其の21 ゴールで待っている -04
「大島さん、退院おめでとう」
「……あ。ありがとう、ございます」
翌日――。
学校に来ると、笑顔でクラスメートの数人が入れ替わりで話し掛けて来る。
「とても心配しましたわ。もう大丈夫なんですの?」
「……ええ、早く学校に来たくて……。もう少しお休みする予定だったんですけど……」
「偉いですわね。お休み中の授業のノート、よろしければお貸ししますけど?」
「ありがとう、ございます。……では、またのちほど……」
優樹もぎこちないながら笑顔でぺこりと挨拶をする。
「大島さん」
別のクラスメートがやって来て「はいこれ」と笑顔で紙袋を差し出された。優樹がそれを見て首を傾げると、彼女はにっこりと笑う。
「退院祝いです。受け取ってください」
「あっ……、そ、そんなっ……気を遣わなくてもっ……」
「このくらい当たり前です。ご学友ですもの」
優樹は戸惑いながらも「……ありがとうございます……」とそれを受け取った。
「今日の昼食会、ご一緒しません?」
「……。ええ、そうですね。……いいですよ。一緒に……参ります」
「良かった。それじゃ、みなさんにもお声を掛けておきますから。気楽になさってね」
とても嬉しそうな笑顔で歩いていく。
前と変わらぬクラスメートたちに、優樹はゆっくりと息を吐きだし、机に置かれる数々の“退院祝い”を見つめた――。
教師には「のんびりと授業を受けさせてください」と聖菜から連絡が行っている。その為に、授業中、優樹が指名されることもなく、空気のようで、けれど気を遣って、優樹の元に足を運んで細かく丁寧に教えてくれた。そして休み時間になると、クラスメートが次の授業はこんなことをやるのだと教えてくれた。ほとんどの授業は、借りたノートを自分のノートに書き写す作業だけ。至れり尽くせりだ。
そして……昼休み。
クラスメートに連れられて、食堂へ――。食堂とは言っても学食のような場所ではない。周りには花が植えられ、天井と窓がすべてガラスになった開放感溢れる憩いの場所だ。白い丸テーブルに、それぞれが静かに話しをしながら昼食を進めている。
優樹が誘われた“グループ”も、丸テーブルを中央に数人が笑顔で優樹を迎えてくれた。まだあまり食事の進まない彼女を心配しつつ、「この食事が消化にはいい」「こうしたら胃の調子が良くなる」など笑顔で教えてくれる。
「病院では退屈だったんじゃありません?」
食後の紅茶を頂きながら質問され、優樹は苦笑した。
「いいえ。……とても楽しいところでしたから」
「どちらの病院でしたの?」
「……、反町病院です」
「ああ、あの大きな病院。腕のいいお医者様がいらっしゃると聞いたことがありますわ」
「……はい。先生方も看護婦さんもとても親切で、……いい人たちばかりです」
「では、何かあったら私もご厄介になりましょう」
「知り合いの方からのご紹介でしたの?」
「あ、いいえ。……友人の親御さんが院長をされているものですから」
「まぁ、そうですの?」
「すごいですわ。そのような方とお知り合いだなんて」
「……。別に……すごくないです」
「けれど、いいですわよね。病気になられても安心でしょう?」
「……まぁ……、はぁ……」
「あ、大島さん、青称学園からいらしたんですものね。それじゃ、とても有名な資産家のご子息やご令嬢の方々とも顔見知りだったんじゃありません?」
「……どうでしょう。あまり、気にしたことはなかったですから……」
「大島さんも親御様が事業に成功なさってますものね。とてもご立派ですわ」
「……。いいえ……そんな……」
「そうだわ。今度是非、我が家の立食パーティーにいらっしゃって。私の両親にもお会いになってもらいたいわ」
「私のところにもおいでくださいな。これからも仲良くしましょうね」
笑顔で楽しく話しを続ける彼女たちを見て、優樹は「……はい」と微笑み頷いた。なんとなく、「胃が気持ち悪いな……」と感じながら――。
「ホントに来るんだろうな?」
「ああ。来るって言ってた」
「まだかなー……」
学園の校門前――。
まだまだ陽は高いが、放課後になったこの午後の時間、生徒たちが帰宅していくその中、みんなで優樹を待っている。その間、奉仕屋の団体に生徒たちが「何か事件か!?」と彼らをチラチラ窺って通り過ぎる。
生美は少し息を吐いて肩の力を抜くと、腕を組んで携帯電話の着信を確認する反町に目を向けた。
「……それで。今日、ちゃんと話しをするって言ったのね?」
「うん。……学校で何かがあるんだろうな……」
「やっぱりいじめられてるのかなー?」
白川が組み合わせて両手を後頭部に回して口を尖らすと、洋一は呆れ気味に鼻から息を吐いた。
「クラスメートたちは優しいって言ってたのは嘘か……」
「女子校って、陰険なところがあるからねぇ」
と、華音が嫌そうにフルフルと首を振る。
「でも、お嬢様校だろ? そういういじめってあるのかな?」
相川が訝しげに隣の勝則に訊くと、
「高飛車そうな人は大勢いそう」
と、勝則はため息混じりに肩を竦めた。
「ここよりもか?」
「ここはまだマシだと思う。……一部を除いては」
ぽつりと呟いた最後の言葉に、「……そうね」と、生美が呆れ気味に納得する。
それぞれ、腕時計を確認しながら優樹を待つ中、お呼ばれされた鈴菜は不安げに反町を窺った。
「……優樹先輩、部室に連れて行っても大丈夫なんでしょうか……?」
「様子を見ながら部室に近寄ろうと思う。……まず、ここから学園の方に進めるか、……そこからだな」
「……そうですね……。ショックなことがあったまま、ここから離れてますからね……」
「オレらが一緒だから、きっと大丈夫だ」
洋一は笑顔で俯く鈴菜を振り返るが、すぐにどんよりと表情を曇らせて項垂れた。
「……それよりも、オレはあいつの態度が変わっちまう方が怖い……」
「今日一日じゃ変わらんやろ」
大介が訝しげに眉を寄せるが、洋一は項垂れたままでフルフルと首を振った。
「半日もいりゃあ洗脳は可能だ……。はあ……、また、ご機嫌いかが、とか言われたら……、オレ、あいつ拉致って二、三日引き籠もってやる」
「してどーすんだよ」と、立花は呆れて目を細め、
「……、殴るぞ」と、反町は睨み付ける。
生美は「何馬鹿なコト言ってンの」と呆れながら、遠く、車が行き来する道路の向こうを見つめた。
「……遅いわね。……ケイタイしてみようか」
待ちくたびれて、肩に掛けていた鞄の中から携帯電話を取り出すと、一台の黒い車が少し離れた場所の路肩に止まり、みんなはそちらに目を向けた。しばらくして運転手が降りてきて後部座席のドアを開けると、細い足が現れ、そこから軽くカールしたロングヘアの少女が出てきた。みんなが「……優樹じゃなかったのか」とため息混じりに目を逸らす中、洋一は「ああ、違う違うっ」と慌てて彼らを見回す。
「優樹のヤツ、あっちのガッコでウィッグ付けてンだ」
そう教えられてみんなは「……へ?」と目を見開き、改めて車の方に目を向けた。
優樹が後部座席から鞄と大きな紙袋を手に抱え持って背を伸ばすと、運転手はドアを閉め、一礼してから車に乗り込んで車を走らせた。優樹はそれを見送り、帰宅の生徒たちにジロジロと見られながらも校門前のみんなを見つけると、「……あ」と、申し訳なさそうな笑顔で近寄ってきた。
「遅くなってしまってごめんなさい……。少し、お話しが長引いてしまって……、おいとますることができなくて……」
「……おい。言葉がちょっとヘン」
洋一が腰に手を置いてムスっと不愉快げに口を尖らせると、優樹はキョトンと彼を見上げ、「……そ、そぉ?」と首を傾げつつ、みんなを見回した。
――洋一以外のみんなは、じっと彼女のことを見つめている。
優樹は戸惑い、目を泳がせながら一歩、後退して首を縮めた。
「……な、……なに……? ……どうか、した……?」
不安げに小さく問い掛けると、華音が「いやーんっ!!」と、切ない笑顔で優樹の前に出て顔を覗き込んだ。
「優樹かーわいーっ!!」
今にも飛びかかってきそうな彼女に、優樹は息を詰まらせ数歩、更に後退する。
生美は「へえー」と笑みを溢した。
「いいわね、それ。似合ってるわよ、髪」
「……、そ、そう?」
少し恥ずかしそうに目線を髪の毛の方に向けると、「うんうん!」と相川が強く頷いた。
「さすが優樹先輩! 何してもいいです!! オッケーです!!」
「なにがだ?」と、白川は顔をしかめる。
勝則は苦笑すると、まだ恥ずかしそうに目を泳がせている優樹に笑い掛けた。
「誰だかわかりませんでした。ビックリしました」
「髪型ひとつで変わるもんやねんなあ」
大介が不思議そうに眉を寄せて腕を組むと、一平も「せやな」と微笑み頷く。
「よぉ見たら優樹やねんけどな。一瞬わからんなるな」
みんなにジロジロと見られ、優樹は困惑していたが、ふと、動かした目が反町を捉え、しばらく彼と見つめ合った。
反町はじっと優樹を見ていたが、間を置いて笑みを溢した。
「……優樹は優樹だよ。……どんな姿でもかわいいから」
「おい、こいつ、なんかパワーアップしてないか?」
と、立花が不愉快げに目を据わらせ反町に顎をしゃくると、「うんうん」と洋一と白川が真顔で強く頷く。
顔を真っ赤にして俯き、モジモジと鞄と紙袋の紐を捻らせる優樹に生美は苦笑気味に近寄った。
「体、大丈夫だった? しんどくならなかった?」
顔を覗き込まれ、優樹は「……あ、……うん……」と少し曖昧に返事をして俯く。
「……なんとか……持ち堪えた、かな……」
「持ち堪えた、って……」
生美は繰り返し、呆れてため息を吐く。
「我慢してたんじゃないの?」
「……、が、我慢と言うほどのことではないかと……」
「おい。また言葉が変」
洋一にじっとりとした目で突っ込まれ、優樹は訝しげに眉を寄せて首を傾げた。本人は至って普通のつもりなのだろう。
反町は優樹に近寄ると、笑顔で切り出した。
「……部室、行こうか?」
誘われた優樹は顔を上げ、少しためらって俯き目を泳がせる。少し腰が引けて、そこから足を踏み出そうとしない。その様子を察してみんなが笑顔を向けた。
「どうした? 綺麗になったんだぞ、部室」
「優樹にも見てもらわなぁな」
「そうそう」
「見に行きましょ、先輩っ!」
「みんなで一緒に、な」
「はい。そうです」
優樹はそれでもためらいうろたえる。反町は足を踏み出せないで戸惑うそんな優樹の背後に回り、背中に寄り添って両肩に手を乗せ、耳元に顔を近付けた。
「……大丈夫。……オレたちがいるから」
「……」
「……オレたち、みんなが傍にいるから」
そのまま軽く背中を押すと、優樹は戸惑いながらも、少しずつ足を進めた。みんなも同じように、ペースを合わせて足を踏み出す。
周りの帰宅途中の生徒たちが「……あれ?」と、不思議そうな視線を向ける中、その目と向き合うことなく一歩ずつ確実に踏み出し、優樹は誰とも会話をすることなく、誰とも目を合わすことなく俯き、踏み出す爪先を見つめた。――彼女がここからいなくなる時は、荒れ放題に荒れていた。それが、見上げた先は嘘のように綺麗になっている。何事もなかったかのように……。
「あれっ? ……大島さんじゃない!?」
大きな声がして、タタっ……と誰かが駆け寄ってきた。
「大島さーんっ! 久し振りー!」
――元クラスメートの女子だ。
みんなが足を止めると、彼女は嬉しそうな笑顔で優樹の前に立ち止まり顔を覗き込んだ。
「誰かと思ったー! 元気にしてた!? 突然いなくなったからビックリしたよー!」
驚きと寂しさと、けれど再会を喜ぶ笑顔に、優樹は「……うん」と、戸惑う笑みを溢した。
「髪の毛ウィッグっ? かわいいね! 今どこに行ってるの!? ……あっ、ひょっとして戻って来るの!?」
目を見開いて問い掛けるクラスメートに、立花はため息混じりに「おい」と一歩前に出た。
「うるせぇな。あっち行ってろよ」
「立花君っ、大島さん来るんだったら教えてくれてもいいじゃないっ! みんなだって会いたかったと思うよ!?」
「ちょっと来ただけだ」
「もーっ!」
女子は無愛想な立花を睨み、笑顔で優樹に目を戻した。
「また遊びにおいでよ! ね!? みんなにも言っておくから!」
「……。うん……」
「元気そうで良かった! ……じゃーねっ」
「……うん、……ありがとう」
女子は笑顔で手を振り歩いていく。優樹はその後ろ姿を見送って校舎の方へと目を移した。――みんながチラチラとこちらを見て、その視線が痛い程。「……あ。あの子……」「あれ? 制服が違う」「奉仕屋の子だったよね?」とボソボソと話し声も聞こえる。
不思議そうな視線、ワクワク顔の視線、なにやら……恨みのこもった視線。様々な視線とすれ違う。
反町に背中を押され、再び足を進めながら、優樹は持っている紙袋の紐をギュ……と強く握った。体に力を入ったのを感じた反町は、ゆっくり歩きながら再び顔を耳に近付けた。
「……気にするな。……オレたちがいる。……一人じゃないんだ」
「……」
「優樹はオレたちの仲間なんだから。それは変わらないんだから」
反町の言葉を聞きながら、優樹は少し間を置いて小さく頷いた。
校庭を横切り、礼拝堂に近付くと、優樹はその建物を見上げて足を止めた。みんなもそれに合わせて足を止め、優樹はじっと建物を見つめると軽く反町を振り返った。
「……ちょっと……、寄っても、いい?」
「うん、いいよ」
反町が頷くと、優樹はここに来て初めて自らの足で歩き出した。ゆっくりとした歩幅で礼拝堂の入り口まで歩み寄り、重い扉を押し開けて中に入るが、奥までは進まず、途中で足を止めて左右に並ぶ長椅子に腰掛けると、足下に荷物を置いて両手を組み合わせ、ずっと奥にある十字を見つめて目を閉じた。その様子を、みんなはただ背後から見つめる――。
数秒して優樹はそっと目を開けて一息吐き、紙袋を持ちながら立ち上がると、ドアの側で待っているみんなに近寄って小さく微笑んだ。
「……ありがとう。……ごめんね……」
「いいよ」
反町は軽く首を振り、「……さ、行こうか」と再び優樹の背中を押す。
礼拝堂を出て建物の横を歩いていると、次第に部室の列が見えてきた。礼拝堂の影で見えない奉仕屋の部室の影も――。
「すぅーっごく綺麗だよ」
華音が優樹の横に並び笑い掛ける。
「優樹に見てもらうまでは、汚さないでいたからねぇ」
「一ヶ月も経たないうちに汚すってのも技術がいるだろうけどな」
立花が肩を竦めると、少し生美が笑った。
「汚しそうな面々が揃ってるじゃない。今までよく保ったわよ」
「それもそうだな」
優樹は反町に押されながら、少し戸惑い気味に視線を上げた。その先に、確かに真っ白な壁の綺麗な部室が見える。彼女が今まで見てきた物とは全く別の物だ。
「……さ、ここが新しい奉仕屋の部室」
反町が足を止めて優樹の背中から手を離す。
優樹は立ち止まった目の前、ぼんやりと部室を見上げた。
「……。……綺麗……」
「だから言ったろー? 汚さないようにしたってー」
白川が胸を張って笑うと、優樹は「……うん……」と小さく頷き見回し、「……ん?」と首を傾げた。
「……。この部室、……まだ……」
「そう。ちゃんと礼拝堂とつなげてるんだ」
気が付いた反町が笑顔で答える。
「最初はつながってなかったんだけど、あとでお願いしてつなげてもらったんだよ」
以前と同じように、礼拝堂の裏部屋とくっついている――。
優樹は「……そう、なんだ……」と呟いて部室を見上げた。
「……前より頑丈そう……」
「前のがボロかったんだ」
洋一が腕を組んで苦笑する。
「今じゃこの部室が一番新しいし、進化してるな」
「……。進化?」
「まず、鍵が二つ」
反町はそう答えてズボンのポケットから鍵を取りだした。
「これは特別扱いなんだけどさ、一応、事件が関係する時もあるから。学園長の計らいで。だから、鍵はオレと椎名先生と学園長が、それぞれ持ってる」
反町は言いながら部室の鍵を開けて、ドアを開けた。
「どうぞ」
「……」
開け放たれたそこに、優樹はそっと顔を覗かせ、その場でぐるりと見回してから中に入った。
――真新しい匂いがする。壁も天井も床も、汚れひとつない。きちんと整理された棚に、まだまだ綺麗なテーブルや椅子。全てが新品同様だ。
「……すごく綺麗にしてるね……」
「帰る時はみんなでちゃんと掃除してるから」
「ゴミ一つ逃しません」
「どこかの清掃会社みたいなセリフやな」
みんなで笑いながら、優樹の後に部室に入る。優樹は物珍しそうに室内を見回した。
「……今までのイメージが全然ない。……ホントに、どこかのオフィスみたい……」
「これだけ綺麗だと、やり甲斐も出て来るってモンだよな」
「あんたからは全然やり甲斐を感じられなかったけど?」
「……そ、それはこれからってコトで」
優樹は洋一と生美の様子を見て少し笑うと、再び部室を見回した。
「……こんなに綺麗に出来てるなんて……思いもしなかった……。……なんだか、もったいないくらい……」
優樹は部室を見回していたが、鞄類をテーブルに置くみんなを見て微笑んだ。
「すごくがんばってるっていうのがわかる。……ご苦労様」
「何言うとんねん。おまえもはよぉ戻ってこんかぃ」
大介にため息混じりに睨まれ、優樹は苦笑した。
「……あ、ジュース、用意しましょうか?」
鈴菜が鞄を置いて、部室の隅にある保冷庫からペットボトルのジュースを取り出し、華音も「手伝うねー」と、コップ類を用意し出す。
反町は片隅で立っている優樹に「ほら」と椅子を引いた。優樹が「……うん」と勧められたそこに腰を下ろすとすかさず相川がその隣座るが、ふと視線を下ろしたその先に優樹の足が見えて「……」と視線が止まる。今までロングスカートがほとんどだっただけに、少し丈が短くなるとつい視線が向いてしまう。
「……あ、エッチな目」
対面していた生美がすかさず笑いながら突っ込むと、相川は顔を赤くして視線を逸らし、優樹は「え?」と相川と生美を交互に見る。反町は何かに気付いたのか、ム……として上着を脱ぎ、膝に掛けた。優樹はキョトンとし、隣で相川が小さく「チ……」と舌を打つ。
それぞれが空いている椅子に座り、反町も優樹の隣に腰を下ろす。華音と鈴菜がジュースを入れてそれをみんなの前に並べ、優樹は「すみません……」と頭を下げるが、洋一に睨まれ、「……あ、じゃなくてありがとう」と言葉を訂正した。
「なんだよ? 洗脳されまくりか?」
「……そんなつもりはないけど……」
嫌みっぽく目を細める、そんな洋一に優樹は少し拗ねて俯いた。
「クラスのみんなも、……とにかく、周りがとても丁寧な言葉遣いだし、お話ししていると、どうしても移ってしまうの」
「……。だから、その言葉遣いはやめろって」
「……。お、おかしくなってる?」
「おかしいっ」
「ご、ごめんなさい……」
ムスッと頬を膨らまされ、深々と頭を下げる。
生美はテーブルに肘をついて苦笑した。
「みんなお嬢様ばっかり?」
「……うん……、だと思う。……多分、そう」
「気は合いそう?」
「……うー、ん……。まだ、よくわかんないけど……。どう、だろう、ね……」
戸惑うような笑みを浮かべて俯く、そんな横顔を見て、反町をジュースを一口飲み、それをテーブルに置いた。
「……それで。……様子を見るって言ってたのは? どうだった?」
「……ん? ……ああ、うん……。んーと……」
「なんの様子を見てたんだ?」
対面から白川がズズズ……とジュースをすすりながら首を傾げると、優樹は少し視線を落とした。
「……んー……と。……上手く、やっていけるのか……やっていけないのか、……かな」
「かな、じゃないって」
反町にため息混じりに呆れられ、「……、うん……」と視線を落とす優樹に、対面の席の立花は腕を組んで椅子に深くもたれかかった。
「で、どうなんだ? 結果は出たのか?」
優樹は俯いて膝に視線を落とし、目を細める。何か考え込んでいるのか、言葉を発しない彼女に、みんなは訝しげに顔を見合わせた。
「……まさか、先輩。……それでも……」
勝則が少し眉を寄せて相川の隣から身を乗り出すと、優樹は俯いたままで苦笑した。
「……んーと……。え、と……。……」
「ほらほら、はっきり言う」
洋一にため息混じりに顎をしゃくられて、優樹は「ん……」と少し言葉を詰まらせ、膝の上で指を絡ませた。
「……あの……ね」
「うん」
「その……」
「なあに?」
「……」
「はょぉ言わんかぃ」
「う、うん……」
優樹は視線の先、膝に掛けられた反町の上着を握って、もぞもぞと掴み動かした。
「……。はっきり、言うと……、やっぱり戻れない……」
隣の相川がすぐに「なんで!?」と訝しげに身を乗り出し、俯く顔を覗き込む。
「ち、ちょっと待って先輩っ! ……ほらっ! 部室見てなんとも思わないっ? 依頼、一緒に片付けたいって思わないっ!?」
「……それは……。うん……、思う、けど……」
「でしょっ? でしょっ? だったら戻っておいでよっ!」
「……。でも……」
「何か不安なことでもあるのか?」
立花が目を細めて問い掛けると、優樹は悲しげに口を閉じ、間を置いて首を振って切り出した。
「……不安じゃ、ない。……不安があれば、ここには、来れなかった。……ここに来るまでは……ちょっと、ドキドキしたけど……。でも……来てみて、わかった……」
「なにが?」
優樹はギュッと反町の上着を握り締め、更に顔を沈める。
「……部室も、綺麗になって、……学園も、綺麗になって。……全部が、新しくなった。……やっぱり、新しく……なっちゃったんだな、って……思った」
「そりゃ見た目の問題だろ?」
「……そう、かな……?」
「違うのか?」
睨むような立花の視線を感じながら、優樹は間を置いて微かに笑みを浮かべた。――それでも、顔を上げることはしないが。
「……あのね、……みんなが、私にこだわってくれるのは、ホントに嬉しいの。すごく……嬉しい。……でも別に、……ほら、学園にいなくても、遊ぶことも、会うことも出来るでしょ? ……部活も、私がいなくてもちゃんと進んでる。……私がいない、ここでの生活は、もう、みんなの中で始まってる。……それは、私も一緒。……私も……ここにはいない私が、始まってる……」
声に元気を含ませる優樹の俯く横顔を、反町も、そして相川も真顔で見つめる。
「それは……見た目じゃないよね。……ここはもう、私がいなくても平気。……学園を出ていった時に、……終わったの。そして……新しく始まった。……ただ、それだけのこと」
「……。向こうの学校じゃ、いじめられてないのか?」
「いじめられてないよ、ホントに。……今日もたくさん声を掛けられて……たくさん退院祝いをもらっちゃった……。授業のノートも見せてくれたり……ホントに親切で優しい。……こんなところもあるんだなって思えるくらい。……私は、そこで始まってる。……、始まりがあれば、終わりがある。……けど、終わればまた始まる。……私も、みんなもそう……。……ただ、それだけ……」
穏やかな声に、立花は目を細め、隣同士に座っている白川と華音は納得いかなげな様子で顔をしかめている。それは他のみんなも一緒。何かしらしっくり来ない空気に、優樹は深く息を吐いて俯いたまま笑みを溢した。
「でも……、ホント、いつでも会えるし、いつでも遊べるモン。こうやって私、時々様子を見に来てもいいし……。……うん……。……それでいいんじゃないかなーって、そう思うの……」
明るい声で告げながらも俯いた顔を上げない。そんな彼女に、洋一は「どうするんだ?」と言いたげな目を向けた。反町は小さく息を吐き、口を開き掛けた、その時――
「……終わってへん」
みんなが不意に一平に目を向け、優樹は肩をピクッと震わせた。
「……終わってへんねん」
優樹はそっと顔を上げて対面側の一平に目を向けた。――一平は、みんなとは違って険しい表情でじっと見返している。
「……何も終わってへんねんぞ。……終わってへんトコから、いったい何が始まるンや?」
「……」
「始まりばっかや。何も終わらんうちからどんどん始まって……捨てとる。……おまえは始まったつもりかもしれヘン。せやけど……ここは止まっとるぞ。……ずっと。……終わりも迎えてへんから、先にも進まれへん。……そういうのンの辛さは、おまえかてよぉわかっとるはずや」
険しい表情で睨まれ、優樹は少し眉を動かした。
「……おまえが始まりやった。切っ掛けはちゃうにしても、おまえがスタート切ったンや。ゴールに着いてヘンうちから、おまえはどこに向かっとるんや?」
「……」
「おまえがここに戻って来て、……それで終わりや。……そっからが始まりやろ。……おまえが言うとるんは、事を穏便に済まそうとして逃げとるだけに過ぎん。……オレらにも本当のこと言えンと、逃げようとしとる。……オレらは、ゴールのテープ持ってずっと待ってンねんぞ。……。リタイアなら……その傷口見せろ」
優樹は悲しげに目を見開く――。
一平は不快げなまま、言うだけ言うとゆっくりと椅子を立ち、「……どこ行くねん」と声を掛けた大介に「……なんか、おやつでも買うて来ちゃるわ」と、みんなの後ろを通って部室を出ていった。優樹は困惑げに目を泳がしていたが、顔を上げると椅子を立ち、膝の上着を反町に渡して「ちょっと待っててねっ」と告げてあとを追う。
部室のドアが閉まり、みんなが気まずそうに顔を見合わせると洋一は深く息を吐いた。
「まぁ……、一平が言いたいことはわかる、よなぁ……」
「……一平は一平で苦しんでるだろうからね……。……ずっと強がってるし」
生美も深く息を吐き、大介はふてくされてガリガリと頭をかいた。
「あいつもなかなか本音言わんヤツやからなぁ……。もうちょっとジタバタしてくれたらエエねんけど……」
立花は、上着を椅子に掛けた反町を見た。
「……いいのか? 二人にして置いて」
「……ああ。……二人には、解決しなくちゃいけないことがある。……そこに入ることは出来ないよ。……オレは一平を信じてるし、優樹を信じてる。……二人の帰りを待つ」
「一平君っ……」
礼拝堂の横を歩く一平のあとを慌てて追い掛け、その背中の服を掴み取る。息を切らす優樹を振り返って、一平は顔をしかめた。
「なんやおまえ。走ったらしんどいちゃうんか?」
「だ、だってっ……。……一平君、歩くの速いっ……」
「そぉか? 普通やぞ?」
「速いっ……」
「そら、おまえの足が短いねん。大介並やな」
息を切らしながら睨むように見上げる優樹に、一平は少し笑って首を傾げた。
「なんや? おやつ、欲しいモンでもあるんか?」
優樹は首を振り、悲しげに視線を落として俯いた。
「……一平君とは一度ね、……ちゃんと……お話ししなくちゃって、思ってたの……」
「オレ、告られるんか? 流に殺されてまうやんけ」
「違うってばっ」
優樹は笑う彼を睨み上げて顔を赤くすると、少し頬を膨らませ、背中の服を掴んだまま「こっち」と引っ張った。通行の邪魔にならないように礼拝堂の壁際に近寄って、そこで一平の服を離す。
「どないしてん」
首を傾げる一平に、優樹はためらいがちに視線を落としながら壁に背もたれて俯いた。
「ん、と……、いろいろ……言っておかなくちゃって、思っててね……」
「……。おぅ」
「……一平君に……謝らなくっちゃ、って……」
足下に視線を落としたまま呟く横顔に、一平は呆れて目を細め、深く息を吐き出した。
「何言うとんねや……。謝らなあかんのはオレの方やろ。おまえ、わかっとるんか? 自分の状況も把握出来とらんのとちゃうか?」
「そんなことないよっ」
優樹は焦って見上げて首を振るが、一平は悲しげに笑って、隣の壁に背もたれた。
「おまえが謝らなあかんコトは何一つない。……謝らなあかんのは、オレの方や」
ズボンのポケットに手を入れて視線を落とし、一平は目を細めた。
「……しんどい思いさせたな。……すまんかった」
小さく頭を下げてそのまま俯く一平に優樹は悲痛な表情で慌てて首を振り、彼の腕を掴み引っ張った。
「一平君は何も悪くないってばっ」
「……オレが死ぬうて、おまえは取引したんやろ? ……オレのせいやんか。そのせいで、おまえはこんなコトになってもうた……」
目深に被っている帽子のせいで顔色はわからないが、声が悲しみに曇っている。
優樹は今にも泣き出しそうな顔で息を震わせたが、それ以上はグッと耐えると、気持ちを踏ん張らせ、睨むように顔を上げた。
「……わかったっ。じゃあ……許してあげるっ!」
強く言い切ったあと、一平はゆっくりとこちらを窺う。心苦しそうな目を見上げて優樹は「えーっと……」と考えると、間を置いて「うんっ」と笑顔で頷いた。
「その代わり、胃が完全復活したらケーキバイキングに連れて行って。ね?」
笑顔で相槌を問われ、一平は頬を引き攣らせた。
「そ、それは大介に頼め。オレはケーキとかあんましよぉ食わんし……。大介に頼んだるし」
「罰だよ、罰。連れて行ってくれたら許す。あ、ただし、生美ちゃんと華音ちゃんと矢野さんもね。……あ、武田さんも。後藤さんも。……みんなで一緒がいいかも」
目線を上に向けて考え次々と名前を出す優樹に、一平は間を置いて肩の力を抜き、苦笑した。
「わかった。……ほな、エエとこ探しといたる」
「へへっ……。それじゃ、一平君の罪滅ぼしはこれで完了、ね」
「……。こんなんでか?」
訝しげに眉を寄せるが、優樹は笑顔で「うん」と頷き、掴んでいた腕を離すと再び礼拝堂の壁に背もたれて遠くを見た。
「……次は……私の番」
優樹は微かな笑みを浮かべたまま切り出した。
「……ホント、一平君にはたくさん謝らなくちゃいけないんだよ。……たくさん……」
「……。おまえにいじめられた記憶はないぞ」
彼女と同じく遠くを見つめて否定すると、優樹は少し視線を落とした。
「いじめてないけど……。でも……、苦しめちゃったね……」
「苦しんでヘン」
「……、うそつき」
お互い顔を見合わせることはない。
優樹は、地面を撫でる足下に目を落とした。
「……ンほら、五月の……あれ。……翔太先輩のマネして……」
「アレは別に……。立花たちに無理矢理やらされただけの話しで、おまえはなんも悪うないやろ」
「ううん。……みんなに心配を掛けてた私が悪いのに、……それに一平君を巻き込んじゃって……」
「……、それは……」
「……一平君、あの時……、泣いたでしょ?」
「ンなコト思い出すなっ。うあぁぁーっ、メチャ恥ずかしっ!!」
一平はすぐに帽子を目深に引っ張って背中を丸める。優樹はそんな彼を見て「んーんっ、そんなことないよっ」と、慌てて首を振り、すぐに笑みを溢した。
「……嬉しかった。……ホントに……」
「……」
「……嬉しかった」
微笑む優樹を、一平は帽子の脇からチラと窺う。優樹は壁に背を付いて、笑みを消さぬまま、遠くを見つめた。
「……あのね、……私、翔太先輩が泣いてるトコなんて見たことなかったの。……悲しそうにしてるところは、何度か見たことあるけど、でも……はぐらかしちゃって。……けど、あの時、……すごく優しくて……、……さよなら言って、泣いてた……。……やっと……、なんとなくね、翔太先輩の……ホントのところを見れた気がした……」
穏やかな笑みを浮かべる横顔に、一平は帽子から手を下ろして壁にもたれ、じっと窺う。
「……けど、一平君だったってわかって……。……ンほら、一平君もどっちかというと……すごく……んー、強いって言うか……。いつもわかり易くいろんなコトを教えてくれる、って言うか……、考え事してても、いつも、そんなことないって、笑って言ってたり……。……んー……上手く言えないんだけど。……そういう一平君がね、……あの時、優しくしてくれて、……さよならって言ってくれて……、……泣いてた……。……苦しかったんじゃないかなって……。……私の気持ちを受け止めちゃって、……翔太先輩の代わりに受け止めることになっちゃって、苦しかったんじゃないかなって……ずっと、そう思ってたの……」
優樹は悲しげに俯いて目を細めた。
「……ごめんね。……苦しいコト、させちゃって……」
一平は間を置いて遠くに目を向けた。
「ンなコトあらへん。……そんなン……もぉ忘れた」
「……。うそつき」
「……」
「それと……、この前の事件。……さんざんな目に遭わせちゃったもんね……」
小さな声に、一平は顔をしかめて見下ろした。
「あれこそおまえのせいちゃうやろーに。しゃあないやんか。オレが翔太先輩に似てもうてんから」
「……んーん。……。……私が、翔太先輩に会った時から……。……それが始まり。……私が翔太先輩に会ってなかったら……こんなコトは、なかった……」
「……それ言うとったら、オレらかて会うてヘンねんぞ? そうちゃうんか?」
「いいところは置いておくの。……悪いところだけ引っ張り出すの」
「あかんやろ」
「……でも……ホントにそうだよ。……一平君を巻き込んだ。いろんな偶然が重なっちゃったけど……、……ホントに、何も関係のない一平君をここまで巻き込んだのは……始まりにいた、私がいけなかったの……」
「ンな言い方すな」
「んーん。……ホントにごめんね。……辛い思いばかりさせてごめんね。……ごめんね……」
優樹は俯いて「グス……」と鼻を啜る。それに気付いた一平は「うっ……」と息を詰まらせ、慌てて背中を丸めて身を乗り出した。
「な、泣くなっ。泣くこたぁあらへんっ。全然泣くこたぁないねんっ」
「……っ」
「ホンマやてっ。オレもおまえのせいになんてしてへんしっ。……オレだけちゃうっ。みんなかておまえのせいにはしてへんっ。ホンマやぞっ? せやからおまえが謝ることもなんもないねんってっ」
優樹は「グスッ……」と、目元を制服の袖で拭う。
「な、泣くなっ。……うあぁぁーっ。ど、どないしたらエエんやっ。……あっ。な、流、呼んできたろかっ? そ、そやっ、呼んできたろっ」
慌てて部室の方へと足を向ける一平の服を掴み取った。
「な、なんやねんっ」
優樹は俯いたままで頭を左右に振る。
「ほ、ほな泣き止めっ!」
優樹は「うんうん」と頷いた。だが、その時――
「あっ、いたいたーっ」
声がして一平は振り返ると、少し嫌そうに眉を寄せた。……岸本達也だ。
「天使ちゃんが来てるってさっき小耳に挟んでさーっ。見た目が全然違うって話で……って。……天使ちゃん、どうした?」
髪型が変わってもわかったのだろう、顔を伏せている優樹に訝しげに眉を寄せ、一平に目を向けた。
「……おい」
疑い深く睨まれ、一平は慌てて頭を左右に振る。
「オ、オレが泣かしたンちゃう! ……。……いや、オレのせいなんか?」
「……一平……」
「ち、ちゃうって! ……ゆ、優樹っ、泣き止めっ。オレが疑われるっ!」
目を据わらせながら詰め寄る達也に、一平は優樹に服を掴まれたまま後退りする。
優樹は一平の服を離し、「すン……」と軽く鼻を啜って目元を擦り涙を消すと、一平の首を絞める達也を見上げ、ぺこりと会釈した。
「……。岸本先輩、……ご無沙汰してました……」
「うん、天使ちゃん、元気だった?」
「は、離せっ……苦しーっ」
一平はにっこりと笑う達也の手を強引に振り解き、遠く離れて首を撫でつつ彼を睨む。
達也は優樹を足下から見て笑った。
「天使ちゃん、その髪いいね。今、別の学校行ってるんだろ?」
「……はい」
「なに? 今日は一平に会いに来た?」
優樹は首を傾げ、一平は深くため息を吐くと目を据わらせて達也を睨んだ。
「エエ加減諦めろ。こいつは流のことしか頭にあらへんねんから」
「まだそんなヤツのことなんか」
達也は小さく息を吐いて、首を傾げたままの優樹に一平を指差した。
「天使ちゃん、よく考えたら? ほら、一平だよ?」
「……。はい……。一平君……ですね」
「そう。どうなの? 一平の方が良くない?」
一平は「おいっ」と不愉快げに達也を睨み付ける。優樹はキョトンとしていたが、ようやく状況がわかってきたのか、少し寂しげに笑った。
「……岸本先輩……。先輩って……翔太先輩のことがすごく好きだったんですね」
「どちらかというと嫌いな方だったけどさ」
「……でも……、……。翔太先輩は、死んだんです……」
優樹はゆっくりと俯いた。
「……もう、いないんです……。……ここにいるのは、一平君。……翔太先輩じゃない……。……顔が似ても……翔太先輩じゃない。……先輩は、もういないんです……。……どこにも……」
微かに笑みを浮かべながら、それでも寂しげに視線を落とす。
「……翔太先輩は……死にました。……、……死んだんです……」
次第に笑みを消して、ただ足下を見つめる優樹に、一平は目を細め、達也は表情をなくした。
「……先輩、前に言いましたよね。……翔太先輩と似てる一平君と一緒にいて、なんとも思わないのか、って。……一平君は一平君だし、私は……翔太先輩が死んだのを……この目で見ましたから……。……重ねること、出来ないんです……。……どうしても、出来ないんです。……翔太先輩の代わりは、……どこにも、いないんです……」
優樹は視線を落としていたが、言葉を詰まらせる達也を見上げてか細く微笑んだ。
「……私……翔太先輩のこと、好きだったけど……、今、もっと好きな人がいるんです……。……一平君も好きだけど……、でも、その人の方が好きだから……」
優樹は言いながらも息を詰まらせ、目に一杯の涙を浮かべて頭を下げた。
「……すみません……。……わかってます。……酷いヤツだって。……翔太先輩も……許してくれないって……。……でも……」
優樹は深々と頭を下げ、何度も息を詰まらせる。一平はそんな彼女の制服の襟元を掴むと、強引に頭を上げさせた。優樹は「っ……」と息苦しさに顔を歪めて頭を上げ、零れた涙を拭う。
一平は襟首から手を離すと、視線を落とす達也を睨み付けた。
「いつまでもしがみついとってどないすんねん。……おまえがやっとるンは轟と変わらんぞ。いつまでも引き摺るな。こいつも前を向こうとしとる。やっと歩き出したトコに落とし穴なんか掘るなや。それともなにか? おまえはこいつを苦しめたいんか?」
険しい表情で喧嘩腰になる一平をじっと見て、達也は間を置き少し笑い、深く息を吐いて肩の力を抜くと、涙を拭う優樹に目を向けた。
「天使ちゃん、ごめんね」
「……」
「早く戻っておいで。キミがいないと、奉仕屋の連中、サボってばかりいるから」
優樹は涙を拭っていたが、しばらくしてその手をピタッと止め、「……サボって?」と頭の中で言葉を繰り返して顔をしかめつつ一平を見上げた。一平はサッとそっぽ向く。
達也は少し笑うと、「それじゃ……がんばって」と歩いていった。その背中をしばらくじっと見送り、優樹は再び顔をしかめてそっぽ向いている一平を見上げた。
「……。サボってるって……、なに?」
「……。別にサボっとるワケちゃうで? ……、たぶん」
「……サボってるの? だって、……ちゃんと依頼は片付けてるって言ってたじゃない」
段々と真顔で問い詰めるような空気になり、一平は背の高さを有利に顔を見合わせないようにと空を見上げた。
「ま、まぁ……なんちゅーかな。……いやー、それでも結構片付いとる方ちゃうかなー、……とか」
「ホントはサボってたの?」
周りを右往左往しながら訝しげに見上げる優樹に、一平もこのままじゃ埒が明かないと感じたのだろう。途中で彼女を見下ろして激しく首を振った。
「オ、オレに言うな! オレがやっとるンとちゃう! オレのせいちゃう!」
焦って首を振る一平に、優樹はじっとりと目を据わらせた。
「ちゃんと進んでるとばっかりと思ってたのに……。……じゃあ……依頼も溜まってるの?」
「……。ま、まぁ……、なんとかなるんちゃうかなぁ?」
「ならないっ」
優樹はムスっと頬を膨らませて眉をつり上げた。
いつもの調子に戻りつつある彼女に一平はキョトンとし、ため息混じりに苦笑した。
「せやから言うとるやんけ。……おまえがおらんと、あそこは止まったまんまやって。……なんも始まってへんねんぞ?」
落ち着いた口調で部室の方を顎でしゃくられ、優樹はふと表情を消した――。
「みんな張り合いなくしとるし、やる気かて失せとる。……おまえがおらんからや」
「……。それは……。……だって……。……仕方ないから……」
戸惑い視線を逸らして俯く優樹に、一平はため息混じりで首を振った。
「仕方ないんとちゃう。それはおまえの勝手な思いこみや。そうやって、おまえは勝手に決めつけて逃げとるだけちゃうんか? 全部を自分のせいにして、それでホンマは楽になろうとしとるだけちゃうんか?」
優樹は目を見開くと焦りを露わに見上げた。
「……そ、そんなことっ……!」
「ちゃうって言えるか?」
試すように目を細める一平に、優樹は戸惑い目を泳がす。そのまま段々と俯き出す彼女に一平は再度ため息を吐き、ポンポンと頭を軽く撫でた。
「おまえが苦しむンなら、オレらかてそうや。……おまえ一人、苦しむことはあらへん。おまえの苦しみ少しでも楽にする為に、オレらかておるンやぞ? ……おまえかて同様や。オレらの苦しみ、少しでも楽にしてくれる、その為にはおまえが必要やねん。……オレら、仲間やろ? ……奉仕屋っちゅートコを中心にした仲間やんか」
「……」
「今までがんばってきたやん。みんなで一緒にがんばってきた。これからもそやろ? ……一緒にがんばって行こうや。……な?」
笑顔で相槌を問う。そんな一平の雰囲気を感じ、優樹は俯いたまま地面を見つめる目を細め、グッとスカートを握り締めた。
「……。……一平、君……」
掠れた震える声に、一平は首を傾げた。
「なんや?」
「……。……あの……ね……」
「おぅ」
「……。私、が……、……」
「なんやねん?」
「……、……私、が……大島、の、娘って……わかった、時……、……、……どう、だった……?」
途切れ途切れ、恐る恐る問い掛けるような小声に、一平は俯く頭を見下ろしていた視線を上に向けて考えた。
「せやなぁ……。そらあ、すごいトコの子どもやねんなーって思ぉたけど。家もでかいしなぁ」
「……」
「ンせやけど、にしてみたらおまえはこんなやし」
ため息混じりの、どこか呆れるような声に、優樹は間を置いて、「……へ?」と顔を上げた。目を見開いてキョトンと見上げる優樹の締まりのない顔に一平は少し笑った。
「おまえ、全然それらしぃないやん。もっとお嬢お嬢しとるモンかと思ったけど、ムチャクチャ普通やし。……普通ちゃうか。ドジやしマヌケやしニブいしチビやし」
ムスッと頬を膨らますと、一平は吹き出して笑った。
「おまえが大島の娘やぁなんてこと、あんまし考えへんなぁ。まあ、考えたかてなんもあらへんやん」
「……。なにも……ない?」
少し顔をしかめて繰り返す優樹に、一平は「ん?」と不思議そうに首を傾げた。
「何があんねん?」
「……。たとえば……、……一平君の……ご両親は、喜ぶ、かな……とか」
「はぁ? なんでや?」
言葉にしながらもすぐに視線を逸らして戸惑い目を泳がせる優樹に、一平は怪訝に眉を寄せた。
「おかしいぞおまえ。メチャおかしい。なんや? やっぱ学校でいじめられとるんとちゃうんか?」
優樹は何も答えないが、ただ困惑げに俯いて握っているスカートを更にギュッと握る。その様子に気付いて、一平は呆れ気味に肩の力を抜き、真顔で腰に手を置いた。
「それならそうと、なんで言わへんねんな……」
「……、いじめ、じゃ、ないの。……ホントに、いじめじゃない……。……。いじめられて、ない……」
「ほななんやねん? なんかあるんやろ?」
段々と悲しげに目を細めて項垂れる姿に、一平は深く息を吐く。
「おまえ、それやったらそれで一人で抱えこまんと、流でも誰でもエエから言わなあかん。おまえが助けてくれぇ言うたら、みんな、動いてくれるんやし。放っとかへんのやから。わかったか?」
――まるで保宅のようだ。
注意するような声色に優樹は「う……」と半べそ気味に一平を上目で見上げた。今にも泣き出すんじゃないかという空気に、一平は「……ヤ、ヤバイ」と顔色を変えて身動ぐ。
「……。な、泣くなよ?」
「……」
「泣いたらあかんぞっ。反則やぞっ」
「……」
「と、とにかくっ……。……おやつ買って帰るぞっ。そっから、ちゃんとみんなに話しをせぇっ。エエなっ?」
ムズっと、ネコを持つように制服の首根っこを掴み上げ、引っ張り歩く。優樹は「グス……」と、足を絡ませ歩きながら鼻を啜った。
「……一平君……」
「なんやっ?」
「……。ありがとう……。……」
「な、泣くなっ!」
――どれくらいの時間が経っただろう。
内心不安になりながら、それでもじっと待っていた。携帯電話に一度連絡を入れてみようかとも思った。その時、「お待っとさーん」と、陽気な声と同時に部室のドアが開き、みんなの視線がそちらへ集中した。最初に中に入った一平は、大きなビニール袋を手に「……な、なんやねん……」と少し身を引いてみんなを見回し、その後ろから、優樹もそっと中を覗き込む。……と、反町と目が合って彼を見つめた。泣き出しそうな、そんな雰囲気の彼女を見て反町は腰を上げて近寄る。それとすれ違うように、一平は「ほいほいー」とビニール袋を上げてテーブルに置いた。
「……優樹」
ドアの前に佇む優樹を真顔で見つめて腕に触れると、彼女は「……っ」と戸惑い見上げる。何か訴えるような、そんな視線に反町は少し眉を寄せ、一平をゆっくりと振り返った。
「……。一平」
「おーぅ?」
「……。なにもしてないだろうな?」
袋から次々とおやつを取り出していた一平は、険しい表情で睨む反町にキョトンとすると慌てて首を振った。
「ア、アホか! オレが何をするぅ言うねん!」
「……」
「な、なんもしてへんぞ! オレはなんもしてヘン! ……。よな?」
と、自信なさげに相槌を問うと、優樹は「うんうん」と頷く。
「ホントにぃ?」
「……のワリには帰りが遅かったよな?」
みんなが疑いの眼差しを向けると、一平は「あほか!」と怒鳴った。
「ヘンな想像すな! ……途中で岸本のアホに絡まれてもうてんっ。それでちょっと遅うなったんやっ」
「また何か言われたの?」
生美が不愉快げに眉を寄せると、一平はスナック菓子を広げながら肩を竦めた。
「あいつも、もう懲りたやろ。優樹もはっきり流のことが好きやぁ言うたったしな」
反町は少し驚きを露わに優樹を見る。優樹はカーッと顔を赤くして俯き目を逸らし、相川は「ううっ……」とテーブルに平伏せて嘘泣きをした。
一平は少し笑うと、大介に「ほら」と饅頭を投げ渡し、彼が「いっただっきまーすっ」と早速封を開ける間にドアのところにいる二人を振り返って苦笑した。
「いつまでそんなんしとン。はよぉ座れや」
促されて、反町は優樹の背中を軽く押して中に入ってドアを閉める。優樹が少し視線を落として椅子に座ると、反町がすぐに上着を膝に掛けた。
「……どうしたの、優樹。元気ないよ?」
生美がスナック菓子を摘みながら訝しげに覗き込むが、優樹は黙したまま俯く。
一平は「ったく……」と小さくため息を吐いた。
「ほら、ちゃんと言わんかぃ」
その言葉にみんなは一平を見て、優樹に目を向けた。
「……優樹?」
反町が心配げに顔を覗き込むと、優樹は少し目を細め、戸惑いながらも反町をそっと窺った。
「……。……あ、あの、ね……。……あの……」
「はよぉ言え」と一平が急かす。
「……。……が、学校……。……」
「学校が何?」
「……。全然……いじめられて、ない、の……。……ホントに、みんな……親切なの。……優しいの……」
「うん……」
「……ホント、なの……。……」
優樹は俯き困惑していたが、テーブルの下に置いていた持ってきた紙袋を引っ張り上げると、その中身を一つ一つ手にとってテーブルに置いていく。どんどん積み重ねられていくラッピングされた箱を見て、みんなは顔をしかめた。
「……なんだ、それ……」
「……。退院祝い……。用意して、くれてた……」
俯いたままで告げる優樹の言葉に、みんなはなにやら微妙な笑みを浮かべた。
「それって……、なんかすっげーオーバーなんじゃないのかー?」
「いくらお嬢様学校ったってなぁ。……まぁ、クラス一同でまとめてってのはあっても、……そりゃ、おまえ……。どう見たって個人個人からもらってるって感じだぜ?」
訝しげな白川に続いて立花も不可解げに眉を寄せる。
優樹は頷き、膝の上の反町の上着をギュッと握り締め、目を泳がせた。
「……ホントに……みんなから、もらっちゃって……。……。わかるでしょ? ……ホントにね、いじめられてなんか、ない。……優しいの。……。……優し、過ぎるの……」
優樹の表情が段々と強張っていく。それを見た反町は少し目を細めた。
「……。優樹ンとこの家柄を知って?」
何も言わない彼女を見て、みんなは「うげーっ!」と嫌そうに身を引いた。
「マジかよ!? サイテーじゃーん!!」
「なぁにぃ? それじゃ……つまり……、今のうちに優樹と仲良しになっておいて、ってことぉっ?」
「だろうな。……なるほどね。それで優しいってワケか」
「そりゃ、優樹ンとこと仲良くなってたら、怖い物なしって感じなんだろうな」
「そこまで考えてるなんてね……」
「……恐ろしいです……」
「……けど、社交界ってそんなもんだよ」
口々に嫌がるみんなに反町がため息を吐いた。
「どれだけ大物とお近付きになれるか。……それ次第で将来が大きく変わるから。優樹と同じクラスの子も、そういうことをわかってるんだろ。親の為、自分の為。そういう輩は少なくはない。誰だって、ラクして上を目指したいし、その為なら何だってするってヤツもいる」
反町は俯く優樹を真顔で見つめた。
「……でも、オレたちはそんなこと、絶対にないから」
「当たり前じゃんっ。一度も優樹をそんな目で見たことなんかないぞーっ」
白川が拗ねて口を尖らせると、勝則も真顔で頷いた。
「優樹先輩は、優樹先輩ですからね」
「えーっ、けど優樹っ、そんなクラスメートたちに囲まれて、ずっと学校に行ってたのっ? 信じらンないっ。耐えられなかったでしょっ?」
華音が心配そうに身を乗り出し窺うと、優樹は俯いたままでグッと体に力を入れた。
「……でも……、……行かなくちゃ、いけない、から……」
「そんなトコに行ってたら身が保たないわよ」
生美が不愉快そうに腕を組む。
「だからヤなのよ。金持ちが揃うようなところって」
「おまえ、そんな連中だってわかってて、それでもその学校に通うつもりだったのかよ?」
洋一が訝しげに問うと、優樹は悲しげに視線を落とした。
「……見せてまえ」
一平が静かに促す。
「……その傷口、見せたらエエねん。……誰もおまえのこと、見捨てたりせぇへンのやから……」
優樹の目に段々と涙が浮かび、ウロウロと動く視界がボヤけていく。
「……優樹」
反町は上着を握り締める優樹の手を取って握った。優樹は「グス……」と鼻を啜り、余ったもう一つの手で涙を懸命に拭う。
「……いい子にならなきゃ……、お父さんたちに、すごく迷惑掛けるから。……お父さんたちに、嫌われちゃう……。……いらない子になっちゃう……」
息を詰まらせながら訴える彼女をみんなはじっと見つめる。
「……今の学校……怖いけど……、……でも、……でも、お父さんたちが、見つけたところだから。……いい子にならなくちゃ……。おとなしく、言うこと、聞かなくちゃ……」
拭いきれない涙が膝の上の反町の上着に落ちてしみこんでいく。
「……でも……、でも……みんな、私が大島だから、優しくしてくれて、大島だから、親切で。……じゃあ私、普通の子だったら、誰からも、優しくしてもらえないのかなって……。……わからないの……。……私、どうして、生まれて来ちゃったの……? どうして、こんな風に、生まれてきちゃったの? ……大島じゃなかったら、いじめられ、なかったかも、しれない。脅迫、されることもなかった。みんなから、優しくされることも、なかった。でも、……でも、大島だったから……みんなに会えた……。……考えても、わからない……。……でも、私、いい子にしなくちゃ……。いい子にしなくちゃ、嫌われちゃう……。……いい子にしないと、また、お父さんたちに迷惑掛けちゃう。……私、なんなのかわからない……。……大島は嫌いだって思うのに、だけど、そうじゃないと、優しくしてもらえないのが怖い……。……大島に、生まれてこなければ良かったって、思うのに、……お父さんに助けてもらって……。……自分が、わからない……」
背中を丸めてポロポロと涙を零す姿に、隣の相川は悲しげに俯き、ハンカチを取り出すと懸命に涙を拭う優樹の目元に運び、拭う手伝いをした。
「……プレッシャーが強過ぎるんだな」
立花が腕を組んだままで深く息を吐いた。
「積み重なってきたものだろ。そうじゃなきゃ、こんなことに苦しむヤツはいない」
「……優樹、あんたのこと誰も嫌わないわよ。おじさんたちだってそう。優樹がどんなことをしたって、嫌いになるワケないじゃない」
「せや。いい子にせぇへンでも、おまえはおまえやねんからな」
ため息混じりの生美に続いて大介も神妙な面もちで言う。
「せやけど……大島に生まれてきたんは、それは受け入れなぁあかん。地位と名誉を狙っとるようなヤツばっかちゃうねんし」
「それにさー、都合悪い時は嫌いでいいんだよなー。都合のいい時だけ好きでいいんだよー。そう思わないかー?」
白川が首を傾げつつ相槌を問うと、洋一は苦笑した。
「そりゃおまえ、楽観過ぎ」
「そうか?」
「この世界はそう甘くはない。それをこいつは見せつけられてきたんだから。立花の言うとおりプレッシャーに押し潰されて、今じゃ迷子じゃん。人に迷惑掛けたくないっていうのが人一倍強いから、余計に自分を苦しめる。おまえみたいに嫌いなものを嫌いって言えりゃいいけどさ、言えないヤツは言えないんだよ」
「うーむ……」
「けど、先輩が誰にも迷惑掛けたくないからって、おとなしく言うことを聞いて今の学校に行き続けるって……そんなに大切ですか?」
勝則は訝しげにみんなを見回した。
「ボクからしてみたら、もし、このことをおじさんたちが知ったら、それこそ、おじさんたちはショックなんじゃないかって思うんですけど……」
「だよねぇ……。おじさんたちは優樹の為にと思ってやってることだろうし。それが優樹を苦しめてるとなると……ショックだよねぇ……」
「逆に、その学校に編入したせいで優樹が病気になったって思ったら、それこそ……親としては辛いよな」
「……だから、おじさんたちにも何も言えなかったんですか……」
「……でも、このままじゃ……」
ついには押し黙ってしまったみんなの気配に、優樹は相川に涙を拭ってもらいながら鼻を啜っていたが、「……ありがとう……相川君……」と、心配げにハンカチを持つ相川に笑顔で礼を告げて「……へへ」と俯いたままで小さく笑った。
「……もう、いいよ……。……みんなに話せて、ちょっと、スッキリした。……もう、大丈夫……」
「っていうおまえの言葉なんか信じられるかぁ」
と、大介が目を据わらせた。
「大丈夫なわけあらへんやろ」
「そうよ。このままでいいはずもないんだから」
「なんとかしなくちゃ……ですよね」
それぞれが考え込もうとする中、優樹は少し目を閉じると軽く深呼吸をして気を落ち付け、赤く腫れた目を上げた。
「……このままで、いい……。……贅沢は、言わない……」
「贅沢じゃないってば」
生美が呆れて睨むが、優樹は「……ううん」と軽く首を振った。
「……学校は、慣れてしまえば、きっとラクだと思う……。……ただ、愛想良くしていればいいから……。おとなしくして、愛想良くして、礼儀正しくさえして……、たまにパーティーのお呼ばれに顔を出せばいいだけだから……」
「やめとけ。そういう奴らと仲良くなり過ぎると、それこそ親父さんたちをそいつらの親と会わせなくちゃならなくなるぞ。そうなったら親父さんたちだって面倒が増えるだけだ」
立花に真顔で止められ、優樹は「……。でも……」と戸惑い視線を落とす。
洋一は鼻から息を吐いて苦笑した。
「おまえはさ、やっぱ、そういうところは似合わないんだって」
「……でも……」
「デモもクソもない」
素っ気なく突き返されて、優樹は段々と口を尖らせる。不快げな彼女を無視して反町に目を向けた。
「とにかく、おじさんたちも傷付けずになんとか優樹を学園に戻せる方法を考えようぜ」
「……そうだな」
反町は頷くと、元気をなくして俯く優樹を窺いつつそっと背中を撫でた。
「……オレたちも協力する。だから、このままでいいなんて思わないで。……諦めたりしないで」
心配さを滲ませながらも真顔で覗き込む彼に、優樹はなんとか笑みを見せ、そのまま視線を落とした。
――日も暮れだし、部活動生たちも帰っていく。みんなも片付けをして戸締まりをし、部室を出ると、優樹は送迎車を呼び、外からじっと部室を見つめた。
「そんなさー、目に焼き付けるよーにして見るなよなー」
拗ねるような言葉に、優樹は口を尖らせる白川を見上げて苦笑した。
「……ごめん、マー君……」
「すぐ戻って来てやるって、そのくらいの意気込みがないと駄目だぞー?」
「白川の言うとおり。おまえが諦めたら、オレたちだって何も出来ないんだからな」
洋一は鞄を持ち直して横目を向ける。
「それと……あんまりヘンな言葉を使うな」
「……き、気を付けるようにする」
優樹は睨む洋一にオドオドし、白川の後ろに隠れた。
反町が鍵を掛け終えると、みんなで固まって足を踏み出す。
「けど、早くこっちに戻ってこれるといいよねぇ。一緒に部活したいなぁー」
華音に呟かれて、優樹は「……うん」と踏み出す爪先を見つめていたが、途中で「……。あっ!!」と大声を上げ、隣を歩く反町を見上げた。
「一平君に聞いた!」
少し不愉快げに切り出され、反町は顔をしかめた。
「なにを?」
「オレはなんも言うてへん!! 岸本が言うたんやろ!!」
と、後ろから一平が慌てて否定する。
「部活! サボってるって聞いた!」
眉をつり上げてみんなを見回すと、
「……そういやぁ、明日の選択授業、何?」
「オレ英語ー」
「私は現歴ー」
と、わざとらしく話しを逸らす。
優樹はムッと口を尖らせて反町を見上げたが、彼も横にいる立花と、
「この前、文法で意味不明な記述があったんだ」
「あ、教科書の、間違えてただろ? 絶対そうだと思ってたんだよな」
と、話しをしている。
優樹はムカッと頬を膨らませ、鈴菜は「ふふっ」と笑った。
「先輩、大丈夫です。今のところ、苦情の噂は耳にしていませんから」
愉快げな報告に、それでも優樹は不満げに目を据わらせた。
そのまま話しを逸らされ続け校門を出ると、「またおいで」とみんなに笑顔で手を振られ、一旦さよならをする。
優樹はそれぞれ散り散りになったみんなに笑顔で手を振って、わざと一人残された反町を横目で睨んだ。
「……。サボってるの?」
「……。サボってるつもりはないよ。ちゃんと依頼書の振り分けもしてるし。……。それ以上がなかなか進まないだけ」
「……それって、サボってるって言うんじゃないの?」
じっと横目で睨まれ、反町は苦笑した。
「その格好で言われても全然怖くないね」
優樹はムッと目を据わらせてちゃんと向き合い睨み上げた。
「ちゃんと部活しなくちゃ駄目っ」
「はいはい」
「わかってるっ?」
「うんうん」
「絶対わかってないっ!」
「わかってる。ちゃんとわかってる」
少し背伸び気味に眉をつり上げる優樹を見て反町は少し笑った。
「やっぱり全然怖くない」
愉快げな雰囲気に、優樹は「……。もーっ!」とふて腐れて口をへの字に曲げる。
反町は苦笑すると、彼女の代わりに持つ紙袋を足下に下ろし、不意に真顔で切り出した。
「学校のほう、無茶して行かなくていいから。……あんまり辛かったら、オレからおじさんにそれとなく話しを持っていってもいいし。おじさんのことだから、きっと話しを聞き入れてくれると思う。優樹のこと、大切にしてるみたいだからね」
優樹はゆっくりと俯いて視線を落とした。
「……。……流君……」
「ん? なに?」
「……。私……がんばるだけがんばる……」
呟く声に、反町は呆れてため息を吐いた。
「またそんなこと言ってる」
今から説教でも始まりそうな空気に、優樹は顔を上げて「ううん」と首を振り、少し恥ずかしそうに首を縮めて俯いた。
「……だって、ンほら……今の学校は、その……、……流君と、一緒にいても、……流君が、恥を掻かないように、……その為の、学校……だから」
顔を真っ赤にしながらも一生懸命に告げる。そのまま顔を上げられない優樹に、反町は少し間を置いて微笑んだ。
「今のままでも、オレは恥なんて掻かないよ」
優樹は赤くなった顔を上げて、真剣に強く首を振った。
「んーんっ。掻くっ」
「掻かないよ」
「掻くっ」
「掻かない」
「掻くっ!」
「掻かない」
ツーンとそっぽ向いて淡々と返す反町に優樹は少し頬を膨らませた。
「でもっ、……でも、礼儀正しくご挨拶出来た方がいいでしょ?」
「どんな風に?」
首を傾げられ、優樹は「……。え?」と嫌そうに頬を引き攣らせた。
「やってみて」
にっこりと笑って促され、優樹は少しためらいながらも一歩後ろに下がり、きちんと背筋を伸ばして両手を前で組んでにっこり。
「ごきげんよう」
「あはははは!」
お腹を押さえていきなり大笑いされ、優樹はムっと目を据わらせた。
「に、似合わない!」
「……。酷いっ」
「似合わな過ぎる! ぜんっぜん似合わない!」
おかしそうに笑い続ける彼に、優樹は恥ずかしそうに「……ふんっ」とそっぽ向いた。
「……こうやって習ってるのっ」
「それ、何か間違ってるんじゃないのっ? ぜーったいおかしい! ……みんなにも見せてやれば良かった! ウケるよそれ!」
「……。人を笑い物にしようとしてるっ」
「笑えるっ。一発芸だねっ」
優樹はムカッ! といつまでも笑っている反町を睨み付ける。反町の方は「くくっ……」と笑いながらお腹を撫で、息を整えながら頬を膨らませている優樹に苦笑した。
「そんなの習わなくていいよ。優樹には自然体でいてもらいたいし」
微笑む反町に、優樹は再びゆっくりと俯いて悲しげに目を細めた。
「……流君……?」
「ん?」
「……。今の学校、通い続けるの……そんなに、駄目……かな……?」
「駄目」
間を置くことなく強く即答され、優樹は言葉を詰まらせて肩に力を入れる。
「……で、でも……」
「絶対駄目。許さない」
「……、でもね……」
「ゆ・る・さ・な・い」
一言一言に力を込める。拗ねているような、不愉快になっているような彼の気配に、それ以上何も言えず、優樹がガックリと項垂れると、反町は鼻から深く息を吐いて腕を撫でた。
「諦めないでがんばろう。おじさんたちにもきっと何かいい方法で伝えられると思う。今は考えなくちゃ」
「……。でも……、……じゃあ、今の学校じゃなくって、別の学校を紹介されたら? ……ここに戻ってこれるとは、限らないよ……?」
「……。それも有り得るよな」
「……。うん……」
反町は腕を組んで視線を上に向けた。
「……何かいい方法はないかなぁ……」
じっと空を見上げて考え込む彼を見上げて、優樹は戸惑いながらも首を振り、なんとか笑顔を取り繕った。
「そんなに考え込まなくていいよ。……ホントにね、みんなに話しが出来ただけで充分。……それに……学校から出てくれば、こうやって楽しいこともあるし」
「これだけで満足なわけ? オレは全然物足りないよ」
拗ねて口を尖らせつつ目を細める反町に、優樹は「う……」と言葉を詰まらせて上目遣いで窺う。
「やっぱり優樹がいないとイヤだな……。目の届くトコにいないと気になるし……、……寂しい」
段々と視線を落としながら悲しみを露わにする、そんな彼に優樹は戸惑い、うろたえながら反町の袖を掴んだ。
「あ、あの……、わ、私、ちゃんと……傍にいるから……。毎日電話もする……。時間があれば会いに来る……。流君、寂しくないようにする……。だから……、か、悲しい顔、しないで……」
困惑げに眉間にしわを寄せて見上げる優樹を、そっと窺う。
「じゃあ……早くここに戻って来て。そしたらオレ、寂しくないから」
試すようなわがままをぶつける彼に、優樹は「うー……」と困った顔で口籠もる。
反町は少し苦笑して、深く息を吐き、気を取り直した。
「オレが絶対ここに連れ戻すから。……優樹は安心してていいよ」
微笑み告げる反町に優樹はキョトンとし、すぐに頬を赤くして俯くと掴んでいた彼の袖をパッと離す。照れている姿に反町は愉快げに笑った。
「優樹の反応っておもしろい。しばらくは遊べそう」
……ムカッ! と、優樹は目を据わらせて笑う反町を睨み付けた。
翌日の学校――。朝から“お祝い返し”を配り歩いている。
昨日、家に帰って聖菜に「退院祝いをもらっちゃった」と報告をすると、「あらあら……」と聖菜は早速行きつけのブランド店に連絡を入れて見繕ってもらった。家まで配達してもらい、そして、それを学校まで持ってきた優樹はせっせと頭を下げながら配る。
「気に入っていただけました?」
「……えっ? ……あ、は、はいっ。とてもっ」
「良かった」
にっこりと微笑むクラスメートを見て、優樹は心の中でため息を吐く。元々、退院祝いはそのまま返そうと思っていた。きっと聖菜もそうすると思っていたのだが……。だから、退院祝いの中身すらまだ見ていない。
授業が始まる頃にやっと配り終え、落ち着いて自分の席に戻ったが――胃が“動いている”。
深く息を吐いて軽くお腹を押さえ、「……今日も一日がんばろう」と気合いを入れた。
今日も授業中は黙々と貸してもらったノートの書き写し作業だ。それでも、極力授業には耳を傾け、後れを取らないようにと踏ん張る。
そんな中、お昼になると、昨日とは違うクラスメートの昼食会に誘われ、断る理由も見つからず彼女たちのあとを付いた。食堂で軽く食事を摂ってスポーツ飲料を飲みつつ、小声で話す彼女たちに合わせてニコニコと笑みを溢していたが、背後で何かが割れる音が聞こえそちらを振り返った。見ると、遠くの方で少女が申し訳なさそうにカップを拾っている。――どうやら落として割ってしまったようだ。周りのみんなは冷ややかな目でそれを見て、再び談笑を始めている。
優樹は「……失礼」と立ち上がると、膝の上のハンカチを椅子に置いて足早に近寄り、腰を下ろして一緒にガラス片を拾った。
「あっ、結構ですのよっ……」
「いいえ」
優樹は慌てる女生徒に微笑んだ。
「怪我、していませんか?」
「……あ、は、はい。……あの、ホントに……。汚れてしまいますから」
「気にしないで」
優樹はガラス片を拾うと、床に広がったコーヒーを見て「……雑巾はないかな……」と辺りを見回した。だが、女生徒は上着ポケットからハンカチを取り出すと、それでコーヒーを拭いだし、真っ白だったハンカチが茶色く変色する。
優樹は「あ……」と目を見開いて手を伸ばした。
「シミになっちゃうよっ!」
普通に言ってしまったあとで周囲の訝しげで迷惑そうな視線を感じ、「……シ、シミになりますよ?」と訂正する。
女生徒は苦笑すると、集めたガラス片をハンカチに包むように持って立ち上がった。優樹も遅れて立ち上がる頃に、ようやく用務員がやってくるが、もう遅い。
「……ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げて、どこかに歩いていく。優樹は「……はぁ」と小さく頭を下げ、なんとなくぎこちなさを感じながら再びテーブルに戻った。
「大島さん、とてもお優しいのね」
一緒のテーブルの少女が笑顔で身を乗り出す。優樹はハンカチを膝に乗せると顔を上げて首を振った。
「そんなこと……ないです」
「驚きましたわ」
「……え?」
「だって、あのようなところまで足を運ばれて。汚れませんでした?」
「……あ……」
優樹はそっとスカートを見下ろし確認した。――スカートの隅が少し汚れている。それを目で捉えると「……はは」と情けなく笑いながら顔を上げた。
「汚れは、洗えば落ちるから……」
「駄目ですわよ。お気をつけなさいませ」
注意するような真顔を向けられ、優樹は「……え?」と表情を消した。
「もし落ちない汚れでしたらどうなさるの? 制服は新たに購入すればよろしいですけど、肌について落ちなかったら大変ですわよ?」
「……。は、……はい……」
優樹は申し訳なさそうに俯いて肩を縮める。その姿に女生徒たちは苦笑した。
「仕方がありませんわね……。以前の学び場では、ご教養を磨くには不足していたようですし」
「大島さんには、これからも私たちがいろいろとお教えしますわ」
「なんだか妹が出来たような感覚ですわね」
クスクスと笑われて、優樹はなんとか笑顔を取り繕ったものの――。
……何かが違う。そう感じていた。
そう。何かが違う。……違う……。
優樹は午後の授業を受けながら、教科書に視線を向けた。教壇では講師が優しい口調で授業を進めている。
……何かが違う――。そう考えていた時、コツン、と、足に何か当たり、優樹は「?」と少し横に身を乗り出して足元を確認した。……消しゴムだ。
誰かが落としたのね……、と、優樹は音を立てないように椅子を引いてそっと消しゴムを拾う。
「どうしました?」
優樹が机の下に潜ったことに気付いて、教壇の講師が顔をしかめている。優樹は慌てて顔を上げると、小さく笑った。
「す、すみません。……消しゴムが転がってきたから。誰かが落としたのかと」
「今は授業中ですよ」
「……。……は、はい……」
「席に着きなさい」
「……。はい……」
睨み注意されて、優樹は恐る恐る椅子にきちんと腰掛けた。拾った消しゴムも、誰のものかわからぬまま。机にコロン……と転がして見つめる。
……おまえ、ご主人様が名乗り出てくれると思う? ……きっと、放っとかれちゃうよ……。
――そのまま何事もなく授業が終わり、あとはホームルームを残すだけ。ほんの数分の休憩時間、優樹はぼんやりと窓に近寄ってそこから外を見た。
……学園で見ていた景色とは全然違う……。……当たり前……か……。
ぼんやりと外を見つめて、担任が教室に入って来ると席に戻った。「ひょっとしたら拾いに来るかもしれない」と思って机の上に置いてあった消しゴムは、動くことなくそこにいる。優樹はそれを見て小さく息を吐くと、手に取って担任に近寄り、すっと差し出し首を傾げる担任に「……落ちていました」と告げて自分の席に戻った。
……こういうものなのかな……。……今までがおかしかった? ……おかしかったのかな……。
「大島さん」
椅子に座ったところに声を掛けられて顔を上げると、隣の席の女生徒が少し苦笑していた。
「先程の授業中」
「……。あ、はい」
「ああいう場合は、放って置かれた方がよろしいですよ。講師の先生、授業を真剣に聞いていないと勘違いされて怒りますから」
「……。そうですか……。ありがとうございます……」
「前の学校では、あのようなことをなさっても平気でしたの?」
「……あ……はい……」
少し視線を落とす優樹を見て、女生徒はにっこり微笑んだ。
「気落ちすることはありませんわ」
「……はい……」
「あ、このあと、何かご予定はあります?」
「……え?」
「大島さん、何か部活動にご興味はありません?」
「……。部活……ですか」
「私、茶道部に入っておりますの。よろしければいかがかと思いまして」
微笑む女生徒を見つめて、優樹はためらい気味に笑みを溢した。
「そう……ですね。……部活……。……いろいろ探してみます。もし、茶道部に気が向いた時は、……その時はよろしくお願いします」
「わかりました。その時は遠慮なく声を掛けてくださいね」
微笑み頭を下げて教壇の方に目を戻す。優樹はその女生徒から机に視線を落とした。
……部活……。……みんな……ちゃんと部活してるかな……。
ホームルームが始まり、十数分後に終わると、それぞれみんなが帰宅、または部活動へと向かう。それでも静かな室内、優樹はのんびりと教科書類を鞄に直していたが、真横に誰かの影が視界に映ってふと顔を上げた。
にっこりと笑い掛けて来るクラスメートに、優樹は首を傾げつつ、戸惑い、少し目を泳がせる。
「大島さん、青称学園ではとても有名でいらしたのね」
切り出された言葉に、優樹は表情を消した。
「私の知人が通っておりますの」
「……あ、そ、そうですか……」
優樹は少し戸惑いながらも、笑顔を取り繕った。
「別に……有名じゃありませんよ……」
「この学校の規則、おわかりかしら?」
なんのことかわからずに首を傾げていると、女生徒は笑顔で続けた。
「異性交遊は、禁じられていますのよ」
優樹はキョトンとして瞬きを繰り返すが、女生徒は苦笑してみせる。
「念の為、ご忠告させていただきますわ。先生に知れた時、とても重い処罰がございますから」
「……。あ……はい……」
「とても有名な病院のご子息でいらっしゃるんですってね?」
「……」
「残念ですけど、規則は規則ですもの。ご卒業なさってから、正式にお付き合いなさった方がよろしいかと思いますわ」
「……。は、……はい……。……教えていただき……ありがとうございます……」
目を泳がせながらぺこりと頭を下げると、「いいえ、それじゃ」と、女生徒は微笑みを残して歩いていく。その背中を見送ることなく、優樹は怪訝に眉を寄せた。
……何かがおかしい。……なに、これ。……なんなんだろう。……何かが違う。……何かが――。
心の中、ずっと何かが引っ掛かる。
……なに? ……なんなの……?
気が付いたら、送迎の運転手に頼んで学園に向かわせていた。けれど、校門の傍で停まった車から降りて、そこから一歩も進めない。
……なんだろう……。……。
優樹は悲しげに視線を落とすと、再び車に乗り込んだ。
元気のない彼女に気付き、運転手がバックミラー越しに後部座席を窺う。
「……お嬢様。気分でも悪いんじゃないですか?」
不安げな問い掛けに、優樹は俯いたまま小さく首を振る。運転手は困惑げだったが、エンジンを掛けると車を出した。まだ行き先も告げていなかった優樹は、走り出した車に顔を上げた。
「……あ、……家、ですか……」
「いいえ違います」
「……。え?」
「旦那様から言われているんです。元気がない時は本社の方に車を回すようにと」
優樹は顔をしかめると、慌てて身を乗り出してシートを掴んだ。
「い、いいですっ。大丈夫ですからっ!」
「いいえ。大丈夫ではないと思います」
「ホ、ホントに大丈夫だからっ!!」
「お嬢様の言うことには耳を貸すなと言われているので」
苦笑する運転手に、優樹は「……もうっ、お父さんったらーっ!!」とふて腐れて座席に深く座り込んだ。
――それから一時間程車を走らせ、会社の裏門から入り込む。優樹はめんどくさそうに口を尖らし、車のエンジンを止めた運転手を斜め後ろから睨んだ。
「……。何も話すことないのにーっ!」
いつもの馴染みの運転手だからこそ、拗ねてみせる。しかし、彼の方も優樹の態度には慣れているのだろう。
「話すことがなくても、ちょっと会うだけでいいんです」
愉快そうに促され、優樹はムッとしつつ、ハッと顔を上げた。
「会議中かも?」
「その時は秘書の方にと言われております」
優樹が目を据わらせると、運転手は外に出て後部座席に回り、ドアを開けてにっこりと笑い掛けた。
「いってらっしゃいませ」
そう言われてしまってはどうしようもない。優樹は渋々車を降りて社内へと入った――。
「あら、優樹さん」
一階の受付ロビーへと笑顔で冴子がやってきた。
「ごめんなさい、社長は今、接客中で」
「……。だったら帰ります」
「何かご用があったんじゃありません?」
「……。無理矢理ここに連れてこられただけですから」
「ということは、元気がなかったんですね?」
――ここまで根回しされていたのか。
目を据わらせる優樹に冴子は少し笑った。
「社長からはちゃんとお聞きしていますから」
「……余計なことばっかり……」
「そんな言い方をする物じゃありませんよ」
冴子は苦笑すると優樹の背中に手を回し、「こちらへ」と待合いロビーへと誘って開いているテーブルに腰掛け、そこに鞄と携帯電話を置いた。それまでに数人の若い男性社員に「妹さんですか? かわいいですね。恋人は?」と笑顔で声を掛けて来られたが、「社長のご息女ですよ」と冴子が笑って教えると、慌てて「し、失礼しました!!」と頭を下げて逃げていく。
誰も近寄ろうとはしない空気に、優樹は顔をしかめた。
「……。私って、怖いですか?」
「正体を知ったら怖いかもしれないですね」
ますます顔をしかめる優樹に対面の席の冴子は少し笑い、そして落ち着いた笑顔で窺う。
「……元気そうですね。安心しました」
ホッと安堵のため息を漏らす冴子に、優樹は「……はい」と申し訳ない笑みを向ける。
「でも、元気がないからここに来たんですよね? なにかありました?」
「……。別に……なにもないんですけど……」
「何もなくて元気がないわけはありませんよ」
俯き少し口を尖らせるが、冴子は苦笑して首を振った。
「社長も心配されてますから。よろしければお話しを聞きますよ?」
微笑む冴子をチラッと上目で見て、優樹は少し視線を落とす。
「それとも、ご友人の方に連絡を入れましょうか?」
テーブルに置いている携帯電話に手を伸ばされて慌てて首を振った。
「それじゃ、いつまでも黙ってます?」
笑顔で首を傾げられ、優樹は恨めしそうに目を細めて次第にテーブルへと向けた。
「……ホントに……なんでもないんです……」
「そうですか?」
「……。冴子さんは、学校……、高校はどこでした? 普通のところ、ですか?」
「ええ。共学でした」
「……そう……ですか……」
「学校で何かありました?」
「……。ん……と……。大したことじゃ、なくて……」
「なんです?」
「……。ンほんとに、大したことじゃないんです。……けど……ちょっとわからないから……学園のみんなに、聞こうと思ったんです……けど……」
「会いに行ったんですか?」
「……学園まで行って……。……。でも……」
「入れなかった?」
悲しげに俯く姿に、冴子は少し寂しげな笑みを向けた。
「まぁ……入りづらいですよね。……そんな時は、前以て電話してから行けばいいのに」
「……今日は……なんとなく……だったから……」
「なんとなく、なにかあったんですね?」
優樹がシュンと気落ちして俯き、その姿に苦笑していると、そこに受付嬢がやって来て、小さく冴子の耳元に何かを告げた。冴子は「……わかりました」と笑顔で答え、優樹に目を戻す。
「社長がいらっしゃいって」
「……」
「甘えてきてください。社長も喜びますから」
優樹は少しふて腐れて腰を上げると、そのまま座っている冴子を見た。
「……冴子さん、一緒に行かないの?」
「あ、私はちょっと……。あとで何かお飲物を運びますから」
優樹はガックリと項垂れてため息を吐き、小さく会釈してから歩いていく。冴子はその後ろ姿を見送ると、携帯電話を手にとって耳に寄せた。
「もしもし? 聞こえてた? ……まぁ……表情からすると、いう程のコトじゃないとは思うけど。……そうね。そうしてくれる? ……え? ……ああ、うちの社員よ。かわいい格好してるから。……。ふふ、……大変ねぇ、鈍くて無防備な彼女を持つと」
「……お父さん……。……みんなに根回ししないで」
社長室に入るなり、優樹は脱力気味に大島に近寄る。大島はそんな娘に呆れ顔でため息を吐いた。
「おまえがお父さんになんでも話してくれるようならこんなコトはしないんだぞ?」
「……だからって、毎回こんなコトをされたんじゃ……」
「なんだ? なにかコソコソするつもりか?」
「……しないけどぉ……」
拗ねて口を尖らせながら近寄ってきた愛娘に大島は椅子ごと体を向けると、向かい合う彼女の両手を握ってふて腐れた顔を覗き込んだ。
「それで、どうしたんだ?」
「……。だからね、なんでもないの」
「本当のコトを言いなさい」
「……。ホントだもん……」
「優樹、お父さんを甘く見るんじゃないぞ」
優樹は厳しい目を向ける大島に、「う……」と言葉を詰まらせて気まずく身を退く。だが、「逃がしはしない」と言わんばかりに大島は手を引っ張って背を向けさせると、広げている足の間、片膝の上に彼女を横向きで座らせた。
「優樹」
「……」
「黙ってちゃわからないんだぞ?」
まるで説教中だ。
父の鋭い眼差しから逃げるように優樹は俯いて、膝の上でモジモジと指を絡ませた。
「……お、お父さん……?」
「なんだ?」
「……。あ、あのね……。……その……」
「うん?」
「……」
「なんだ? そこまで言ってるんだから続きを言いなさい」
「……あの……その……。……学校……」
「うん」
「……。……。がんばる」
項垂れてぽつりと呟いた言葉に、大島は顔をしかめてため息を吐いた。
「……優樹……」
「が、がんばる」
「……そうじゃないだろう?」
「がんばるっ」
顔を上げるなり、意気込んでグッと両手を拳にして握り締める。そんな娘に大島は再びため息を吐いた。
「……ちゃんとわかるように言いなさい」
呆れ気味に促され、優樹は「う……」と言葉を詰まらせる。――と、ドアがノックされて「失礼いたします」と冴子がお盆を手に現れた。お辞儀をして入ってきた冴子は、助けを求める目つきの優樹を見て少し笑うと、お盆を置いて近寄ってきた。
「社長。申し訳ございませんがこちらの書類にサインをいただけますでしょうか」
すっと差し出され、大島はそれを手にとって文字を目で追う。その間に優樹は冴子を見て恨めしそうに目を据わらせた。冴子は大島の膝の上の彼女を見て笑いを堪えるように目をそらす。大島はしばらくして書類にサインをして冴子に差し出した。
「それじゃ、ご連絡をお待ちしていますと先方に伝えて置いてくれ」
「かしこまりました」
冴子は会釈をすると、テーブルにケーキとお茶を並べ、「失礼いたします」と頭を下げて出ていった。
優樹は「……うー……」と困惑する。大島は膝の上のそんな娘を見て「……ったく……」と再度ため息を吐いた。
「お父さんに隠し事をすると……どうなるかわかっているのか?」
「……。ど……どうなるの?」
「そうだな……。平日の門限十七時。休日は門限十五時」
「うっ……」と半べそで口をへの字に曲げる優樹に大島は苦笑すると、優しく抱き締めた。
「お父さんは心配してるだけなんだぞ? 困ったことがあったら、なんでも言って来ていいんだからな」
ポンポンと背中を撫でられ、優樹は拗ねながらも彼の肩に顔を埋めた。
《なんかムカつくんだけど?》
――優樹は少し顔をしかめた。
少ない夜食を食べ、入浴を済ませて、予習復習をやる前にソファの上で反町に電話をいれたらすぐにこの一言。
「……な、なに?」
《一人でウロウロしないでくれる?》
「……、ウロウロ?」
優樹は携帯電話を片手にナガレを抱き、訝しげに首を傾げた。
「な、何を言ってるのか、全然わかんない……」
《……。今日、声を掛けられてただろ》
「……声? ……ん? いつ? 学校? ……ん?」
《……。かわいいねー。恋人は? 彼氏はいるの?》
優樹はギョッと目を見開いてナガレを強く抱き締めた。
「えっ? ……え!?」
《……知ってンだぞ》
「な、なに!? ……あれ!? 会社にいたの!?」
《……実はいたんだ》
「……。うそ!」
《嘘だけどー》
「……」
《けど、知ってンだ》
「……。な、なんで……? どうして? ……。……あ! 冴子さんに聞いたの!?」
《みたいなモンだね》
「で、でも別にっ……。学生がいたから珍しかったんだとっ……」
《……、ホントにそれだけだと思う?》
「……うん。……。それだけじゃないの? 冴子さんの妹だって勘違いされてたから。からかわれて、冴子さんも笑ってた」
《……。余計心配になってきた……》
ガックリと気落ちする声に、優樹はナガレを腕にオロオロと目を泳がせる。
「えっ? な、なにっ? なんでっ? なにかおかしいっ?」
《……。もぉー、いい》
優樹はワケがわからずに戸惑っていたが、《……それはそうと》と、切り出されて耳を傾けた。
《今日、学園まで来たんだろ? どうして連絡してくれなかったわけ?》
「……。冴子さんに聞いたの?」
《言って置くけど、話しは全部筒抜けだから》
ガクッと頭を落とすと、ボフッとナガレの頭に顔がうずくまる。
「……そ、それは……」
《学校で何かがあっんだろ? 何があったんだ?》
「……」
《言え》
「……。そ、それは……」
《言うんだ》
怒りを込めた真剣な声に、優樹は困った顔でソファを立ち、ナガレの足を引き摺ってベッドルームに向かう。
「……ン、その……」
《うん》
「……。あの、ね。……今日……お昼に、コーヒーをカップごと落とした子がいて……」
《うん》
「……一人で片付けてたから、手伝ってあげたの……。……。おかしい?」
《……え? なにが?》
「……おかしくないよね? ヘンじゃないよね?」
ベッドに乗りながら困惑げに訊くと、反町は《うん……》と、特に感情もなく返事をした。
《全然おかしくないけど……。おかしいって言われたの?》
「……ううん、違うけど……。……汚れたでしょって。……確かに、ちょっとコーヒーに濡れちゃって汚れたんだけど……でも、そういうの、平気だし。……けど、駄目だって怒られて……」
《なんで?》
「洗って落ちる汚れならいいけど、洗って落ちない汚れだったらどうするのって。制服は新しくすればいいけど、肌に付いたらどうするのって……」
《んー……そりゃ困るけど、……オーバーな言い方だな》
「……その時は……あ、そうかって思ったんだけど……。何かが違うって、そう、思えて来て……。……でね、……午後の授業の時にね、足下に消しゴムが転がってきたから、拾ってあげたの。……先生に注意されちゃった……。……拾っちゃ駄目?」
《そんなことないよ》
「……でも、……怒られた。……落とした人もね、結局……取りに来なくて……」
優樹は話しながら少し視線を落とす。
「……汚れるの、イヤだし……怒られるのもイヤだけど……。でも……何かが違う……。けどよくわかんなくて……。……流君たちならわかるかなって思ったんだけど……。……でも、考える程のことじゃないような気がするし……。んー……と、……よく、わかんないの……。……私、何かヘン?」
《ヘンじゃないよ。……そうじゃないと困る》
ため息混じりの声に、優樹は少し顔をしかめた。
「……どうして?」
《奉仕屋の基本だろ、それ》
優樹はふと表情を消した――。
《困っている人がいたら助けてあげる。優樹は、ただそれをやっただけだよ。たとえその為に汚れたって、怒られたって、優樹はそれで誰かが喜んでくれれば、それで充分だろ? ……でも、そっちの学校の奴らは違うんだよ。きっと、得にならないことはしないんだ》
「……、得……」
《そういうこと。つまり……優樹と仲良くなっておこうって考えるのと同じだよ》
どこか呆れるような落ち着いた声に、優樹は怪訝ながらも真剣な顔で視線を落とした。
《洗っても落ちない汚れが付いたってさ、誰も逃げたり避けたりしない。もし優樹に一生落ちない汚れが付いたって、オレはそんなの気にしないよ。優樹は優樹だから。……けど、そいつらは違うんだ。綺麗なままでいたいし、汚れたくない。ましてや他人のことで汚れるなんてまっぴら、……そんな奴らなんだよ》
「……。そっか……。……まあ、気持ちは……わからないでもないけど。……けど……、それはちょっと……悲しいね……」
《そうだな。自分がかわいいのはわかるけど、な》
「……消しゴムも、ご主人様に捨てられちゃって……。……。クマジーを実ちゃんから預かった時、クマジー、捨てられたって思ったの……。……クマジーがかわいそうだった。……消しゴムもそんな感じ……。……捨てられちゃって……新しいのと交換されるんだね……」
《……深く考えることはないよ。そういう奴らなんだ。……ただそれだけ》
「……うん……」
《オレが心配なのは、そういうのが優樹に伝染しないかってコトだよ》
ため息を吐かれ、優樹はキョトンと顔を上げると慌てて首を振った。
「し、しないよーっ。私もそういうのはイヤだし……。……寂しく思うから……」
《良かった。優樹はそうでなくっちゃな。……じゃあ……学校での悩みって、このことだけ?》
「……。あー……。……うー……」
《なに? まだあンの?》
言葉を濁す気配に、訝しげに問う。
優樹は少し視線を落としてナガレを強く抱き締めた。
「……その……、ね……。……今日……言われた、の……」
《何を?》
優樹は困惑げに目を泳がせ、意を決して切り出した。
「……異性、交遊……、禁止だ、って……」
《……。はっ?》
不快げな一言に優樹は焦り、ナガレの頭に顔を埋めた。
「ン、知ってるの。……クラスの子がね、学園の子と知り合いらしくて。私の話しも聞いてるみたいで……。それで……言われたの。……お付き合いするのは、卒業してからにした方がいいって……。見つかると、厳しい処罰があるって……」
《……。なんか、放っとけって感じなんだけど?》
「……でも……気を遣って、教えてくれたのかもしれない……」
優樹は悲しげに呟いてナガレの頭から顔を上げた。
「……なんだか……、……何もかも、知られているような……」
《……。……あ》
ふと何かを思い出したような、そんな声に優樹は「ん?」と耳を傾けた。
「なぁに? ……どうかしたの?」
《……あ、イヤ……。なんでもないけど……》
どこか気まずそうに言葉を濁す、そんな空気に優樹は首を傾げた。
「なに? 何かあった?」
《……いや、大したことじゃないよ》
「ん?」
《……大したことじゃないって》
「……、ん?」
《……。いや、だから……》
どこか分が悪そうに口籠もる、そんな気配に優樹は少し不安げに目を泳がせ、ナガレを強く抱きしめた。
「……なぁに……?」
《……、即答で断ったけど、……まぁ……》
呟くような声に、優樹は悲しげに目を細めて俯く。そんな様子を察したのだろう、
《ちゃんと即答したよ》
と、焦りを含めてすぐに返してきた言葉に、優樹は「……。うん……」と小さく返事をした。
《ホントだって。傍に生美もいた。信じられないなら聞いてみたらいい》
真剣に早口で訴えられ、優樹は「……ううん」と表情を消したまま軽く首を振った。
「……。……信じる……」
《どーもおかしい。……オレもさ、優樹が別の学校行ってるだろってコトをやたらと言われたんだ。女子校なら男女交際禁止されてるとか。無理だとか。……その優樹ンとこのクラスメートと口車を合わせてたんじゃないの?》
不愉快さを露わに、段々と口調も怒りの色を濃くしていく。
《ったく……。やり方が汚いって言うか……。大体、そんなことしてオレたちが、はいわかりましたって別れるワケないじゃん》
「……」
《って、なんで返事しないわけ?》
ムッとした声に、優樹はハッと顔を上げて慌てて首を振った。
「う、ううん。……うん。……うん……」
どこか元気のない返事に、間を置いて《……、なに?》と反町が切り出してきた。
《オレは優樹にしか興味ないよ、ホントに》
「……」
《ンほら……知ってるだろ? この前新聞に載ったから。そのせいなんだよ。だから、オレだけじゃない。一平もそうみたいだし。みんな興味があるだけなんだ。ただそれだけで、周りがたくさん騒いだって、オレには関係ないよ》
真剣に伝えても、優樹は「……。……うん……」と、弱い返事しかしない。
《……何? ……どうした?》
心配げな声に、優樹はナガレの頭に顔を埋めて首を振った。
「……んーん……、なんでも、ない……」
《……、なんでもなくないと思うけど?》
不快さを交えた不安な声――。
優樹はナガレの頭に顔を埋めたまま、携帯電話を握る手を震わせた。それと同時に息も震え出す。それを電話越しに感じた反町は《……優樹?》と小さく声を掛けた。
《……どうした? ……、優樹?》
戸惑うような呼びかけに、優樹は「……グス」と鼻を啜った。
「……ごめん、ね。……、ごめんね……」
《……、何が?》
「……駄目、だね……。……駄目だね」
《……何が?》
真剣に問い掛ける声を耳に、優樹は息を詰まらせて背中を丸めた。
「……ごめん、なさい。……ごめんなさい……」
泣きながら謝る優樹に、反町はしばらく何も言わなかった。そして――
《……今からそっち行く》
そう告げられて、優樹はナガレに顔を埋めたまま首を振った。
「う、ううん……。いい。……来なくて、いい」
《……行く》
「き、来ても……入れて、もらえないから。……もう、今、……お父さんたちと、一緒にいる、から。……だから」
《それでもいい》
真剣さの中に、拗ねているような、寂しいような色を含める彼に、優樹は背中を丸めたまま、潰れてしまっているナガレをギュッと抱きしめた。
「……駄目、だね、私。……馬鹿、だね……」
泣きながらも、それでも必死に笑おうとする。
「……わかって、たのに……。……駄目だ、って……思って、たのに……」
《……何が? 何が駄目なの?》
「……」
《……。なんならもう一度、おじさんとおばさんに言いに行こうか? 優樹をくれって》
「やめて……」
不快さを露わにした声に、優樹は首を振るが、反町は止まらない。
《何度でも言うよ。誰にでも言ってやる。なんなら明日、学園で生放送してやる。後藤さんに頼んで新聞作ってやる。そっちの学校に乗り込んでやる》
意地になりかけている気配に、優樹は「や、やめて……」と、声を詰まらせながら再度首を振る。
《みんなが認めてくれないなら、邪魔するなら強硬手段に出るまでだ。……、今から、そっちに泊まりに行く》
――優樹はガチッと硬直した。
《こうなったら……親父の二の舞踏んでやる》
怒りを込めた宣言に、優樹はじっと黙していたが、ナガレを更に力一杯抱きしめ潰しながら強く首を振った。
「こ、来ないでっ……、絶対来ないでっ!」
《……。なんか、ちょっとムカつくんだけど?》
「……。こ、……来ないでー……」
優樹は脱力気味の半べそで鼻を啜る。反町は間を置いて深く息を吐いた。
《……オレは、誰になんと言われようと、誰に反対されようと、諦めないよ》
「……、う……」
《……優樹、……もっと自分に自信を持って》
真剣さの中に、必死に訴えようとする。
《さっきのコーヒーを溢した人も消しゴムのことも、優樹さえ自分のやることに自信があったら深く考えなかったはず。……その時その時さ、なにが正しいかなんてわからないんだしさ、なら、自分を信じるしかないだろ? それでも間違ってるなら、オレが注意する。オレや洋一たちや、おじさんたちが優樹にこうした方がいいって助言する。自信過剰も困るけどさ、優樹のやることは、オレ、大半まちがいは起こさないって思ってる。……鈍いのは困るけど》
ナガレに顔を埋めて鼻を啜りながら大人しく聞いていた優樹は少し「?」と首を傾げる。
《ずっと学園で一緒にいたから、こんなコトになって離れて……周りからちょっかい出されるけどさ、それだって、自分の気持ちを信じて、……オレのこと信じてれば怖くないはずだよ》
「……」
《オレの気持ち、優樹にはまだ伝わってない?》
優樹はガバッとナガレの頭から顔を上げて、真っ赤な顔を必死に強く振った。
「んーんっ、伝わってるっ。ちゃんと伝わってるっ」
《でも不安なんだろ? ……ってコトは、やっぱり何かが足りないんだ……》
「そ、そんなことないっ……。……流君に、悪いトコは全然ない。……ほんとにない。……あるとしたら……私の方、だから……」
再び息を詰まらせて涙を零す、そんな優樹の気配を感じて、反町は間を置き切り出した。
《……不安なことがあるなら言って。……オレ、なんでもする》
優樹は顔を歪め、ポロポロと涙を零してナガレの頭に顔を伏せた。
《どうしたら不安が消える……? 消してあげるよ。どんなことでもする。言ってくれればなんでもする》
必死な声に、優樹は何度も息を詰まらせ、「うっ……う……」と喉から声を漏らす。
――会いたい。傍にいて欲しい。そういう想いが涙と共に溢れて、もう、止められなかった……。
「……っ……一緒、に、……いたいっ……」
息を詰まらせながら懸命に伝える。
「……っ……離れて、るの……いやっ。……一緒に……いたい……。……。……学園に……、……戻り、たい……。戻り……たい……」
言い切ったあとにまた大粒の涙が零れて言葉を詰まらせ啜り泣く。
――間を置いて、電話越しから《……わかった》と、落ち着いた返事が聞こえた。
《絶対に優樹が戻ってこれるようにする。一緒にいたいのはオレも同じだから。だから……がんばるよ。……待ってて。……必ず学園に戻してやるから――》
「協力してもらうぞ、いいな?」
みんなは横目で互いの顔をそろっと窺う。
翌日の学園――。生徒の通りが少ない渡り廊下にみんな呼び出され、朝から真顔の反町に睨まれた。
「……そ、そりゃ……協力は惜しまないけど……な」
洋一は引き攣った笑みを浮かべるが、一平は腕を組んで訝しげに眉を寄せた。
「せやけど……。おまえ、それやったらどないなるかわかっとんのか?」
「わかってる」
真剣な表情で頷く反町に、「……そらおまえはエエわな」と、大介は目を据わらせる。
「オレ地獄じゃーんっ!!」
半べそ気味に頭を抱えて背中を丸める白川を、反町はギロッと睨み付けた。
「協力するのか? しないのか? どっちなんだ?」
今にも殴りかかりそうな鋭い目つきの彼に、白川は「し、します……」と、体を縮めて生美の背中に隠れ、生美はため息を吐いてガックリと頭を落とした。
「……ああ……こんなことになるなんて……。……怒られそう……」
「優樹が戻って来るなら容易いだろ」
「そこまでやって戻って来る確率はあるんだろうな?」
立花が目を据わらせ聞くと、反町は素っ気なく肩を竦めた。
「さぁね?」
「……さぁねって……、おまえな」
「やらなきゃわからない。けど、絶対に無駄にはしない」
反町は真顔で、気落ちしているみんなを見回した。
「協力してくれ。オレは無茶するってバレてるから効力がないんだ」
「だろうね……」
「そりゃそうだろーよ」
みんなは深くため息を吐いた。
「……しゃーない。……どうなるかわからへんけど……」
「やるだけやるか……」
その頃――
優樹は自席で机を睨みながらグッと体に力を入れた。少し腫れぼったい目だが、表情は気合いが入っている。
――朝、反町からメールが届いた。「優樹にもがんばって欲しいことがある」と。
……私は私。……諦めちゃ駄目。……流君たちががんばるんだから……立ち向かわなくちゃ駄目……。
「おはよう大島さん」
クラスメートに笑顔で声を掛けられて、優樹は「はっ……」と顔を上げた。
「今日もいいお天気ですわね」
穏やかな微笑みで声を掛けられ、優樹は一瞬ドキッと心臓を高鳴らせ顔を強張らせたが、グッと気持ちを踏ん張らせるとニコッと笑い掛けた。
「う、うんっ、そうだね! 気持ちいいよねーっ!」
――脳裏で思い浮かべるのは、華音のあの、元気良さ。
「こんなに気持ちいいと、なんだか楽しくなっちゃうねーっ!」
元気一杯な大声に、教室はしーんと静まり返り、戸惑うような、蔑むような視線が集中する。
笑顔の優樹に、石のように固まっていたクラスメートは間を置いて小さく笑った。
「……大島さん、今日はとても元気でいらっしゃるのね」
「うん元気! チョー元気! もう走り回りたいくらいっ!」
ギュッと胸の前で拳を握る優樹に、クラスメートは一瞬怯えた表情を浮かべ、引き攣った笑みで「……それでは」と傍から離れた。「関わり合いたくない」――そんな雰囲気だ。
……が、がんばらなくちゃっ……。
静まり返る教室内、みんなの冷めた視線を受けながら優樹はドキドキを隠して深呼吸を繰り返し、机の上でギュッと拳にした手を見つめた。
――青称学園では、この日一日学力テストだ。十数日前から予定に入っていたテストに、生徒たちはもちろん、前以て勉学に励んでいた。
……励んではいたのだが――
「……ふぁ……」
大介はペンをクルクル回しながら大きく欠伸をして目をぼんやりと細めた。同じクラスの白川は、机に落書きをして遊んでいる。周りはみんな、机に向かってカリカリ……とペンを動かし、たまに悩んでいるのに。
大介は再び欠伸をすると、でたらめを書きつづった答案用紙の上に顔を伏せてそのまま居眠りを始めた――。
「大島さん、よろしければご一緒しません?」
授業の合間の休み時間は誰からも話しかけられることなく避けられていたのだが、昼食の時間になると声を掛けられ、優樹は「……来た!!」と、内心ドキドキしながらも間を置いてにっこりと笑った。
「うんっ、いいよっ」
元気よく笑顔で頷くと、女生徒は目をぱちくりとして苦笑した。
「……大島さん、なんだか今までとは違うみたいですわね。何か、いいことでもありました?」
「んー……。あったかもねっ」
「へへへっ」と肩を竦めて笑う優樹に、女生徒は笑顔を絶やさず「……では参りましょうか」と歩き出す。
――いつもの場所で、いつものように、女生徒たちが小声で話しをしてお淑やかに笑っている。優樹はそんな彼女らを見回して、勧められた椅子へと腰掛けた。
まだまだ食欲も回復しきっていない。その為に軽く箸を進めて終わらせる優樹を見て、同席の女生徒が声を掛けた。
「食欲はまだお戻りになりません?」
「だいぶマシにはなって来てるけど……。もうちょっと、掛かりそうな感じがする」
敬語など一切使わずに苦笑気味に返事をすると彼女たちは少し目を見合わせたが、それでもそれを突っ込むことなく笑みを溢した。
「でも、以前に比べたら元気になられましたよね?」
「……うんっ。いつまでもクヨクヨしてられないしねっ!」
笑顔で元気よく答えた優樹の声が辺りに広がり、周囲の女生徒たちが不愉快そうな視線を向けて来る。同席の女生徒も少し戸惑い、さすがにそっと優樹へ身を乗り出した。
「……大島さん?」
「ん? なに?」
「……元気になられたのは喜ばしいのですけど……あまり大きな声を出されると、他の皆様方にご迷惑をお掛けしますから……」
「あっ、……ごめんね!」
優樹は大きく謝ってガバッと頭を下げ、そして顔を上げるなりにっこりと笑った。
「聞いて聞いてっ。あのねっ、うちに大きなクマのぬいぐるみがいるのっ。すっごくかわいいのっ! いっつも抱いて寝てるんだっ!」
ワクワク顔で、やはり元気一杯話し出す優樹に、注意を促した同席者たちは顔を見合わせ、周りの女生徒たちの視線が更に険しくなる――。
「ぬいぐるみの洋服、売ってるようなトコとか知らないっ? 出来るだけ長持ちさせたいから、洋服着せちゃおうかと思ってっ!」
「……そこまでなさらなくても……汚れてしまったら新しい物をご購入されたらいかがです?」
「ぬいぐるみでしたら、よく新しい物が出ていますものね」
「古い物より出来映えもいいでしょうし、品質も良くなっているでしょうから」
苦笑しながら勧める女生徒に、それまで笑顔だった優樹の顔が一変した――。
「……あなたたち、物を大切にしようって気持ちがないの?」
真顔で問われた女生徒たちは、顔を見合わせ、それでも苦笑する。
「ありますわよ。けれど、ぬいぐるみはすぐに駄目になってしまいますから……」
「よほど管理をしっかりなさらないと。けれど、お休みの時も一緒なら……あまり長持ちはしないでしょうね」
「特別にあしらえれば型も残るでしょうから、いつでも同じぬいぐるみを所持できるんじゃありません?」
静かに意見を出し合う彼女たちに、優樹はムッと目を据わらせ、テーブルに手を付いて身を乗り出した。
「汚れたら洗えばいいでしょっ? 埃だって、はたけば落ちるでしょっ? 破れちゃったら縫い合わせればいいんだよっ。大事だって思える、その気持ちが大切なんじゃないのっ? ぬいぐるみって、管理する物じゃないでしょっ。同じように作り替えればいいって物じゃないでしょっ!」
真剣に訴える優樹に女生徒たちは顔を見合わせ、周りの女生徒たちもしーんと静まり返ってしまう。
「あなたたちはいったい何を大切にしてるのっ? 何が大事なのっ? 大笑いしたことがある!? 騒いで、泣いて、走り回ったことはある!? 馬鹿なことをして怒られたことはないの!?」
優樹の大声に奥から教師たちが「何事ですっ?」と訝しげに駆け寄ってきて、同席の女生徒たちは不愉快げに見上げて首を振った。
「……大島さんが、突然……」
「いったいどうなされたのかわかりません」
優樹はムカッと眉をつり上げてガタンッ! と椅子を立った。
「昼食会!? こんな息が詰まりそうなトコっ……、ただでさえ食欲ないのにもっと食欲なくなっちゃう!!」
「なんてコトを言うんですかっ!」
「おばさんは黙ってて!!」
腕を掴んで制止しようとする教師の手を振り払って睨み上げる。「おばさん」呼ばわりに多くの女生徒たちは唖然としたが、一部の女生徒は「……プッ」と軽く吹き出した。
「大体おばさんたちが変なこと教えてるんでしょ!! どうせ自分たちは裏でおもしろいことしてるくせに!! みんなにばっかり押し付けないで!! だからみんなこんなになっちゃうんだよ!! この子たちを変な子にしないでよ!!」
怒鳴る優樹に、教師たちは「……。なっ!」と愕然と目を見開いて頬を引き攣らせる。
「おばさんたちだって若い時は羽目を外して遊んだでしょ!? なんでみんなを閉じ込めちゃうの!? なんでもっとおもしろいこと教えてくれないの!? なんで楽しむことを教えてくれないの!?」
教師たちは「こっちにいらっしゃい!」と怒りを露わに優樹の腕を掴み引っ張る。
「何するのよーっ!! 何が悪いのよーっ!!」
「黙りなさいっ!」
「なんで黙らなくちゃいけないのよーっ!!」
「うるさいでしょ!!」
「おばさんこそうるさいってば!!」
「お黙り!!」
「羊の皮をかぶったオオカミー!!」
「いい加減になさいな!!」
大声で叫く優樹を同じように大声で制しながら、足を踏ん張る彼女をズルズルと引っ張りそこから連れ出す。学校始まって以来の“大騒動”に、ただじっと窺っていた女生徒たちは、そっと顔を見合わせ、「……、プッ」と吹き出しクスクスと笑った。
――その頃、お昼ご飯をのんびりと食べていた反町は、机に置いていた携帯電話の静かな着信に目を向け、それを手に取って相手を確認した。冴子からだ。
内容を目で追って読み切ると、ひとつ、大きな深呼吸をし、肩の力を抜く。周りで一緒に黙々と食事を進めていた洋一たちみんなは顔を見合わせ、「……成功みたいだな」と、嬉しいやら、複雑やらで細々と箸を進めた……。
「誠に申し訳ありません……」
深々と頭を下げる、大島と聖菜の間で優樹は不愉快げに学年顧問を睨み付けた。――校内の応接室にて。大きな木造のテーブルを真ん中に、ソファには学年顧問と担任と生活指導教員と教頭、その対面に大島親子が向き合っている。
「突然のことで驚きましたわ。生徒たちも動揺しているようですし、このままではと思いまして」
「本当に申し訳ございません……」
顧問の女教師に不快げにため息を吐かれ、大島も聖菜もただただ頭を下げる。
「お嬢さんは他校から参られたばかりですし……。そちらでどのようなご教養をお受けになられていたのかは知りませんが、私共と致しましても、このままでは本校でお預かり出来るものか……」
聖菜は「すみません」と何度も深々と頭を下げる。優樹は内心ドキドキしながら、表情では怒りを込めて聖菜を見上げた。
「お母さん、謝らないで」
その言葉に教師たちは顔をしかめた。
怪訝な空気に聖菜は「こ、この子ったらっ」と慌てて制しようと目を向けたが、優樹は口を尖らせ、聖菜の服を掴んですがり寄った。
「だってねっ、だってっ……、お父さんからもらったぬいぐるみ、汚くなったら捨てろって言われたのっ!」
聖菜も、そして大島も少し顔をしかめた。
「ずっと一緒にいたいから、汚さないように洋服着せてあげようと思ってっ。どこか売っているところはないかなって聞いただけなのにっ。汚れたら捨てろって言われたのっ……」
優樹は怪訝に眉を寄せる大島を半べそ気味に見上げ、聖菜と同じように服を掴み引っ張った。
「お父さんからもらったぬいぐるみなのにっ……」
優樹は顔を歪め、大島の腕に抱きついて顔をすり寄せる。
「大事にしたいだけなのにっ……。捨てろって言われちゃったのっ……。……大事にしちゃ駄目なのっ? ずっと持ってちゃ駄目なのっ? お父さんがくれたのにっ。……大好きなぬいぐるみなのにっ!」
ギュッと腕にしがみつく優樹を見て、聖菜も、そして大島も段々と不愉快さを顔一面に表し、少し戸惑いだしてきた教師たちを見回した。
「本当ですかな?」
大島の真顔の問い掛けに、教師たちは慌てて目を見合わせると、「か、確認いたしますっ」と担任が足早に席を立つ。優樹は肩を震わせて、しがみついた大島の腕に顔を擦りつけた。
「お父さんがくれたのにっ。すごくかわいいのにっ……。大切にしたいだけなのにっ……。すぐに捨てちゃうなんてっ。……そんなこと出来ないからっ、……したくないからっ……。……すごくっ……すごくイヤだったからっ……。だから怒っちゃったのっ……」
「……優樹、もう泣かなくていいから」
「ごめんなさいお父さんっ……。……っ。ぬいぐるみ捨てたくないっ……」
大島は腕にしがみつく優樹を一旦離し、体を抱き寄せ頭を優しく撫でながら、息を詰まらせ動揺する教師たちを厳しく見回した。
「これが事実でしたら、お宅様の教育方針を疑いますな」
「どういうご教育をされてますの?」
聖菜もさすがに不愉快そうに目を据わらせている。
「主人が娘にプレゼントしたぬいぐるみを……。たとえ主人からの物でもなくても、汚れたら捨ててしまえなんて……。子どもの気持ちをなんだと思ってるんです? うちの子は、とても純真な子なんですよ?」
純真な子どもが「おばさん」とか「羊をかぶったオオカミ」と大きく叫ぶものなのか……。
教師たちはなにやら腑に落ちない様子で、それでも頭を低くする。――しばらくして席を立った教師が戻って来て、足早に顧問に近寄ると、腰を低くして小声で何かを告げた。顧問は困惑げに眉を寄せ、小さく息を吐くと、大島と聖菜を真顔で窺い頭を下げた。
「……申し訳ございません。確かにお嬢様と同席していた生徒がそうお嬢様に申したそうで……」
それを聞いて、教頭たちも慌てて頭を下げるが、優樹は「うっ……」と声を殺して大島の胸に強くしがみつく。大島は優樹の背中を撫でながら教師たちを見回した。
「それはどちらのお嬢さん方ですかな?」
「やめてっ……お父さんっ……」
優樹は顔を伏せたままで頭を振った。
「……私もいけなかったの……。あんなに怒って……。みんなをビックリさせちゃって……。先生たちにも酷いこと言っちゃって……。……ごめんなさい。……お父さんとお母さんも、ここまで来て……。……っ。……ごめんなさいっ……。……いい子になろうと思ったのにっ……。……ごめんなさいっ……」
――この言葉のあと、やっと本当の涙が溢れ出てきた。優樹は何度も息を詰まらせ、肩を震わせる。大島は優樹の背中を撫で、聖菜は厳しい目で教師たちを睨み付けた。
「この子をここに預けていいものか、よく主人と相談の上で判断させていただきますわ」
聖菜はそう険しく言いながら恐縮しきっている教師たちを一人一人、顔を覚えるように睨み見ると、大島にしがみついたままで泣いている優樹の肩に手を置いた。
「……優樹ちゃん、ほら……お家に帰りましょ。……しばらくお休みして、気持ちを落ち着けなさいな……」
優しく声を掛けて頭を撫でると、優樹は大島にしがみついたまま返事はせず、ただ、小さく何度も頷いた。
――その後、大島と聖菜に連れられて優樹は学校をあとにした。大島は一緒に家へと戻ろうとしたが、「お仕事に戻ってください」と聖菜に厳しく諭されて渋々仕事へ。
家に着くと、優樹は部屋に閉じこもり、ナガレをしっかりと抱いて泣き疲れ、眠ってしまった。
……その頃、反町たちは――
「そっちはどうだった?」
「……バッチリ。……って言いたくないけど……バッチリ」
「……かのん、家に帰りたくなぁーい……」
「……確か八十点以下取ったら……ヤバかったんだよな?」
「連続追試決定」
「……しばらく徹夜で勉強せなぁー……」
「オレが終わったらテスト内容を教えてやるよ。半分くらいは似たような問題出して来るだろ?」
「え、それ、いいんですか?」
「ゲッ! オレと勝則不利じゃん!」
放課後の部室、テーブルに置かれたみんなの“0点”のテスト用紙……。
白川と大介と相川は、担任に呆れるように「真面目にしろ!」と怒られた。
洋一と一平と生美と華音と勝則は、「何をたくらんでるんだ?」と疑われた。
反町と立花は、「も、問題は間違ってなかったよな!?」と焦られた。
とりあえず、それぞれが“無事に”出されたすべての教科にて0点を取った、本日のテスト――。
「あとは優樹の方ね……」
「……優樹がどれだけおじさんたちをその気にさせてるか……」
と、言葉を終わらすと同時に携帯電話が鳴り、反町は「もしもし?」とそれに出る。
洋一は「っはぁー!」と、椅子に脱力気味にふんぞり返った。
「0点なんて初めて取った」
「結構ドキドキだよねぇーっ?」
「っちゅーか、追試、マジでやばいっちゅーねん」
「八十点以上って……普段でも取れないんだぞー……」
「勉強に付き合ってやるよ」
「ああ……、おこずかい減らされそうだわ……」
「オレらなんか仕送り減らされたらどないすんねん」
「……死活問題だな」
「そん時はおまえらんとこにメシ食いに行くぞ」
「……、うちが死活問題になる」
それぞれ話しをしていると、反町は「それじゃ……」と携帯電話を閉じ、みんなを見回した。
「優樹のトコのおじさん、帰ってきたって」
「冴子さん?」
「うん。……かなり怒ってるらしいぞ」
「……。な、なにに?」
「優樹が行ってた学校に」
「よっしゃ!!」と、みんなが勝ち誇ったように顔を見合わせて大きく頷く。
「まだまだ。……今度はオレたちの番だ」
「そうね。とりあえず、優樹とあの学校を引き離せたってだけだものね……」
「よし。じゃあ、椎名先生を呼びだして……行くか」
コンコン……とドアをノックして、「失礼いたします」と、冴子はお茶の乗ったお盆を手に社長室に入った。そしてドアを閉めると、奥のデスク、睨むようにどこか一点を見ている大島を窺いながら静かに近寄る。
「……社長? どうかなさいましたか?」
「……。優樹はもうあの学校には預けん。そう決めた」
「……何か問題でも?」
「子どもの気持ちを踏みにじる、そういう所だった。……優樹にぬいぐるみをあげたんだが、優樹は大事にしたいと思っているのに、それを汚れたら捨ててしまえなど。……。危うく優樹を傷付けるところだったよ。早くこういうことがわかって良かった。……あそこは優樹のような子には合わないんだ」
少々怒りに打ち震える大島に、冴子はすっとお茶を差し出した。
「優樹さんは、とても優しいお嬢様ですもの……」
「……酷いことを言われたのに、それでもすべてを自分のせいにしようとした。……泣いているあの子を見るのは辛い……」
「奥様も同様だと思います。……優樹さんも、これ以上心配を掛けまいとしていたんでしょうけど……。周りの環境が悪かったのですね。……もし、そこに優樹さんの味方をしてくれるようなご友人がいらしたら、優樹さんの気持ちも少しは和らいでいたことでしょうけど……」
「……そうだな。……編入早々で、友達もいなかっただろうからな……」
額を押さえて項垂れる姿に、冴子はお盆を胸に抱いて少し苦笑した。
「あまり深くお考えになると体に毒です」
「……。ああ」
「では、私は仕事に戻りますので、ご用の際は」
「……ああ」
冴子は会釈をして背を向けると、「……あ」と、何かを思い出すように大島を振り返った。
「そうですわ……」
切り出した冴子に、大島は顔をゆっくりと上げた。
「……どうした?」
「いえ……。実は私の知人の兄弟が青称学園に通っているんですけど、……優樹さんとご学友でしたみなさん、最近、全く元気がないようで……」
「……」
「なんでも、成績も下がり気味らしくて、みなさん、テストで赤点を出しているようですわ」
大島は少し顔をしかめた。
「……ご学友のみなさんも、優樹さんがいなくなって寂しい思いをしているのでしょうけど、このことが優樹さんのお耳に入ると、優樹さんもきっと心配されると思うので……。辛い時期ですが、乗り越えなければならないのですね……」
冴子は寂しげに深く息を吐くと、小さく会釈をして静かにそこを出た。
――残された大島はしばらく身動きできずにいたが、お茶を手に、ズズ……と、それをすすり飲んだ。
その頃、大島家では……
「真里乃さんからお電話を頂きまして」
「まぁ、石田さんったら……。こんなことでわざわざ」
“前以て”反町から計画を聞いていた石田を出迎えた聖菜は、不安げな彼をリビングに通して苦笑した。
「心配ないんですよ」
「けれど、以前のこともありますし……」
「……はぁ、石田さんって、なんて優しい方なのかしら……」
うっとりと見とれる聖菜に、石田は「い、いえ……」と、“照れ”というより“恐れ”て目を逸らしつつ一歩遠ざかる。その様子に背後から付いてきた真里乃は少し顔を背けて「くすくす」と笑った。
「それで……優樹ちゃんの様子はどうなんですか?」
「部屋に閉じこもってます。様子を見に行ったら、主人があげたぬいぐるみをしっかり抱いて眠ってました。……泣き疲れたようですわね……」
聖菜はソファに座って肩の力を抜きつつため息を吐いた。
「あんな学校だったなんて……。名門だと聞いたから預けたのに……」
「……。優樹ちゃんはこれからどうするんですか?」
「今晩、主人と話しをして、次の学校の編入先を決めようかと思っているの。……どこかいいところを知りません? 自分で探すより、評判を聞いた方がいいような気がするわ」
再びため息を吐く聖菜に真里乃と石田は目を見合わせ、彼女の対面のソファに腰掛けた。
「……ねぇ、お母さん。優樹をもう一度、青称に預けたらどうかしら?」
遠慮がちに、それでも真顔で切り出す真里乃に聖菜は顔をしかめた。
「一度出ていったところにもう一度預けるなんて……。そんな馬鹿なことが出来るモンですか」
フン、と不快そうにそっぽ向かれたが、真里乃は退く素振りも見せず、逆に身を乗り出す。
「お母さん、よく考えてみて。……去年まで、優樹はどんな状態だった?」
軽く首を傾げて目を細め訊く娘の問い掛けに、聖菜は思い出してきたのか、少し戸惑いを見せ始める。
「翔太君が死んで、あの子、ずっと笑わなかったのに……、反町君たちと会って、やっと笑うようになったのよ? 忘れたの?」
「……」
「学園が嫌いなら嫌いでもいい。けれど、反町君たちがいるってことを忘れないで。……もし、今度のことでまたあの子が人を信用出来なくなってしまったら……誰があの子を笑わせられると思う?」
「……」
「私たちがいても駄目だったの。……悲しいけれど、そうだったでしょ?」
寂しげに訴える真里乃に、聖菜は困った顔で目を泳がした。
「……でもねえ真里乃ちゃん……」
「僕からもお願いします」
石田も真里乃と同じように真顔で身を乗り出す。
「優樹ちゃんを、もう一度学園に戻してもらえませんか?」
「……。け、けどねぇ……」
「優樹ちゃんの笑顔が戻るなら、それはやっぱり反町君たちの力も必要だと思うんです。僕は去年から彼らの行動を見ていましたから、はっきりとわかるんです。……反町君たちなら優樹ちゃんを泣かせるようなことは絶対にしません。……一ヶ月前に起こってしまったことは、反町君たちの責任ではありませんし、学園の責任でもないんです。悪い輩が優樹ちゃんを狙ってしまった。……けれど、反町君たちは臆することなく立ち向かってたんですよ? ……それだけ、彼らにとっても優樹ちゃんが大事なんです。……それは、優樹ちゃんも同様なんじゃないでしょうか?」
石田は戸惑い俯く聖菜をじっと見つめ、更に真顔で続ける。
「本当の笑顔を向けられる相手こそが心を許せる相手です。今の学校のような所に通って、優樹ちゃんは素敵な女性になることは出来ても心の底から笑うことが出来るんでしょうか? 子どもって、そんなに周りに気を遣いながら成長しなくちゃいけないんでしょうか?」
問い質すように身を乗り出す石田に、聖菜はためらい視線を逸らした。
「……石田さんの言うことはとてもわかるわ。……そうね……。……出来るなら……そうしてあげたいけど……」
「……けど?」
「……学園を出ていくことを決めたのは主人の考えでもあるし。……あの人が頷かない限り、私には……」
「お母さん、私も力になるから」
真里乃が真剣に身を乗り出すと、石田も頷いた。
「僕も……、……お義母さんの力になります」
聖菜は少し目を見開き顔を上げた。――キョトンとしていた表情が段々と緩む。余程、「おかあさん」と呼ばれたことが嬉しいのか。
聖菜は間を置いて、グッと顔を上げた。
「……わかりました。……私に任せなさいっ」
意気込んで深呼吸をする聖菜に、真里乃と石田は顔を見合わせて笑顔で頷いた。
プルルルル……と内線が鳴り、大島は書類に目を通しながら受話器を取った。
「はい。……」
少し顔をしかめて内容を聞くと、「……通しなさい」と小さく告げて受話器を置き、ため息を吐きながら書類をまとめてデスクに置いた。しばらくしてドアがノックされ、冴子が「失礼します」と会釈してそこを開けた。
「社長……」
「うむ」
「……よろしいんですか?」
「ああ。通してくれ」
「……かしこまりました」
再び会釈すると、「……どうぞ」とドアを大きく開ける。そこから「……失礼します」と、気落ちした様子の反町たちと、怯えた雰囲気の椎名が入ってきた。
俯いたまま、横一列に並ぶ反町たちを見回し、大島はデスクに手を付いて立ち上がると冴子に目を向けた。
「……何か用意出来るか」
「かしこまりました」
冴子が会釈してドアを閉めると、大島は、それを振り返っている椎名へと近寄った。
「……大島です」
すっと名刺を差し出され、椎名は「え? あ、ああ!」と慌てて鞄の中を探って、白川に作ってもらった偽の名刺を取り出した。
「わっ、……わたくしっ、青称学園高等部のっ……に、二年顧問の椎名と申しますっ……」
焦りで顔色のない椎名と名刺を交換し、大島は真顔のまま「……それで」と切り出しながらも、顔を上げられない反町たちを見回している。
「どのようなご用件ですかな?」
「は、はいっ」
椎名は慌てながら横一列になってずっと俯いている反町たちに手を向けた。
「こっ……、この子たちの様子が最近おかしいものですからっ。問いつめてみるとっ……どうもお嬢様が学園からいなくなったことで悩んでいるようですのでっ。……あっ、この子たちは以前、お嬢様と同じ部活動をしていたものでっ」
大島はデスクの片隅に腰を下ろして腕を組む。
「そ、それでっ……その……。あ、ああっ、テ、テストもホントにさんざんな成績なものですからっ。こ、この反町君や、立花君は学年でもトップを競い合う程優秀な生徒ですのにっ……、……れ、0点を取りましてっ」
大島は顔をしかめ、焦ってどもりながらも訴える椎名から俯きっぱなしの反町に目を向けた。
「……。反町君、本当かね?」
「……。……すみません……」
「そ、反町君だけじゃなく、この子たちもなんですっ」
と、椎名が洋一たちの方に手を向けると、洋一たちは「……すみません」と、一斉に用意していた0点の答案用紙を広げて見せる。――大島はますます顔をしかめた。
「こ、このようなことは今まで学園でも例がありませんしっ……、な、何よりもこの子たちの今後が心配でしてっ。ご、ご迷惑かと存じ上げましたのですがっ……お嬢様に関しては極力処理して頂かなくてはっ」
「おじさんっ」
緊張で顔を赤くして訳のわからないことを言い始める椎名を止めるべく遮って、反町は前に足を踏み出し、訝しげに眉を寄せている大島を真顔で見上げた。
「お仕事中にすみません。……ご迷惑をお掛けするつもりはなかったんですけど、……ボクたちの事情を知った先生が、どうしてもと……」
悲痛な表情で視線を落とす反町の後ろで、「は、はいっ、その通りなのですっ」と、椎名は大きく数回頷く。
大島は間を置いて深くため息を吐いた。
「君たちが娘のことを心配してくれているのは嬉しく思うが……。しかし、君たちの勉強と娘とは関係のない話しだろう」
「……、もっともです……」
「娘のせいにする前に、自らを反省すべきではないのかね?」
「お嬢さんのせいにはしていませんっ。……絶対に」
反町は身を乗り出して真顔で大島に告げると、少しずつ、顔を斜め下に向けた。
「……こんなことでお会いするなんて、……情けなくて、本当に恥ずかしいです……。……こんな失態をさらけ出すようなことになって……。出来ることなら……こんなことは知られたくありませんでした……」
悲しげに俯く反町に、大島の目がウロウロと泳ぎだした。
「……優樹さんには……出来れば言わないでいただけますか……。……彼女の信頼をなくすのが、……心配をさせるのがボクたちにとって、今、一番辛いことだから……」
瞬きをする回数が増え、段々と声が震え出す。
「……先生が、優樹さんさえ学園に戻ってきたらいいのか、って……。……それで、……おじさんを説得するって……ボクたちを引っ張ってきたんです……」
心痛さを訴えるように項垂れてグッと拳を作る反町に、大島は少し戸惑っていたが、「……ッホン」と軽く咳払いをして背を伸ばし、うろたえながらも息を飲む椎名に目を向けた。
「……椎名先生……と、申しましたかな?」
「は、はいっ!」と、返事をすると同時にビシッと背筋を伸ばす。
「……子どもというものはとても繊細ですよ。このような……、成績が悪かったなんて、親御さんにだって隠したいことでしょうに。それをわたしに報告など。娘のことは置いて、このようなことでは彼ら自身、失敗は許されないという圧迫感にさいなまれてトラウマになりますぞ」
「……は、はあ」
「子どもは、失敗を繰り返し、そして学習していくものでしょう。それを責めているばかりではいけないと思いますがな?」
「……は、はい。……その通りでございます……」
椎名は恐縮しきって肩を縮め、ズーンと落ち込む。
大島は深く息を吐くと、俯くみんなを見回した。
「……このことは優樹には言わないから安心なさい。……わたしもあの子には出来るだけ大きな心配を掛けたくはない……。けれど、君たちは君たちでちゃんと勉強をするべきだろう。親御さんに心配を掛けるようなことをしてどうする」
大島が少し厳しく言い聞かすと、華音が突然、目に手の甲を当てて「グスグス……」と鼻を啜り出した。
「……エグ……。……かのん、怒られちゃう……」
隣にいた生美が「……泣かないの」と、背中を丸めて肩を震わせる華音の腕を撫でた。
「だって……。だってぇ……」
「……泣いたって仕方ないでしょ。……おじ様の言う通り、私たちに出来るのは勉強することだけなんだから……」
悲しげに囁く生美の言葉に、大島は少し顔をしかめた。
華音はそれでも「エグエグ」と両手で目元を擦る。
「だって……だってぇっ……、かのん優樹がいないと寂しいんだもんーっ!」
エーン! と、その場で泣き出す華音に、生美は「よしよし……」と、肩を優しく抱いて頭を撫でる。――大島は「う……」と息を詰まらせて少し身を退いた。
まるで優樹を相手にしているような雰囲気だ。「……あいつはおじさん似なんだな」と感じながら、洋一はチラっと一平へと視線を向ける。その視線に、一平は小さく息を吐いた。
「……オレ、……このままやと大阪帰らなあかんかもしれへん……」
「大丈夫だって。……オレから一平ンとこのおじさんたちに上手く事情説明するしさ」
白川が寂しい笑顔で言うが、しかし、一平は額を押さえてかぶっていた帽子の端を掴むと頭を振った。
「せやけど……。……オレ、このまま帰られへんて……」
「……優樹が心配なのはわかるけどさ、……オレたちじゃどうにも出来ないんだから……。……悲しいけどさ。……おじさんの言うとおり、勉強がんばるだけしかないんだよ……」
白川が「……な?」と悲しげに一平の顔を覗き込む。――大島は「……うっ」と、更に身を退いた。
立花は隣の反町に真顔で目を向けた。
「……いいのかよ? おまえが一番優樹のこと、心配してんだろ」
大島はゴクッと唾を飲み、そろっと、何か恐ろしい物でも窺うように俯いている反町へと目を向けた。
反町は立花の言葉に少し眉を動かしたが、俯いたままで小さく笑みを溢した。
「……オレには、影で見守ることしか出来ないよ……」
大島は「うっ……!」と、息を詰まらせて眉間にしわを寄せる。――弱い心臓がバクンッと波打った。
「……、けど……」
反町は顔を上げて大島に近寄り、真剣な表情で見上げた。
「……おじさんっ」
「……」
「もしっ……もし優樹さんを学園に戻してくれるならっ……ボク……ボクはなんでもします! ホントになんでもします!」
「……。そ、反町君……。あ、あのな……」
「代わりにボクが学園を出ていってもいいっ。……このままじゃみんなっ……、心配するばっかりでっ……」
反町は悲しげに、訴えるように首を振った。
「なんでも言うことを聞きます! だからっ……、……優樹さんを学園に戻してください! お願いします!」
反町が大きく頭を下げると、「こ、こら、やめなさい……」と、大島は慌てて彼の腕を掴んで頭を上げさせようとする。
「おじさんが優樹さんのことをとても大切に思って学園を辞めさせたのはわかっています! ……無理は承知でお願いします! ……優樹さんを学園に戻してください! ……ボクたちの為に、優樹さんをもう一度、……ボクたちにチャンスをください! お願いします!!」
何度も深く頭を下げる反町に、大島は明らかにうろたえる。――と、コンコン、とドアがノックされてそこから「失礼します……」と冴子が入ってきた。だが、ざわついているみんなに気付いてその場に立ち止まり、困り果てている大島を窺う。
「……後程に致しましょうか?」
「い、いや、いいんだっ。並べてくれっ!」
まるで「助けてくれっ」と言わんばかりに頷かれ、冴子は「かしこまりました」と他の秘書と一緒にお茶とケーキを運んでテーブルに並べる。洋一はそんな冴子を振り返った。
「冴子さんっ」
「……。はい?」
「流がっ……優樹の代わりに学園を辞めるって言うんだよっ!」
縋るように訴える洋一に、冴子は顔を上げて大島を見た。――大島はやはり困り果てている。
冴子は「……社長がかわいそう」と思いながらも苦笑した。
「優樹さんが学園にお戻りになられて、反町君がいないとわかったら……それは自分のせいだと勘違いなさるでしょうね。……優樹さん、とてもお優しい子ですし……、みなさんのことを大切に思ってらっしゃるから、一人でもいなくなってしまうと、とても悲しまれることでしょう……」
「でしょっ!? なのにっ、……流の奴がさっ!」
「反町君、いくらみなさんや優樹さんのことが大事だからと言って、自分を犠牲にするものじゃありませんよ」
反町は冴子の言葉に少し顔を上げた。
「……けど……。……そうでもしないと誰にも伝わらない。……伝わらないから……」
グっと悔しげに拳を握り締める姿に大島は「……っ」と息を詰まらせる。
冴子と一緒に入って来てケーキを並べ終えた秘書は先に「失礼いたします」と会釈してその場を出て、ドアの向こうで「くすくす」と笑う。
冴子はため息を吐いて大島を窺った。
「……社長……」
大島は困惑していたが、頬を引き攣らせて笑うと「……ほ、ほらっ」とテーブルの方に手を差し出した。
「ケ、ケーキだっ。ここのケーキはとてもおいしいからっ。そ、そうだったな冴子君っ?」
「はい」
「ささっ、座って食べなさいっ」
ほらほらっ、と、機嫌取りをするように、大島は焦り気味にみんなをソファに勧める。だが、誰一人としてそこから動かない――。
反町は、完全にうろたえに入っている大島をじっと上目遣いで見上げた。
「……。……おじさん」
「……」
「……」
「……」
訴えるような目で見つめられ、大島は言葉を詰まらせていたが、しばらくして小さくため息を吐いて項垂れた。
「わかった。わかったから。……ったく……。……キミはやっぱり強敵だな……」
反町が表情を消し、みんなが目を見開くと、大島は再度ため息を吐いて苦笑気味の顔を上げた。
「……前向きに考えよう」
みんなはパッと表情を明るくして大きく目を見開き、数歩大島に近寄った。
「ホント!?」
「おじさんホント!?」
大島は嬉しそうに詰め寄る彼らを見て苦笑する。
「ああ。……ただ、うちの家内がなんて言うか……。……ただでさえ優樹のことじゃうるさい奴だから……」
「おじさんの言うことなら、おばさんはきっと聞きますよーっ」
「だって、こんなに素敵なおじ様だもの」
「さすが! おっちゃん話しわかるやん! エエわー!」
「おい、社長だぞ」
「優樹も好きだけど、優樹のパパも大好きぃー!!」
調子よくはしゃぐ彼らに、大島は深くため息を吐いて「わかったわかった」と頷いた。
「……ケーキでも食べなさい」
「いっただっきまーす!」と、今までの深刻さはどこへやら。みんな元気よくソファに座って紅茶を飲みケーキを食べる。
「ん! メチャウマ!」
「おいしーっ。今度、優樹と一緒に食べにいこーか、せーみちゃんっ」
「いいわね」
「……あ。オレ、優樹にケーキバイキングに連れて行けぇ言われてんねや……」
「なんだ、それ」
すっかりくつろいでいるみんなに、大島はデスクの片隅に座って苦笑する。冴子はそんな大島に近寄って、傍で少し微笑んだ。
「……子どもには敵いませんわね?」
「……。わたしは甘いか?」
「どうでしょう? けど、子どもたちには好かれますよ」
「……。それはいいことなのか、よくわからんな……」
情けなく笑う大島に冴子は「ふふっ」と愉快げに笑みを溢す。
反町は軽く紅茶を飲んで立ち上がると、深く息を吐いて大島に近寄った。
「……、本当にすみません……」
申し訳なく頭を下げると、大島は苦笑しつつもどこか悪戯っぽく方眉を上げた。
「……それで。これは君の作戦か?」
反町は分が悪そうに少し視線を逸らし、間を置いて大島を見上げた。
「ボクたちには、作戦なんてありません……。……ただ、無我夢中なんです。……みんな、優樹さんのことが大事で、本当に心配で。……その思いが、誰よりも強いだけです」
弱い笑みを浮かべて告げる反町に、大島は少し苦笑した。
「君たちの思いに、負けてしまったな」
「……、いいえ。……ボクたちは、おじさんやおばさんには敵いません。……どんなことをしても。だから、こうして助けを求めに来たんです……。ボクたちだけでは、どうにもならないんです……」
悲しげな笑みで俯く姿に、大島は「うっ……」と、また戸惑い息を詰まらせる。その姿に、「……優樹さんにそっくり」と、冴子は顔を背けて笑いを堪え、ソファ席から窺いを立てていた洋一たちも「優樹みたいだ」と小さく笑う。
反町は苦笑すると、ため息を吐く大島をそっと見上げた。
「……、優樹さんは、これから……」
「ああ、気にすることはない。……どちらにしても、優樹には別の高校を見つけなければならないところだったしな」
「ふぅ」と一息吐いて軽く肩を竦めると、反町はそろっと上目を向けた。
「……。ボクたち……このままお嬢さんとお付き合いしてもいいんでしょうか?」
「ん? ……なんだ? 優樹の友達なんだろ?」
首を傾げる大島に、反町は笑顔で「……。はい」と頷いた。そしてソロ……と再び上目遣いで大島を見る。
「……ボクも、このままお付き合いしてもいいんでしょうか?」
冴子は吹き出して笑った。
大島は少し目を据わらせたが、深くため息を吐いて「……うんうん」と頷く。
反町は嬉しそうに笑ってソファに戻ろうとしたが、「あ、……反町君」と呼び止められ、首を傾げながら向き合った。大島は少し遠慮がちに小声で切り出す。
「……その……。……ちょっと、聞きたいことがあるんだが……いいかね?」
「……。はい……」
「……」
大島は真っ暗になっている優樹の部屋に入ると、窓から入って来る月明かりの中、ベッドでぬいぐるみを抱いて眠っている娘を見て苦笑すると、静かに近寄って、その片隅に腰を下ろした。
家に帰って来るなり、待ち構えていた聖菜と対面した。そして、互いに最初に出た言葉は、
「優樹のことで話しが……」
二人は顔をしかめた。そして再び口を開くと、また……
「優樹を学園に戻そうかと思って……」
二人は更に顔をしかめた。
影から覗いていた石田と真里乃は互いの顔を見て「うん」と笑顔で頷き、石田はそのまま反町に「もう大丈夫だよ」と連絡を入れた。
大島と聖菜はそれぞれ、「やっぱり学園に戻した方がいい」「あの子には信用出来る友達が必要」と真剣に話し合った。
そして――
「……」
大島は、そ……と優樹の腕からぬいぐるみを引っ張り抜くと、紙袋の中から若者用の洋服を取り出した。
会社で、反町に相談して買った物だ――。
「……優樹にぬいぐるみをあげたんだがね、……そのぬいぐるみに着せる洋服を欲しがっているんだ」
「……。はい」
「しかし、今時の若者が着るような服をわたしは知らないし……。……買おうにも、どこで買ったらいいのかもわからん。……息子がいれば良かったんだが、……まったく知識不足でな」
「……。はい」
「それでだね。まぁ、優樹とは同級生だしな、……あの子が気に入るような洋服とか、わからないかね……。……出来れば今晩、買っていってやりたいんだが……」
「いいですよ。だったら、ちょうどファッションに興味がある……、おい、立花。ちょっといいか?」
――その後、結局みんなを連れてぬいぐるみの洋服を買いに。立花が「優樹が好きそうな洋服はこうだろう」とコーディネイトして選んだ。……なにやら、反町がする格好によく似ていたが。
大島は大満足で、「これからも優樹と仲良くな?」とみんなに礼を告げて帰って来たのだ。
せっせとぬいぐるみに服を着せると、「……よし」と笑顔で優樹の腕をそ……と持ち上げて、ぬいぐるみを間に挟む。穏やかな顔で寝息を立てる愛娘に笑みを溢し、軽く頭を撫でておでこにキスをして部屋を出る。……と、
「……流……くん……」
呟くような小さな声に、大島はピタ……と足を止めたが、部屋を出て聖菜の所に行くなり、
「優樹はわたしと反町君とどっちが好きだと思う?」
と真剣に問い掛け、聖菜に怪訝な顔をされた――。
翌週の月曜日――。
「……」
優樹は鞄を手に校門の側でじっと立ち尽くした。送迎の車は、もうすでにそこからいなくなっている。
時々、登校してきた生徒がチラチラと横目で窺っていく。中には一緒に歩いている誰かと「……あの子、奉仕屋の子だったよね?」「……なにしてるんだろ?」と囁き合う声も聞こえる。
――先週、聖菜に言われた。
「もう一度、学園に戻すことに決めました。……イヤならイヤだと言いなさい? ……学園長には、もうお話しも済んでいますから。学園長も、快くお引き受けしてくれましたよ。……ただし、お母さんはまだまだ学園については信用のないところがありますからね。……でも、……ま、……何事もなく過ごせるでしょう。……以前のクラスに戻してもらえるように頼んでおきましたからね。……。え? 反町君と同じクラス? ……何を言ってるんですか。贅沢なことを言うんじゃありませんよ」
……。戻ってきた。……ホントに……戻って来れた……。
ぼんやりと校舎の方を見つめていると、突然、本当に目の前にカメラが現れてパシャッとフラッシュをたかれ、驚いた優樹は「キャッ」と目を伏せて首を縮めた。
「スクープ! 奉仕屋もコレで完全復活なるか!?」
聞き慣れた愉快げな声に顔を上げると、美代子はカメラを手に笑った。
「おはよ大島さん!」
「……後藤さん……」
「やーっと戻ってきたわねー! 待ってたわよーっ!」
腕を大きく広げてギュッと抱きしめられ、優樹は少しキョトンとして頬を赤らめたが、すぐに笑みを浮かべて「……うん」と頷いた。
美代子は優樹から離れると、笑顔のままで覗き込みつつ上着のポケットから何かを取り出してそれを優樹の口元に寄せた。
「今の感想は!?」
レコーダーを向けられて、優樹は「う……」とそれを見下ろし戸惑って背を仰け反らせた。
「か、感想……?」
「感想!」
「……ん、と……。嬉しい……かな」
「それだけっ?」
「……。んー……」
「もーちょっとこう……おお! って思えるコメントはないのっ?」
登校途中の生徒たちにジロジロと見られながら美代子にせっつかれ、優樹は情けなく笑った。
「ごめんね。思いつかない」
「ンもーっ」
美代子は脱力気味にため息を吐いてレコーダーを降ろすが、すぐに気を取り直して苦笑した。
「でも、大島さんって感じ」
優樹が恥ずかしそうに笑うと、美代子はポンポンと彼女の肩を叩いた。
「部活、早く復活してね。少しずーつ、苦情が出てるわよ?」
いたずらっぽく報告され、優樹は呆れて鼻から息を吐くと共に肩の力を抜き、顔を上げると笑顔を向ける。
「私が戻ってきたからには、みんなをサボらせないね」
「そーこなくっちゃ!」
美代子がにっこりと笑ったそのあと、優樹は「っ……」と大きく目を見開いて息を止めた。美代子はすかさずカメラを構えてシャッターを押す。
「はいはいもひとつ特ダネ! 奉仕屋の部長と副部長の熱愛激写っ!」
優樹は顔を真っ赤にすると、胸の上に腕を回して背中からくっついて俯いている反町を視線だけで振り返った。
「なっ、な……流君っ……」
「……。一人で行くなんて、酷い……」
「……。えっ?」
「……桜並木のトコで待ってたのに……」
拗ねているのか、元気のない声に優樹は戸惑い、けれど後ろから抱きしめられたまま振り返ることも出来ず、オロオロとうろたえた。
「……。う、うそ! ご、ごめんねっ。ごめんねっ」
「……許さない……」
「……ご……ごめんなさい……」
「……。許す」
気落ちして謝る優樹に、反町はやっと背中から離れる。その間、生徒たちに興味津々な目を向けられたまま、美代子はニヤニヤと嫌らしく笑いながら再びレコーダーを取り出した。
「奉仕屋部長、副部長が帰ってきたご感想は?」
レコーダーを向けられて、優樹の横に並んだ反町はにっこりと満足げに笑った。
「サイコー」
「……。それだけ?」
「駄目?」
「だからさぁー、もっとこう……おお! ってコメントはないのぉ?」
「じゃあ新聞に載せてくれる? 優樹はもう、オレのものだって」
優樹はボッと耳まで赤くして俯き硬直し、美代子は「はいはい」とうんざり気味な笑顔でレコーダーを切った。
「離れてたおかげでラブラブ度が増したみたいねー」
「元からだけどね?」
なんでもない顔で肩を竦める反町に、美代子は「はいはい」と呆れつつ、苦笑して二人に手を振った。
「活躍に期待してるわよ。がんばってねー」
美代子は笑いながら走っていく。遠ざかる気配に、優樹はそろっと顔を上げて反町を見上げた。
「……変なこと言うと、ホントに書いちゃったらどうするの……」
「いいんじゃない?」
「……よくないと思う」
「いいよ」
「……駄目だと思う」
「どうして?」
「……。だって……」
「優樹のこと、好きなのに?」
「……」
「すごく好きなのに?」
優樹は顔を真っ赤にして、笑顔で近付く反町から数歩後退する。
「朝っぱらからイチャつくな、このバカップル」
バシッ! と頭を弾かれた反町は「いて!」と後頭部を押さえて立花を睨み付けた。その後ろからは大欠伸の白川も歩いて来る。
「今日が何の日か、わかってるのか?」
「……わかってるっ」
睨む立花に反町が不快さを露わに答えると、優樹は首を傾げた。
「……何の日?」
反町は頭から手を下ろして優樹に微笑んだ。
「優樹が戻ってきた日」
バシッ!! と、白川も頭を弾いた。
「ムカつくんだよー。こっちは徹夜したのにーッ」
「……どうして徹夜?」
優樹が更に首を傾げると、白川が優樹にすがり寄って泣きついた。
「優樹ーっ。オレと変わってーっ!」
「変わってもらったら、もっと最悪だと思うぞ?」
「……。やっぱやめた」
立花に横から突っ込まれ、白川はあっさりと身を退く。優樹は「?」と顔をしかめて反町を窺った。
「なぁに? どうしたの?」
「なんでもないよ。まぁ、強いて言えばテストかな」
「そのままじゃねーかっ」
と、白川が怒り、優樹は更に顔をしかめて自分の鼻先を指差しながら反町を見上げた。
「テストって……。……。私も?」
「ううん。……優樹はかわいいから受けなくていいんだ」
「寒気がするからもうやめろっ!」
と、微笑む反町に立花はブルブルッと腕を抱いて身震いした――。




