1、出会い(霧の季節)4
(注)この世界では十九歳が成人ですが、法律によりアルコールの摂取は九歳から許されています。
時刻は真夜中に差し掛かろうとしていた。
厨房が最も忙しいのは開店前と開店直後の時間帯であり、それを過ぎれば少しだが余裕が生まれる。
仕事が一段落ついたミヤオは、自分のために紅茶を入れることにした。
客に提供するものと同じ、最高級の茶葉をゆっくりと煎じ入れる。ハチミツを入れてかき混ぜると、カップから立ち上る芳香をゆっくりと吸い込んだ。
ささやかで贅沢な楽しみをじっくり味わっていたミヤオの前に、先ほど出て行ったレナスが戻ってきた。顔が青ざめ、足取りはよろよろとしている。彼女はテーブルまで来ると、崩れるように椅子に座りこんだ。
どうやらこの娘にも紅茶が必要のようだ、とミヤオが紅茶の準備を始める。その背後で、信じられないといった顔つきのまま、レナスが声を絞り出すように呟いた。
「なんなのアレは……」
カップを置いてやったミヤオの眉がピクリと動いたが、彼女は何も言わずに黙っていた。
「アレは……あの娘の踊りは……」
「ニーナはダンスが得意なのよ」
すがりつくような顔で見上げるレナスに、ミヤオは微笑んだ。
「得意? そんな問題じゃ……」
首を振って正面に向き直ったレナスは、自分の前に置かれた紅茶に気がついた。
「悪いけれど、紅茶よりも強いものをもらえるかしら」
アルコールの強さでショックを和らげようと言うのだろうか。
しかしミヤオがそれに答えるよりも先に、一人の娼婦が食堂に入ってきた。
「お願いミヤオ。もう一度、唄をさらってくれないかしら。どうしても例の所が不安で……」
唄、という単語にレナスが反応する。
彼女が息を殺して聞き入っていることに気づかないまま、ミヤオは娼婦に唄を教えてやった。
ミヤオが最初に手本を見せて、音階と歌詞を教えてやると、娼婦がおずおずと自分の声をミヤオの声に乗せて唄い出す。その情感たっぷりの唄いっぷりを見れば、ミヤオの教え方が上手いことが分かる。
やがて娼婦は自信を取り戻したのか、にっこり笑うと手を振って出て行った。ミヤオも微笑みながら振り向くと、驚きで目を丸くした少女の顔がこちらを見つめていた。
「まさか、まさか貴女……ミヤオ・ロックウェル……?」
懐かしい呼び名に、思わず目を閉じて感慨にふけるミヤオ。
ロックウェル。最後にその名で呼ばれたのは、いつのことだったろう。
「懐かしい名前だわ。それにしても、私がそう呼ばれていたのはずっと前の話よ。あんたみたいな若い娘がよく知ってたね」
再びテーブルについたミヤオを、信じられないという目で見つめ続けるレナス。
言葉を失ってしまったような少女を前に、照れくさそうな笑みを浮かべていたミヤオだったが、次の瞬間、あまりにも意外な一言がレナスの口から飛び出し、思わず目が点になってしまった。
「――――――弟子にして下さいっ!!」
「……は?」
テーブルに両手をつき、額をこすりつけんばかりに頭を下げるレナス。
「え……と?」
「私、唄い手になりたいんです!」
勢い良く身体を起こしたレナスが、ミヤオの両手を握りしめた。
「唄い手に? 貴族のあんたが?」
「ええ! そのために唄のレッスンは受けています。でも、貴女に……伝説の歌姫に指導していただければ……」
必死に訴えるレナスの喉が詰まった。
ミヤオは目の前の少女の、大きな瞳を静かに見下ろした。そこに浮かんでいるのは期待と懇願。けれど、その奥には確かに真剣な光があった。
目を伏せ、考え込むミヤオ。
「……いいわ」
やがて彼女が口にした返事に、ぱっと笑顔になったレナスを「ただし」と押しとどめた。
「ニーナと友達になってやってちょうだい。それが条件」
「はい!」
勢い良くレナスが頷いた、ちょうどその時。
レイチェルが厨房に入ってきた。よほど急いで来たのか、息が上がっている。
「おやレイチェル」
「あらレイチェル。こんばんは」
レイチェルは戸口で立ち止まり、手を取り合ったミヤオとレナスを、不可解なものでも見るような目で凝視しながら、呼吸が整うまで待った。
「こんばんは、ミヤオ、レナス様」
テーブルに近づいたレイチェルがにっこりと微笑み、ため息交じりに言った。
「レナス様。まさか本当にいらっしゃるとは思いませんでしたわ」
「あら。貴女がいつでもどうぞ、って言ったのよ?」
無邪気にこちらを見上げて言うレナスを、無言で見つめ返すレイチェル。
「レナス様、お家の方が心配されますわ。お送りいたしますから、帰りましょう。このような店は、公女様が来るのに相応しい場所ではありません。――もう来られない方がよろしいかと」
身を屈め、顔だけは笑顔のまま真剣な声で言ったレイチェルを、レナスは可愛らしい声で「あらダメよ」と遮った。
「だって私、師匠に会いに来なければならないもの」
「師匠……?」
眉を寄せたレイチェルの隣で、ミヤオが「そうだねぇ」と笑った。
「ミヤオ?」
「レナスに唄を教えてあげることになったのさ」
「レナスに過去を話したの?!」
驚きのあまりレイチェルは、レナスの名前を呼び捨てにしてしまった。だがミヤオも、当のレナスもそれを気にした様子は無い。
「私は何も言ってないよ。レナスが自分で気づいたのさ」
「この道を志す者なら、知っていて当然よ。ロックウェルの称号を得た唄姫の中でも、伝説の存在ですもの。あの唄声、ミヤオという名前。そしてオレンジ色の髪――」
「今は白髪交じりだけどね」
恍惚の表情を浮かべるレナスに、苦笑を浮かべるミヤオ。
「これでミヤオ・ロックウェルの名前が出てこないはずが無いでしょう」
びしっと人に指を突きつけるという、およそ貴族の令嬢らしくない振る舞いをしたレナスを、呆然として見つめるレイチェル。
「レイチェル。この娘を侮ってはいけないよ」
ミヤオがゆっくりと、諭すように言った。
「でも、ミヤオ……」
「頭の良い娘だよ。大丈夫。ニーナの良い友達になってくれる」
不安そうな顔で振り返るレイチェルと、その肩を軽く叩くミヤオ。それはまるで母親が娘を宥めているような光景だった。
事実、レイチェルにとってミヤオは単なる雇人では無い。血の繋がりは無くとも、母であり姉であり、良き友として大切な存在であった。
その彼女に「大丈夫だ」と諭されれば…………不承不承と言った顔で頷くしか無かった。
「と、言うわけでレナス」
振り向いたミヤオの顔を、期待に満ちた目で見つめる少女。
「その紅茶を飲んじゃいなさい。紅茶は喉に良いのよ。ハチミツもね」
レナスは自分のカップを引っ掴むと、中身を一気に飲み干した。幸い、淹れてから時間が経っていたおかげで火傷することは無かった。
カップをテーブルに置き「次は?」という顔で見上げているレナスを、レイチェルは呆れた顔で見下ろした。
「そうだね。……ニーナのように毎日、腹筋を鍛えるんだね。喉と腹筋を鍛えなければ良い唄い手にはなれないよ」
「わかりました!」
嬉々としてレナスが返事をした時、普段着に戻ったニーナが厨房に入ってきた。
その姿を認め、駆け寄るレナス。彼女はニーナの手を取ると、嬉しそうにクルクルと回り出した。
「聞いてニーナ! 私、貴女と一緒に身体を鍛えることになったの」
「え?」
「それにね、ミヤオの弟子にしてもらったのよ!」
「は?」
「これから毎日でもここに来るからね!」
「……はあ」
そろそろ目が回りそうになってきたニーナは、そこに訳の分からないことを矢継ぎ早に言われて混乱していた。だが、戸惑った顔でミヤオとレイチェルを見れば、二人とも微笑んでこちらを見ている。
何だか分からないけれど、二人が納得済みならば、そういうことなんだろう。
他人に対して驚くほど淡泊なニーナは、深く考えることをやめて、あっさりとその事態を受け入れた。
その後、今日はもう遅いからとレナスは家に帰されることになった。彼女を裏口まで送って行ったミヤオは、ニーナが聞いていない時を見計らってレナスの耳元に囁いた。
「ニーナをよろしくね、レナス。あの娘は……自分の心に鈍感なんだよ。自分が思っている以上に傷ついたり疲れていることに気づけないの。支えてやってくれるかい?」
目を瞠ったレナスは、しっかりと頷いた。
「――前から妹が欲しいと思っていたんです」
師と弟子は、にっこりと笑い合った。
fin.