1、出会い(霧の季節)
レナス十四歳、ニーナ十二歳の頃のお話し
春と夏の間に横たわる、霧の季節がレナスは好きだった。元々自分が水神の加護を受けているということもあるが、寒くもなく暑くもなく、ただ怠惰に時が流れていくような気だるげな空気が何とも言えず心地良かったのである。
今、彼女は霧に覆われた学園の校庭を歩いていた。水魔法によって自分の周囲の湿度調整を行い、肌も髪も適度に潤わせた状態で悠々と歩く。水色の髪の先で、水滴が七色に光を反射する玉になっていた。
その後を、衣服を肌にまとわりつかせるほどの湿気にもめげない信奉者たちが追いかける。彼等はレナスほど水魔法が得意ではないので、それぞれが風魔法や光魔法を使いながら周囲の空気を快適なものにしようとしていた。
「それで、どこにあるのかしら」
レナスが誰にともなく呟き、小首を傾げた。
いつもであれば取り巻きが我先にと彼女の疑問に答えてくれただろう。だがこの日に限っては背後から何の言葉もなかった。
えっと驚いたレナスが後ろを振り返る。
「まさか誰も知らないの?」
目を丸くして声を上げたレナスの前で、男子生徒たちが気まずげに視線を逸らせた。
「なんてこと……あと一時間しかないのに」
レナスが呆然と呟いた。
彼等は今、植物学の授業中だった。この季節に花を咲かせる、貴重な魔法植物の標本作り。そのための植物採取が課題だったのだが。
教授から「校庭に生えています」と言われていたが、詳しい場所を知らなくても構わないとレナスは思っていた。どうせいつものように、ゾロゾロ自分の後をついてくる男たちの誰かが教えてくれるだろうと。
期待を裏切られたレナスは、内心「場所も知らないくせに、何で私についてきたのよ」と目の前の男たちに対して苛立ちを感じていた。
学園の校庭はかなり広い。いくつもの森が点在し、端から端まで移動するには馬車を使わないと一日がかりである。その中で当てもなく植物を探すなんて無理な話だ。
どうしようかと途方にくれ、無言のまま立ちすくむ一団。だがその時、彼等の横手の繁みが揺れたかと思うと、一人の少女がその中から現れた。
黒髪に黒い瞳。制服のエンブレムは紺。庶民クラスの生徒だということだ。けれど彼女は貴族クラスの生徒たちと遭遇しても、萎縮したり卑屈になったりすることなく普通にその脇を通り過ぎようとした。
その素振りは極めて自然で、だからこそ際立って強烈な印象をレナスに与えた。
「待って」
気づいたときにはもう、言葉が口をついて出ていた。
少女が振り返り、先を促すかのようにジッと見つめてくる。普通の人間であれば、その心の中まで見透かされるような視線にたじろいでしまったかもしれない。しかし恐いもの知らずのレナスは、臆することなく言葉を続けた。
「私たちボタバキの花を探しているの。貴女、どこにあるか知らない?」
その口調は、人に物を尋ねるにも関わらず、全く下手に出た所がなかった。かと言って相手を見下している素振りも無い。常に人の上に立つが故に身につける雰囲気。それはちょうど、王族が家臣に物を尋ねるかのようであった。
レナスの背後に控えていた男子生徒の一人が、顔をしかめて彼女の耳元で囁いた。
「こいつは庶民クラスの生徒だぜ? 何もそんな人間に口をきかなくたって……」
「アナタたちが役に立たないからでしょう。いいから黙ってて」
ぴしゃりと一括され、その男子生徒は不満そうに口をつぐんだ。相変わらず蔑むような視線を黒髪の少女に向けながらも、レナスを怒らせてまで反対するだけの勇気は無いようだ。
改めて少女に向き直ったレナスがニッコリと微笑む。
「ごめんなさいね、余計な邪魔が入って。それで、貴女がボタバキの花の場所を知っていたら教えて欲しいのだけれど」
レナスの笑顔を前にすると、男子生徒であろうと女生徒であろうと、必ず顔を赤らめて視線を泳がせドギマギするものなのだが。その少女は驚くほど無表情のまま口を開いた。
「ここから一番近い場所だと、この道を真っ直ぐ行って……二つ目の森の中に入って……塔の前で右の脇道に入って……十字路を右に……泉をぐるっと回って……」
最初はニコヤカに話を聞いていたレナスも、段々と眉間に皺が寄って来る。少女の説明が終わる頃には、すっかり難しい顔つきになっていた。
とてもじゃないが覚えられるような道筋ではない。チラリと横目で信奉者たちを眺めると、彼等も同様だったのだろう。皆、呆けたような表情を浮かべていた。レナスの視線に気づくと男たちは慌てて居住まいを正したが、彼女と目を合わせないようにしている。
本当に使えないんだから……と苦々しく思いながら、レナスは少し困ったような笑みを浮かべて少女の前で両手を合わせた。
「ちょっと道が複雑すぎて覚えられそうにないわ。貴女に道案内をお願いできないかしら」
「悪いけど、予定があるから無理」
あっさりと断られたレナスは、何が起こったか理解するのに数秒を要した。これまでこんな風に彼女がねだって、断られることはまず無かったのである。
「え……?」
かすれた声の呟きは、背後の信奉者たちの声にかき消された。
「おい、この女性が誰だか分かってるのか?!」
「貴族の頼みを断るなんて、何様のつもりなんだ!」
「身分をわきまえろ! 庶民の分際で」
呆然と立ち尽くすレナスの耳には、彼等の怒号が、どこか遠くから聞こえる意味を持たない騒音に感じられた。あまりのショックの大きさに、脳は思考を停止していた。耳から入ってくる言葉の意味を考えることが出来ず、ただただ目の前の少女を見つめていた。
非難を浴びているはずの少女は、無表情でそ知らぬ方を眺めている。その目は不快さも傷ついた色も浮かべてはおらず、幼い顔に不釣合いな、物事を悟りきったような大人びた表情が浮かんでいた。
「……方向指南の魔法を使えばいいんじゃないですか?」
しばらくして信奉者たちの勢いが少し落ちた時に、少女は冷静に言った。
一部の生徒が困惑の表情を浮かべる中、レナスを含め数人の生徒が目を丸くする。
「方向指南って……」
「宮中魔術師の入団試験に出てくる魔法じゃないか」
「俺達に使えるわけがないだろう」
それは精霊に命じて、自分の行きたい場所までの道案内をさせる高度な魔法術だった。この学園でそれを教わることが出来るのは、成人式を終えた最終学年、それも宮中魔術師を志す者だけと決められている。なぜなら宮中魔術師は任務で帝国内のあらゆる地区に出向かなければならず、この術を習得していることが入団試験の前提条件となっていたからだ。
男子生徒たちが「簡単に言うな」「どれだけ難しい魔法か知っているのか」と口々に詰め寄るのを、黒髪の少女は黙って聞いていた。だが、さすがに面倒くさくなったのだろう。持っていた筆記具の中から羊皮紙を一枚とりだすと、サラサラと何かを書き始めた。
「はい」
突然目の前に差し出された羊皮紙を、反射的に受け取るレナス。見下ろすと、よくぞ殴り書きでここまでと思うほど細かい字がビッシリと書き込まれてあった。
「そこに魔法の構成と発動式が書いてあるから。貴女ほどの使い手なら大丈夫でしょ」
「え……あ……ありがとう……?」
先ほどのショックに加えて急な展開に頭が混乱しているレナスは、少女を見つめたままぎこちなく礼を言った。
肩をすくませて立ち去ろうとする少女に、慌てて声をかける。
「待って! ……私はレナス・ヴィオレッタ・ヨーフ。レナスよ」
「知ってる。学園の人魚の名前ぐらいは」
振り返った少女が淡々と話す。レナスはぐっと息を飲み込んだ。
(しっかりしなきゃ。どう見ても私のが年上じゃないの)
落ち着いた様を取り繕いながら、どうにか笑顔を浮かべて見せた。
「そう。貴女の名前は?」
「ニーナ」
それだけ言うと黒髪の少女は踵を返して立ち去った。
ニーナ。庶民には姓がないことは珍しくない。だから同名の別人ということも考えられるが……彼女があのニーナだろうか。
その名前は、試験結果が貼り出されると常に「首位」の位置に記されていた。それも「学年首位」ではなく「学園首位」、つまり、帝国一の規模を誇るこの魔法学園で一番の成績だということだ。
ただし一般科目のみ。これが魔法技能の成績となると、ニーナの名前は毎回、最下位に近い所を行ったり来たりしていた。
一般科目と魔法技能の成績に差がありすぎる。ゆえに彼女は有名で、その名前を知らない生徒はこの学園には居なかった。
レナスは手の中の羊皮紙に目を落とし、そこに書かれた理論と魔法の発動式を読み込む。
それは教科書や教授陣の教えもかなわないほど、分かりやすくて完璧な文章だった。
目を閉じて意識を集中させ、覚えたばかりの魔法を発動させる。恐る恐る目を開けてみると、顔の前に濃紺の発光体が生じていた。
その光の塊はふわふわと漂い、少し離れた所でジッと留まる。まるでレナスがついてくるのを待ち構えているかのように。
この時、レナスは確信した。これが私の精霊。そして先ほどの少女は間違いなく、あのニーナだったのだと。
月末に行われた定期試験の結果が貼り出された時、いつものようにニーナの名前は一般科目の学園首位にあった。
あの日以来ニーナに対して好奇心を募らせていたレナスは、試験結果を見上げながら、ますます彼女のことを知りたいという想いを強めた。
ニーナと出会った場所に何度か足を運んだり、庶民クラスの校舎まで尋ねて行ったりもしたが、間が悪いのかいつも会うことができなかった。
そこでレナスは、自分の取り巻きや庶民クラスの生徒にニーナのことを尋ねることにした。
そして分かったことは――――どうやら彼女には友人が居ないようだ、ということだった。誰も彼女について詳しいことを知らなかった。
一般科目は成績優秀だが、魔力はほとんど無いこと。進んで人と交わろうとせず、いつも独りでいること。どうやら孤児であったらしいこと。朝は遅刻ギリギリに登校してきて、授業が終わるとさっさと帰ってしまうこと。遅刻してくることも多く、時には登校すらしてこないこと。
話を聞いた相手全員が、同じようなことを口にした。そのどれもがニーナの表面上のことしか教えてくれなかった。
レナスが歯がゆく思っていた頃、信奉者のうちの一人がポツリと呟いた。
「そういえば彼女はウィッチグラスに住んでいたな」
「ウィッチグラス?」
聞き返したレナスの視線に、彼は「しまった」という顔をしたあと、バツの悪い顔で視線を逸らせた。
「レナス、君が知るような場所じゃないよ」
フォローに入ろうとした別の男子生徒は、彼女に険のある瞳で睨みつけられて黙り込む。
「――――教えて」
レナスに低い声で尋ねられて、誰が逆らうことが出来るだろう。
信奉者たちは互いに顔を見合わせた後、諦めた様子で口を開いた。
「……娼館だよ。レイチェル・ドーソンがオーナーの」
「レイチェル・ドーソン?」
レナスが驚いた声を上げた。
宮中娼婦であるレイチェルとは、王宮で何度も顔を合わせたことがある。彼女は並みいる宮中娼婦の中でも一、二を争う存在であり、その権力も大きい。そのレイチェルが娼館を経営しているなんて初耳だった。
だがそれも無理はないだろう。貴族の令嬢であるレナスに、娼館など用はない。耳に入れる必要もない。だから誰も教えない。
「そのウィッチグラスは娼館といっても、上客しか相手にしないところなんだ。レイチェルがオーナーなだけあって、娼婦たちの作法や知識は貴族の令嬢なみだよ」
続けて教えられた情報に眉を潜めるレナス。
「……アナタ、その店に行ったことがあるの?」
言われた男子生徒の顔が青ざめる。彼は慌てて否定し、知人から伝え聞いた話だと弁明を始めたが、その必死さがかえって疑わしかった。
しかしレナスはもはや、彼の話を聞いていなかった。そんなことはどうでも良かったのである。
「レイチェル・ドーソンね……」
彼女の小さな呟きは、誰の耳にも聞き取られずに消えた。