839話 異世界人は気になる 【レナ視点】
「つっっっっっっっかれたぁ……!!」
家に帰ってくるや否や、あたしは着替えすらせずベッドに身を放り出していた。
顔だけちょっと動かして壁掛け時計を見ると、時刻はもう夜の八時を超えている。
休みの日は出勤しないから、通勤や仕事のストレス負荷の代わりにってことで始めたキックボクシングだったけど、こんなに長い時間やったのは初めてだわ。
額の上に手を置きながら、あれからのことを思い出す。
キック力の他にも、全体的な身体能力がグンと上がっていたらしく、攻撃的な威力上昇だけではなく、反射神経とかも丹野トレーナーが目を剥くくらいの反応速度をしていたらしい。
「いっそ、プロのボクサーになってみるとか、絶対にあり得ないわ……」
あたしがやってるのは、ただの運動不足とストレス発散目的の健康的なスポーツ。
そんな対人で戦ったりするようなことをしたい訳じゃないし、そんな状況が発生したら絶対動けない気がする。
……だけど、今日体を動かしていて、やけに自分の体が軽く感じたのは気のせいじゃないと思う。
体の動かし方がはっきり分かってたって言うか、如何に最小限の動きで最大の威力を出せるかっていうコツみたいなのが、頭で考えなくても分かるくらいに体が覚えてた。
何だろう。やっぱりここ最近、何か変だ。
会社で明るくなったって言われることも結構あるし、しんどい通勤と事務仕事を終えても全く苦じゃないくらい体力があるし、今日のトレーニングにも余裕で着いて行けるどころか、モデルになってほしいって言われるくらいのパフォーマンスを出した。
今までのあたしだったら、人よりちょっと反射神経がいいってくらいしか取り柄が無かったはずなのに、何が起きてるんだろう。
アニメとか漫画の世界だったらきっと、異能の目覚めーとかで非日常に巻き込まれていくタイプのあれよね。
だけど、当然ながらここは現実世界な訳で、魔法とか怪物とかは出てこない。
「魔法ねぇ」
額の上の手をベッドに置きながら、何気なしに呟く。
誰もが一度は憧れる、超常的な力。物を浮かせたり、炎を出したりできる、何でもありの力。
そんなものがあったら、生きていくのも簡単なんだろうなぁと思うと同時に、それがつい最近まで身近にあったような気さえする。
もしかしてあたし、夢か何かで魔法に目覚めたとか?
なんて思いながら、ローテーブルの上に置きっぱなしだったマグカップに手をかざしてみる。
「……なんてね。これが現実よ」
残念ながら、マグカップが浮いたり、手の平から水が出たりするようなことは無い。
きっと、丹野トレーナーの言う通り、たまたま体の運動能力が偶然開花しただけよ。思い返してみればトップアスリートの人の中にも、大人になってから急に運動が得意になったって人もいた気がするし、あたしもそこに当てはまっただけだわ。
せめてこの開花が今じゃなくて、学生の頃だったら良かったのに。
そうすれば、今みたいにただ毎日を生きるために働くんじゃなくて、華々しい世界で生きていけたかもしれないのに。
「あたしも、家族に認めてもらえてたかもしれないのに」
そこまで考えた瞬間、あたしは無理やり思考を停止させて、体を跳ね起こした。
そのまま嫌な気持ちを水に流してしまおうと、お風呂場へと向かう。
ザバザバと体を洗い終え、ついでにお風呂場も洗っていると、毎日見ていたはずの湯船が急に狭く感じられた。
家族のことを思い出してたから、実家のお風呂と比べてるのかとも思ったけど、あたしの実家でもここの湯船とそんなに変わらないはず。
広い湯船なんて、それこそ銭湯とかに行かないと入れないのに、何を……。
何かが引っかかる。そう思った直後、それに追い打ちをかけるように、一瞬だけ見慣れない光景が脳裏をかすめた。
――薄紫色の髪の女の子と、長い銀髪の女の子が仲良く湯船に浸かっている。
今のは、何……?
アニメのワンシーンにも見えるけど、何故かそこの空気や温度までも感じられるような錯覚すらある。
「あたし、そこにいたの?」
そう呟くと、再び別の光景が瞬間的に浮かび上がって来た。
今度は、顔にモヤが掛かってはっきりしないものの、ふわふわの金髪を揺らしながら、子どもの頭くらいはありそうな大きさの胸をあたしに押し付けてくる女の人の姿だった。
今の女の人、どこかで見たような気がする。
どこかって、どこで? って言うか、こんなおっぱい押し付けられたら絶対覚えてるでしょ。
それなのに覚えてないってことは、たぶんあたしの体験じゃない。
――本当に、あたしじゃないの?
思えば昨日くらいから、何かがずっと変だわ。
知らない女の人の声を思い出したり、映画の女優さんを知らない人と重ねたり、あたしの体に異変が起きてたり……。
これはもう、気のせいとかそんな次元の話じゃない気がする。
あたしの頭は、何を思い出させようとしているの? いや、あたしは何を忘れているの?
そのまま考えようとしたけど、流石にこの状態のまま考えないで欲しいと、あたしの体からくしゃみという形で抗議が上がった。
あたしは急いでお風呂場の掃除を終わらせ、冷えた体を温め直して外に出た。




