13、決着
多くの人々がまだ夢の中を漂い、早い者はそろそろ起き出そうかとする時間帯に、それは行われる。
「剣入である! 全員その場を動くな!」
険しい声が早朝の空気をビリリと切り裂く。地面に降りて来ていた鳥たちが、派手な羽音を響かせて一斉に飛び立った。
「け、剣入……」
真っ青になった門番の姿を意に介さず、揃いの制服に身を包んだ集団が建物の中に踏み込んでいく。その先頭で指揮を執るのはビルフレッドだ。
ランカード商会はその日、正剣隊による手入れ、通称「剣入」を受けることになった。これが行われるのは、有罪が確固たる証拠によって決定している対象に限る。つまり、ランカード商会が何らかの違法行為を行っていたことが正剣隊の調査により明らかになったのである。
同時にその事実は、騒ぎを聞きつけて家の外に出てきた野次馬たちにも、建物内部の使用人たちにも知れ渡ることになる。
よほどの悪事を働かなければ「剣入」を受けることは無い。ゆえにこの立ち入り調査を受けた者は、世間から冷たい視線で見られることになる。この日は事実上、ランカード商会の倒産が確定した日となった。
寝耳に水という顔で立ちすくむ使用人たちの前を通り過ぎながら、正剣隊の隊員たちはてきぱきと己の任務をこなしていく。
統制のとれた無駄のない動きを見つめながら、ビルフレッドは焦っていた。部下たちの手によって、ランカード商会がターマの違法取引を行っていた証拠が続々と集められてくる。だが、肝心のランクル・ランカードの姿が見つからない。
突入から一時間余りが経ち、我慢できずに自らも屋敷の隅から隅までを探し……ついにビルフレッドは認めざるを得ない結論にたどり着いた。
「……ランクルは、どこへ逃げたのでしょう?」
きつく眉根を寄せたビルフレッドは、困惑した部下の質問に答えることが出来ず、唇を噛んだ。
「思ったよりも嗅ぎつけられるのが早かったな」
ランクル・ランカードは服についた土埃を払いながら、チラリと後ろを振り返った。
剣入が行われる直前、魔王ヴォルトスの警告によってそのことを知ったランクルは、秘密の抜け穴を使って間一髪、建物外部へと脱出していた。
恐らく既に、商会の保有する倉庫や船はもちろんのこと、ランクルの所有する別荘にも正剣隊の隊員たちが張り込んでいることだろう。
しかし彼には勝算があった。闇世界との隔たりが薄い場所はいくらでもあり、そこに行けば魔王ヴォルトスの力でどうにでもなる。
「ランクル!」
絶叫に近い鋭い声が、背後から突き刺さった。
ゆっくりと振り返ると、そこには二人の少女に両脇から支えられたエミレア・ランカードが立っていた。憎しみと殺気でぎらつく目で、こちらを睨みつけている。
「エミレアじゃないか。元気そうだな」
「ふざけないで! 貴方が何をしてきたか知ってるのよ。よくも……よくもランカード商会の名を貶めて……!」
怒りでぶるぶると唇を震わせるエミレアを見て、片方の眉を上げるランクル。
「ランカードの血など流れていないお前に、とやかく言われる筋合いは無いな」
「よくもそんなことを! お父様の築き上げたものを踏みにじり、リードにあんな仕打ちをしておいて!」
激昂して今にも飛びかかろうとするエミレアの身体を押しとどめ、左側から彼女を支えていた少女が前に出る。豊かに波打つ水色の髪に、勝気そうな目元をした少女だった。
「お初にお目にかかります、ランクルさん」
「君は?」
「レナス・ヴィオレッタ・ヨーフ。ヨーフ侯爵家の公女にして、正剣隊隊長ビルフレッド・ヘザー・レイの婚約者です」
「……それで?」
「夫の敵は私の敵。ビルフレッドに代わり、私が貴方に正義の刃を振り下ろします」
レナスの足元から冷気が立ち上り始め、彼女の髪がゆらゆらと宙に漂い始める。そのレナスの手の中に、ニーナがそっと指輪を潜り込ませた。アキから預かった「根源の指輪」だ。
指輪を装着したレナスの魔力が一気に上がり、周囲の空気を塗り替える。その圧倒的な力を目にしたランクル・ランカードの顔に緊張が走った。
「覚悟!」
突き出したレナスの両腕から、圧縮された水の塊がいくつも飛んでいく。温度と質量を絶妙なバランスで調整されたそれは、風魔法による加速も加わり、かなりの硬度を持つ。そんなものを連続で繰り出されれば、受ける人間のダメージは計り知れない。
「ぐはっ! ああぁああっ!」
両腕で顔を庇い、痛々しい悲鳴を上げるランクル。その様子を、青白い顔色をしながらも毅然とした様子でエミレアは見つめている。
ニーナはチラリとレナスの顔を見上げた。魔法に長けたレナスのことだから、ちゃんと手加減しているとは思うのだが……ここに来る前に「くれぐれもランクルを殺すな」と念押ししたニーナに対して「生きてれば良いんでしょ」とレナスは言い放ったのだ。
彼女はランクルに対してひどく腹を立てていた。違法薬物を取引していたことよりも、エミレアとリードにした仕打ちの方に。愛し合う二人を残酷な方法で引き裂いたそのやり方は、恋する女のレナスにとっては到底許し難いことだったのである。
加えて、ランクルを捕まえることでビルフレッドの仕事を手伝える、という事実が彼女を燃え上がらせた。「妻としての義務」と恍惚とした表情で言うレナスはどう見ても「未来の妻」という立場に酔っている。
この二つの感情が入り混じっている彼女が暴走することは、十分にあり得る話だったのである。
いざとなったら力づくで止めないと、とこっそり決意を固めていたニーナだったが、ふとランクルの様子が変化していることに気がついた。
いつの間にか、彼の悲鳴が止んでいる。
ざわり、と悪寒を感じたニーナが本能的に危険を察知する。咄嗟に「レナス!」と叫ぶと、その声を聴いたレナスが反射的に防御魔法を展開した。
直後に響き渡る爆音。
「きゃああああああっ!」
レナスの強固な防御魔法に遮られてなお、圧倒的な勢いを持つ爆風が少女たちに襲いかかる。ニーナはバランスを崩したエミレアに飛びつくと、自分の身体を下にして地面に倒れ込んだ。
「ニーナ?!」
「あっつ……だ、大丈夫」
お腹の子供だけは守らねばならない。どうしてもついていくと言って譲らないエミレアの同行を認めた時から、ニーナとレナスは肝に命じていた。
気絶したエミレアの身体をしっかり抱きしめながら、ニーナは首だけで周囲を見渡す。よほどの威力のある爆発だったのだろう。レナスの防御魔法の届く範囲以外は全て、地面の形が変わるほど深く抉られていた。
「すご……そっちは大丈夫?」
「奥歯が欠けたわ」
先ほどの爆発は、レナスでさえ歯を喰いしばって耐えなければならないほどの威力だった。彼女は口からぷっと歯の欠片を吹き出す。
なんだか行動がどんどんワイルドになっているような気がするが、これは果たして自分の影響だろうか、と緊迫した状況下であるにも関わらずニーナは考えてしまう。
「……死ななかったか。やはりココではこれが限度のようだな」
嘲るようなランクルの声に振り返ったレナスとニーナは、思わず息を呑んだ。
「何よあれ!」
レナスが悲鳴を上げる。ランクルの額は右半分が異様なほどに膨らみ、そこに別の顔が浮かび上がっていた。そのグロテスクな様子にニーナは声も出ない。
二人の見つめる前で、ランクルは口を半分だけ吊り上げて笑った。
「人間にしては魔力が大きいようだが、その程度では儂は倒せん。この魔王ヴォルトス様にはな」
「貴方が……魔王ヴォルトス?」
ニーナが疑問を口にすると、ランクルが声を上げて笑った。
「その通り。儂はターマを手に入れるために、闇世界から魔王リステルを召喚した。だが奴にとっては、ターマの横流しなど儂を引っかけるための餌に過ぎなかった。リステルの本当の狙いは、儂の身体を乗っ取ることだったのだ」
「じゃあ、それが魔王リステル?」
レナスが震える指で、ランクルの額に浮かび上がった顔を指差した。奇妙に青白いその顔は無表情で、どことも知れぬ方向を虚ろな目で見つめている。
「その通り。奴は人間の……儂の意志の力を見くびっていたのだろう。リステルは儂の身体を乗っ取るつもりが、逆にねじ伏せられて同化させられた。おかげで奴の知識も魔力も儂のものになり、儂は新たに魔王ヴォルトスとなったのだ」
ランクルの歯の間から、くくく……と心底おかしそうな声が上がる。
「分かるか? 今の儂は通常の人間以上の魔力を持っている上に、闇世界との隔たりが薄い地に行けばほぼ無敵となる。おまけに魔王となった今、闇世界とも自由に行き来できるのだ」
その口調にピンと来たニーナが声を上げる。
「この騒動が治まるまで、闇世界で身を潜めるつもりね」
「その通り。百年後か二百年後か……人間どもが儂のことを忘れたころ、再び現れてこの世に腐敗をもたらそう。そして金を儲けさせてもらう」
ニーナがランクルを睨みつける。恐らく悪魔にとりつかれる前のランクルは、金と権力を欲する俗人だったのだろう。それが悪魔と同化してしまったおかげで、人間界に悪と混乱をもたらすという悪魔の本質まで身につけてしまったのだ。
以前、アキが言っていた。根源の指輪を手にしたレナスの力には、上級悪魔ですら敵わないかもしれないと。言い換えれば上級悪魔以上の悪魔、たとえば魔王相手では負けると言うことだ。おまけにレナスは今、ニーナとエミレアのことも守らなければならない。
この場所は闇世界との隔たりが薄い土地では無いが、それでもさっきと同じぐらいの攻撃を受ければレナスと言えど無事では済まされないだろう。形勢は圧倒的に不利だった。
ランクルもそれは十分、承知している。彼はひとしきり笑った後、残酷な笑顔を浮かべて少女たちを見据えた。
「それでは、そろそろ行かせてもらおうか」
「残念ながらそれは無理だな」
いつの間にかランクルの背後に出現したアキが、冷静な声で言った。彼の姿を認めたレナスとニーナが、ほっとした笑みを浮かべる。
けれどランクルの方も、魔王としての余裕なのか全く動じた様子も無く、穏やかに口を開いた。
「ほお。儂に気づかれずに背後をとるとは、大したものだ。闇世界の者だろう? 名前は?」
「聞いてどうする」
「貴様が上級悪魔なら、儂が闇世界に戻ってから部下に取り立ててやろうと思ってな。もし魔王の一人であれば、貴様を殺した後で議会に報告しなければならんし」
ランクルの言葉を聞きながら、ニーナは首を傾げた。闇世界の階級制度というのは一体どういう仕組みになっているのだろう。
アキは表情一つ崩さずに、ランクルの質問に答える。
「議会には俺が報告しておいてやろう、魔王ヴォルトスよ。……俺の名前はアキレティウスだ」
少女たちの目の前で、ランクルの顔色がはっきりと分かるほどに青くなった。
彼は振り返りざまに魔法を放ったが、アキの放った魔法がそれを叩き落とし、なおかつランクルの身体に突き刺さる。ランクルの額から切り取られた魔王リステルの顔が、びちゃりと音を立てて地面に貼りついた。
「た……太閤自身が……なぜ……」
絞り出すような声で、初めてリステルが口を開いた。そしてそれが彼の最後の言葉となった。
「がっ……あっ……!」
一際大きな叫び声を上げると、リステルの顔は蒸気となって霧散する。後には力を失ったランクルの身体だけが地面に残された。