10、罠
「春にしては寒いね。今夜は」
衣服を整えたニーナが、手早く紅茶の用意をしながら言った。
寝台の上には、シャツの襟元を緩めてリラックスした様子のアキが横たわっている。
仕事を終えてこの部屋へやって来た時、ニーナはあらかじめ紅茶の道具を用意しておいたのだ。
茶葉が開くのを待つ間に、アキが窓際に脱ぎ捨てたマントを回収して畳み直す。
その様子は娼婦というよりも、甲斐甲斐しい小間使いという形容詞がぴったりだ。
「……ブランデーか」
手渡されたティーカップから立ち上る芳香に、アキが呟いた。
「そう。客の分には垂らすのがうちの慣習」
濃い目が好きなニーナは、じっとティーポットを見つめながら紅茶が充分に煮出されるのを待った。
「どうせならワインにしてくれた方が嬉しかったんだがな」
「私、ワイン飲めないもの」
紅茶を一口飲んで、細く息を吐き出したニーナがカップの縁ごしにアキに目をやった。
「考えたんだけど。窃盗犯を見つける必要があるの? 指輪はもう取り返したし、アキが指輪を奪還したぞーって発表すれば……相手も諦めて闇世界に帰るんじゃないかな」
「そう単純な話なら良いんだが」
紅茶を飲み干したアキがお代わり、とカップをニーナに差し出す。
「実はまだ、窃盗犯の正体をつかんでいない。おおよその見当はついているんだがな。問題は奴が自分の意思で指輪を盗んだのか、誰かに命じられてだったのか……それ次第で今後の対応が変わってくる。それに……」
両手でカップを受け取ったニーナが、小首をかしげる。
「それに?」
「俺のものを盗む奴を、生かしておくわけにはいかない」
紅茶を注ぎブランデーを垂らしていたニーナの動きが、一瞬だけ止まる。
「この俺にたてつくとどうなるか……身を持って教えてやる」
「……巻き込まれた方は迷惑なんですけど」
「諦めろ」
ニーナがジト目で睨みつけても、アキはどこ吹く風と言った顔だ。
「窃盗犯は、まだ学園に潜んでいると見て間違いない。こちらが指輪を取り戻したことを知らず、未だに生徒たちを狙っているんだろう。だから俺は囮を使って奴をおびき出す」
「囮?」
「ああ。すでに学園長に暗示をかけてきた」
思わずニーナはまじまじとアキを見つめてしまった。
学園長は王宮つき魔術師の中でも十本の指に入る実力者で、特に守護魔法に関してはずば抜けていたはずだ。
それを、いとも簡単に暗示をかけてきたとは……もしかするとアキは、想像以上に強い魔力の持ち主なのかもしれない。
その問題の悪魔はニーナの視線にも気づかず、もはやブランデーを直接カップに注いで飲んでいた。
「明日、点検という名目で生徒の制御装置を回収し、そのまま花祭りの日まで学園長の金庫に保管させる。あの金庫にかかっている守護魔法は、彼が長年研究して作り上げたものだからな。この俺でも手こずるだろう。さすがは守護魔法の第一人者だ」
「制御装置なしで、練習はどうするの?」
「これを使う」
差し出された左手には、クルミほどの大きさのブローチが乗せられていた。
深い紫色の石の中で、白い星のような点が自由に動き回っている。
「あ、先代の制御装置だ」
それは五年前まで、学園で使用されていた制御装置だった。
原料の鉱石が希少で高価なものであったため、教授のみ、それも祭事にだけ使用を許されていた。
よって以前の花祭りでは制御装置なしに高度な魔法を駆使しなければならず、少数の優秀な生徒でなければ運営委員に選ばれなかったのである。
だが名工タドゥルタトスが安価な指輪型の制御装置を開発したことから、より多くの生徒が参加することができるようになり、その魔法は祭をより華やかにした。
しかし、以前に比べて安価になったとは言え、やはり制御装置は高価な代物である。
現在の指輪型制御装置も、生徒に貸し出されるのは祭事の時だけと決まっている。
「花祭りの前日まで、生徒たちにはこの制御装置を使って練習してもらう」
話を聞きながらニーナは、うーんと腕を組んで考え込んだ。
さぞ窃盗犯は焦ることだろう。
ようやく、風魔法と花魔法の使い手が指輪を持っているところまで突き止めたというのに。
突然それが目の前から奪い去られ、手の出せない場所に保管されてしまうのだ。
追われている状況の中に居るとなれば、その心の動揺は計り知れない。
「暴走しないでしょうね? 窃盗犯……」
追い詰められた悪魔の忍耐力がどれだけ持つのか。
逆上して学園中に攻撃魔法の雨を降らされたら、たまったもんじゃない。
ゾッとしたニーナが、両手で頬を押さえながら呟いた。
「恐らく、それは無い」
だがアキはあっさりと否定する。
「窃盗犯の正体が俺の予想と当たっていればな。お前と一緒で、平静さを装おうとするタイプだ」
ニヤリと笑うその顔は、己の予想に誤りが無いことを確信しているものだった。
「それでも、祭の当日まで手を出せないのは奴にとって痛手だ。散々ジリジリと待たされた分、指輪のありかを知った時は夢中で飛び出してくるだろう。罠かどうかを考える余裕もなく……な」
その言葉にニーナが顔を上げる。
「さっき囮って言ってたよね」
「ああ」
アキが頷いた。
「レナスに指輪をはめさせる」
「そっ……!」
ニーナが立ち上がった弾みで、椅子が後ろに倒れて派手な音を立てる。
アキに喰ってかかろうと口を開くのだが、入り乱れる思考のせいで、どう言葉を紡いでいいのやら分からない。
力なく口を開けたまま、視線だけが泳いでいた。
その様子を無表情で眺めていたアキが、静かに呟いた。
「レナスを信じろ」
ピタリとニーナの動きが止まり、その視線がアキの顔に注がれる。
彼女の黒い瞳は驚きに見開かれていた。
「信じる……?」
「ああ」
アキの金色の瞳は、その視線を真っ向から受け止めて頷いた。
「レナスは強い。指輪の力が無くても、下級悪魔なんか簡単に捻り潰せる。あいつが指輪をはめれば、急激に魔力が増幅されるだろう。その波動を感じて窃盗犯はレナスの前に姿を現わすに違いない。だが指輪の力が加わったレナスの魔力には、上級悪魔ですら……かなわないかもしれんな」
「いくら魔力が強力だからって、実戦経験は無いのよ!」
青ざめたニーナがアキに詰め寄った。
その顔は、今にも泣き出しそうに歪んでいた。
「レナスには俺がついている。問題ない」
「でも……」
俯いたニーナの弱気な姿は、学園では決して見ることのできないものだ。
葛藤するその様は、実際の年齢よりも彼女を幼く見せていた。
(レナスの身を案じるあまり……か)
恐らく彼女をこんな風にしてしまうのは、ごく身近な親しい人間だけだろう。
ニーナにとってレナスは、ニーナ自身が思っている以上に大切な存在なのだ。
自覚は無いだろうが。
「気にくわんな」
アキの不機嫌な声を聞き、ニーナが顔を上げた。
「お前は俺の使い魔だ。使い魔は己の主人を何よりも信じ、優先するのが当然だ。気にくわない。俺を信じないことも、俺以外の人間を優先するのも」
次の瞬間、ニーナの身体はアキの腕の中に抱え込まれていた。
ニーナがもがくと、背に回されたアキの腕に力が込められる。
息苦しさに眉をしかめた彼女の耳元で、アキが囁いた。
「俺を信じろ」
冷静で静かな声。
けれど、そこに含まれた激しい怒りにニーナが怯える。
彼にとって自分の実力を疑われることは我慢ならないことらしい。
言葉を失くし、怯えたように小さく頷くとアキが腕の力を緩めた。
だが戒めを解こうとはしない。離すつもりは無いらしい。
「……アキ、あの……」
「抱き心地いい上に体温が高いな、お前。子供みたいだ」
一瞬呆気にとられたニーナは、アキが元の調子に戻っていることに気づくと、その腕を振り払い憤慨して部屋から飛び出していった。
彼女を見送ったアキはゆっくり寝台に倒れこみ、薄暗い部屋の中でしばらく宙を見つめていた。
やがて彼はそっと起き上がると、ニーナの畳んだマントを手に取り、窓枠から外の闇に向かって足を踏み出す。
完全に身体が外に出る前に、その姿は溶けるように消え去った。