七話:終わりから来る始まりと、桜花の回想
時々、今起こっていることが夢ならいいのになあ、なんて思うことがある。
こんなことを聞くと、何か不幸な事にでもあっているのか、なんて大袈裟に聞こえちゃうと思う。まあ、そんなことを思うのは大抵、やりたくないこと、面倒くさいことが目の前にある時で、絶体絶命の状況と言う訳ではないのである。
でも、
本当に、今この時だけは、全部夢だったらいいのにと、強く、強く願っている自分がいる。
愁がゆったりと漕いでいる自転車の後ろに乗って学校に向かった事も。二人でいつまでたっても来ない葵ちゃんを待っていた事も。夜の校舎に忍び込んで誰も近づかない部屋を調べた事も。帰る途中で突然出てきた怪獣みたいな「何か」も。
そして、刀を持って私の前に立って背中を見せている愁も。全部、全部。
こんなに強く思ったのはきっと初めてだろう。今までのなんてただ何となく、こうであってほしいな〜なんて感じだった。変わらないなら変わらないで、何の問題もなかった。しょうがないな、位で片づけていた。
だって、私の傍には、いつも愁がいてくれていたから。
どんなにぶつくさ文句を言っても、どんなに面倒臭がっても、愁は傍にいてくれた。それだけでとても嬉しかった。それを言葉で表すのはとても恥ずかしいけど、とにかく嬉しかった。
前に、愁が私に「お前の笑顔は見ていてなんかホッとするな」なんて言われたことがあった。その時私は、それは私もなんだよ、と心の中で小さく呟いた。私も愁が見せてくれる笑顔に何度も励まされた。何度も助けられた。
そんな愁の事を私は、何でも知っていると思っていた。
好きなもの、嫌いなもの、趣味、性格。今何を考えているのか。とにかく、何でも知っていると思っていた。
愁を知っているという事は、同時に愁が私の事を知ってくれているように思えて嬉しかった。
それが、ただの「驕り」だったということに気付かずに。
だって、今私の目の前にいる「愁」は私が今まで見た事のない「愁」なのだから。
本当なら、静かさだけがあるこの時間の学校の廊下。
でも今は、私と愁の前にいる大きな黒い狼みたいな動物が出す唸り声が漂う。
愁は私と黒い狼の間に割るように立っていて、左手にはさっきは竹刀だって言っていた物――本当は刀だった物を持って構えている。
いままで見た事のない、とっても真剣な後ろ姿。
大抵、ボンヤリとしているか柔らかい笑みを浮かべている愁。今の愁は、そのどちらにも当てはまらない、私の知らない愁。
別の誰かに見えてしまうのが、気のせいだと思いたい。そうであってほしい。
私の少し後ろには、さっきの強い風のせいで気絶した葵ちゃんがいる。見た感じ怪我はしてなさそうだけど、ちょっと強く頭を打ったみたいだったから大丈夫かな。私は愁に抱きかかえられて平気だったけど。
空気がとても重い。普段以上に重力がかかっているような感じ。それは多分、あの黒い狼がいるせいだとは思うんだけど・・・・・
何でなのかな。あの狼を見ていると、何故か悲しい気持ちになるのは。
私たちを見ているあの赤い瞳には、私でも分かるくらい殺気だっているのに。今にも飛びかかってきそうなのに。どうして、どうしてこんな気持ちになるんだろう。
後ろからじゃよく見えないけど、愁も何だかそんな感じみたいだった。何処か憂いを浴びている、そんな感じ。
「グルルルルッ・・・・・」
唸り声を強くする黒い狼。
ああ。そうすると、余計に悲愴に聞こえる。
この子は悲しんでいるんだ。そう思う。
「――――っ!」
刹那。愁が狼に向かって走り出した。
それは普段の走る速さを優に超えているように感じる。普段だって速いのに、あんなに余力を残してたんだ。なんて、場違いな言葉が浮かんでくる。
狼の真ん前についたその瞬間、左手に持っていた刀の柄を右手で握り、そのまま切りつけるように抜いた。確か、抜刀って言うんだっけ? それは取っても速くて、視力は決して悪くない私でも振りぬいた事がやっと分かるくらい速かった。
愁の動きを知っていたのか、狼は愁の一閃を紙一重でかわして後ろに下がる。
そして、下がったと思ったら一気に愁の元まで小さく跳躍。右前脚の鋭い爪を愁に大きく振るう。でも愁もそれを読んでいたのか、鞘を投げ捨てて左手を刀の峰部分に支えるようにして刃の方でそれを受け止める。
ガキンッ! と大きな金属音が響き、愁の顔が険しくなる。
振り下ろされた足を、刀で滑らせるように左の方へと受け流し、狼の左前脚を切りつける。
普通だったら、切り口からは血が吹き出る。
でも、それは「普通」だったらの時だけと言う事を思い知った。
切り口から血は吹き出ず、黒い霧のようなものが代わりに出てきた。
「はっ!」
短い掛け声と一緒に、また一閃。相手に隙を与えない鋭く素早い動き。
また一つ、狼の脚に大きい切り傷がつく。
そこで愁は攻撃を止めて、後ろに軽く飛んで間合いを取った。
まだ攻める事が出来たのに、どうして?
なんて、そんなこと思う必要なんてないのに。
さっきも思ったけど、愁もやっぱり気付いているんだ。この狼が持つ悲しみに。この狼が纏っている孤独に。
孤独。そうだ。やっと分かった。喉につっかえていた魚の小骨がようやく取れたような、そんな気分になる。
狼は、孤高ってイメージがあるけど、彼らは群れをなしている。やっぱり彼らも私たちと同じように、一匹では生きていけないのだ。
でも、目の前にいる狼は、一匹――独りぼっちだ。まるで、群れから一人逸れてしまったかのように。
孤高じゃなくて、孤独。
この子の淋しさは、悲しみはそこから来ているんだ。
何で寂しがっているのか。悲しんでいるのか。私には分からない。分かるのは、今の私には何もしてあげられないという事だけ。
でも、
「・・・・・」
愁は黙って狼の事を見ていた。
――愁なら、なんとか出来るんだよね?
そう思える自分に驚いてしまう。
今さっきまで、愁の事を別の誰かに見えてしまうと思っていたのに、いまのその思いは、普段の愁に思う事であって。
ごっちゃごっちゃになっている。
いったい「愁」って、何?
何て事を考えているうちに、愁はもう一度、狼に向かって走り出す。
狼は、何もしていない。ただ、そこに立っているだけ。
愁はそのまま、狼に向かって大きく切りつける。
狼は何もしない。防ぐ事も、かわす事もしない。ただ、そこに立っているだけ。
懐に入って、下から大きく振るう。
その動作が、そこだけが時間の流れが遅く感じた。
ゆっくりと、狼の首元を侵食していく刀。それに合わせて黒い霧が吹き出てくる。断末魔の叫びは無い。ただ、されるがまま。さっき出していた殺気も、最初から無かったかなのよう。
多分、狼はこうされる事を望んでいたのかもしれない。
何でそう思ったか。はっきりとした理由は無いけれど。
何故か、そう思う。
だって、切られているのに、あんなに穏やかな表情をしていて、それ以外に何が思いつくのかな。
気がつけば、黒い狼は吹き出た黒い霧と一緒になって霧散していった。狼なんていたのだろうかと思ってしまうほど、綺麗サッパリといなくなっていた。此処にいるのは、愁と、私と、倒れている葵ちゃんだけになった。
「・・・・・」
愁はその場に少し立ちつくし、黙って虚空を見ていた。
どうしたのだろうかと思ったけど、突然私の方に振り向く。
その時、少しだけ、本当に少しだけ、私はビクッと震えてしまった。
恐いと思った。いつも一緒にいてくれている大切な人を、恐いと。
それに気付いたのか、困ったような、寂しいような顔を作る愁。それを見た時私はひどい事をしちゃったと思った。でも、それでも、やっぱり怖いと思ってしまう。
「・・・・・なんともない、よな」
「・・・・・うん」
私はただ頷いた。聞きたいことが山のようにあるけど、いまここでは聞かない方がいいと思った。
それを聞いちゃったら、愁がいなくなっちゃいそうで怖かったから。
そんな私に愁は小さく微笑むと、葵ちゃんの傍まで行って様子を確かめた。そして何もないと思ったのか、葵ちゃんをおんぶして、いつの間にか入れたのか、竹刀袋に入れられた刀を肩に掛ける。
「行こう。こんな所にいたら気が参っちゃう」
私はその言葉に黙って頷いて、愁の後ろを歩き始めた。
歩いている途中、私はあることを思い出した。
それは過去の映像。記憶。私が愁と出会った、十年前のとある小さな思い出。
何でそれを今思い出したのか、私にはよく分からない。
でも、もしかしたら、確認したかったからかもしれない。
目の前にいる人が、「郷凪愁」なのかどうか。
八歳だったその頃、私はお父さんの仕事の事情でいま住んでいる涼月市に引っ越してきた。
ずっと住んでいた所に別れを言うのは淋しかったけど、これから住むことになる新しい場所への好奇心のほうが強かったと思う。
引っ越してきた当日。新しい家と、此処に来る途中ずっと窓から見ていた町の風景に興奮していた私はこの町を見て回りたいとせがんだ。けど、まずはご近所さんへの挨拶の方が先と言われて、ちょっぴり不貞腐れていた。
早く色々な所を見てみたいのに。知りたいのに。
そんな事を思いながら、最初に挨拶に行った家が、愁の家――郷凪家の家だった。
ベルを鳴らして出てきたのは愁のお父さんとお母さん、俊瑛さんと眞由莉さんで、最初に抱いたほのぼのとした印象は今も変わらない。
でも、大人の話なんてのは、子供にとっては暇以外の何者でもなくて。
早く終わらないかな~なんて思っていたら、
「うわっ・・・・・なんかにぎやかだね」
そこに、今と全くと言っていいほど変わらないぼさぼさ頭で眠そうな顔をしながら愁がやってきた。
「愁、起きたのか。今ちょうど、前に言ってたご家族が来てるんだ。そしてほら、この子が桜花ちゃん。これからお前と一緒の学校に通う子」
「んー・・・・・そんなこと言ってたっけ?」
「おいおい、もう忘れたのか? 老人じゃあるまいし」
そう言って、愁の頭をわしわしとする俊瑛さん。
「あらあら。すぐに忘れてしまうんですからこの子は。誰かさんにそっくりです」
「うおっ、何も言い返せないな」
そんな和やかな雰囲気の中に、ちょっとすると愁のお姉さんの絢香さんもやって来てまた一段と盛り上がった。私以外は。
小さい頃の私は極度の人見知りで、同い年の事付き合うのが苦手だった。前に住んでた所でも友達と言える子は指で数えるくらいしかいなくて、ましてや男の事なんて。話しかけられただけで固まっちゃってたから、その時はどうしていいか分からなかった。
そんな私の様子に気付いたのか、それとも別の何かだったのか、今になってもそれは分からないけど、突然、
「えっと・・・・・おうか、だっけ?」
「!!!」
愁がお母さんの横で黙って立っていた私に話しかけてきた。けど、返事をする事も出来ずにただ固まってしまった。
「ごめんね愁くん。桜花、男の子が苦手でね。同じ年の女の子とも同じような感じなのよ」
「えっ、そうなの?」
愁は何処か申し訳ないような顔になって私を見る。でも、それも少しで、それから考えるような顔になって、数分後、
「・・・・・よし! じゃあ、いっしょにあそびに行こう。この町のあんないもいっしょに」
どういう考えでそんな結論に至ったのか。突然、私の手をとると「ちょっとあそびにいってきま~す」と言って走り出した。最初は何がなんだかさっぱり分からなくて頭がこんがらがっちゃったけど、ちょっとしたらそれも無くなった。
これから私が通う事になる小学校。その学校の近くにある駄菓子屋さん。翼友達と遊んでいるという公園。特に珍しい場所じゃなかったのに、愁が案内してくれたその時にはなんだか、特別な場所のように感じた。
久しぶりに、本当に久しぶりに同年代の子と笑い合っている自分がそこにいた。
そんな時間が過ぎるのはとても早くて、あっという間に夕方になっていた。
そろそろ帰らなきゃ――そう思ったけど、まだまだ愁と遊びたいという思いもあった。今までまともに男の子と話すらしなかった私は、その思いにとても驚いた。どうしてなのかと悩んでいると、目の前にいつの間にか愁の顔があった。それに気づくと私は顔を真っ赤にして後ずさった。
今思えば、この時からなのだろう。私が愁を好きになったのは。
出会った初日に一目惚れをするなんて考えてもみなかった。そんな事があるのは物語の中だけだと思っていたから。でも、それ以外の考えではこの気持ちを説明できそうにもなかった。
後ずさった私を見て、どうしたのかと小さく首を傾げる愁。そんな状態が数分続いたけど、愁が「さいごに見せたいところがあるんだ」と言ってまた私の手を取って走り出した。
その場所は少し遠いところにあった。数十分くらい走って着いたその場所は、涼月市全体を見渡すことのできる丘だった。そこには銀杏の木が一本生えていて、その近くに小さなベンチが一つ置いてあるだけの誰もいない場所。
でも、その場所に私は惹かれた。そこから見た夕焼けがとても綺麗だったから。
日が沈むまで二人でそれを見て、それから手を繋いで一緒に帰った。
その後、お母さんたちに怒られちゃったけど、全然気にならなかった。そんな事よりも、ついさっきまで愁の手を握っていたということが大事だったから。
いつの間にか、校舎を出て校門についていた。
そこで背負っていた葵ちゃんを起こすと、「あれ? いつの間に帰って来たんだっけ?」って言ってたけど、私と愁が適当に誤魔化しておいた。
最初は首を傾げていたけど、そのうち納得して恥ずかしがりながら笑って、少し話をした後「じゃあまた明日ね~」って言って自転車で帰っていった。
そして私たちも、帰路につく。
さっきから一言も話していなくて、重い空気のまま家に向かっていた。
何か言わなきゃ。何か話さなきゃ。そう思っているけど、どうやって話しかければいいのか分からないでいた。いつもならこんな事にならないのに、殺気のあの出来事のせいで一変しちゃった。
聞きたい。さっきの事を。あれは一体何だったのか。あの黒い狼は。
「愁」は、何なのか。
その反面、聞きたくないという気持ちもある。
どうすればいいのか、全然分からない。
「・・・・・愁」
聞こえないように、小さく、小さく、愁の名前を呟いてみる。愁の背中を掴んでいる手を少しだけ、強くしてみる。
そうしていないと、愁がどこか遠くに行ってしまいそうで怖いから。
でも、一体愁が何なのかと思う気持ちがあって。
・・・・・私、どうすればいいんだろう。
ちょいとペースが落ち気味な葉月です・・・・・。もうちょっと急げるように頑張ります。
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