4、ニーナの胸のうち
なんでこんなことになってしまったのか……。
娼館に帰り、自分の部屋のベッドに座り込みながらニーナは溜め息をついた。
生々しく思い出す、アキとのキスの記憶。
ニーナは複雑だった。
唇を重ねるだけのキスならば経験はあったが、いわゆるディープキスは初めてだった。けれどそんなことは大したことじゃない。
将来、娼婦になることを考えているから、キスなんて取るに足りないことだと思う。せいぜい「初めての相手が顔のいい男で良かったな」ぐらいのものだ。
問題は相手が、友人--レナスの想い人だと言うことだ。
彼女のことを考えると気が重い。しかも、ニーナを使い魔にするためだけなら、わざわざディープキスをする必要は無かったのだ。
アキからそのことを聞いた時のことを思い出し、彼女の胸は苛立ちを覚えた。
血を吐き出せば契約は無効になるのか--そう問いかけたニーナに、アキはあっさりと首を振った。
「体内に入った瞬間、身体中に広がるからな。吐き出そうとしても出るのは胃液ぐらいなもんだろう」
そして更に続けられたアキの話に、ニーナはゾッと青ざめる。
「契約者は定期的に俺の血を受け入れなければ、俺に仕える義務を放棄したとして罰を受ける。身体の末端から肉体が腐っていき、やがて死に至るんだ。
諦めるんだな。今までの話を聞いておきながら無関係で居るのは虫が良すぎるだろう?」
いや、説明して欲しいなんて言った覚えないし。勝手に喋ってたのアキじゃないか……。
絶望的な気分になったニーナは、思わず両手を床についてうなだれた。
やはり「近づくな」と言ったレンの言葉は正しかった……言いつけを破ってアキに近づいた挙句、使い魔にされてしまったなんて知られたらどんなに怒られるだろう。
しかもディープキスをしてしまったなんて、レンにだけは知られたくない。
そこまで考えてニーナは、あることに思い当たった。
「定期的に血を受け入れる……って、まさか……」
恐る恐る顔を上げたニーナを「ん?」と見下ろしたアキは、何かに納得したような顔になった。
「ああ。血という言い方で表しているが、要するに魔力のことだ。指先でお前に触れて、そこから魔力を注入するだけでもいい。キスにこだわる必要は無い」
ホッとしたニーナだったが、疑問が頭に浮かぶ。
「じゃあ、何でさっきは……」
「お前が生意気だったから」
満足げな笑みを浮かべて言われ、額に青筋が立った。
「アキ……!」
「なかなか面白かったぞ。普段から取り澄ましてるお前が動揺する様は。何だったら、毎回キスにしても良いが?」
顎をすくわれ、顔を近づけられたニーナが慌てて後ずさりする。
拳を口に当てて笑っているアキの姿が、腹立たしいことこの上ない。
ニーナに睨みつけられながらもひとしきり笑ったアキが、再び彼女に向き直った。
「盗まれた宝物なんだが。物は指輪だ」
真面目な顔に戻ったアキの言葉に、ニーナも思わず居住まいを正す。
「指輪?」
「ああ。この国ぐらい一瞬で吹き飛ばすほどの力を秘めている」
目を丸くするニーナをよそに、あくまで淡々とアキは語る。
「あれだけの力を持った道具だと、半端な悪魔じゃ使いこなせない。その点は安心なんだが。
もし指輪が魔力の高い人間の手に渡ったら……例えばレナスのような人間に渡ったら厄介だ」
息を飲むニーナ。彼女の脳裏には友人の姿が浮かんでいた。
レナスは水神の中でも最高権力を持つ、ミルラーデル神の加護を受けた娘だ。そのため彼女の魔力はずば抜けて高く、水系魔法の威力は帝国一と言われている。
その美貌と魔法の系統が、「学園の人魚」と呼ばれる所以だ。
「でも、使い方を知らなければ使うことは出来ないでしょう?」
ニーナの問いに、アキは溜め息をついた。
「使い方を知らなくても、持ち主の感情次第でその力が暴走する可能性がある」
ニーナは絶句した。
レナスは貴族の出自という恵まれた境遇に加え、その魔力を国防力として重要視した国家によって保護されてきた。
美貌、家柄、国家の後ろ盾を備え持つレナスは、幼い頃から特別扱いされてきた。
恐いもの知らずに育ったレナスの、感情の起伏はかなり激しい。
出自も才能も性格もニーナとは対照的な少女だが、なぜか彼女はニーナを気に入っている。
「待てよ。レナスが指輪の力に取り込まれる前に、使い魔にしてしまえば……」
アキが呟いた言葉にニーナがギョッとする。
感情の浮き沈みの激しさに疲れることもあるが、レナスはニーナの友人だ。使い魔にさせたくはない。
そんな彼女の無言の訴えが届いたのだろうか。アキが肩をすくめた。
「やめとこう。疲れそうだ」
……どうやらアキも彼女の性格を見抜いているようだ。
けれど、もし彼がその気になれば、ためらいなくレナスを使い魔にしてしまうだろう。
「私が、協力するから」
レナスのためにも。そんな思いでその言葉を口にしたニーナに、アキはニッコリ笑って手を差し出した。
それは学園の教授に相応しい、紳士的な笑顔だった。
「あの猫っかぶり……」
憮然とした顔でニーナが呟いた時、部屋の扉がノックされた。
「あ、はい」
返事をしてドアを開けたニーナは、意外な人物の姿を目にして驚いた。
「こんにちは、ニーナ。久しぶりね」
扇を口元に当てて微笑んでいるのは、絶世の美女だった。
ハチミツ色の髪の毛は、弱々しい光の下でも艶やかにきらめいている。
豪華な薔薇色のドレスとアクセサリーは、華美になりすぎないよう抑えられた上品なデザインでありながら、一目で高価なものと分かる。
身につけた宝石に負けないほど美しい瞳はエメラルド色。見ているだけで吸い込まれそうだ。
「レイチェル。どうしたの?」
身体を脇に寄せると、レイチェルと呼ばれた美女はしずしずと部屋の中に入ってきた。
そのまま簡素な椅子に腰を下ろす。
質素な部屋の中で、そこだけが華やかで異質な空間であった。
一体何の用事だろうと思いながらニーナは紅茶を入れる。
レイチェルは宮中娼婦として、普段は王城や貴族の屋敷に滞在している。
高級娼婦の中でも更に高い教養と美貌を持つものが、厳しい審査をくぐりぬけて宮中娼婦になる。
名目は貴族と王族全員が共有する娼婦だが、時に公式の場で外国からの大使を接待するなど、重要な役目を果たす。
レイチェルは名目上はウィッチグラスのオーナーだが、宮中娼婦の仕事が忙しいため経営は店長のミレイユに任せっぱなしだ。
たまに店の様子を見に来るが、その時でさえ「裏」の娼婦の部屋にまで来ることは無い。ましてニーナは娼婦ではなく、ただの下働きである。
「ありがとう」
笑顔でティーカップを受け取ったレイチェルが、優雅に紅茶を飲む。
その表情がほころんだ。
「美味しいわ」
同性すら魅了する笑顔を向けられても、ニーナは平然とした様子で「良かった」と言っただけだった。
レイチェルの瞳に面白そうな表情が浮かぶ。
「悪魔に会ったんですって?」
自分の分のティーカップを持ち上げたニーナの手が、空中で止まった。
「昨日レンが来て教えてくれたわ」
レンがレイチェルに会いに行った。
かすかに感じた胸の痛みを押し隠し、ニーナは無言でレイチェルに頷いた。
「けっこう顔がいいらしいわね。私も見てみたいわ」
「ディジー姉さんのお客らしいから。また来るんじゃないかな」
そう。会ったのは昨夜が初めてだったが、数日前からアキは毎晩のようにやって来ていたらしい。
ニーナの言葉に頷くレイチェル。
ふいに彼女が身を乗り出した。口元には相変わらず微笑みが浮かんでいたが、目が真剣だ。
「悪魔に、何もされなかった?」
「----大丈夫よ」
ニーナは安心させるように、少し笑ってみせた。
心の動揺は、隠し通せたはずだ。
探るように見つめてくるレイチェルの視線を、じっと見つめ返す。
やがてレイチェルは、その目をニーナの顔から外し、ゆっくりと姿勢を正した。
「……良かったわ。でも、お願い。その悪魔には近づかないで。レンも私も貴女のことを心配しているのよ」
レンも私も。
「ありがとう、レイチェル」
部屋を出て行く彼女を戸口まで見送ったニーナは、貼り付けたような笑みを浮かべたままだった。