5、ニーナの失恋
ニーナが帰宅すると、裏庭の方から人の声が聞こえてくるのに気がついた。
言い争うような声の調子が気にかかり、建物の角からそっと窺ってみれば、レンに詰め寄るレイチェルの姿があった。
こんな時間にレイチェルがこの場所に居ることに加え、普段の彼女からは考えられないほど取り乱したその様子に、ニーナは目を丸くする。
「頭を冷やしなさい、レン」
「それはお前のことだろう」
放っておいてくれと言わんばかりのレンの返事に、レイチェルが一歩前に踏み出す。固く握られた拳が震えていた。
張りつめた緊張感に、知らずニーナの身体も固くなる。
だがレイチェルはグッと詰めていた息をゆっくり吐き出すと、震える声でポツリと呟いた。
「……レン。エミレアは、リディアじゃないわ」
レンの顔に、頬を殴られた子供のような表情が浮かんだ。
「な、にを……」
「貴方はあの娘とリディアを重ね合わせているだけよ。違う?」
「……そんなことは、無い」
レンの否定はしかし、とても弱々しかった。
その狼狽ぶりを見れば、レン自身も己の言葉に確信を持てないでいることが容易く想像できる。
リディア。自分の知らない名だ。けれどその女は、レンの中で大きな意味を持っているのだろう。彼にあれほどの動揺を与えるのだから。
ちりっとした嫉妬を感じながら、ニーナは二人のやり取りから目を離すことが出来なかった。
「驚いたわ、あの娘の顔。……生き写しと言って良いほどなんですもの」
視線を伏せ、落ち着かなく両手を揉み合わせるレイチェル。
思わずその肩に手を伸ばしかけたレンだったが、顔を上げたレイチェルにまっすぐ見つめられて動きを止めた。
「とにかく貴方がエミレアに構うほど、ニーナを傷つけていることを覚えていて」
「ニーナ? ニーナは関係ないだろう」
関係ない。
その言葉は鋭くニーナの胸に突き刺さった。あまりの激痛に呼吸すら止まる。
胸を押さえて身体を丸めたニーナは、目を閉じて、喉の奥からせり上がってくる空気の塊を必死で飲み下そうとした。
ぶるぶる震えながら、気持ちを落ち着かせるために細く長く息を吐き出す。
やがてゆっくりと開いた彼女の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「……本当に気づいてないの?」
レイチェルが呆れたような、悲しんでいるような顔で言う。やめて、というニーナの祈りは届かない。
「これは俺の問題だろう。なぜニーナに関係があるんだ」
ニーナはふらつく足で後ずさりをすると、身を翻して駆け出した。
これ以上、聞いていられなかった。聞くのが恐かった。
考えることを拒否し、ただ走り続けるニーナの脳裏に浮かんだのは、レナスの顔。
彼女は藁にもすがるような気持ちで、レナスに会いに行こうと決めた。この時間ならまだ、クラブ活動をしているはずだ。
学園に駆け戻ったニーナは、門のところでピタリと足を止めた。
柱にもたれかかるようにして男が一人、立っている。その男の体躯も、側に控えている馬車も巨大で、圧倒されてしまう。
男の彫が深い顔が、斜めに走る傷のせいで凄みを増していた。
彼はじっと自分を見つめている少女に気づくと、片眉を上げて「何か用か?」と聞いた。
ニーナは慌てて首を左右に振り、男とは反対側の柱の前に立った。思わぬ先客に驚いたものの、そこでレナスが出てくるまで待つつもりだったのである。
足元の地面を見つめてレナスにどう説明するかを考えていると、先ほどのレンの台詞が思い出され、またしても涙が滲み出た。
指の背で拭うだけでは間に合わず、涙は後から後から零れ落ちてくる。何度もこすられた頬に、涙がヒリヒリと染みた。
鼻をすんすん言わせながら必死で涙を拭っていると、頭上から突然、「寒くはないか?」という声が降ってきた。
ビックリして見上げると、先ほどの男がすぐ隣に立って彼女を見下ろしていた。
確かに今日は初夏にしては霧が濃くて涼しい日だけれども、寒いほどではない。
ニーナが無言で首を振ると、男は「そうか」と言って頷いた。そのまま自然な調子で手を伸ばし、濡れて頬に貼りついた彼女の黒髪を、親指の腹で払う。
それはとても優しい手つきだった。こちらに向けられた目に浮かぶのは、慈愛の光。
戸惑い、されるがままになっていたニーナは、ふと袖から覗く彼のカフスボタンに目を留めた。
正剣隊の徽章……? なぜ学園に正剣隊が?
彼女の表情を不思議に思ったのか、男がニーナの視線の先に目をやって「ああ」と納得したような顔をする。
だが男が口を開くよりも先に、良く通る声がその場に響き渡った。
「ビル? 貴方ニーナに何をしているの?」
二人がそちらを振り向くと、腰に手を当てたレナスがこちらを睨みつけていた。彼女は男の答えを待つまでもなく、ニーナの下へと駆け寄ってくる。
「ニーナ、大丈夫? 何も痛いことされなかった?」
心配そうに覗き込んでくるレナスに、ニーナは赤面しながら「大丈夫」と小声で答えた。
「姫。俺がこのような少女に乱暴な真似をすると思うか?」
「貴方は普通の人より力が強いのよ。力加減が分からなくてニーナに怪我をさせたらどうするつもり?!」
いささか過保護なレナスの台詞に、居心地悪そうに視線を逸らしたニーナは、今更ながらある事実に気がついた。
「ビルって……」
ニーナの呟きに、レナスが「あら」と振り返る。
「そう言えば、紹介がまだだったわね。ビル、こちらがニーナ。ニーナ、私の婚約者のビルフレッドよ」
この男が。
ビルフレッドが胸に手を当て敬礼し、「ビルフレッド・ヘザー・レイだ。ニーナ殿のことは、かねてより姫から聞いている」と挨拶をした。
ニーナはぎこちなく会釈しながらも、マジマジと彼を見つめてしまった。
……なるほど。レナスの好みがアキのような男ならば、見事に正反対のタイプだ。
でも、と思う。ビルフレッドは、庶民だからと言ってニーナを蔑むようなことはしなかった。口調はぶっきらぼうだったけれど見下しているわけでは無かったし、単に武骨なだけだろう。先ほど気づかってくれた時に見せた優しさを考えると、悪い男では無さそうだった。
「そう言えばニーナ、どうしてここに?」
レナスが振り向いた。いつもだったらニーナが店を手伝っているはずの時間だ、ということに彼女も気づいたのだ。
「ちょっとレナスに会いたくて……」
「私に?」
頷いた瞬間、じわ、と涙が浮かんできた。顔が上げられない。
レナスはニーナの気持ちを瞬時に察したようだった。
きびきびとビルフレッドの馬車にニーナを乗せ、「女同士の大切な話なのよ」と言って御者台に彼を座らせた。そして学園の図書室に向かうように命じる。あそこならば滅多に人が来ない。
ビルフレッドもレナスの意図が分かったのか、無言のままその指示に従った。
図書室に到着すると、レナスはニーナの肩を抱いて中に入る。入り口の見張りはビルフレッドに頼んだ。
無人の室内では知識の水晶玉が足元近くにまで降りて来ていたが、二人が足を踏み入れた瞬間にそれらは慌てて天井へと舞い上がった。
色とりどりの水晶玉が上昇していく様子はとても幻想的で、一瞬だけニーナの心も浮き立つ。
レナスが扉を閉めて中央に戻って来る頃には、大分気持ちの方も落ち着いていた。声を震わせることもなく、淡々と気持ちを口にすることが出来た。
以前からレンが自分を恋愛対象として見ていないことは知っていたが、それでもニーナは希望を捨てきれなかった。諦めるよう自分に言い聞かせながらも、どこかでわずかな可能性に期待していたのだ――――先ほどまで。
「もういい加減に諦めないとね」と寂しげに笑ったニーナが、顔をしかめて言葉を続けた。
「ただ、最近の自分が許せなくて。レンのことが好きなはずなのに、アキに抱きしめられると離れたくなくなって、ずっとそうしていたくて……最低だよね」
レナスは黙って聞いていたが、ニーナの自虐的な台詞に思わず「貴女、自分に厳しすぎるのよ」と口を挟んだ。
きょとんとした顔を向けるニーナに、苛々とまくしたてるレナス。
「ニーナ、貴女ねぇ、他人に甘くて自分に厳しいのよ。もしも私がアキ教授のことを心の底から好きだとしてよ? その想いが報われないからって、諦めて他の男と付き合ったら、貴女、私を責める?」
「……責めない」
「そうでしょう?」
レナスが言うと、まだ納得いかない様子のニーナが声を上げた。
「でも私はレンのこと完全に諦めていたわけじゃないし……アキのこと好きかどうかも分からないのに……」
「半分諦めてたんでしょう? それに誰だってね、自分の恋が報われない時は、ついつい他の誰かにすがりつきたくなるものなのよ」
レナスの言葉に、ニーナは目を見開いた。
その様子にため息をつくレナス。
これが、誰か他の人間の話であればニーナは寛容に受け入れただろう。だが、常に理性的であろうとするあまり彼女は、自身がそれに相応しくない振る舞いをすることが許せないのだ。
全てを理性で制御できるほど、人間の感情は単純なものでは無いのに。
今も冷静さを装ってはいるが、ニーナが思っている以上に彼女の心は失恋に傷ついているはずだった。
変な男がそこにつけ込んだりしないよう、アキに言わなければ。この娘を守ると言ったのだから、その責任は果たしてもらう。
放心状態で立ちすくんでいる彼女を見て、レナスは固く心に決めたのだった。