14、波乱の予感
ニーナは椅子に座って手足を伸ばしながら、コップを取り上げた。からからに乾いた喉を通り過ぎて行くのは生暖かいレモン水だ。
その隣ではアキが「この炎天下に、よくそんなものを飲めるな」と言った顔で彼女を見つめている。
だがニーナは普段から冷たい飲み物を好まない。身体が冷えると筋肉の柔軟性が損なわれる。それが怪我につながる危険もある。だからこそ、今日のようにいくつもの舞台をこなさねばならない日ほど冷たい飲料は避けるのだ。
むきだしのニーナの肩が、日に焼けて少し赤くなっているのを見下ろしてから、アキはジロリと周囲を睨みつけた。二人の座るテーブルを遠巻きにしながら、数人の男子生徒がニーナに熱っぽい視線をちらちらと送ってきている。それを牽制するための一瞥だった。
学園の校庭に作られた特設会場は、熱狂した観客に取り囲まれてその姿を隠している。しかしその上では今、レナスが完膚なきまでに対戦相手を叩きのめしているはずだ。
「あの分なら上位入賞は間違いないでしょうねぇ……」
「そもそも何で急に出場することにしたんだ?」
ランクル・ランカードが逮捕され、薬物事件が治まってから数日後。レナスが突然「魔法技術格闘大会」に出場すると宣言したのだ。
「ビルフレッドと一緒に働きたいから、正剣隊に入るんだって」
「女は入隊できないんじゃなかったか?」
「あれだけの実力を見せつけられたら、王宮関係者も認めざるを得ないんじゃないかな。レイチェルの話だと、女性部隊を作らせるために宮中で駆け回ってるそうだし」
「……唄い手になる夢はどうなったんだ?」
「唄い手兼軍人、っていう初めての存在になるって張り切ってたけど」
「…………」
呆れたようにため息をついたアキとは対照的に、ニーナはレナスらしいと感心していた。
今回の逮捕劇を通してレナスは、ビルフレッドがいつ命の危険に晒されてもおかしくない職務についていることが身に染みたらしい。実際には今回、ビルフレッドはかすり傷一つ負わず、危ない目に遭ったのはレナスの方だったのだが。
「ビルの身を心配しながら帰りを待っているぐらいなら、一緒に戦うわ」と言い切ったレナスは、正剣隊への入隊を決意した。それでいて昔からの夢も諦めない。どんな困難にもめげずに、自分のやりたいこと全てを叶えるために努力を惜しまない。
恐いもの知らずなせいもあるだろうが、運命を切り開こうとしていくレナスの強さをニーナは羨ましいと思った。
ややあって、再びアキが口を開く。
「ビルフレッドはそれで良いのか?」
レナスが内緒で剣入についてきたこと、そしてランクルと対決したことを知ったビルフレッドは激怒した。さんざんレナスに対して「無茶なことをした」だの「こんな危険なことをして」だのと叱りつけた挙句、泣きながら彼女を強く抱きしめたのである。
普段の彼からはとても考えられない、ビルフレッドの感情に任せた行動を目の当たりにし、正剣隊の隊員たちは顎が外れるほどの衝撃を受けた。
「うん。もうレナスの性格は分かったみたいだし」
ニーナが笑顔を浮かべる。
婚約が決まったばかりの頃に比べると、レナスとビルフレッドの間に流れる空気は随分と変わってきた。恐らく二人でじっくりと話し合った上で、ビルフレッドはレナスの決意を受け止めたのだ。ならば部外者がとやかく言う筋合いは無い。
「――あ、そろそろ行かなきゃ」
ニーナは立ち上がると、テーブルと屋台の間を抜けて舞台へと向かった。既に気持ちは次の踊りに集中しているらしく、ピンと背筋が伸び、何とも言えない雰囲気を醸し出している。
アキは複雑な顔つきでその姿を見送った。舞台用に作られた薄絹の衣装は、年齢の割に大人びたニーナの身体のラインをくっきりと浮き出させている。それに加えて、踊りのことを考えている時のニーナは匂い立つような色気を放つ。
彼女が通り過ぎる度に生徒たちの視線がニーナの後姿を追いかける様子を見て、アキは衣装を用意したジン教授を吊し上げたくなった。
「お邪魔してもよろしいでしょうか」
背後から聞こえた声にアキが振り返ると、腰まで伸ばした銀髪の青年が立っていた。もしニーナがこの場に居れば驚いたに違いない。それは彼女が泉で出会った、ジェイレンティスキと名乗った男だった。
「来ていたのか、ジェイ」
アキが手振りで座るように示すと、ジェイレンティスキ――ジェイは先ほどまでニーナが座っていた椅子に腰かけた。
生徒たちは全員ニーナの舞台に注目していて、誰も二人に注意を払わない。
「魔王リステルの計画に加担した上級悪魔含め、数十名の関係者の処刑が完了いたしました」
「ご苦労だったな」
「とんでもありません。今回のことは全て、私の未熟さが招いたこと。ご迷惑をおかけしてしまったことを申し訳なく思っております」
テーブルにつきそうなほど深く、ジェイが頭を下げる。
実は、闇世界におけるターマの管理は彼が一手に担っていたのである。ビルフレッドから薬物事件の話を聞いたアキは、何者かがジェイの保管庫からターマを盗み出して人間界に密輸していることを知った。
アキからそのことを教えられたジェイは、闇世界側から調査を開始した。しかし彼が事件を解決する前に、アキの手によって事件は終わってしまったのである。
ジェイにとっては事件そのものよりも、アキの手を煩わせてしまったという事実の方が問題だった。それだけは何としても避けたかったのだが……。
唇を噛んで項垂れているジェイに、アキが顔を上げるよう声をかける。
「窃盗事件なんかは闇世界じゃ日常茶飯事だろう。いちいち気に病んでたらキリが無い。それよりも……厄介なことになったな」
ジェイの表情が固くなった。
魔王の一人が人間の身体を乗っ取ろうとした。それは闇世界と光世界の倫理規定に反する行為だ。おまけにターマの密輸まで絡んでいるとなれば、ジェイに対する光世界の追及はさぞかし厳しいものとなるだろう。ジェイ自身が裏で糸を引いていたという疑惑が持ち上がることは、もはや避けられない。
「……ダッキの仕業、なんだろうな」
アキの言葉に、ジェイの身体が僅かに身じろぎした。
あの女のことだから証拠は何一つ残していないだろう。アキの手によって幽閉されてからかなりの年数が経っているというのに、いまだにジェイの失脚を狙う女狐。
彼女にとって誤算だったのは、魔王リステルが人間と同化してしまったことだった。光世界も交えた裁判では証人としてランクルも召喚される。彼の証言があれば、ジェイはターマの保管に関する失態は責められても、事件の関与についての身の潔白は証明されるはずだ。
しかしそれはそれで、新たな問題を闇と光の両世界に投げかける。なぜならダッキのみならず全ての悪魔と善魔が、人間の力を見くびっていたからだ。人間が意志の力で魔王と同化できるなどと、誰が考えただろう。仮にそんな説を持ち出されても笑い飛ばされるのがオチだったに違いない――少し前までは。
この事件が明るみに出れば、両世界は騒然となることだろう。そして早急に人間に対する認識を改めねばならなくなる。恐らく調査のためという名目で、悪魔も善魔も積極的に人間界に出てくることになる。彼らがアキの存在に気づいた時、何の関与もしてこなければ問題ない。だがもし、ちょっかいを出してくるとなると……
「面倒だな」
心底嫌そうな顔で呟くアキに対し、ジェイが「そろそろ闇世界に戻られてはいかがですか?」と気づかうように尋ねた。
闇世界と人間界では時間の流れが違う。アキが人間界で過ごした時間など闇世界側から見ればほんの一瞬にも満たない長さなのだが、それでも今までになく長い間アキが不在になっていることが、ジェイの不安をかきたてた。
「……まだ戻るつもりは無い」
そう答えたアキの視線の先では、観客の注目を一身に浴びてニーナが踊っていた。
その眼差しがジェイの心の中を冷やしていく。彼女がアキの使い魔だということは、アキ自身から聞いて知っていた。
盗まれた指輪を追ってアキが闇世界を出て行ったときは、すぐに戻って来るだろうと思っていた。けれど彼は指輪を取り戻した後、そのまま人間界に居座ってしまったのだ。
新しい使い魔が出来て、まだ目を離せない。
それがアキからジェイに語られた理由だった。
アキの心をそこまで掴んだのは、一体どんな使い魔なのか。嫉妬と好奇心に駆られたジェイは密かに調査を開始した。そしてそれが、何の変哲もない人間の少女であることを知ったのである。
彼女のことを調べれば調べるほどジェイは混乱した。ニーナと呼ばれている少女は、どこから見ても平凡極まりない、ただの人間だった。
ある日、どうしても我慢できなくなったジェイは密かにニーナに会いに行った。そして泉の側で彼女に治癒魔法をかけようとした時、気づいたのである。彼女の中に眠る女神の存在を。
ジェイがそのことに気づいたのは、彼自身が半分だけ神の血を引いていたからに他ならない。魔法が効かないと分かった瞬間、彼は自分の神力を使い、ニーナ自身の治癒力を上げてやった。
魔法が傷を外側から縫い合わせる方法だとすれば、神力は傷ついた肉体を内側から再生させる方法である。思った通り、ニーナの身体は神力をすんなりと受け入れた。
世にも珍しい、女神の生まれ変わり。それがアキの関心を惹く人間の正体だった。
だが、そんな者をジェイは認めるわけにいかなかった。魔力が低く、ごく初歩的な光魔法すら使うことが出来ない。おまけに女神の生まれ変わりと言っても、美と舞踏の神ムーサテリューズだ。踊っている時しかその真価は発揮されず、戦闘においては何の役にも立たない力。容姿も平凡で、敬愛するアキの側に仕える者としては、とても相応しいとは思えなかった。
しかめ面でニーナを眺めながら、ふつふつと怒りをたぎらせていたジェイは、アキに話しかけられていることに気づくと慌てて意識を引き戻した。
「とりあえずダッキの監視は増やしておくが……俺が事件に介入したことは、あまり知られたくない。できるだけ隠しておいてくれ。後始末は任せた」
面倒くさいことは避けたいという自分本位な要求だったが、ジェイにとってアキの頼みを聞くのは至極当然の話であったため、素直に頷いた。
アキはそれだけ確認すると「じゃあな」と舞台へ足を向けた。踊り終えたニーナを捕まえるためである。
内心はどうあれ、アキの歩く姿は悠然としている。ジェイが「王者の貫録」と見とれるほどに堂々とした立ち居振る舞いに加えて、あの涼し気な美貌。
完璧なその姿にこっそりため息をついた後、ジェイの意識はアキの傍らに寄り添う少女へと向かう。 平凡で、無能で、役立たずのくせにアキの使い魔という立場を手に入れた少女。
「……私は認めませんよ、義兄上」
毒をはらんだ呟き一つを残して、ジェイの姿は揺らめき、消えた。それはあたかも、夏の日差しが見せた蜃気楼のような消え方だった。