶ。瑞季が行う1つ1つの動作が、何やら機嫌の悪さを窺わせる。
瑞季の機嫌は常に変わる、ついさっきまでは機嫌が良かったのに、いきなり機嫌が悪くなったりするのだ。それでも、基本的には私が悪い?らしいので、私に矛先が向くのは仕方ない事なのだろう。
瑞季が入る予定だったお風呂に先に入ってしまったり、瑞季が先に読むはずだった本を先に読んでしまったり、瑞季の勉強を見る約束をしたのに疲れて眠ってしまったりと、思い出せば様々である。たまに、瑞季の勘違いって事もあるけれど、その時でも頭を下げるのは私である。…いや、私は瑞季のお姉ちゃんだから別に不満ではないけれど。
しかし、素直に謝って許される時なら、それはとても優しい日である。酷い時は、謝っても謝っても無視されるのだ、どれだけ話し掛けてもぷいっとそっぽを向かれる、姉として妹にそれをされると、それはそれは悲しいものなのだ、本当に泣きそうになるのだ。
妹を溺愛し過ぎると、こういう時に悲しみが倍増するものなのだ。
「……えっと、何か気に障る事をしちゃってたならごめん……」
「別に、何も気に障る事なんてされてないし」
「そ、そうだよね……良かったぁ…」
「まぁ、今のその態度は気に障ったけど」
「……ごめん」
……ほら、相当に機嫌が悪い、逃げようがない。
私はそう思いながらも、溜め息を吐きそうになるのを堪えてそのまま呑み込んだ。瑞季の機嫌が悪い時に溜め息を吐こうものなら、それは命知らずとも呼べる。
前にも、瑞季の目の前で私が溜め息を吐いてしまった時、それはそれは怒られたものである。怒られ、無視され、物を投げつけられ……本当に、それはそれは大変だったのである。
しかし、今回ばかりはよく分からない。瑞季の言っている通りなら、私に落ち度が無いのなら、何が原因なのかがまるで分からない。私に思い当たる事はないし、どうすれば良いのだろう……。
「……ねぇ、お姉ちゃん」
私が必死に悩んで首を傾げていると、隣にいた瑞季が私に話しかけた。先程の無表情とは違い、何かを決心したかの様な、そんな真剣な表情で私を見ている。
「ん?どうしたの?」
「……その、私さ、ちょっとしばらくの間、お母さんの実家に住む事にした、突然だけど」
「……え?ええ!?な、なんで急に……」
瑞季から伝えられたその発言に、驚きを隠せない。本当に突然過ぎる。
「も、もしかして、私と一緒に居るのが嫌だから……とか?」
「はぁ……そんな理由じゃないから、一緒に居るのが嫌だったら黙って出て行くし」
「そ、そうなんだ……」
瑞季のその返事に、私はひとまず安堵の溜め息を呑み込んだ。本当に良かった。
「……喘息、まだ完璧に治ってる訳じゃないし、学校に登校する為には完璧に治さないと……ほら、お母さんの実家なら田舎だし、空気もここよりは綺麗だろうし、通信教育は向こうでも続けられるし…」
「……そっか、ちゃんと真剣に考えてたんだね、瑞季は偉いね」
私は瑞季にそう返事を返すと、瑞季の頭を右手で撫でる。さらさらとした髪の毛の感覚が、いつもより心地よい。
いつもと様子が変だったのはそういう事だったらしい、ひとまず、瑞季の機嫌の悪さの理由は理解できた。……それにしても、何だか少し納得いかない所はあるけれど。
でも、瑞季の言う事も理解する事ができる。確かに、学校へと登校する為にも、喘息は早い間に治しておいた方が良いだろう、今後の事を考えてみても、それは明白である。しかし、田舎の空気は都会と比べて多少は綺麗かも知れないけれど、大幅な環境変化は、逆に体力を消耗してしまわないだろうか、不安なのはそこである。
人は、これまでの生活とはまるっきり違う事を始めてみても、すぐに適応できる訳がない。いくら瑞季でも、過度のストレスや、疲労が溜まってしまう事だろう。ただでさえ、道中だけでも何時間と掛かるのだから、病弱な瑞季が人混みに紛れてしまうのも心配である。
もちろん、瑞季の意見に反対な訳ではないけれど、姉として、お姉ちゃんとして、とても心配なのである。瑞季の苦労を間近で見てきているから、だからこそ、本当に心配なのである。
それに、何よりも気になるのが───。
「……そう言えば、いつから行くの?色々準備もあるだろうし、とにかく手伝える事があれば何でも手伝うよ」
───そう、いつからお母さんの実家に行くのか、という事である。
しばらくの間、というくらいなのだ、おそらく荷物も相当の量を持っていくのだろう。もちろん、その場所に移住する訳ではないのだから、余程の大荷物という訳ではないのかも知れないけれど。
しかし、瑞季はまだ病人である。なるべく疲労を溜まらせたくはないのだ、せめて、荷造りくらいは力になってあげたいのである。 私にできる事は限られてしまうから、その限られた事を、全力で手伝うのが姉として、お姉ちゃんとしての義務である。
「あぁ、それならもう大丈夫、準備はもう終わってるし」
しかし、そんな私の思いとは裏腹に、瑞季はそう私に返事を返した。私の限られた手伝える事が、早くも1つ消えてしまった、心底できた妹だと思う。
「そ、そうなんだ、早いね……それで、いつから行くの?」
「今日」
「…………え?」
瑞季のその返答に、私は思わず絶句してしまう。そんな私を見た瑞季はふいっと、目線を逸らす。
今日、瑞季は確かにそう返事を返した。予想していなかった日にちに、私は言葉を失ってしまう。しかし、それでも私は何とか気持ちを落ち着かせて、失ってしまった言葉を吐き出した。
「…きょ、今日!?なんでもっと早く伝えてくれなかったの!?ホントに突然過ぎるよ!」
瑞季からの返答に、私はそう大声で返事を返した。思えば、昨日はお母さんが旅行用のキャリーケースを準備していたのも、そういう事だったのだろう、察するべきだった。
と言うか……家族の誰からも事前に伝えられてない、というのは……ちょっと…。もしかして、私って家族に信頼されてない?いや、確かに頼りないって思われてるかも知れないけれど、本当に悲しいけれど。
「はぁ……それにしても、お母さんもお父さんも伝えてくれれば良いのに……家族みんなして水臭いなぁ…、そんなに私って頼りないのかなぁ……」
そんな事を思ってしまうと、つい思わず本音がポロリと出てしまう。
「ち、違うよお姉ちゃん、私が自分で伝えたいからって、黙ってて貰ってたんだよ……でも、なかなか言い出せなくて……ごめんなさい」
瑞季は私にそう伝えると、深々と頭を下げる。瑞季も瑞季なりに、思う所があったのだろう、中学生の女の子にとって、しばらくの間家を出ていくという行動自体、勇気がとてもいるのかも知れない。
それに、瑞季自身も、不安を感じているのだろう。あまり慣れない土地へとしばらく移るのだから、想像するだけでも、不安感が頭を駆け巡る。
だから、私も瑞季の気持ちを考えて、ここはあまり気にしない事にした。これ以上、瑞季に余計な不安やストレスを与えたくはないし、何より、瑞季は悪くないのだから。それにお母さんもお父さんもきっと、瑞季の事を思って黙っていたのだから、そんな両親を咎める事は出来ない。
「…別に瑞季は悪くないよ、だから気にしないで。ただ、瑞季にしばらく会えないのが寂しいなぁ…って思っただけだから」
「……っ!!べ、別に私はお姉ちゃんに会えなくても寂しくないし!全く!ミジンコにも!」
「えっ……それは傷付くなぁ…」
瑞季からのその言葉に、私は心を痛めながらも呟いた。実際、本当に傷付いたけど。と言うか、ミジンコにも、って。
「……で、でも、ちょっと、本当にちょっとだけ、お姉ちゃんが心配だってのはあるけど……」
そんな傷付いた私をチラチラ見ていた瑞季は、さっきの言葉をフォローするかのように、私にそう言った。
「心配?別に私に心配事なんてないよ?唯一、心配なのは瑞季にしばらく会えなくなることだよ!」
私はそう瑞季に返事を返すと、腰に手を当てて胸を張った。これから家を出る妹の前で、格好悪い姿は見せられない。せめてもの格好付けが、私にできる限られた事である。
「~~っだから私は寂しくないし!……でも、まぁ、それなら良いんだけど……お姉ちゃん怖がりだし、これからしばらくの間、家に1人だけでも大丈夫なの?」
「……え?1人だけって、お母さん帰ってこないの?」
瑞季からの予想していなかった言葉に、私は一瞬で余裕を失ってしまった。先程までの胸を張った姿とは一転し、不安で押し潰されそうな胸を右手で押さえてしまっている。そんな私の様子を見た瑞季は、心底呆れた様に溜め息を吐きながらも私に言った。
「はぁ……当たり前でしょ、私だけ置いて帰る訳ないじゃん」
「ま、まぁ……確かに、そうだよね……」
瑞季からの最もな言葉に、私はコクりと頷いた。確かに、娘を実家に置いて自分だけ我が家に帰るとなると……いや、本当に悪い親に聞こえるけれど。
私の家の家族構成は、私、お父さん、お母さん、瑞季の4人家族である。お父さんは昨日から出張で、1ヶ月くらいは家に帰ってこれないし、お母さんと瑞季も、お母さんの実家に行ってしまうとなれば、必然的に私は1人になる。
私は子供の頃から、常々1人で家に居る時程、怖いものはないと思っている。誰かが訪問してくるのにも警戒しなくてはいけないし、1人で部屋に居る時の静けさで空気が張り詰めるあの雰囲気、それが何よりも嫌いで、怖いのである。
高校生にもなって、さすがにそれはと思わなくもないけれど、むしろ、高校生になったからこそ、不審者や幽霊に気を付けなければいけないと思うのだ。実際、そういう被害に遭った事はないし、ただの過剰な意識って事は理解しているのだけど……やはり、怖いものは怖いのである。
何事も、出来事や事件が起きる前に行動しなければ、対策しなければ、起きた後ではもう後の祭りである。そういう事に関して言えば、私は誰よりも用心深いとは思っている。……まぁ、幽霊に関して言えば、防犯上とか、それ以前の問題ではあると思うけれど。
「……と、とりあえず大丈夫!私も高校2年生だし、不審者ならまだしも、幽霊が怖いなんてそんな事はあり得ないから!い、いざとなったら真希ちゃんに泊まりに来てもらうから!」
私は瑞季にそう伝えると、大丈夫のVサイン、ピースサインを見せる。それを見た瑞季は溜め息を吐きながらも、私に言った。
「はぁ…お姉ちゃん、真希さんに迷惑掛け過ぎだから。いつも何か困った事があると真希さんに頼ってばかりだし……」
「うっ……!そ、それは……」
「この前も、提出しなくちゃいけない用紙を無くして、真希さんに貰ってたし」
「そ、それは真希ちゃんが予備でもう1枚持ってるって聞いたから……」
と言うか、本当は私は無くしてないんだけれど……。
無くしたのは私じゃなくて、私のクラスメイトのお調子者が無くしたから、仕方なく私の分を渡したんだけれど……まぁ、こればかりは口にしたところで言い訳に聞こえそうだし、言わない方が良さそうだ。
「その前も、家の鍵を無くしたから探すの手伝って貰ってたし、結局、自分の鞄の中に入ってたし」
「……それは、はい」
灯台もと暗し、って本当にあるんだなぁ。
まさか、無意識に鞄の中に入れているとは思わなかった。多分、入れたのを自分が覚えていなかっただけだと思うけれど。
「つい最近で言えば、下着も借りたとか……」
「も、もうやめて!分かったから!というか、何で知ってるの!?私、話したっけ!?そんな事まで話したっけ!?」
あの日は、登校中に水溜まりに滑って転んで、保健室にも下着が無いって言ってたから、たまたま予備で持ってた真希ちゃんに1日だけ借りたんだっけ……。と言うか、弁明できないくらい言われちゃったなぁ……今思うと、私は確かに真希ちゃんに迷惑掛け過ぎなんじゃ……。
「まぁ、そういう事なんだから、少しは誰の力にも頼らないで、頑張ってよね」
「うう……分かってるよぉ…」
瑞季からのその言葉に、私はたじろいながらも、視界に入ったリビングの時計をチラリと見る。
「…あ、そろそろ学校行かなきゃ!話の途中だけどごめん瑞季、じゃあ行ってくるね」
私は瑞季にそう言葉を掛けると、椅子から立ち上がった。色々と衝撃的な話が多かったから、つい時間を忘れて話し込んでしまった。
私がドタバタと仕度を済ませている中、瑞季は途端に寂しそうに俯きながらも。
「……うん、行ってらっしゃい、お姉ちゃん」
そう私に返事を返すと、寂しさを滲み出す様に私へと手を振った。やはり、瑞季も瑞季なりに寂しいのだろう、無論、私も同じ気持ちである。今日を最後に、瑞季とはしばらくの間、会えなくなるのだから、寂しくない訳がない。
「瑞季も、行ってらっしゃい。早めに帰って来てね」
「………うん」
「…じゃあ、改めて行ってきます!」
私はそんな寂しさを抑えて瑞季にそう元気よく伝えると、鞄を持ってそのままリビングを後にした。早々と玄関へと向かい、そのまま靴をさっさと履いた。
「……お姉ちゃん!」
私がドアノブへと手を伸ばしたその瞬間、瑞季の声が玄関へと響いた。私が振り向くと、瑞季がリビングから玄関へと顔を出していた。瞳に少しだけ涙を滲ませながらも、私に小さな声で呟いた。
「……電話、してくれれば…話せるから」
瑞季はそれだけ私に伝えると、そのままリビングへと戻って行ってしまった。そんな瑞季の姿を見ていると、まだまだ子供なんだなぁ、としみじみ思ってしまう。
「電話するよーっ!」
私はリビングへとそう叫ぶと、ドアノブを開いて外へと飛び出し、鍵を掛けるとそのまま家を後にする。いつもより家を出るのが遅かった分、少しだけ早めに歩かなくてはいけない。
1人で登校する時は、これくらいの時間帯でのんびり歩くのも良いのだけれど、基本的にそんな寂しい登校なんて日は無く、学校へと向かう前に待ち合わせ場所へと先に向かうのだ。つまり、私1人の遅刻でみんなが遅刻してしまう場合もあるので、家を出る時間には気を付けなくてはいけない。
まぁ、本当に時間に追われている場合には、全員が集合できなくても学校に行く事にしているのだけれど。ただ、後から待ち合わせ場所に着いた時に誰もいないあの寂しさと悲しさは、もう嫌なのだ。それに、そういう事態に陥った場合、待っているのは遅刻、それを言い訳する為の大義名分を考える事になってしまう。
私は通学路を駆け足で走り、待ち合わせ場所へと向かう。いつもと変わらない通学路、いつもと変わらない風景を見ていると、本当に学年が上がったのか実感が湧かない。それは、高校生に限らずとも、学生である間はそういうものなのだろう。何かと意識が高い人であれば、そうでもないのかも知れない。
例えるなら、日頃から学業に熱心な人、将来の夢の為に努力している人、他には……とにかく、何か夢中になれる事を見付けている人、だろうか。
そんな人達は、1日の時間を、大切に、有効に、効率よく過ごしている。普通の人とは時間の考え方が違うから、だからこそ、たとえ同じ風景を見続けようと、実感というものは感じているのだと思う、過ごしてきた時間、そして得た経験値、というものを肌で感じているのだろう。
そう考えてみると、私のような人間は、あっという間だったなぁ、という感想しか出てこないのだから、残念なのだけれど。
何かと目標を立てたり、将来の夢を見付けたり、夢中になれるものが見付かれば、私も少しは変われるのかも知れないけれど、こんな変わらない風景に対して、少しは違う何かを感じる事ができるのかも知れないけれど。
そんな事を思いながら、私は通学路を駆けていく。路地を抜けて、そのまま大通りへと入ると、大きな交差点が視界に入る。
私はいつもの待ち合わせ場所である交差点の信号前へと走ると、人混みの中、1人で佇んでいる黒髪の少女に、私は手を振った。それに気付いた黒髪の少女は、私へと手を振り返す。
「彩!遅いじゃない、随分と待ったけど」
黒髪の少女は、私に向かってそう言うと、私の方へとゆっくりと歩き出す。黒く艶やかなストレートの髪の毛に、ピンク色の瞳を輝かせ、スカートのベルトの位置には紐の様なもので固定された木刀が、異様な存在感を醸し出している。
この黒髪の少女の名前は、桐宮 真希ちゃんである。
私とは小学校の頃からのお友達であり、大親友である。何でも話せる間柄で、私自身、真希ちゃんの事が大好きである。それに、真希ちゃんは中学生の頃、剣道部の主将で、全国大会で優勝した事もあるという、私とは正反対の運動が得意な女の子である。
ただ、高校生になってからはもう剣道部には所属しておらず、風紀委員となって生徒の風紀をより良くしてくれる真面目な女の子なのである。なぜ、真希ちゃんが剣道をやめたのかは分からないけれど、私は大して気にしてはいない。それによって、私と真希ちゃんの友情が無くなる訳でもないし、そんな大したことではないと思っている、むしろ、真希ちゃんと一緒に居られる時間が多少は増えたので、少しだけ嬉しく思ってしまっている自分がいるのも事実である。
昔から、真希ちゃんは私の事をよく助けてくれるとても心強い存在で、周りからは「彩ちゃんのお母さんみたい」とか「彩ちゃんの正義の味方」なんて言われていた時期もあったくらいである。とは言え、高校生になってからはそんな事を言われる事は無くなってしまったのを、少しだけ寂しく思う時もあるのだ。真希ちゃんも風紀委員で忙しいし、私とクラスが違うというのも原因なのだろう。まぁ、大体がみんな高校生になったし、そんな子供みたいな事を言わなくなった、というのが本当の理由なのだろうけれど。
真希ちゃんとは毎朝ここで待ち合わせして、学校に一緒に登校している。真希ちゃんが風紀委員の仕事で朝早く登校しなくてはいけない時や、お互いが日直の場合は、そのまま1人で登校するのである。
「ごめん!今朝は色々とあって……」
私は真希ちゃんにそう返事を返すと、両手を合わせて頭を下げる。
「……まぁ、今は良いわ。とりあえず、早く学校へ向かいましょ」
真希ちゃんはそう私に言うと、そのまま交差点を渡る。今は、って事は後から怒られるのかな…と思いはしたけど、口にはしない。
真希ちゃんは怒ると怖い、私の知る限りでは、1番怒らせてはいけない人物であるとも言えるのだ。それは瑞季の比ではないくらいに。
極限にまで怒らせてしまった時は、普通に木刀を振り回してくる。さすがに元剣道部主将だけあって、その剣さばきは伊達ではない。無論、木刀をそんな使い方しないで欲しいって思わなかった時は1度も無いのだけれど。
随分前に、私が教室の中で椅子に躓いて、咄嗟に真希ちゃんのスカートを掴んで下ろしてしまった事があった。わざとではなく、本当に不可抗力だったのだけれど、その時の真希ちゃんには何も聞こえていない様だった。
木刀が私の目前の空中を切り、そして私の悲鳴を切り裂き───怪我をしなかったのは奇跡だったけれど、それ以来、真希ちゃんを怒らせてはいけない、と肝に命じている。まぁ、スカートを下ろされれば誰であっても怒るのは当たり前だけれど……。
「…何?彩、さっきから変な事考えてるでしょ?」
「な、何も考えてないよ!?」
真希ちゃんからの突然の言葉に、私は肩をビクリと震わせる。そんな私の動揺を見た真希ちゃんは、歩くのを止めて、私へと近付いてそのまま私の顔をジッと覗き込んだ。
「……ま、真希ちゃん?」
あまりにも近い距離で顔を見られていると思うと、何だか少し照れくさい。
私がそんな事を思いながらも、真希ちゃんから視線を外していると、真希ちゃんは私から少しだけ離れて言った。
「……その表情は、私の昔の事を思い出してる顔?」
「っっ!?ち、違うよ!?は、早く学校行かなきゃ!」
私はそう真希ちゃんに返事をすると、真希ちゃんをどうにか振り切って再び歩き出す。本当に、真希ちゃんには敵わない、なんで分かったんだろう?
真希ちゃんは、まだ何か言いたげにこちらを見ていたけれど、不満そうにこちらを見ながらも再び歩き出した。
他愛もない話をしながらしばらく真希ちゃんと通学路を歩いていると、真希ちゃんが突然、「あっ」と何かを思い出したように口を開いた。
「そう言えば、今日は転校生が来る日よね」
「え?…て、転校生!?ど、どんな子!?」
真希ちゃんからのその言葉に、私は驚きを隠せない。というのも、全く知らなかったからである。
「それは……分からないわ、私も、風紀委員の仕事中に耳に入った話だし……」
「なるほどね、でも、なんか楽しみだよね!」
私がそう真希ちゃんに言うと、真希ちゃんはふっと微笑んで私に言った。
「ええ、そうね」
「どんな子なのかな~♪仲良くなれたら良いな~♪」
私はそう口ずさみながらも、真希ちゃんと通学路を歩いていく。転校生の話題に花を咲かせていた中、そういえば、と私は真希ちゃんに言葉を掛ける。
「そういえば、今日は美里って来てなかった?」
「私が着いた時にはいたけど、でも岡田さん今日は日直だって、先に向かったわ」
「そうなんだ、今頃美里ったら、めんどくさそうに日直の仕事をやってそうだなぁ」
「それ、岡田さんの目の前で言ったら、どうなるのかしら?」
「え、真希ちゃん言わないよね?」
私はそう真希ちゃんへと返事を返すと、お互いに顔を合わせて笑った。
今回は真希ちゃんと2人きりでの登校となっているけれど、実際は3人が本当の人数である。この場にいない人の名前を言っておくと、岡田 美里である。
今日はたまたま日直だったけれど、基本的には3人で登校している。まぁ、美里に関して言えば、部活動があるので一緒に登校できない時も多いけれど。
「はぁ~……それにしても、今朝は疲れたなぁ…」
「どうしたの?集合時間に遅れた大義名分を今更ながら話して置いて、私に納得させようと思っているの?」
「いや、そんな事は本当に思っていないけど……と言うか、やっぱりちょっと怒ってる?」
「別に怒ってないわ、ただ人を待たせて置きながらごめんの一言だけで、しかも朝から疲れた、なんて言葉を聞いてしまえば、良い気持ちはしないのが普通でしょ?」
「怒ってるじゃん……」
真希ちゃんからのその言葉に、私はそう呟いて溜め息を吐いた。
それも、とんでもない勘違いと言葉の捉え方をされてしまっている。
「冗談よ、少し彩をからかってみようと思っただけ……」
「本当に?もう怒ってない?」
「怒ってないわ、彩が遅刻でもしない限り」
「やっぱり怒ってる……」
真希ちゃんのこういうところ、本当に気難しい。
「それより、今朝に何かあったの?彩が私に呟いたくらいなのだから、きっと大変な出来事が起きたのでしょ?相談には乗ってあげるわ」
「う、うん……」
真希ちゃんのその言葉に、私はたじろいながらも頷いた。
何となく呟いただけだったけれど、まさかそこまで深刻に受け取られていたとは思っていなかった。
でも、個人的には深刻である事には変わりはないのだけれど。
「実は、今朝瑞季からとんでもない事を言われて……」
「とんでもない事?瑞季ちゃんが?」
「それが、何でもお母さんの実家にしばらくの間、住むらしくて」
「瑞季ちゃんが彩のお母さんの実家に?……どうして急に?」
「ほら、瑞季も今年で3年生だし、喘息を完全に治したいらしくて……」
私がそう真希ちゃんに伝えると、真希ちゃんは首を傾げた。
「でも、少し前に彩が瑞季ちゃんの喘息は良くなってるって、嬉しそうに言ってなかったかしら?」
「うん、良くなってる事は事実なんだけれど……」
しかし、行かないで、とは言えなかったのである。
瑞季が自分で考えて行動した事に、私がとやかく言う必要は無い、と思ったからである。
「……そういうことね」
真希ちゃんは私からのその相談を聞くと、やれやれと言わんばかりに溜め息を吐いた。そして、私へとゆっくりと口を開いて言った。
「瑞季ちゃんが自分で決めた事なのだから、必要以上に彩が何かと気にかける必要は無いんじゃないかしら?」
「そ、それは分かってるけど……」
「彩は心配性なのよ、姉として瑞季ちゃんを大切に思う事は良いことだけど、瑞季ちゃんはもう1人で物事を考えて行動できるわ、それは彩が1番よく知っているはずでしょ?」
「……うん、もちろん」
それは断言できる。私は、誰よりも、お母さんよりも、お父さんよりも、瑞季の事をよく知っているつもりである。
それは、かけがえのない妹だから、私の大切な妹だから、瑞季がどれだけ苦労してきたかも知っているし、どれだけ努力してきたかも知っている。何より、長い時間瑞季の隣にいたのは私なのだから、それは当然の事である。
「なら、もう大丈夫よ。彩が瑞季ちゃんの1番の理解者である事は変わらないのだから、もし、向こうで何か困った事があれば、きっと1人で塞ぎ込まずに彩に連絡してくれるわよ」
真希ちゃんはそう私へと伝えると、それを最後に話を終わりにして、歩く足を速めた。その一方で、私は歩く足を止めて、真希ちゃんの姿を後ろから眺めていた。
そして、私は今朝瑞季から言われた、あの言葉を思い出していた。
───「お姉ちゃん、真希さんに迷惑掛け過ぎだから。いつも何か困った事があると真希さんに頼ってばかりだし……」───。
その通りだった。
私が瑞季の1番の理解者であると同じように、瑞季も、私の1番の理解者だったのだ。お互いに、理解しあっていたのだ、私達は姉妹なのだ、誰よりも近い距離で話してきた仲なのだ、当然の事である。
「……彩、どうしたの?急がないと遅刻するわよ」
立ち止まっていた私に、真希ちゃんはそう声をかける。
「……真希ちゃん、本当にありがとう」
そして私は、真希ちゃんにそう返事を返す。
「別に、彩に感謝されるような事は何もしてないわ……ほら、置いていくわよ?」
真希ちゃんはわざとらしくそう私に言って、小さく微笑んだ。
「真希ちゃん、相変わらず素直じゃないなぁ…」
私はそう小さく呟きながらも、駆け足で真希ちゃんを追いかける。
1番の理解者の存在を気付かせてくれた親友に、私は心から感謝しながら。
そして、大切な親友にいつも助けられている、という事を教えてくれた妹に感謝しながら。
私は、学校までの道のりを歩くのだった。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
現在、時刻は8時を過ぎた。
ガヤガヤと騒がしい教室の中、私は自分の席に腰を掛けて、目の前の茶髪の少女と今朝、真希ちゃんから聞いた転校生の話を伝えていた。
「……それ、どこ情報よ?」
「どこって、真希ちゃんからの情報だよ?」
「あぁ~……あの冷血非道の桐宮さん情報かぁ~」
「一体、真希ちゃんにどんなイメージ持ってるの!?それ、真希ちゃんが聞いたら本当に怒るよ!?」
「冗談だって、……ふああぁぁっ…」
私の言葉を軽く受け流しながらも、眠そうに目を擦っているこの茶髪の少女の名前は、岡田 美里。
癖っ毛のある茶色の髪の毛に、オレンジ色の瞳で私を映し、ショートヘアーが可愛らしく決まっているこの少女は、なんと陸上部の絶対的エース、バリバリの運動っ娘である。
美里とは、高校1年生の頃に同じクラスから出会い、妙にウマがあって以来、今となっては親友と呼び合える仲になったのである。私の数少ない友達の中でも、美里は付き合いがとても良いので、教室では一緒に居る事が多く、私の悩み事もすんなり聞いてくれる、真希ちゃんと同じく、とっても頼れる女の子なのである。
ちなみに今は、今朝真希ちゃんから聞いた転校生の話を美里に内緒で話していたところである。
「……それで、どう思う?」
「そりゃ~桐宮さんの情報だからねぇ……本当なんじゃないの?」
「だよねだよねぇ~!どんな子かな~♪趣味が合うと良いなぁ~♪」
「いや、彩の趣味ってただのショッピングくらいじゃん、普通の女の子はそれを趣味とは呼ばないよ」
美里はそう私に言うと、やれやれと言わんばかりに手を振った。
「う、うるさいなっ!私はショッピングを趣味と呼んでるの!それに、一概にショッピングと呼んでも、買うものは様々だし!」
「服とか帽子とか靴くらいでしょ?様々とは言っても、身に付けるものだけだしねぇ……」
美里はそう私に言うと、やれやれと言わんばかりに溜め息を吐いた。どうやら美里は、私の趣味に呆れ果てているみたいである。
「むぅ……そういう美里は、楽しみじゃないの?」
「そうだねぇ……私に匹敵するくらいの最速スプリンター!…とかだったら興味あるなぁ」
「うわ、美里それはちょっと口に出さない方が良かったと思う……」
「あー確かに、そんな人物はいないかぁ~♪にっしっし♪」
私が美里の放った言葉にそう呟くと、美里はそう笑って返す。美里はお気楽過ぎて、多分真希ちゃんとは性格的に合わないだろう。
言われてみれば、真希ちゃんと美里が二人きりになるところは見たことがない。どんな会話をするのか、また今度二人きりにしてみようかな。
「それにしても……」
「ん?なに?」
私は美里の呟いた言葉に反応すると、美里は頬杖をつきながらも私に言った。
「いや、風紀委員は何でも知ってるなぁ……と思って」
「……確かに、そうだね」
美里のその言葉に、私は首を縦に振った。確かに、言われてみればそうなのだ。
普通は、転校生が来る、という情報は生徒には流れないのだ。普通は、転校生が来た、と情報が流れるのだ。つまり、転校生が来る事前にその情報を生徒が知っている、というのはあり得ない事なのだ。
しかし、そのあり得ない事を風紀委員は知っている、それはつまり、それだけの階級に風紀委員がある、という事になる。少し言い過ぎかも知れないけれど、要は先生との信頼関係が厚いという訳である。
まぁ、だからと言って学校の裏で何かあるとかそういう訳ではなく、風紀委員は私達生徒の中でも、そういう耳寄りな情報を知っている、ということただそれだけの事である。
「…あ、チャイム鳴った」
私がそんな事を思っていると、朝のホームルームの始まりを告げるチャイムが鳴り響いた。それと同時に、教室のドアが勢いよく開く。
「はいはい、お前ら席に着け~」
「あれ~?夢原先生、今日は随分と早いじゃん、何か良いことでもあったの?彼氏でもできた?」
「アホか、さっさと席に着け」
「てかチャイムと同時に入ってくるって事は、扉の前でスタンバってたの?」
「んなことするか、たまたまだ、いいから席に着け美里」
美里のお調子者発言を軽くあしらうこの先生の名前は、夢原 百合先生。ボーイッシュなショートの髪型に、銀髪の髪の毛が目立つ私のクラスの担任教師である。
強気な態度で私達を引っ張ってくれる良い先生ではあるけれど、意外といい加減な時もあり、他の先生いわく、やたらと強気な問題教師らしい。また、この事を本人に話すと鬼の如く怒られる、美里が経験者である。
それでも、先生として私達の事を温かく見守ってくれている、個人的には、結構好きな先生である。まぁ、名前に似つかわしくない性格である事は気になるのだけれど…。
「え~、早速出席確認を取りたい所だが……今日は、みんなに良い知らせがあってな。始業式を終えて一週間程度しか経っていないが、こんな事もあるんだな」
夢原先生は私達にそう言うと、にやりと笑みを浮かべている。どうやら、転校生の話は本当らしい。
「あーどうせ転校生でしょ?もう知ってるからそんなもったいぶらな───」
「みっ、美里!?それは……」
「……あ」
美里はそう小さく呟くと、私の方へと顔を向ける。
美里のしまった、と言わんばかりの表情に私は若干の怒りを覚えてしまう。これだから、美里にはあまり、内緒話はできないのだ……まぁ、話してしまっているけれど。
「……ほぅ、何故知っているのか教えてもらおうか?美里……?」
夢原先生の鋭い眼差しが、美里へと光る。教室内の雰囲気が一斉に重くなり、クラスの全員が美里を見つめる。
こうなってしまったら、もう味方なんていない、このクラスの生徒は、誰も夢原先生に逆らえないのだ。それは、誰もが夢原先生を慕っているから……というのもあるけれど、怒った時の怖さも知っているからである。
それにしても、美里はどう切り抜けてくれるかな、なるべくフォローを心掛けよう。
「あ、あぁいや……わ、私も別に知らなかった、けど…………あ、あぁ!そうそう!彩から、彩から聞きましたぁ!」
「っ!?」
美里からの思いもよらない丸投げに、私は強い衝撃を受ける。土壇場での裏切りである。
私は美里の方へとジトリと視線を送る、しかし、美里は私の方へと顔を向けることなく、そっぽを向いたままである。
「………美里、後で知らないからね」
「…ホントにごめん」
私がぼそりと美里へと呟くと、美里はそっぽを向いたままそう返事を返した。夢原先生相手だと、謝って済む問題じゃないのに……。
「…彩、なんで知っている?転校生については、生徒はもちろん、一部の先生もまだ知らないはずなんだぞ?」
「は、はい……」
「私だって、今朝思い出したくらいなんだから」
「いや、それは覚えておきましょうよ…」
まぁ、そういう所が夢原先生らしいのだけれど。
「……ふむ」
「……あ、あの…」
「まぁ、良いさ。転校生が来る当日なら、別に何も問題はない」
夢原先生はそう私に言うと、「だから気にしなくていい」と続けて私にそう言った。それを聞いた私は内心、安堵しながらも大きな溜め息を吐いた。もしかしたら……なんて思っていたから、本当に助かったとしか言えない。
「まぁ、彩にはこれから色々と御世話して貰わないといけないしな」
「……はい?」
夢原先生は私にそう謎の言葉を残すと、教室の扉に向かって、「入って来て良いぞ」と声を掛ける。その声に続いて、ガラリと扉が開き、中から黄色の髪の少女が教卓の前へと立った。
「じゃあ、早速自己紹介だが……できるか?」
夢原先生が黄色の髪の少女にそう聞くと、黄色の髪の少女はコクりと頷いた。そして、白いチョークを手に取ると、黒板に「染花 咲姫」と書いて、再び私達の方へと向き直る。
「染花 咲姫……。よろしくお願いします……」
黄色の髪の少女はそう自己紹介をすると、ゆっくりと頭を下げる。それを見た美里はすぐに拍手で返事を返す、それに続いて、クラスのみんなも拍手で返事を返し、それに反応して黄色の髪の少女は頭を上げる。
「よし、それじゃこれから仲良くしてやってくれ、言うまでもない事だが、いじめとかやめてくれよ、担任である私の責任になるんだから」
夢原先生がそう私達に言うと、クラスのみんなの笑い声が教室内に響く。夢原先生なりに、クラスに馴染みやすいように気を遣ってくれたのだろう。実際、その台詞の内容自体は教師としてそれは……、なんて思ってしまうのだけれど。
「それじゃあ、空いてる席に行ってくれ、彩の隣だ、色々御世話してやってくれよ、彩」
「は、はい!」
夢原先生からのその言葉に、私は大きな声で返事を返した。御世話して貰わないと、とはそういう事だったみたいである。そういえば、私の隣の席はずっと空いていたけれど、転校生の場所だったみたいである。
黄色の髪の少女が私の隣の席へと座ると、私はひとまず、最初の挨拶を交わす事にした。何よりも大事なのは、ファーストコンタクト、つまり、第一印象なのだから。
「私、中原 彩って言うんだ、これからよろしくね、染花さん」
私はそう染花さんに挨拶すると、染花さんからの返事を笑顔で待つ。これ以上も、以下もない挨拶だけれど、それくらいが丁度良いものだろう。
「…………」
「…………ん?」
「…………」
「……あの、染花さん?どうかした?」
あれ?何だろう、この反応。まるで微動だにしない、返事も返してくれない。
もしかして、私の自己紹介が聞こえなかったのかな?それとも、緊張で返事が返せないとか?
返ってこない返事に私が不安を覚えていると、染花さんが私の方へと向き直って小さな声で呟いた。
「……彩」
「え?」
「……彩、私の事を忘れたの?…小学生の頃、いつも一緒に遊んだ仲なのに」
「……え?え?」
染花さんからの突然の言葉に、私の頭に沢山の「?」が浮かぶ。前の席にいた美里も、何事かとこちらを見て呆然としている。
「私は覚えていたのに……彩は、忘れてたんだ、引っ越す前にしたあの時の約束も、嘘だったんだ」
「ひ、引っ越す前…?あの時の約束…?」
色々と事態が理解できていない、一旦落ち着いて処理しなければ……。
そういえば、咲姫って名前、何処かで聞いた事があるような……。それに、小学生の頃……となると、色々と人物が限られて来るし…。
私はそう思い至ると、自分の思考をフル回転させる。咲姫という名前、小学生の頃の友達、引っ越す前の約束……それらのワードを次々と埋め込んでいく。
「……えっ」
そして、私はある少女の存在を思い出す事が出来たのだ。
「えっ…ええ!?う、嘘でしょ!?」
「そう……やっぱり、嘘だったんだ……」
「いや、そっちの意味じゃなくて!!それより……今の話、本当?」
私はそう染花さんに再確認すると、染花さんはコクりと頷いた。私の心臓の鼓動が、一際高く鳴った。
黄色の髪の毛、ショートボブの髪型、静かな口調……。思えば、共通点が多い。唯一変わっているところは、黄色の髪を分けているヘアピンただ1つだけである。
しかし……しかし、冷静に考えてみても、それはあり得ない事なのだ。
だって、その少女は私が小学生の頃に引っ越してしまったのだから、まさか、そんな都合よく私の通う高校へと転校してきて、同じクラスになんてこと、あり得るはずがないのである。
でも、それでも、もしかしたら……。
私は決心を固めると、染花さんの方へと向き直って、その少女の名前を口にした。
「……もしかして、咲姫?」
私がそう染花さんに聞くと、染花さんは再びコクりと頷く。それを見た私は、あまりの衝撃に再び大きな声で叫んでしまう。
「……ほ、本当に!?ひ、久し振り!!また会えて嬉しいよ咲──痛っ!?」
すると、私の言葉を遮るかの様に、教卓の方から黒板消しが私の顔へと飛んできた。まだ使われていない方だったので大惨事には至らなかったけど、不意打ちの痛さがまだ頭に残っている。
「彩!!転校生と仲良くなるのは構わんが、私の仕事を邪魔するな!次、邪魔したら今度はこっちだからな」
夢原先生は私にそう注意すると、チョークの白い粉が付着しているもう1つの方の黒板消しを私へと向ける。
「は、はい……気を付けます」
私はそう夢原先生に返事を返すと、飛んできた黒板消しを机の隅に置いた。普通、黒板消しじゃなくてチョークが飛んでくるものなんだろうけれど、現実はこうなのだ。とはいえ、普通は黒板消しも飛んで来ないのだろうけれど。
とりあえず、朝のホームルームが終わるまではと私は咲姫へと小さな声で言った。
「また後で話そうね、咲姫と話したいこと、沢山あるんだ」
私がそう咲姫に伝えると、咲姫もこちらを見てにこりと笑って、「私も…」と返事を返してくれた。
そんな私と咲姫のやり取りを見ていた美里は未だに呆然としていたけど、それには構わずに、私は友達との再会を心から喜びながらも、朝のホームルームに望むのだった。