ダマテンの回
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者も遂にはほろびぬ、偏ひとへに風の前の塵におなじ。
『平家物語』第一巻「祇園精舎」より
証券業界は、人の入れ替わりが激しい。私の同期は200人ほどいた。それが3年後には半数の100人になり、5年後には50人、そして10年後には10人いるかどうか……。残った猛者達ですら、さらにふるいにかけられる世界。
私が入社5年目くらいの頃、支店にエースがいた。その人は、株が好きすぎて銀行員から証券マンになった、当時では中々に珍しい経歴の持ち主。名を東村さんという。東村さんは兎にも角にも株の売買手数料だけで手数料を稼ぎ、社長賞にも選ばれるエース中のエースだった。
手数料と聞いてピンとこない人も多いと思われるので説明をする。ネット証券がここまで当たり前になる前、証券投資をするには証券マンが担当者につく、今でいう対面証券会社に口座をつくる必要があった。株の注文は担当者に出してもらわなければならなかった、そんな時代。
注文をわざわざ、担当者に出して貰うという手間があることから手数料が高く、買付金額の1%ほどかかるのが全ての証券会社で共通だった。100万円株を買えば手数料は1万円。1000万円株を買えば手数料は10万円。これが買い、売りのたびにかかるわけだ。
1000万買えば手数料が10万円、損でも利益でも売れば10万円、また買えば10万円、売れば10万円……。お分かりだろうか。パソコンと電話があり、良き顧客がいれば、稼ぐのはそう難しくない事を。これ程、労力をかけずに金を稼げる世界があることに驚愕したんだ、私は。
さらに、この買付金額を3倍に出来る手段もあった。それを信用取引という。信用取引は現金や株券を担保にお金を借り、担保の額の3倍まで売り買いを出来るハイリスクハイリターンなもの。1000万円あれば、それを担保に入れれば3000万円まで買えるんだ。やべえよな。
東村さんは、信用取引に長けていた。レバレッジをかけた売買で、手数料はうなぎ登り。月に稼ぐ手数料は2000万円ほどにもなっていた。すでに何期か連続で表彰を受けており、選ぶ株も当たり、順風満帆そのもの。
そのころ言われた言葉
「この冬のボーナスは200万以上だ。けどな、税金とか諸々引かれると、手取りは下手すりゃ120万くらいなるんだよ。支給額ってなんだろうな? 酷いよな、ははは」
まじやべえ。その頃の私には夢にしか感じなかった。
『年収1000万は30代で超えられるんだ』
ただ、いつまでも順調にはいかないのがこの世界。手数料収益の基盤を株ばかりに頼ってると、株によっていきなり裏切られるんだ。相場を相手にする以上は、いつまでも値上がりばかりではない。突然に大暴落することだってある。そう、突然に。
まさに、その大暴落の最中、事態の悪化に追い打ちをかけたのが、東村さんの手数料収益のメインが信用取引であったこと。すなわち、どういうことかと言えば、担保の3倍までパンパンにレバをかけて売買をしていると、ほんの3割の下落で担保ほぼ吹っ飛ぶ。
相場が曲がり、選ぶ株の歯車が狂い出すと、一気に東村さんの様子がおかしくなった。今まで関係の良かった顧客達が一気に牙を剥き始め、損失額が膨れ上がる度に関係性が悪化していった。そして、何回も何回も、追加の入金をお願いする事になっていた。こうなると、簡単には手数料を稼げなくなる。手数料を稼げなくなると、どうなるか分かる?
正解は、「徹底的に詰められる」だ。
少し説明を加えると、支店・個人には手数料のノルマがあり、それがデイリー(1日ごと)で決められている。最低でもウイークリー(週内)では帳尻を合わせないといけない。そうしないと、取り返しがつかないくらいに目標と現実が乖離してしまう。
手数料を稼げなくなると、ノルマを達成できなくなると、いかに表彰式常連であろうと【手のひらを返す】まさにこの言葉のまま、攻撃が始まるんだ。上司である課長から次長から支店長から地区担当役員から。
「なぜできない?」
「いつまでにやる?」
「お前ができない分は誰がやるんだ?」
「お前ができないなら誰かに頼めよ」
まさに地獄。会社と顧客とのサンドイッチ。その地獄の果てに東村さんはやってしまった。【ダマテン】を。ダマテンとは顧客に無断で売買をしてしまうこと。立派な法令違反だ。会社と顧客との板挟みの中、会社に貢献することによる自己保身を選んでしまった。
自分への攻撃を減らしたい、プライドが許さない、やり直したい、もう一度社長賞を。どんな思いがあったのかは当然知る由もない。ただ、事実として顧客に無断で売買を繰り返した。顧客の信頼を裏切った。
実はダマテンは証券業界では別に珍しい話ではない。むしろ、よくある話だ。大抵が、会社から課せられた収益ノルマを達成できず、顧客の損益を顧みずに勝手にやるんだ。顧客をバカにしてるよね。ばれないとでも思うのか。それともそんな判断ができないくらい追い詰められているのか。
これだけで、証券業界がどんな場所かがある程度分かるよね。ノルマ至上主義の弊害。間違えた実力主義の終着。
最終的には、顧客から身に覚えの無い取引があるとのクレームが入り、事件が発覚。会社の為に稼ごうとしたのに、解雇となった。そう、解雇となったんだ。その後は知らない。奥さんも子供もいたのに……。
盛者必衰の理をあらはす……。