13、ニーナとアキとレナス
踊り終えたニーナの頬は上気し、僅かに紅潮していた。
先ほどから興奮したジン教授に両手を握り締められているため、身動きがとれない。
「貴女はダンサーになるべきです! それも一流の舞踏家に! ええ、酒場のダンサーだなんて低い目標ではありませんよ。大丈夫、貴女ならなれます。私は全力で応援しますよ!」
アルコールが入っているせいか、何度も同じ事を繰り返す教授に困った表情を浮かべるニーナ。
酒癖が悪かったんだな、ジン教授……と思いながら伏せられた睫毛が、頬の赤さと相まって男の気をそそるような効果を上げていた。
教授がニーナを独占しているせいで遠巻きにしていた男子生徒たちが、その色気にあてられてそわそわと動き出す。
レナスは先ほど教授たちと一緒に行ってしまったし、こういうことに不慣れなニーナはどうして良いか分からず困り果てていた。
「失礼します」
その声の主を見たニーナはホッと安堵の溜め息をつく。
アキが柔和な微笑みを浮かべ、紳士的な態度でそこに立っていた。
「アキ教授! 素晴らしい舞台でしたよぉ!」
ジン教授からの激しい賛美の言葉に、ニッコリと笑って「ありがとうございます」と返すとアキは、ニーナに向き直った。
「ニーナ。君のお陰で素晴らしい舞台になったよ。よくやってくれたね」
「ありがとうございます」
どうやらアキの仕事の方も首尾良く行ったのだろう。
紳士的な教授を演じるアキに合わせて、殊勝な生徒そのものといった態度で頭を下げた。
「ジン教授。申し訳ございませんが、これからニーナと共に学園長に挨拶することになっているのです。少しの間、彼女をお借りします」
「ええ。学園長にも素晴らしい守護魔法でしたとお伝え下さい。まだまだ現役ですよ、あの人は……」
だいぶ呂律の回らなくなってきたジン教授に頭を下げると、アキはニーナの腕をとって歩き出す。
男子生徒たちの未練がましい視線が、その後姿を見送った。
アキに引っ張られながらニーナは、教授棟に向かうのだろうなと漠然と考えていたが、彼はその前を通り過ぎ森の中へと歩を進める。
「学園長は?」
「放っておけば暗示が解ける」
学園長に守護魔法をかけさせたのは、アキの暗示だった。
「そうじゃなくて……挨拶するんでしょ?」
「あれはただの口実だ」
ニーナが再び質問をしようとした途端、突然アキが足を止めた。
勢いでその背中にぶつかってしまったニーナが鼻をさする。
「いった……」
「しっ」
アキはニーナの口を片手で塞ぐと、近くの木陰に身体を隠す。
その様子につられてニーナも息を殺し、アキの視線の先へと目をやると、そこには一組の男女が居た。
(ウィード……とリリアナ?)
男の方はレナスの信奉者、ウィードだ。
一方、彼と対面する少女は着飾っているせいで一瞬見分けがつかなかったが、リリアナに違いなかった。
「驚いたなぁ、お前がこんな風になるとは」
ウィードが下品な笑みを浮かべて口を開くと、リリアナの眉毛がピクリと引きつったが、すぐにまた取り澄ました表情に変わる。
確かに、地味だった彼女がこれほど美しくなるとはニーナも思いもよらなかった。
だがそれだけではなく、リリアナの纏う雰囲気自体が大きく変わっていた。妙にスッキリとした晴れやかな表情をしたリリアナは自信に満ちており、まるで別人のようだった。
「ダンスのパートナーが居ないんだろう? 俺がなってやってもいいぞ」
ウィードの口から出る傲慢な言葉に、聞いているニーナの方が切れそうになった。
ここまで自惚れの激しい男だったとは……!
不快感に顔をしかめるニーナだったが、言われたリリアナの方は微笑みを浮かべて悠然と立っていた。
「申し訳ございませんウィード様。私にはすでに決まった相手がおりますの」
断られると思っていなかったウィードは、一瞬、聞き間違いかと思った。
「決まった相手がおりますの」
リリアナはもう一度繰り返した。
信じられないといった表情を浮かべたウィードの顔が、怒りに歪む。
彼がリリアナの方へ一歩踏み出すと、彼女の背後から一人の男が現れた。
その姿を目にしたとたん、ウィードの瞳が驚愕に見開かれる。
若いながらも威厳と気品に満ちたその男の腕に、リリアナは自らの手をそっと差し入れた。
「ギルケス伯爵……」
ウィードが放心したように呟いた。
「誰だあれ」
「ギルケス伯爵。確かつい最近、爵位をついだばかりだって聞いたけど」
小声で囁くアキとニーナ。
二人は今、一本の木の陰で抱き合うようにしてウィードの修羅場を眺めていた。
「お前、リリアナに新しい男を紹介したのか?」
アキは顎を引いて、胸元に張り付いているニーナを見下ろした。
「レイチェルに何とかしてってお願いしたんだけど」
目だけ動かしてアキを見上げる。
実際、何とかしてくれと頼んだ後は放置していた……というか綺麗に忘れていたのだから、無責任だったかもしれないと自分でも思った。
ニーナとしては、人生経験豊富なレイチェルに「男に捨てられることなんて、大したことじゃない。いつまでも過去にとらわれるな」と諭して欲しかっただけなのだが。
何がどうなったのだろう。しかしリリアナをギルケス伯爵に紹介したのは、貴族階級に広い人脈を持つレイチェルに違いなかった。
再びウィードたちに視線を戻すと、リリアナと伯爵が連れ立ってその場を離れる所だった。
ショックに打ちのめされたウィードの顔が滑稽で、胸がスッとする。
これで彼の女癖の悪さと捻じ曲がった根性が直ると良いのだが。
(……多分、無理だろうな)
そこまで楽観的にはなれなかった。
「そろそろ移動するか」
アキがそう言うと、再びニーナの手をとって歩き出した。
我に返るニーナ。
「どこに行くの?」
「お前に俺の魔力を注入する」
人気の無い場所まで来ると、アキはニーナに向き直った。
そしてその腰に手をかけ、自分の方へと引き寄せる。
「まさか、またキスじゃないでしょうね」
ニーナが警戒して背中を仰け反らす。
踊り子の衣装を着たままなので、普段より露出の多い服装をしている。
薄い布地ごしに感じるアキの大きな手と体温が、ひどく落ち着かない気分にさせた。
「そんなに怯えるな。……それでよく娼婦になるとか言えるな」
「う」
思わず言葉に詰まる。痛いところを突かれてしまった。
「じゃあ、キスでもいい」
唇を尖らせて拗ねるニーナはしかし、髪の中に指を差し込まれると身体をこわばらせた。
それでも抵抗はしない。
だがアキは、彼女の顔を引き寄せて自分の肩に乗せると、耳元に口を寄せた。
「こんな子供を相手にしても仕方ないからな」
吐息がかかる感覚に、背中がぞくぞくする。
思わず首をすくませたニーナは、続けて耳朶を軽く噛まれて「ひゃっ」と声を漏らした。
顔に血が上り、燃えるように熱くなる。
「……お前は、俺の使い魔だ」
噛む場所を少しずつずらしながら、ゆっくりとアキが囁く。
その声は真剣で、いつものようなふざけた調子も、ましてや甘いところなど全く無かった。
もしニーナがアキの顔を見ていたら、何かを思いつめたような表情を見ることが出来たはずだ。
けれど彼女は耳から広がる感覚に、熱に浮かされたようなぼんやりと霞がかった意識の底で、ただ何となくその言葉を聞き流していた。
--お前は、俺の使い魔だ。
ニーナと別れ、中庭に戻ったアキはレナスと再会した。
「お前、知ってたのか? あいつが……」
「神様だってこと?」
口ごもるアキに、レナスはその先を口にすると優雅に笑った。
けれどそれは微かな苦味の混じったものだった。
「……初めてあの娘が踊るのを見たとき、分かったわ。自分が目にしているのは、人間じゃない。何か異質な存在だ、って……。詳しいことは私には分からない。でも、あんなに神々しいもの、他に言い表しようが無いじゃない。神様としか」
「……正確には、神の生まれ変わりだ。美と舞踏の神、ムーサテリューズの」
アキの言葉にレナスは、驚いた様子もなく黙って頷いた。
なんとなく予想がついていたことだ。
「すごいわね。神様を使い魔にするなんて」
レナスが皮肉交じりに言う。彼女もまた、ニーナとアキの契約が継続中だと信じていた。
「ああ。あいつは俺の使い魔だ」
アキの真剣な目を覗き込んだレナスは、何かを確認したかのように頷くと、フッと顔をほころばせた。
「約束よ。あの娘を、守ってね」
「ああ」
アキは短く答えると、何も無い宙を見据える。
そして小さいがしっかりとした声で、きっぱりと呟いた。
「……あいつは俺のものだ。誰にも渡さない」
春が終わろうとしていた。