1、それぞれの恋(ミレイユ)8
乾いた喉を紅茶で潤しながら、ニーナは空を見上げた。日が長いのでまだ明るいが、そろそろ開店準備をしなければならない時間だ。
ポットを空にするため、固まっている友人たちのカップに中身を注いでいく。けれど彼等は手を伸ばそうとせず、何か言いたげな顔でニーナを見つめるだけだ。ただしアキだけは椅子の背もたれに身体を預けて目をつむっていたので、ひょっとしたら寝ているのかとニーナは思った。
「……飲んじゃってくれると、ありがたいんだけど」
早くしろと催促しつつ、自分のカップを残りの紅茶で満たし口をつける。
「ねえ、ニーナ?」
「うん?」
おずおずと口を開いたレナスに、ニーナがカップの縁から視線だけ上げる。
「貴族でなければ王宮つき魔術師になれなかったのって……」
「……先々帝閣下の時代のことだ」
尻すぼみになってしまったレナスの疑問に、ビルが答えた。
ニーナはカップをくわえたまま頷いて、彼の言葉を肯定する。
「ハリバートン家って……」
「確か私の祖父の代で、途絶えたと聞いている」
沈黙が訪れた。
黙り込んでしまったレナスとビルをよそに、ニーナは手早くテーブルの上の残り物を一つにまとめる。
「ざっと食器を洗いたいから、水魔法お願い。レナス」
「ちょっとは空気を読みなさいよ!」
ばあん! と両手を叩きつけて立ち上がるレナス。ニーナは間一髪のところで、その真下にあった皿を取り上げた。
「姫、落ち着いてくれ」
椅子に座ったまま、ビルがレナスの身体に腕を回す。婚約者に優しく身体を撫でられ、彼女は荒い息をつきながらも大人しく腰を下ろした。
ちなみにニーナが救出した皿は、いつの間にか目を開けたアキが受け取り、水魔法で洗い流している。
「ニーナ、真面目に聞くわ。……レイチェルとミレイユって……何歳なの?」
真剣な顔をしたレナスが、身を乗り出すようにして聞く。だが親友がそんなに深刻そうな様子をしているにも関わらず、ニーナは「知らない」とあっさり答えた。
「聞こうと思ったことないし」
「だからどうして! そんなにっ! 他人に関心が無いのよ!」
レナスの絶叫に、慌てて店を振り返るニーナ。
この時間であれば、まだ目覚めていない姐さんたちも居るはずだ。こんな形で起こされたとなると--特に寝起きの悪い姐さんは--1日中、機嫌が悪い。皆プロなので客の前ではにこやかに笑っているが、その分、割を食うのは後輩の娼婦たちや裏方のニーナなのだ。
しかしニーナの心配とは裏腹に、建物は静まり返っている。それどころか、少し離れたところにいる野鳥たちも、何事もなかったかのようにのんびりと歩いていた。
一体なぜと思いながら視線を戻すと、アキが感心したような顔で顎を撫でている。
「……アキ、何かした?」
「なかなか使えるな、この魔法」
愉快そうなアキの言葉に、レナスは呻き声を上げた。
アキは先ほどニーナから聞いた話だけで、ミレイユが開発した『真空魔法』の理論を理解し、魔法式を推察し、再現してみせたのだ。
それだけではない。ミレイユの魔法は建物の壁に沿って真空の空間を作り出すものだったが、アキはそれを改良し、空間を切り取って魔法を展開した。今、彼を中心とする半径10メートルほどの円の外側に、薄く真空の層が出来ていた。
とんでもない離れ業を見せつけられ、顔面蒼白になるビル。一方ニーナはアキが人外であることなど重々承知しているので、そんなことには驚かない。とりあえず騒音トラブルを防いでくれたことに感謝しておいた。
ビルはアキとレナスの顔を交互に見ながら、困惑した様子で口を開けた。だが言葉を発する前にレナスに視線で制され、大人しく黙り込む。
「……とにかく!」
咳払いを1つしておいてから、レナスが抑えた声で言った。
「意外と歳が行ってたのね、あの2人。見た目からは想像もつかないけど」
ビルも無言で頷いた。
「ミレイユはまだ処女なのか?」
「あんたの関心はそこかい」
アキの疑問に、ニーナが呆れた声を上げる。そこに若干の険が含まれていることに、レナスだけは気づいていた。
「いつもミレイユは、自分で客の相手はしないだろう? 今の話を聞く限り、宮中で勤めていたころも男と付き合ったことは無かったようだしな」
「でもアキ教授。ここは娼館ですのよ? 宮中を去ってから今まで1度も経験が無いなんて、そんなことあり得ますかしら」
レナスが小首を傾げる。
さすがに彼女も直接的な表現は避けたが、普通の貴族の公女であれば口に出すのも憚られるような話題だ。
しかしビルは、レナスに慣れたのか、それとも貴族の子女の事情に疎いのか分からないが、特に眉をしかめることも恋人を諌めることもなく黙って話を聞いている。
「そう言えば、ミレイユが客をとったところって見たことないなぁ……恋人が居るって話も聞いたことがないし」
ニーナが宙を見ながら呟いた。
「ブリーズ室長だったかしら。あの人とはどうなったのかしら」
目を輝かせ、興奮気味のレナスが言った。
いかにもまだ十代の少女らしく、彼女はロマンス小説や他人の恋愛話を聞くのが大好きだった。
ただ、同じ十代でありながら--しかもレナスより年下なのに--そういうことに全く興味のないニーナと並んで座ると、ずっと幼く見えてしまうのは彼女のせいではない。
「ミレイユが宮中を去って、それっきりじゃないか? 今よりもずっと身分の差は厳しかっただろう」
アキが言うと、レナスが不満げに口を尖らせた。
「もしかしたら誰とも結婚せずに、ミレイユ殿に純愛を捧げたかもしれぬ」
慰めるようにビルが口にした言葉に、レナスの顔がぱっと笑顔に変わる。だがアキが「いや、当時の貴族だろう? 何年かしたら政略結婚せずにはいられなかっただろう」と続けたために、再びムッとした表情に戻ってしまった。
余計なことを……と睨みつけるビルの視線を、完全に面白がっている顔で受け流すアキ。
ニーナは男たちの無言の戦いに注意を払うことなく、「でも結婚してたって、客として通ってくることはできるよね」と言った。
「それよ! ニーナ、レイチェル……は教えてくれないかもしれないわね。年配の姐さんたちに、ブリーズという客がミレイユの所に通ってなかったか聞いてみてちょうだい!」
「ええー……」
明らかに嫌そうな顔をするニーナ。さり気なく話を聞き出すことは難しくないが、自分では全く興味のないことに、それだけの労力をかけるのは面倒くさい。
けれどそんなニーナの目の前に、レナスは餌をチラつかせた。
「今、隣の国の舞踏団がうちの城に滞在しているのだけれど」
舞踏の一言でニーナの目の色が変わる。酒場の踊り子の踊りだろうと、町中の芝居小屋で披露される踊りであろうと、ダンスと聞けばどんなものでもニーナは興味を持つ。一流の舞踏団によるショーに、彼女が惹きつけられないわけがなかった。
「仕方ないなー」
「ありがとう! じゃあビル、貴方はブリーズの系譜を調べて」
「そこまでですわよ、お嬢様」
嬉々とした顔で振り向いたレナスは、にっこりと微笑んだミレイユの笑顔に凍りつき。さらに自分の婚約者が、ミレイユにがっちりと頭を抱え込まれ、その豊かな胸の谷間に埋もれてジタバタもがいているのを見て悲鳴を上げた。
当然のように再び魔法を展開したアキのお陰で、その声が遠くまで響くことはない。
「本当に良い魔法だ、これは」
「お褒めにあずかって光栄ですわ」
にこやかに会話するアキとミレイユの傍らで、レナスが酸欠でぐったりしているビルを必死で介抱している。
「レナス様。詮索はあまり良い趣味ではありませんよ」
ミレイユに穏やかに、けれどはっきりと諌められ、レナスが「だって……!」と反論しようとしたが、ビルに「私もそう思う、姫」と言われては口を噤むしかなかった。
「……じゃあミレイユが教えてくれる? ブリーズとはどうなったの?」
「だめです。それは私とあの方の間の秘密です。……さあ、もう時間ですよ。ニーナとアキ様は店にお戻りになって。ビルフレッド様とレナス様も、お帰りを」
有無を言わせぬ口調だった。
ミレイユに急き立てられ、慌ただしく片づけを済ませると、挨拶もそこそこにニーナたちは解散した。
レナスは恋物語が聞けなくて明らかに残念がっていたが、いつまでもそれを引きずるような娘ではない。すぐに諦めるだろう。
「あらミレイユ。遅かったわね」
ミレイユが自室に続く階段を上っていると、レイチェルが下りてきた。
「珍しいじゃない、レイチェル」
「実は、新しく店に入れる娘のことで相談に来たんだけど……うっかりあなたの外出日を忘れていたわけ」
ペロリと舌を出すレイチェル。薄暗がりの階段には自分たち2人の気配しかせず、レイチェルは宮中娼婦として身に着けた鎧を脱ぎ捨て、完全に素のままの自分をさらしていた。
娼婦たちに見られたらどうするのかと、眉をひそめるミレイユ。レイチェルにはオーナーとして威厳ある姿を示してもらわないと、規律が守られないではないか。
だがミレイユが文句を言うよりも早く、レイチェルが真面目な顔になる。彼女は小声で「それで、ブリーズとは話せた?」と囁いた。
「……ええ」
ミレイユは毎年必ず、この日に休暇を取る。彼女は朝早くから出かけると、墓地へと向かう。そしてブリーズの墓の前に途中で購入した花束を供えると、その場に腰を下ろし、日暮れまでずっと心の中で彼に語りかけるのである。
実はミレイユが王宮を去ってからも、しばらくはブリーズと手紙を通じて繋がりがあった。だがブリーズがどんなに願っても、ミレイユは彼と会うことを拒み続けた。1度、まだ娼館の開店していない時間に彼がやってきて面会を求めた時も、彼女は頑として顔を合わせることを拒否したのである。
会えば愛しさを抑えきれなくなってしまう。もはや自分は娼婦と同じ立場なのだ。彼にとって重荷にしかなれない。
ミレイユの想いを理解したブリーズは、何も言わずに去って行った。そして数年後に彼が妻を娶った時、2人の文通も終了した。
遅い結婚だったせいかブリーズには子供がおらず、養子として迎えられた息子の一族が爵位を引き継いだ。だがそれも、もう昔の話だ。
「ねえミレイユ……、新しい恋を見つけるつもりはないの?」
レイチェルが遠慮がちに尋ねる。親友の顔が心配で翳っているのを見て、ミレイユは微笑みを浮かべた。
「不器用なんでしょうね。こんな生き方しかできないのよ」
そして腕を伸ばすと、レイチェルの頬を両側から引っ張った。
「……何するのよ」
ムッとした顔で睨みつけてくるレイチェルに、ミレイユは声を上げて笑った。
「私を不幸だと決めつけないでね。他人からどう見られても、今の生き方で幸せなんだから」
レイチェルは目を瞠ると、すぐににっこりと微笑んだ。
その笑顔を見てミレイユが満足そうに頷く。やはり自分の女神には、いつでも笑っていて欲しい。
「せっかくレイチェルが居るんだから、久しぶりに『昼と夜の女王』が2人揃ってお客様を迎えたら、喜ばれるんじゃないかしら」
「この私を利用しようとするなんて、いい性格になったものね」
「しっかり働いてもらうわよ、オーナー」
2人の美女は顔を見合わせてクスリと笑うと、そろって階段を下りて行った。
ミレイユは処女なのか否か。それは永遠の秘密です。




