626話 魔女様は連れ出す
宿に戻ったは良いものの、扉を開けようとした手が途中で止まってしまいました。
……私のことを想ってくださっているレナさんの気持ちを、このまま否定して良いのでしょうか。
彼女の優しさを、否定する権利は私にあるのでしょうか。
戸に手を掛けかけた腕が、ゆっくりと降りてしまいます。
私はこのまま、何も知らなかったフリをして、この楽しい一日が繰り返される優しい世界で生きていくべきなのではないでしょうか。
この時の牢獄にいれば、十一月に控えている魔術師との決戦から目を背けることもできますし、私が抱えていた問題から逃げることが出来ます。
それはある意味、幸せなことなのではないのでしょうか。
わざわざ、自分から痛いことや苦しいことが多く待ち受けている選択肢を選ぶ必要もないのではないでしょうか。
『でも、それじゃあダメなのよね』
ふと、頭の中でフローリア様の言葉が再生されました。
『明日になれば、また新しいことを経験してもっと可愛くなったシルヴィちゃんに出会えるの! 明後日になれば、もっともっと可愛いシルヴィちゃんがいるの! それって素敵なことでしょ?』
『今日のシルヴィちゃんには満足したから、私は明日のシルヴィちゃんに会いたいの。毎日毎日、違うシルヴィちゃんを愛でたいの。それが私の大好きな、この世界に生きる子達の成長だからね』
――そうでしたね、フローリア様。
この世界は確かに優しさに包まれていますが、正しい世界の在り方はしていません。
どんなに苦しいことがあっても、それと同じくらい楽しいこともあり、幸せなこともあるはずです。
それが積み重なって、人間は成長していくのだと思います。
ここにいては、成長と未来を捨てていることと同義です。
それはきっと、シリア様も望んでいるはずがありません。
「……必ず、ここで終わらせなくては」
決意を新たにするつもりで、大きく深呼吸をします。
そして、引き戸に手を掛けて静かにスライドさせ。
「すみません、遅くなりまし――だっ!?」
「「あっ!!」」
視界が真っ暗になると同時に、投げつけられた枕の勢いに負けた体が、ぐらりと後ろへ倒れていきます。
ドサリと倒れた私へ、慌てた声色のレナさんとフローリア様が声を掛けてきました。
「ごめんシルヴィ! 大丈夫!?」
「もぉ~、レナちゃん気を付けて!?」
「あんたが投げたんでしょうが!!」
「きゃん!!」
枕をどかした視線の先では、別の枕がフローリア様の顔を襲いました。
私と同じように倒れるフローリア様の横を、レナさんがべーっと舌を出しながら駆け抜けて、私の元へとやってきます。
「ホントごめんね。まさか、あのタイミングで帰ってくると思わなくて……」
「いえ、大丈夫です。皆さんで枕投げでもしていたのですか?」
「そうそう。まぁ、キッカケはフローリアがあたしを挑発してきたのが悪いんだけどさ」
その言葉に、フローリア様はガバッと身を起こしながら抗議の声を上げました。
「異議あり! 暴力に出たレナちゃんが悪いと思います!」
「先に手を出した方が負けなのよ!」
「ずるいずるーい!」
「ずるくありませーん!」
まるで、子どもの言い合いのような微笑ましい様子を苦笑しながら見ていると、私の両側面からボフンと枕が押し付けられました。
「えへへ! お姉ちゃん、おかえり!」
「お帰りなさいませ、お母様!」
「ふふ、ただいま戻りました。遅くなってすみません」
「忘れ物はあった?」
エミリの質問を受け、そう言えばそんな言い訳をしていましたっけと思い出します。
……せっかくですし、ウィズナビを落とした事にして、この後の予定にもサラッと触れておくことにしましょうか。
「はい。あの打ち上げの席でウィズナビを落としてしまっていたのですが、マガミさんが預かってくださっていました」
「え、あの将軍様来てたの?」
「いえ。落とし主が不明な落し物は、一度神住城に集められて保管されるようでして。私のウィズナビも同様に、預かっていただいていたようでした」
もちろん嘘です。もしかしたら嘘では無いかもしれませんが。
他人に嘘をつくことに慣れていないせいで、心拍数が少し上がってしまいますが、レナさん達は私を疑うことなく信じてくださいました。
「ウィズナビって一応、魔女限定の通信手段らしいし、見つかって良かったわね。失くしたなんて言ったら、総長さんに何を言われるか分からないし」
確かに、嘘だったとしてもアーデルハイトさんの耳に入った場合は、それはもう考えたくないくらいに怒られるのでしょう。
「……この【慈愛の魔女】!! ウィズナビを失くしただとぉ~!? このこの~!!」
「ひゃあぁぁぁ!?」
突然、私の背後から伸びてきた両手に、私の胸が揉みしだかれました!
誰かなど聞くまでもないその犯人は、アーデルハイトさんの声を似せる気など微塵もないようで、自分が楽しむためだけにからかっているようでした。
「けしからん体め~! ウィズナビを落とした悪い魔女には、おしおきだ!!」
「やっ! やめっ、やめてくださいフローリア様っ! ちゃんと見つけましたからぁ!!」
「落としたことには変わりないぞ~? えいえいっ! ――ぁ痛っ!!」
「何バカなこと言ってんのよ!」
館内用にと貸し出されていたスリッパを手にしたレナさんが、スパーン! と気持ちのいい音を奏でながら、フローリア様の頭を力強く叩きました。
頭を押えた彼女から抜け出し、体を隠すように前屈みになりながら涙目で睨み付けてみましたが、それは逆効果だったと思い知らされることになります。
「あっ! シルヴィちゃん、その顔すっごくえっちね! 私は責められる方が好きだけど、ちょっとゾクゾクしちゃう!」
「あんたはもう黙ってて!!」
「きゃん!!」
やや鈍く痛そうな音と共に、レナさんによる蹴りが彼女のお尻を襲いました。
『やれやれ……。ほんにどこに行ってもやかましい阿呆じゃな』
いつの間にか足元にいらっしゃったシリア様が、お尻を押さえながらぴょんぴょんと跳ねるフローリア様を、鬱陶しそうな顔で見ながら呟きました。
『ほれ、シルヴィ。お主も早う風呂に入ってこい』
「はい。あ、すみませんシリア様。先に、レナさんと少しお話してからでもいいでしょうか?」
「え、あたし?」
自身の顔を指さしながら、確認を取ってくる彼女に頷きます。
ここでレナさんの意識を変えさせないと、この後の決戦で、あのフローリア様を模した巨体に勝つことができません。何としてでも、私はもう十分休めていることを彼女に伝えなくては……。
最初はレナさん同様に、何を言っているのかと言いたげな表情をしていたシリア様でしたが、やがてやれやれと首を振りながら言いました。
『好きにするがよい。じゃが、あまり遅くなりすぎても明日に響くぞ?』
「すみません、手早く終わらせますので。ではレナさん、少し場所を変えましょうか。こちらへ来ていただけますか?」
「う、うん」
私はレナさんを連れて、宿の一階にある庭を眺められる、共同食堂エリアへと向かうことにしました。




