口煩い小姑に就任予定なので、いびり相手は自分で決めることにした。
「テオドール。あなた、結婚したら私より奥さんを大切にするのよ。」
朝食の席でそう告げると、義弟は焼きたてのパンに蜂蜜を塗る手を止めた。
淡い金髪に、新緑の瞳。
この国で成人とされる十八歳を迎えたばかりの彼は、朝から大変顔がよい。
寝不足で鏡を見るたびに「本日は人と会わない方がよい」と判断する自分と違い、彼はいつ見ても人に会わせたい顔をしている。
できれば、額に入れて飾りたい。
本人が絶対に嫌がるので、やらないが。
「姉上より、ですか。」
「ええ。私と奥さんが喧嘩したら、ちゃんと両方の事情を聞くこと。無条件で私の味方をしては駄目よ。」
「もちろんです。姉上が悪ければ、そこはきちんと謝っていただきます。」
「……そう。」
正しい。
何一つ間違っていない。
だが、そこはもうちょっと、こう。少しくらい迷ってもよかったのではないか。
目から光が失われかけたところで、シルヴィアは思い直した。
いや、迷わせないための教育である。教えた本人が傷ついてどうする。
小姑だ。
心の中の小姑が騒いでいる。
キーッ!、とハンカチを噛みしめている。
まだ嫁もいないのに。
シルヴィアは目を閉じ、そっと胸に手を当てて深く息を吸った。
鎮まれ、内なる小姑よ……!
「では、婚約者から『どうせ私よりお姉様の方が素晴らしいのでしょう?』と言われたら?」
「そうですね……その方の素晴らしいところをお伝えします。」
「そう!そうよ!大いに褒めて差し上げなさい!」
シルヴィアは思わず身を乗り出した。
「『君には君のよさがある』なんて逃げた言い方では駄目よ。瞳、髪、声、考え方、歩き方……。褒められるところは一つ残らず褒めなさい。立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花。千年に一人の美少女。盛れるだけ盛りなさい!」
テオドールは訝しげにこちらを見て、わずかに首を傾げた。
「姉上は、僕がそのような美辞麗句を申し上げると嫌がるではありませんか。」
「弟から褒められるのと、婚約者から褒められるのとは全然違うでしょう。将来の夫に言われるなら、そりゃあ嬉しいわよ。」
「なるほど。」
テオドールは、なぜか少し嬉しそうに頷いた。
「今のお言葉、よく覚えておきます。」
「ええ。忘れないでね。」
よし。大変素直である。
これはただの朝食の席ではない。
未来のハッピーエンドに向けた研修だ。
受講者一名、講師一名。
教材は、シルヴィアが前世で読んだ数百作の恋愛小説である。
前世、日本で社畜をしていた頃、シルヴィアは通勤中によく小説を読んでいた。
疲れた頭でも読める恋愛ものが好きだったのだが、そこには定期的に、同じ過ちを犯す男たちが現れた。
婚約者より妹の方が可愛い。
姉の方が優秀だ。
幼馴染の方が自分を分かってくれる。
そう言い放っておきながら、婚約者に愛想を尽かされた途端、「なぜだ!?」と騒ぎ出す。
今、言っただろう。
何が「なぜ」だ。
その前の自分の台詞を三回読め。
前世では、そう思いながら電車に揺られていた。
ところが今世、自分には大変、大変よく懐いた義弟がいる。
顔よし。頭よし。家柄よし。
そして恐ろしいことに、姉への評価が大変高い。
いかにも婚約者の前で「姉上なら」と言い出しそうな男である。
そして、比較に使われる姉とは自分だ。
……立っている。
折ってくださいと言わんばかりのフラグが、これ見よがしにはためいている……!
自分がヒロインなら、まだ対策も立てやすい。
だが、どう見ても配置が違う。
黒い巻き毛に、切れ長の目。
気も口も強く、弟を溺愛。
ここまで条件を揃えておいて、心優しい脇役ですと言い張るのは、さすがに無理がある。
どこをどう見ても、嫁いびり担当の小姑だった。
何の募集にも応募していないのに、適性だけで採用されてしまった。
しかし。
可愛い弟に、ざまあされる男専用の席へ座ってほしくない。
まして、その隣で勝ち誇って笑っている「婚約者より大切にされた女」が自分だった日には、目も当てられない。
「いい?『姉上の素晴らしさが分からない君が悪い』なんて言ったら、その時点で全部終わるからね。」
「何が終わるんですか?」
「縁談から始まって、最終的には家が。」
「家まで?」
「物語というのは、そういうものなのよ。」
テオドールは少し考えてから、蜂蜜を塗り終えたパンをシルヴィアの皿に載せた。
薄いバターの上に、蜂蜜。端まで丁寧に伸ばされている。
「分かりました。僕の妻になる方を、一番大切にします。」
「約束よ。」
「はい。」
テオドールは美しい笑みを浮かべて、妙に力強く頷いた。
「必ず。」
やはり実に素直だ。素晴らしい。
ブラコン歴十三年。
プロのブラコンとして、何としてもこの義弟を幸せにしなければならない。
シルヴィアは満足してパンをかじった。
蜂蜜は甘すぎず、バターの塩気もちょうどいい。実に自分好みの塗り加減だった。
こちらにも大変満足した。
◇
シルヴィアが事故で両親を亡くしたのは、七歳のときだった。
彼女には、日本という国で生きた前世の記憶がある。そこでは家庭環境に恵まれず、三十代前半で死ぬまで、自分の面倒を自分で見ることに必死だった。
だからこそ今世で、優しい両親と温かな家庭を得られたことが、本当に嬉しかった。
その両親が、突然いなくなったのだ。
さすがに何日も食事が喉を通らなかった。
それでも、月末は来る。
使用人たちへの給金の支払いや、取引先への買掛金の期日も来る。
家を守ってくれる大人や関係者たちにも、それぞれの暮らしがあった。
それが分かっているからこそ、泣いていても生活を整えてもらえる今世の立場を、いつまでも当たり前にはできなかった。
後見人となったローデン伯爵に家の事情を尋ねると、最初は「大人に任せておけばよい」と優しく微笑まれた。
一年後、伯爵は青い顔で帳簿を持参するようになった。
シルヴィアが自分にも確認させろと、あの手この手で攻め立てたためである。
この国では、女性は公爵位を継げない。
ただし、領政や財産管理には関われる。
つまり、家督は駄目だが仕事はしろという制度だった。
非常に納得がいかない。
とはいえ、八歳の子供が法制度をひっくり返すわけにもいかず、話し合いの末、男子の養子を迎えることになった。
親族や王家との調整に数年を要し、十一歳のシルヴィアのもとへやってきたのが、祖母の生家である王家の第四王子、五歳のテオドールだった。
その日のことは、今でもよく覚えている。
玄関広間に立った少年は、淡い金髪を丁寧に撫でつけられ、真新しい上着を着ていた。
王宮で何度も挨拶の練習をしたらしく、背筋を伸ばして口を開いたものの、途中で言葉を忘れ、緑の瞳を潤ませた。
可愛い。
あまりにも可愛い。
シルヴィアはすぐさま膝を折り、少年と目の高さを合わせた。
「私はシルヴィアよ。まずは、温かくて甘いものでも飲まない?」
雪のちらつく季節だった。馬車の中も寒かったのだろう、少年の頬は少し赤い。
この目の前の大変可愛いものに、一刻も早く温かい飲み物を与えなければならない。
シルヴィアは、突然の使命感に突き動かされていた。
「テオドールです。……あ、あの。姉上、と、お呼びしてもいいですか。」
潤んだ瞳のまま、少年は小さく首を傾げた。
金糸のような髪が、さらりと揺れる。
胸に雷撃が走った。
呼ぶといい。
何度でも呼ぶといい。
こちらには抱きしめる用意もある。
いや、むしろ、もうここは抱きしめてもよろしいでしょうか。
前世からどこか固く冷え、今世でも家の存続と自分の身の置き場ばかりを考えていたシルヴィアの中に、燃え上がるような新しい情熱が生まれた。
アガペー。
これこそ、アガペー。
「だ、抱きしめてもいいかしら。」
半ば無意識にこぼれた言葉に、テオドールは初めて顔をほころばせ、小さな両腕を広げた。
天使の羽が見えた。
推し。
最推しの誕生である。
シルヴィアは温かな身体を抱きしめながら、人生計画の大幅な修正を始めた。
家を維持する。
そして、この弟を幸せにする。
この二点を最優先とし、シルヴィアは働いた。
教師選びも教材も、健康管理も疎かにしなかった。
一方で甘やかすばかりではなく、自分でできることは自分でさせ、嫌なことには嫌だと言ってよいと教え、人に助けてもらったら必ず礼を言わせた。
ただし、ブラコン加減だけはどうにもならなかった。
初めて自力で解いた算術の課題を見せられたときには褒めすぎて、教師から「続きに進んでもよろしいでしょうか」と三度尋ねられた。
剣術の稽古で手にまめができたと聞けば、急いで医師を呼ぼうとして本人に止められた。
「姉上。この程度で医師を呼んだら、医師が僕の稽古を止めに来ます。」
正論だった。
とても、正論だった。
そして、正論を言えるよう育てたのは自分なので、反論もできなかった。
そうして十三年。
月日はあっという間に過ぎた。
テオドールは美しく、賢く、礼儀正しく、優しい青年に育った。
背はとうに姉を追い越し、剣を扱う肩や腕もしっかりしてきたが、シルヴィアが帰宅すれば、今でも真っ先に顔を上げて微笑む。
天使は健在である。
同年代の令嬢たちは、一目見ただけで頬を染める。親族の爺たちからの評判も上々だ。
計画は、実に順調だった。
あとは成人した彼に領政を引き継ぎ、その妻となる女性に屋敷の差配を任せれば、父母から預かった役目も一段落する。
自分は個人資産を元手に商売でもしながら、のんびり暮らすつもりだった。
無理のない、堅実な計画である。
問題があるとすれば、肝心の嫁候補が、まだ一人も見つかっていないことだけだった。
◇
「遅くとも三十までには引き継ぎを終えて、老後を始めたいのよね。」
「……二十四歳で、我々の前で老後を語らんでいただきたい。」
親族の爺たちを集めた茶会で、七十を越えるローデン伯爵が眉を寄せた。
シルヴィアは成人後、正式に領政の管理を任されている。
昔は何を言い出すか分からない狸や狐の集まりだった親族会議も、今では各々好みの菓子を用意しておけば、おおむね和やかに済む。
人間、腹が満たされれば、大抵の話は穏便に進むものだ。
「それで、テオドールの婚約者の条件を考えたのだけれど。」
書面を配ると、爺たちは順に読み始めた。
家柄。健康。教養。気立て。領地運営への理解。
最後の一行で、伯爵の眉間に深い谷ができた。
「……『私より強いこと』。」
「ええ。ここは絶対に譲れないわ。」
「そ、その、とうとう物理的な戦闘力までお求めに?」
「物理ではないわ。気の強さの話よ。というか、『とうとう』って何。私がこれまで何をしてきたというの。」
爺たちは一斉に目を逸らした。
心外である。
しかし、そう思われても仕方ないのかもしれない。
シルヴィアは気も口も強い。
加えて、闇に溶けるような黒い巻き毛に、切れ長の瞳。目鼻立ちのくっきりした美人といえば聞こえはよいが、顔立ちまで非常に強い。
極めつけに、考え事をすると黙って相手を見つめる癖がある。
先月などは、若い事務官に支出の根拠を尋ねただけなのに、彼は震えながら「花瓶を割ったのは私です」と白状した。
そんなことは別に聞いていなかった。
仕事相手ならまだいい。
しかし、そうした女が、溺愛する弟の妻に口を出すのである。
善意の助言のつもりでも、相手には苦痛かもしれない。
そのうえテオドールが「姉上の言うことが正しい」と無条件に従えば、未来の公爵夫人が逃げ出すのも当然だ。
「私に何か言われても、理不尽ならきちんと言い返せる子がいいわ。あの子が私の肩を持ったら、その場で正座させるくらいの気の強さが望ましいわね。」
「ご自身が追い出されても?」
「私一人が追い出される程度で済むなら、その方がいいでしょう。そこでテオドールが、強くなったヒロインの魅力に気づけば、恋愛展開で立て直せるし。」
「……何を立て直すので?」
「物語よ。」
伯爵は茶碗を置き、ちょっと意味が分からないと言いたげな顔で、しばらくシルヴィアを見た。
見慣れた視線だったので、特に気にはしなかった。
「テオドール様ご本人は、何と?」
「候補が決まってから話すつもりよ。先に相談したら、自分より先に姉上の縁談を、とか言い出しかねないもの。」
シルヴィアの教育もあり、テオドールは話の進め方が非常にうまい。
義弟の結婚話をしていたはずが、気づけば自分の嫁ぎ先が決まっていた――という事態になりかねなかった。
伯爵はしばらく沈黙し、眉間を押さえた。
「シルヴィア様。確かにあなたは才女でございます。領地の運営も、公爵家の切り盛りも、次期公爵の教育も、我々にはよく分からない方法で十年以上的確に行い、成果を上げてこられました。」
そうだろう。
そうだろう。
もっと言え。
シルヴィアは胸を張った。
「しかし、あなたはご自分のことを、取り換えの利く何かだと思っておられませんか。」
「何の話?」
「……この件に関しては、テオドール様ご本人に意向を伺うのが、一番の早道だと思います。」
「だから、あの子に先に相談したら、話が別の方向へ転がっていくでしょう。」
長めの沈黙が落ちた。
「……あ、あの。すでに盛大に転がっているように思――」
端に座っていた爺一人の言葉に被せるように、シルヴィアは勢いよく立ち上がった。
「ということで、このまま押して参ります……!」
爺たちは顔を見合わせた。
しかし、シルヴィアがこうなると止められないことを、全員がよく知っている。
幾つもの深いため息とともに、テオドールの花嫁探しは、本人不在、姉主導のもとで始められることになった。
◇
最初の候補は、アデリナという伯爵令嬢だった。
幼い頃から父親について大人の商人たちと渡り合い、今では老練な商人相手にも一歩も引かず、父の商談に口を出しては揉めているという。
これは大変、大変有望である。
シルヴィアは、この日のために作った評価表を手元に置いた。
「さて。あなたは、もし私にいびられたらどうする?」
簡単な挨拶とお茶を済ませて単刀直入に尋ねると、アデリナは一度だけ目を瞬かせた。
「いびる、とは。具体的にどのようなことでしょう。」
「ここの項目がおかしい。これはやり方が違う。もっとこうした方がいい――と、何かにつけて口を出すことよ。」
「合理的なご指摘なら、受け入れるべきでしょう。長年公爵家を切り盛りしてこられた方のご経験です。利用できるだけ利用いたします。」
「利用。」
「失礼いたしました。活用いたします。」
あまり変わっていない。
シルヴィアは評価表の「小姑耐性」の欄に丸をつけた。
「では、夫が『姉上の方が優秀だ』と言ったら?」
「どの業務において、どの程度優秀なのか確認いたします。事実であれば、その業務はシルヴィア様にお任せします。」
「腹は立たないの?」
「何でもかんでも腹を立てたり、落ち込んだり、わざわざ憐れまれる姿勢を取ったりして、何か利益がございますか?」
「夫婦の愛情は?」
「婚姻条件に記載されておりますか?」
シルヴィアは虚空を見上げた。
普通、そんなもの記載されない。
「そもそも政略結婚でございますよ。商売ではございませんか。」
アデリナは、商談用の隙のない笑みを浮かべた。
百点満点の回答である。
それなのに、なぜだろう。薄ら寒い。
ざまあより恐ろしい何かが待っている気がする。
公爵家は、きっと安泰だろう。
しかし……あの子が幸せかどうかは、ちょっと分からない。
シルヴィアは「小姑耐性」を二重丸に直し、「夫婦関係」の欄を空白のままにした。
少し迷ってから「人間味――」と書きかけ、さすがに失礼だと思い直して、そっと消した。
いやいや。
候補は、彼女だけではない。
◇
二人目は、毒舌で知られる侯爵令嬢ベアトリスだった。
こちらを見ても笑顔を崩さない。むしろ、観察するようにじっと見つめてくる。
人からまじまじと見られることの少ないシルヴィアは、とても嬉しくなった。
これは、いい目をしている。
なんといっても、こちらを怖がっていない。
「私、おそらく嫁いびりをしてしまうの。」
「ご自分から申告なさるとは、なんとも斬新ですこと。」
「最初にお伝えした方が親切かと思って。」
「親切な方なら、そもそも嫁いびりをなさらないのでは?発言が根本から破綻しておりますわ。」
いいぞ。
シルヴィアは思わず前のめりになった。
「例えば私が、『あなたのような方に公爵夫人が務まるのかしら』と言ったら?」
「あなたのような小姑がいると承知で嫁いで差し上げるのですから、まず平伏のうえ、感謝が先では?」
「す、素晴らしい……!」
ベアトリスの扇が止まった。
笑顔も、わずかに固まった。
「では、『そんな格好で人前へ出るつもり?』と言われたら?」
「ご自分のお姿を、鏡でご覧になってからおっしゃっては?」
「なるほど?」
「その全身真っ黒のお姿。一体どなたを弔っていらっしゃるのかしら。」
シルヴィアは、つい自分の服を見下ろした。
黒は便利だ。汚れが目立ちにくく、飾りを変えれば大抵の場へ出られる。
「便利ですわよ?」
「公爵令嬢が便利という理由で服を選んでいる時点で、他人の装いに口を出す資格はございませんわ。」
強い。
強すぎて、悪役令嬢にしか見えない自分が、むしろ柔らかく見えてきた。
「では、テオドールが私の味方をしたら?」
「その場で正座させて、ことの道理が分かるまで教育いたします。」
「良い。とても良い……!!」
なんと、事前に想定していた対処と同じだった。私が監督なら悪役令嬢として是非スカウトしたい。
「ですが。」
ベアトリスは扇の陰から、冷ややかな視線を寄越した。
「テオドール様の目の前であなたを貶せとおっしゃるなら、お断りいたします。」
「どうして?」
「昨年、あなたの髪型を古臭いと笑った伯爵令息を、テオドール様が笑顔のまま三十分で社交界から自主退場させたこと、ご存じありませんの?」
「そんなことがあったの?」
「ご存じなかったのですね。」
知らなかった。
テオドールは、家に帰ってから何も言わなかった。
「私は毒舌家ではございますが、自殺志願者ではございませんもの。」
ベアトリスがそう言って微笑んだ顔を見て、シルヴィアは既視感を覚えた。
この、笑顔のまま、丁寧に、相手の逃げ道を塞いでいく話し方。
商談の席でのテオドールが、ちょうどこんな感じだった。
シルヴィアは、脳内に笑顔で向かい合う二人を並べてみた。
どちらも頭がよく、弁が立ち、一歩も引かない。
毎朝、食卓が法廷になる未来が見えた。
武器は敬語。争点は私。
……能力的には、本当に申し分ないのだが。
シルヴィアは「小姑耐性」に丸をつけ、その横に小さく「大惨事」と書き添えた。
いやいや。
まだ、候補はいる。
◇
三人目は、氷の令嬢と呼ばれる辺境伯令嬢、セルフィナだった。
セルフィナは涼しい顔でシルヴィアを迎え、庭に面した客間へ案内した。
紅茶を淹れる手つきにも、話す速度にも、大変落ち着きがある。
シルヴィアは一通りの事情を説明してから、今までで一番分かりやすい例を出した。
「もし私が、この紅茶は薄いわね、と言ったら?」
セルフィナは一口飲み、静かに茶碗を置いた。
「おいしく淹れられております。お好みに合わなければ、ご自分でどうぞ。」
「とてもいいわね。」
「それはどうも。」
シルヴィアの突拍子もない質問にも賛辞にも、落ち着いて余裕のある笑みを崩さない。これは高得点だ。
「夫が、『姉上は文句を言わなかった』と言ったら?」
「そのような方とは、まず結婚いたしません。」
「……正解よ。」
言ってから、シルヴィアははっとした。
今この瞬間、また縁談を一件潰したのではないか。
セルフィナも気づいていたらしく、こちらをじっと見ている。
「……シルヴィア様は、ご令弟の縁談をまとめたいのですよね?」
「え、ええ。」
「先ほどから、お断りする練習をさせていただいているように感じるのですけれど。」
確かに。
これはいけない。
シルヴィアは咳払いをし、取り急ぎテオドールの素晴らしいところを説明した。
顔はもちろん、頭もよく、穏やかで、誠実で、仕事を覚えるのも早い。家族想いの優しさもある。
そこまで話したところで、セルフィナの目がふっと笑った。
「ええ。重々存じております。」
「あら、会ったことが?」
「夜会で何度か。」
話が早い。
シルヴィアが身を乗り出すと、セルフィナは茶器を持ち上げ、静かに口へ運んだ。
「ただ、私との縁談はお勧めいたしません。」
「どうして?」
「好きなお菓子を伺いましたら、『姉は甘すぎないものが好きです』と答えられました。花の話題では、『姉には白い花が似合います』。音楽について触れれば、『今度、姉を演奏会に誘いたい』と。」
「……申し訳ないわね。」
「途中から私、あなたとお茶をしている気分になりました。」
シルヴィアは、その夜会に出ていなかった。
出ていなかったのに、随分と存在感があったらしい。
「いや、その、姉離れも今後の課題なのよ。だから、あなたのようにしっかりした方なら――」
「シルヴィア様。」
セルフィナは、静かに茶碗を置いた。
「テオドール様ほどの方が、ご自分の婚約について何もお考えでないと、本当にお思いですか?何かご計画があるのではと、お考えになったことは?」
「……ないわね。」
「でしょうね。」
何だろう。その、でしょうね、は。
確かに、用意周到で、必要なことはいつも先回りする義弟だ。公爵家の将来に直結する自身の婚約について、何も考えていないはずがない。
それなのに、こちらには相談一つない。
「一度、ご本人のご意向をお確かめになるべきかと。」
「ふむ。正論ね。既に意中の相手がいる可能性もあるわ。」
セルフィナはしばらく口を噤んだ後、小さく息を吐いた。
「……近すぎると、見えないこともございますよ。」
「なるほど。やはり先に私が別邸へ移っておくべきかしら。」
「そういう距離ではなく。」
セルフィナは口元を押さえ、二杯目の紅茶を淹れ始めた。
整った表情のままだったが、目元が妙に楽しそうだった。
二杯目は、なぜか最初より少し濃かった。
◇
その後も、シルヴィアは数人の令嬢と面会した。
剣の腕に覚えのある令嬢に「私より強い女を探している」と伝えたところ、その場で決闘を申し込まれた。
気の強さの話だと慌てて説明すると、剣先を向けられたまま謝られた。寿命が縮んだ。
非常におっとりした令嬢には、試しに少し厳しい目を向けたところ、何も言っていないのに泣かれた。
一言もいびっていないのに、懸命に謝罪だけは済ませた。なんか、もう断罪後だった。
聡明で現実的な令嬢には、「公爵夫人になった後も、実務はシルヴィア様がご担当くださるのですか」と尋ねられた。
その瞬間だけは本気で前向きに検討したが、老後が消滅するので断念した。
書類審査は、全員通過。
面接は、全員保留。
弟の婚活は、大変、たいへん難航していた。
あれほど高性能なのに、姉という存在のせいで、ざまあされる未来しか見えない。
しかし、今さら自分のきつい顔立ちも、ついつい口を出す性分も変えられない。
テオドールのシスコンも、すぐには直らないだろう。
いっそ、早めに家を出てしまおうか。
テオドールは優秀で、シルヴィアの補佐を始めてもう二年になる。爺たちにも本当の孫のように可愛がられている。自分がいなくても、何とかやっていけるはずだ。
そうすれば、未来の妻も、気兼ねなく公爵夫人として振る舞える。
自分は少し離れた土地に家を買い、必要なときだけ相談に乗ればいい。
その方が、誰にとっても都合がよいのではないか。
シルヴィアは帰りの馬車の中で、額を押さえて唸った。
◇
「お帰りなさい、姉上。」
屋敷へ戻ると、ここ数週間の悩みの元凶が、笑顔で出迎えてくれた。
いや、元凶呼ばわりはよくない。
何も知らない、可愛い弟である。
ただ、彼の外見と性能がよすぎるせいで、自分の求める嫁の水準が上がっているのも事実だった。
「ただいま。今日、何か困ったことはなかった?」
「ありません。西館の建て替えの件で、木材の納入について話がまとまりました。書面をご確認いただけますか。」
執務室で見せられた条件は、シルヴィアが考えていたものよりよかった。
空いている倉庫を一時的に使い、業者ごとの搬入日を少しずつずらすことで、一割ほどの値引きと倉庫の賃借料の削減を両立させている。
「よく考えたわね。」
思わず感心して顔を上げると、テオドールは嬉しそうにはにかんだ。
「姉上が、双方に得があれば話は早いと、いつも仰っているので。」
こんなときも、姉を立てることを忘れない。
シルヴィアは改めて、目の前の青年を見た。
いつの間にか、自分よりずっと背が高くなっている。書面を差し出した手も、肩も、もう五歳の小さな少年のものではない。
自分の後ろをついて歩いていた子供は、一人で家を支えられるほどに育っていた。
「ええ。本当に、立派になって。」
つい、ため息が漏れた。
「どうされたんですか、姉上。」
テオドールが不思議そうにこちらを見る。窓から差す斜陽に、淡い金髪がきらきらと輝いていた。
今日もきれいだ。よい子だ。賢い。
満足すると同時に、シルヴィアは胸の内で盛大に眉を顰めた。
こんなに立派に育てなければ、もう少し嫁の条件を下げられたかもしれないのに。
いや、下げない。
うちの子の嫁だ。ここは妥協してはいけない。
「いやー、ざまあを避けるための、良いヒロインが見つからなくて……。」
「ヒロイン?」
思わずこぼれた言葉に、テオドールが目を瞬かせた。
シルヴィアは慌てて言い直した。
「いえ……気が強くて、頭がよくて、公爵家を回せて、あなたの隣に立っても許せるくらい美人で、気立てのいい令嬢のことよ。」
「ああ。姉上のことですね。」
合点したように頷かれ、急いで首を振る。
「そうではなくて。あなたと結婚できる令嬢ね。」
テオドールの笑みが、ほんのわずかに深まった。
それから、すっと目を細める。
「ああ。でしたら、なおさらあなたしかいませんね。」
シルヴィアは、手にしていた書面を机に置いた。
何だろう。
今、さらっと、すごいことを言われた気がする。
「……いや、だから。あなたの結婚相手の話よ。」
「僕が結婚したいのは、シルヴィアだけですから。」
どうやら、聞き間違いではないらしい。
姉上、ではなく、シルヴィア。
聞き慣れた自分の名前のはずなのに、彼の声で呼ばれると、妙に落ち着かない。
「待って。私、あなたの姉よ。」
「そうですね。この十三年間は。」
当然のように微笑まれた。
含みのある区切り方をしないでほしい。
「養姉弟の婚姻は?」
「認められます。王家との血縁の遠さも含めて、法務官に確認しました。」
「王家のご意向は?」
「あなたが受けてくださるなら、と。」
「……いつ確認したの?」
「二年前です。僕が領政の補佐を始めた頃ですね。」
さすがだ。
必要なことは、いつも先回りして済ませておく。実に仕事ができる。
まさか、自分への求婚でそれを発揮されるとは思わなかったが。
シルヴィアが眉間を押さえると、テオドールは少し困ったように笑った。
「あの。僕はずっと、お伝えしていたと思うのですが。」
「いつよ?」
「十二のとき、姉上と結婚したいと申し上げました。」
「子供はみんなそう言うものでしょう。」
「はい。そう仰いました。」
言った。
確かに、言った。
「ですから、その後は言い方を変えました。姉上のような方と結婚したい、と。」
「それは、しっかりした女性がいいという、条件の例示でしょう?」
「いえ、指名です。」
例ではなかった。
本人だった。
「昨年は、姉上のお好きな指輪の意匠をお尋ねしました。」
「宝飾品の目録を整理するのかと。」
「目録の整理に、なぜ姉上の左手の薬指の寸法が要るのです。」
「ぴったりした手袋でも作るのかと。」
シルヴィアは腕を組んでわずかに首を傾げた。
「先月は、二人で演奏会に行きたいと申し上げました。」
「家族のお出かけでしょう?」
テオドールは、しばらく黙った。
「……そうやって、姉上がすべて別の意味に変換なさっていたのでは?」
言われてみれば、そうかもしれない。
「成人して、領政を一人でも担えるだけの力をつけてから、改めて申し込むつもりでした。守られるだけの子供ではなく、対等な立場で申し上げたかったので。」
テオドールは穏やかにそう言ってから、わずかに眉を下げた。
「まさか、その間に、僕抜きで僕の妻を探し始めるとは思いませんでしたが。」
シルヴィアの背筋が伸びた。
「知っていたの?」
「伯爵達です。姉上は止めても聞かないので、せめて僕に報告することにしたと。」
「あの狸ども。」
「本人に聞け、と何度も申し上げた、とも伺っていますが。」
確かに言われた。
何度も。
シルヴィアは、伯爵への責任転嫁をそっと諦めた。
次の茶会の菓子を、一段階下げるだけにしておこう。
「それから、姉上。」
「……何?」
「僕の婚姻を、僕の意見を聞かずに決めるのは、やはりあまりにも勝手では?」
「……ごめんなさい。」
反論できない。彼は大いに、正しく育っている。
しかし、そこでシルヴィアは一つ思い出した。
「……でも、あなた。前に聞いた時、私より奥さんを大切にすると約束したでしょう。」
「ええ。」
テオドールは机を回り込んでシルヴィアのそばまで来ると、その手を取った。
「僕の妻になる方を、一番大切にすると約束しました。」
新緑の瞳が、まっすぐにこちらを見下ろす。
「ですから、あなたを一番大切にします。」
なんと、妙に喜んでいた理由は、これだったらしい。
前世、婚約者より大切な相手を持つ男に、何度思っただろう。
じゃあ、そいつと結婚しろよ。
早く盛大にざまあされやがれ、と。
どうやら、ざまあの過程を経ずに物語が終わるらしい。
しかも、自分がその「そいつ」だった。
「……私、かなり面倒な女よ。」
「存じています。」
「仕事にも口を出すわよ。」
「十三年間、受講済みです。」
テオドールは、握った手にわずかに力を込めた。
「姉上は、ご自分のことを、僕が公爵になれば役目を終える人だと思っているでしょう。」
「そんなことは……。」
「ありませんか?」
シルヴィアは言葉に詰まった。
三十までに引き継ぎを終え、家を出て、静かに老後を送る。
テオドールが結婚すれば、自分は邪魔になる。仕事を渡し終えれば、自分の役目もなくなる。
確かに、そう考えていた。
「僕が欲しいのは、次期公爵を育てた優秀な姉でも、公爵家を管理する人でもありません。」
大きな手が、シルヴィアの手を包み込む。
「あなたです。愛しています。姉としてではなく、一人の女性として。」
その声は、少年の頃よりずっと低く、落ち着いていた。
「姉上は、ご自分を取り換えの利く何かのように扱います。でも、僕にとって、あなたの代わりになる人など、どこにもいません。」
それは、シルヴィアにとって、ひどく答えに困る言葉だった。
前世でも今世でも、自分はいつも、自分の役割を探してきた。
働く者。家を守る者。弟を育てる者。
誰かに必要な役目を果たしている間だけ、そこにいてよいのだと思っていた。
けれど、この青年は、役目がなくなってもここにいろと言う。
「五つで王宮を出たあの日から、僕の家は、あなたのいる場所です。」
ずるい。
そんなことを言われて、平気でいられるはずがない。
「……結婚するかどうかまだ決めてないわよ。」
かろうじてそれだけ返すと、テオドールは真剣な顔で頷いた。
「はい。僕を選んでください。」
「ほかの選択肢は?」
「ご紹介する気はありません。」
即答だった。
ここで「弟として好きなだけよ」と逃げるのは簡単だった。
けれど、もし、テオドールが別の誰かと結婚したら。
毎朝、その人のために蜂蜜を塗るのだろうか。
その人に白い花を贈り、その人を演奏会に誘い、その人の手を取るのだろうか。
想像した瞬間、心の中の小姑が、ハンカチを噛むどころか、卓をひっくり返した。
……なるほど。
どうやら、小姑になりたかったわけではない。
その席に、他の女を座らせたくなかっただけだ。
アガペーのつもりで抱えてきたものは、いつの間にか、ずいぶん欲張りな形に育っていたらしい。
「……そうね。私もあなたを愛してる。一人の男性として。」
小さく告げると、テオドールの笑顔が止まった。
次の瞬間、その頬がみるみる赤くなる。
シルヴィアは目を瞬かせた。
あれほど用意周到に外堀を埋めておきながら、嬉しいときの顔は、玄関広間で両腕を広げたあの日と少しも変わらない。
ただ、今それを見ても、可愛いという感想だけでは済ませられなかった。
なんということか。こちらまで頬が熱くなって、直視することができない。
「嬉しいです。正直、全て分かりながら遠回しに拒絶されているのかと、落ち込むことも多かったので。」
「いえ、本当に好きよ。私も今気付いたばかりだけど。」
「……はい。僕もシルヴィアが大好きです。」
テオドールの顔に、花がほころぶような笑みが広がった。
大変顔がよい。
こんな顔で愛を囁かれて、平静を保てという方が無理である。
「僕にとっては、あなたが誰より美しい人です。黒い髪も、強い目元も、考え事をすると黙って相手を見つめる癖も。」
「……ちょっと。そういう美辞麗句は。」
「将来の夫からなら、嬉しいと。」
「立場を切り替えるのが早すぎるわ。」
瞳、髪、声、考え方。褒められるところは一つ残らず褒めろ、盛れるだけ盛れ、とまで確かに言ったが。
まさか、口説き方指導になっていたとは。
「盛ってはいませんよ。すべて、事実です。」
考えを読んだように付け加えられ、シルヴィアは返す言葉を失った。
その隙に、テオドールは上着の内側から小さな箱を取り出した。
「……さすがに用意がよすぎない?」
「あなたが僕の婚活を始めてから、いつでも申し込めるようにしておきました。」
箱の中には、小さな白い花をかたどった指輪が収まっていた。
昨年尋ねられて、深く考えずに答えた意匠だった。
テオドールはシルヴィアの前に片膝をつき、指輪を手に取った。
「シルヴィア。僕と結婚していただけますか。」
今度こそ、聞き間違えようのない言葉だった。
「ええ。……喜んで。」
左手の薬指に、指輪が寸分違わず収まる。
「これで、姉上が小姑になる予定も、嫁いびりをする予定もなくなりましたね。」
「……そうね。」
義弟の結婚話をしていたはずが、気づけば自分の嫁ぎ先が決まっている。
なんとまさかの、親族会議で心配したとおりの展開だった。
もう少し手前から、ゆっくり考える時間が欲しい。
けれど、立ち上がった彼に手を引かれ、そっと抱き寄せられると、その要求もいったん引っ込んだ。
温かい。
もう子供ではない腕に囲われると、十三年かけて育ててきた「可愛い弟」という認識が、じわじわと形を変えていく。
様子だけ見れば、まるで恋愛物語の王子とヒロインだ。
しかし、悪役か脇役にしか見えない自分が、実はヒロインだったなど、まったく信じられない。
しかも相手は、自分好みの顔で、有能で、ついでに大変なシスコンだ。
我ながら、育て方に偏りがあった。
あったが。
……この結果なら、悪くはない。
「これで、僕の婚活も終了ですね。」
温かな腕の中で聞いた言葉に、シルヴィアの眉が自然と寄った。
シルヴィアは、非常に現実的な女だった。
なので、その言葉にまず、自分が使った無駄な時間と費用を計算した。
各候補との調整。招待状。馬車代。茶菓子代。評価表の作成。
それから、よその令嬢に、自分の悪口を言ってもらっていた時間。
――あれは一体、何費なのだ。
「『次期公爵夫人候補選定費』としましょう。」
声に出ていたらしい。
「いや、候補を選んだのも私で、選ばれたのも私なのだけれど。」
「無事に姉上が一番素晴らしいことが証明されました。」
「……それ、普通の婚約者に言ったら一発でざまあされる台詞よ。」
「そうですか。ではなおさら、あなたにしか言えませんね。」
テオドールは、いつもの美しい顔に、甘いとしか言えない笑みを浮かべた。
何の募集にも応募していないのに、またしても勝手に採用されてしまったらしい。
しかし、今度の決め手は、十三年越しの熱烈な指名だった。




