888話 異世界人は帰省する 【レナ視点】
ピピピッ、ピピピッと、電子アラームの音が遠くから聞こえてくる。
もう朝かな……。なんて思いながら重い瞼を開けると。
「……まつ毛、なっが」
すやすやと規則正しい寝息を立てている梓の顔が、あたしの顔から十センチくらいのところにあった。
って言うかこれ、あたし抱き枕にされてたのね。両腕でがっつりホールドされてるし、右足もあたしに巻き付くようにしてるし。
「私はソファで寝るからいいよ~」とか言いながら、朝起きたらいつもこうなんだもん。やっぱりあたしがソファで寝てた方がいいんじゃないのかしら。
いやいや、今はそれよりも先にアラームを止めないと。
「ちょっと梓、どいてって。スマホ鳴りっぱなしだから」
「ううんゃぁ~……」
「ほら、手どけなさいよ。出られないでしょ」
「んん~……恋奈ぁ……」
甘えたような声を出しながら、梓はより抱擁を強くしてくる。
そしてそのまま、ぷっくりとした口をあたしに寄せてくるのを見たあたしは。
「ふんっ!!」
「おぎゃあああああああ!?」
出来る限りの全力の頭突きをお見舞いし、無理やり梓を叩き起こすことにした。
「いった!? あ、えぇ!? いたっ!? おでこ割れた!! わああああああああ!?」
「割れないわよ、全く。寝ぼけてキスを迫るとかどうかしてんじゃないの?」
「恋奈のキス魔ぁぁぁぁ!!」
「あたしじゃないわよ、あんたよあんた!!」
半ばパニックになりながら床を転がりまわる梓を放っておいて、自分のスマホを取りに行く。
延々と鳴り続けていたアラームを止めると、今日の日付と時刻が表示された。
三月の二十三日、土曜日。時刻は午前九時半。
今日はあたしのおばあちゃんの家に行く日でもあり。
今日帰れなかったら、あたしが消える日でもある。
カーテンを思い切り開け、朝日を部屋の中に取り込むと、後ろから「と゛け゛る゛ぅぅぅぅぅぅぅ!」と吸血鬼の断末魔のような声がした。
そんな声を無視しながら窓を開け、春先の冷たい風で部屋を換気しながら大きく伸びをする。
「寒いぃ! 寒いよ恋奈ぁ!!」
「目を覚ますにはちょうどいいでしょ」
「私は夜行性なんだよぅ~!」
「夜行性の動物は日勤なんてしないのよ。ほら、着替えて出る準備するわよ」
「うえぇぇぇん……。私、恋奈のお嫁さんにだけは絶対になれなぁい……」
何を訳の分からないことを言ってるんだか。
あたしは自分の着替えを手早く済ませ、寒いだの眠いだのとゴネ続ける梓も着替えさせることにした。
軽く朝食を済ませたあたし達は、早速おばあちゃんが住む上賀茂に向かって電車に乗った。
あたしや梓が住む下京区からは、だいたい電車で三十分ほど。そこから少し歩くことを考えても、ざっくり一時間もあれば帰れる位置にある。
梓と他愛も無い話をしながら地下鉄に乗っていれば、三十分なんてあっという間だった。
地下鉄から降りて、懐かしい街並みを見渡しながら歩を進めていると、物珍しそうにきょろきょろしていた梓が声を掛けて来た。
「そう言えばさ、恋奈の家って花園でしょ? 私てっきり、花見小路とかそっちの方だと思ってた」
「あっちは舞妓さんとか高級料亭とかの店があるだけで、民家はほとんど無いわよ。本宅は確かにあっちだけど、隠居したおばあちゃんは静かなところで暮らしたいってことで、こっちに別宅を構えたんだって」
「そうなんだ~。でも私もこっちの方が雰囲気は好きかなぁ。ほら、こっちは自然が多いし、家の近くに川が流れてるってなんかお洒落じゃん?」
「言いたいことは何となく分かるわね。でもこっちはこっちで、夏場は大変よ? 川がすぐそばだから蚊も多いし、比較的山寄りだから虫も大きいし」
「うぇ、それはちょっと嫌かな……」
「あはははっ! でも梓の言う通り、こっちは閑静だから住むには最高の土地よ。空気も烏丸御池とかに比べると澄んでるしね」
「分かるぅ~。なんかめっちゃ伸び伸びできるもん~」
そう言いながら本当に伸びて見せる梓のシャツがめくれて、へそ出しになっていたのを押さえてあげる。
当の本人はニシシと笑ってるけど、あんたはもう少し恥じらいってものを覚えた方がいいと思う。
「それで、恋奈のおばあちゃんの家ってどこら辺? 相葉くんにも教えてあげないとだからさ」
「あー、そうね。おばあちゃん家は、あと五分くらいのところよ」
「降りてから結構歩くよね~。バス乗った方が早かったんじゃない?」
「こっちの方、あんまりバス走ってないのよ。だから、住むには快適だけど交通が死んでるってのが最大の欠点」
「う~ん、悩みどころさんだねぇ」
実際あたしも、学生の頃は駅までおばあちゃんが送ってくれてたっけ。
流石にそろそろ免許も返納してるだろうし、もう乗せてもらえないかもしれないけど、またおばあちゃんの隣で話しながら景色を見たい気持ちはある。
そんなことを考えながら歩き続けていると、目的地がようやく見えて来た。
周囲の家に比べて、一際広い敷地面積を誇るその家の前には、桜の柄が綺麗に施されている黒の着物を身に纏っているおばあちゃんがいた。
「ただいま、おばあちゃん」
「おかえり、恋奈。身長は……変わって無さそうだね」
「うるさいな。これでもちょびっと伸びたのよ」
「ふふふっ、そうかい。お隣の別嬪さんが、恋奈のお友達?」
「はい! 白井 梓って言います! 恋奈とは会社の同期で、仲良くさせてもらってます!」
「あらあら、元気な子じゃないか。恋奈にもちゃんと友達ができてるみたいで安心したよ」
「あたしだってもう、あの頃とは違うんだから」
「そうだったね。それじゃあ、家に上がっておくれ。ご飯は食べたかい?」
「軽く食べたから、朝ごはんはいらないかな」
「じゃあお昼は、久しぶりに腕を振るおうかね。何が食べたい?」
おばあちゃんの問いかけに、あたしは考える間もなく即答する。
「豚汁!」
「はいよ。恋奈は本当に豚汁が好きだねぇ」
「おばあちゃんの豚汁は安心する味なのよ」
「嬉しいことを言ってくれるじゃないか。梓さんは、何か食べたいものはあるかい?」
「えっ、私は何でも……」
珍しく遠慮する梓だったけど、本人のお腹は遠慮しない返事をした。
お腹を押さえて赤面する梓に、おばあちゃんは楽しそうに笑う。
「元気なのはお腹もみたいだねぇ! それじゃあ、お腹いっぱい食べられるような料理を作ろうね」
「すみません……」
「若いんだから遠慮なんてしなくていいんだよ。ほら、上がりなさいな」
今日は一段と楽しそうなおばあちゃんに続いて、あたし達も家に入ることにした。




