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*プロローグ1

 遠のいてゆく光をぼんやりと見つめながら、清水洋しみず ようは水底へと沈みつつあった。



 ――恥の多い人生を送ってきました。



 人生の最期と言う時、ふと洋の頭をよぎったのはそんな言葉だった。

 かの大作家は何を思って沈んでいったのであろうか。


 まだ死にたくないと必死に酸素を求めて藻掻いていたのも少し前のこと。

 沈んでいく時には不思議と心は落ち着いていた。

 大学の卒業旅行、旅先のイタリア・カプリ島にある海食洞の底で、洋の命は尽きようとしていた。

 ひとえにそれは、彼の不注意であった。



 観光中、ふらりと集団を離れたところで、三人の現地人と思わしき男達に声をかけられた。

 男達は日本人の洋でもカタコトだと分かる文法無視、ジェスチャーまかせの魂の英会話ソウルイングリッシュを使い、「青の洞窟」に行きたくはないかとフレンドリーで、愛嬌たっぷりの笑顔を携えて提案してきた。


 「青の洞窟」とはカプリ島でも有名な観光名所である。

 海岸に波が打ち付けてできた海食洞であり、入江から手漕ぎのボートを使って洞窟に入る。

 洞窟内は海面に反射した光が洞窟全体をほんのりと青く照らし、その光景がなんとも神秘的で美しい。

 そんな情報は事前の調べやパンフレットの情報で知っていたが、まさか波がちょっぴり高いだけで入洞許可が下りないとは露ほども考えていなかった。


 話を聞くと、どうやら彼らは、少し値が張るが非正規に洞窟へと案内してくれる現地商売の人であるらしい。

 洋はこれを好機と思い、友人達を呼びに行こうとしたが、非正規であるため大勢では向かえないと慌てて止められ、一人で彼らの車にほいほいと乗り込んだのだった。

 いくら初めての海外旅行とはいえ、もう少し危機感を持つべきであった。


 サスペンスドラマのクライマックスシーンもかくやと思わしき島の断崖絶壁へと連れて行かれた洋は、彼らにカタコトの英語で金銭を要求された。

 ドラマであれば、主人公の刑事や探偵が犯人を追い詰めて自白させるお馴染みのシーンが繰り広げられているはずだが、追い詰められていたのは洋の方であった。

 先程までのフレンドリーな外国人というべき陽気な雰囲気はどこへやら、彼らは一瞬にして修羅の形相になった。役者ばりの大した切り替えの早さである。


 戸惑っている洋に、彼らは何やら強い口調で罵詈雑言のようなものを浴びせ、要求に応じない洋の断固とした勇敢な姿勢を見るや、羽交締めにしてリュックをひったくろうとした。


 海外旅行で強盗に襲われたら抵抗するべきではないということは、旅行ブックや外務省のホームページにも書いてあるほどの常識である。

 何より命あっての物種である。とっさのこととはいえ、そんな常識も彼は忘れていたのだ。



 抵抗した洋の後頭部にガツンという一撃が襲った。

 一瞬視界が真っ白に光る。



 視界がぼやけ、四肢に力の入らなくなった洋は、それでもなんとか逃れようと死にものぐるいでふらふらの足を動かした。

 しかし、向かうべき方向が悪かった。彼は崖の斜面を転がり、海面へと落ちた。



 落ちた地点は、かの有名な「青の洞窟」の付近であった。

 カプリ島には似たような海食洞がいくつも存在している。彼は波に打ち付けられるようにして、その中の一つへと流された。

 そこが「青の洞窟」と呼ばれる場所であったかどうかは判然としなかったが、彼が感覚のほとんど無くなった手足で、水面をバシャバシャと足掻きながら見た光景は残酷なほどに静かで、冷たく美しい青の光景だった。



 全身に鈍い痛みを感じる。

 とりわけ後頭部はマヒしていて痛みはほとんど感じなかったが、頭蓋骨の中に石を詰められたかのように重い。

 いったいどんな凶器で殴られたのだろうか。


 沈みながら、洋は犯人の事について考えようとした。

 だが、今更怨んだところでどうしようもなく、もはや打つ手は無い。

 犯人のことはすぐに頭から切り離し「仕方ない、人生なんてこんなもんさ」という言葉で、すんなり生きることを諦めた。

 彼の諦め癖もここにきて悟りの境地に達していた。


 洋は達観しつつも残り少ない人生に思考を巡らせた。

 すると、頭の中を過ぎったのは、両親の顔だった。

 そして、何故か彼の浪人が決まったときに母が口にした言葉が思い出された。



「因果応報という言葉にもあるように、自由奔放に生きていると、必ずどこかで帳尻を合わせなければならない時が来るの。恨みを買うようなことをすれば必ず痛い目に合うし、勉学を怠れば必ず浪人もするし、留年だってする。当面の状況から目を背けていても、いつかはその見るに耐えない現実を直視しなければならない日がやってくるのよ。だから、しっかりと先を見据えて堅実に生きなさい」



 洋がこの母の言葉を完全に理解し、世の真理として肝に銘じるようになったのは大学に合格しそれから少したってのことである。

 それまでは、あいも変わらず洋は自由気ままに生きていた。

 浪人もすれば、留年までした怠け者である。

 決して親孝行者ではないと、自分でも重々感じていた。


 しかし、殺されるほどの恨みを買った覚えもなければ、怠けに怠けた結果、その帳尻合わせに殺されたというのも納得がいかない。

 それでも、たとえ納得がいかなくとも世の中は理不尽というもので溢れている。

 因果とは全く関係なく、偶発的にやってくる不幸というのもまたあるのだ。


 どうしようもできないことに歯を食いしばって、涙を流して、時には叫んだりして。

 そうやって時間が解決してくれるのをじっと耐えるしかない。


 これも、洋が得た真理の一つであり、人生というものを振り返ってみると、自分の人生とはこの二つの理の繰り返しだったような気がした。

 やり場のない激しい後悔の感情が心の内を暴れまわる度に心が衰弱するのか、それとも鍛えられると言うべきか、彼はしだいに何事をも達観して諦めるようになった。


 両親にはさんざん迷惑をかけた上、親孝行もできずに、死ぬことでまた迷惑をかけてしまうのが殊更申し訳ないとも思った。



 そして、何より気がかりなのが、ノートパソコンの存在であった。

 彼はハードディスクの大半の容量を占めている猥褻な収集品達が死後に発見されることをひどく恐れた。

 こんなことなら、もしものことがあった時のハードディスクの処分を、誰か友人に頼んでおくべきだった。


 こうして、あれこれと振り返って思うと、死に際というのは予想していた通り後悔ばかりが浮ぶ。

 病院のベッドでゆっくりと死を待つ老人もきっと同じ気持ちなのだろう。

 人生のダイジェストを振り返って「我が生涯に一片の悔いなし」なんて人はきっといない。

 人生の様々なターニングポイントで叶わなかった夢を見るのだ。



 あの時、ああしていれば。



 ならば、生きるとはごうである。初めから誰とも出会わなければ良い、何も感じなければ良い。

 一瞬、言い表しようのない悔しさに歯を食いしばったが、それが洋にできた最後の抵抗だった。

 脳内を巡る酸素が足りず思考が鈍くなっているのを感じていた。


 途切れ途切れになる意識の中、洋が最後に思ったのは親友と、そして愛する女性の二人と交わした小さな約束だった。

 相手も忘れているような、これといってたいした約束ではなかったけれど、彼には忘れることのできない大切な約束だった。



あらすじまでの導入があまりにも長くなったのでプロローグを1と2で分けることにしました。

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