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西善は彼がこちらを向いているのに気付いているのか気付いていないのか、「あいつってなんて名前ー」なんて彼を指しながら言う。おいおい、やめておけよ、と彼の肩に手を置くとそれも冗談のように見えたのか、口角はどんどん上がっていった。
「あんだけ印象薄いんだからさ、誰に聞いてもみーんな名前忘れてるんじゃないの」
「宮田くんだよ。みんな、覚えてる。わかんないのは西善くんだけじゃない?」
突如、西善の背後に紅葉が現れた。ずっと西善の声を聞いていたらしい。色白な顔が真っ赤になっていて、今の彼女なら西善の脂肪を手で取ってしまうかもしれないほどだった。彼女が怒っていることはそのくらい明白で、周りにいた人間は少しずつ引き、距離をおきはじめる。
こういう局面で、僕にはいつも辛辣な言葉をくらわせるはずなのに、わりと優しい物言いだったことが少し引っかかる。やっぱり、西善が言ったとおり、男に媚びを使うのか。でも、わざわざ西善に? ああ、ギャラリーもいるからだろうか。
「あ、篠沢かあ。ああ、そういうこと? そりゃあ、彼氏の名前忘れてる人間なんてなかなかいないもんなあ。お前は覚えてて当然だよ」
何を言っているんだ、という顔で彼女は彼氏? と聞き返す。それを西善は鼻で笑った。
「付き合ってんだろ、お前ら。隠さなくてもいいぜ」
妙に間延びした声が響き、こんな言い方じゃ紅葉も怒るだろうと思って彼女を見る。だけれど、彼女はむしろ唖然としていて、何か釈然といかないことでもあるのだろうかと思っていると彼女はため息を深くついた。
「どうして知ってるの?」
噂が出回ってるみたいだよ、と僕が代わりに答えると彼女はひどくきつい目で僕を睨んだ。お前もか、と言っているように見えて怯むけど、彼女はかまわず睨む。
怖い顔すんなよ。いつもならそれが簡単に言えるのに、何故か今だけ言えなかった。理由はわからない。どうしても軽く流せなくて、こんなことは初めてだった。怖い顔すんなよ。今までみたいに喉まできてる。何回も何回も、食べ物が逆流するみたいに勢いよく。でも、吐きたくなくてそれはまた戻っていく。ただただ、俯くことしかできなかった。