二話:郷凪家の朝
人はそれぞれ、苦手な事という物が必ずある。それは朝の起床に関してもそうだろう。朝起きる人が得意な人もいれば不得意な人もいる。目覚まし時計を必要とする人と必要としない人がいる。
ジリリリリリ!
「・・・・・」
目覚まし時計の音が部屋中に響き渡る。今時珍しい金属音型で、結構な音量を出している。どんなに朝が苦手な人でもこれを聞いたら一発で目が覚めてしまう。そんな歌い文句を聞いても可笑しいと思わないほどの音が響いている。
この音を聞いたら目が覚めそうなものだが、この部屋の主――愁はそれでも起きなかった。起きるどころか身動き一つせず、枕に顔を埋めたまま死に絶えたようにぐっすりと寝ていた。
先程の分類において、愁は後者――朝が苦手であり、目覚まし時計愛用者である。
が、肝心の本人が起きないようでは目覚まし時計が哀れに思えてくる。こんなにも懸命に主人を起こそうとしているのに、当の本人は眠りこけている。
ジリリリリリ!
「・・・・・」
昨夜、あれからどこにも寄らず真っ直ぐ家に戻ると風呂にも入らないままこの部屋に戻り、ちょうど洗濯したてのシーツや薄手の毛布があるベッドにダイブしてそのまま眠ってしまったという訳である。
ジリリリリリリ!
「・・・・・」
起きない。
ジリリリリリリ!
「・・・・・」
まだ起きない。
ジリリリリリリ!
まだまだ起きない。
ジリリリリリリ!
まだまだまだ起きない。
ジリリリリカチリ。
「うーん・・・・・」
音が鳴り始めてから約三十秒。ようやく愁は眠そうな声を上げながら目を覚まし、焦点があっていない寝ぼけ眼で時計を見る。が、そんな目で見た所で今何時かなんて分からず、それによってまだ大丈夫だという根拠のない自信を持ってしまい、
「・・・・・まだいいか」
と言って再び枕に顔を埋め、再び夢の中へと飛び立って行った・・・・・
先程起床から幾ばくか経った頃、今度は自然と目を覚ました愁。
「・・・・・いま何時かな」
これだけ寝ておきながら、未だに寝ぼけ眼な目をこすりながら時間を確認しようとしたその時。
バタンッ! という大きな音と共に部屋のドアが開かれる。
一体何事かと、思考回路が十分に働いていない頭を何とかそっちの方へと向かせると、何でそっちを向いてしまったのだろうかとすぐに後悔した。
そこには、体の周りに血を連想させる赤色に染まった可視できるオーラを纏い、仁王立ちしている一人の女性がいた。そのオーラは見たまんま「怒り」という言葉を宿しており、だんだんと強く、色濃くなっていくような気がしてならない。
そんな比喩的表現を除いて簡単に言ってしまえば、かなり危険な状態だった。
「おはよー愁。今日も爽やかな朝ね」
表情は穏やかだが眼が全然笑っていない。更に言葉には怒りの感情を隠すことなくそのまま宿している。その一言を聞いただけで、愁の思考が完全に覚醒した。
「あ、絢姉・・・・・おはようございます」
思わず丁寧語になる愁。
「ところで、今いったい何時なのかあんたは分かっているのかしら?」
愁の姉である絢香に言われて時計の方をチラリと見る。そして心の中で「うわっ・・・・・」と、恐怖と後悔が混ざった言葉を呟く。
時刻はただ今、八時ちょうど。自宅から自転車で二十分かけて通学している愁にとって最悪の時間となっていた。
「まったく、あんたって奴は・・・・・」
先程と違う低く唸るような声。それは昨晩倒した化け物の唸り声を連想させた。
絢香の方を見てみると、体をわなわなと震わせている。綺麗に整えられている黒青色の長髪がそのうちボワッ、と上がってしまうのではないかと思ってしまうほどの迫力があった。
ヤバい。明らかに危険だ。
本能で感じ取ったそれが自身に当たる前に何とか説得しようと試みる。
「あ、絢姉。これには深~い事情があって」
「・・・・・なに? それは」
ほんの少し。ごく微々たるものだが絢香が放つオーラが少し和らいだかのように見えた。愁はこの期を逃すまいと、寝坊した理由を説明し始める。
「いやさ、昨日突然電話が来てさ。出てみたら冬実さんだったんだよ。『急に想影が現れたからお願いします』って言われたから夜遅くに行ってた訳ですよ」
「・・・・・つまり、それのせいで寝坊したからしょうがない、と?」
「えっと・・・・・その通りです」
ふうむ、と思索顔になる絢香を見て、これはいけるか、いけないかなどと考えている間にも時間は過ぎていく。自分の都合の良いようにならないのが時間であり、都合の良いようになるのも時間である。
思索が終わったのか、絢香が愁の方を向いてにっこりと笑いかける。
うまくいったか。愁は一瞬そう思った。
「確かに、『あれ』の仕事は大変だけど、そこは分かってやっている事でしょ? よって、」
が、物事というものは常にうまくいくとは限らないものである。
「判決の結果、被告人は有罪判決。執行猶予なし。よってこの場にて粛清する!」
その言葉と共に放たれた絢香の拳が、愁の脳天にクリーンヒットする。
軌道は見えたし、避けることも可能だった。
だが、未だに寝ぼけていた思考のせいで「避ける」という動作そのものを考える事が出来なかっただけである。
「痛つつ・・・・・まだ痛む」
「はははっ。朝からついてないな~愁」
一階にある居間で、父親の俊瑛が朗らかな笑みを浮かべながら、さっきの出来事で被害を受けた愁を労う。
愁と同じ黒色で少し短めに切られた髪。その笑みからは純粋で真っすぐな何かを感じさせる。その予想は当たっており、人当たりが良く、近所の子供たちからやたらと慕われている。前に、愁が学校帰りにいつも通る公園で、子供たちに交じってサッカーをして遊んでいたのだ。まるで子供みたいに無邪気にはしゃぎながら。
それを見た時、本当に自分より年上なのだろうかと本気で考えてしまった。
「ほんと、絢姉は容赦ないよな・・・・・」
「まあ、あれでもお前の事を心配してるんじゃないか? 一種の愛情表現、ってやつだと思うけどな」
「その愛情表現が弟の頭を殴る事?」
「けっこう痛い愛情だな」
因みに絢香は愁を殴りつけた後すぐ仕事に出かけている。愁はあまりよく知らないが、結構名が知られている大学の研究機関で働き、その道では名前を知らない人がいないとかどうとか。
愁は絢香が何を研究しているのか知らないが、大学時代の絢香が考古学を専攻していたので、多分それ関連だろうとは思っている。
「まあ、今回はお前がいけないんだし、仕方ないと思うしかないな」
「そうだけどさ・・・・・。って、そういえば何で絢姉が来る前に起こしてくれなかったんだ? そっちの方が穏便になったってもんなのに」
そう言ってみると俊瑛はにっこりと笑って、
「俺と眞由莉も、今起きたばっかりだからだ」
と言い返される。
これもやはり遺伝なのだろうか。愁と俊瑛の両二名は朝がめっぽう弱い。が、起きるのが弱いというだけで結構早めに起きてはいる。起きてはいるのだが、睡魔に勝てずに二度寝する。これがお決まりになっていた。が、
「母さんも寝坊? 珍しいね」
「ああ。昨日は遅くまで起きてたからな。流石にそれで早く起きろとは言えないだろ」
「そっか・・・・・なら仕方ない、か」
結局、素直に諦める事に。
こんなのんびりと会話をしてはいるが、本来ならこんなにのんびりとはしていられない時間である。が、そこは郷凪愁。すでに遅刻と言う事は分かりきっているので、だったら今さら急いだところで結果は変わらないと、こうしてのんびりと朝食をとっているのである。
「でも、あんなに威力のあるパンチを出さなくてもいいのに・・・・・」
「まあまあ、俊瑛さんが言うように今回は愁さんがいけませんよ。それより、いくら遅刻と分かっていてももう少し急いでください。あなたも、早く食べてお店の準備をしなきゃ」
穏やかな声で言うのは母親の眞由莉はまるでどこかのお嬢様ではないかと思わせる風格を身に纏っている。絢香と同じ黒青色の長髪で顔立ちも大変整っているが、あの子供にしてこの親ありとでも言うのだろうか。
眞由莉も絢香と同じように、怒るととても怖い。
愁は一度だけ、眞由莉が俊瑛に対して怒ったところを見たことがあるが、あの時の光景を思い出すだけで鳥肌が立ってしまう。
その怒ったときとは、さっき言った俊瑛が仕事の時間帯に子供と遊んでいたのがばれて(俊瑛は少しだけ休憩してくると言って出て行ったが、いつの間にかそれを忘れて遊んでいたらしい)眞由莉の滅多にない怒りを買ってしまい、その日俊瑛は夜になるまでその場から起き上がらなかった。
そんなこんなで、郷凪家では暗黙のルールが存在する。絶対に、どんな理由があろうと眞由莉を怒らせてはならない、と。
「確かに・・・・・」
素直に従う愁。俊瑛も読んでいた新聞を畳んで置いて食べ始める。
郷凪家の朝食は絶対に和風である。今日のメニューは焼き鮭、小松菜と豆腐の味噌汁に白米。味噌汁の良い香りが食欲をそそり、食べ始めたと思ったらあっという間に食べ終わる。
「御馳走さま、っと・・・・・さて、やっぱし急いだほうがいいかな」
壁に掛けられた時計を見ると、時刻は八時三十分。今から自転車を走らせて、一時間目のロングホームルームの始めに着くといったところだろう。
「そうだ愁。あと二、三日はまだ休みなんだろ?」
「のはずだけど。あいつはそういう事に関しては五月蝿いから」
「だったら、学校が終わったら店の方に来てくれないか? ちょっとばかし忙しくなりそうなんだ」
「分かった。桜花にもそう伝えておくよ」
「ああ。頼む」
食器を片づけると二階にある自分の部屋へ戻る。今日の授業の教科書やらなんやらをリュックサックに詰めてそれを背負い、リビングに戻る。
「愁さん。お弁当忘れないでくださいね」
「えっ。ああ、忘れてた」
先程の絢香からくらった鉄拳のせいか、愁の脳内メモリから弁当という項目が消されていた。眞由莉から青色の布で包まれた弁当を受け取るとリュックの中にそれを丁寧にしまう。
「じゃあ、行ってきます」
「はい。気をつけてくださいね」
「気をつけろよ~」
玄関に行って靴を履こうとした時、するりと下に何かが通る気配。見てみるとそこには全身真っ黒な毛を持つ猫が一匹。
「にゃー」
「おっ。シフか。そういえば今日は会ってなかったな。おはよう」
チリンと首につけた鈴が鳴る。郷凪家五人目(?)である黒猫のシフは愁にひょいと持ち上げられるとまた、にゃー、と小さく鳴く。
「いいよなー。猫には時間なんて概念は分からないんじゃないか?」
「?」
愁の言葉に首を傾げるシフ。小動物という生き物たちは動作が全てが愛くるしい。
「っと。流石にこれ以上遅刻するのはまずいか。じゃ、行ってくるな。夕方には帰ってこいよ」
その言葉にまた、にゃー、と一鳴き。
シフを下ろすと、小さな黒猫は玄関の下にある小さなドアをくぐって出ていった。元々宝楼癖のある猫。シフもその例に洩れず、朝のこの時間から夕刻になるまで気ままに散歩をしている。時たま、他の猫たちと一緒にいる所も。
「羨ましい・・・・・」
何て事を言うが、はぁと小さく溜息をつくとシフと同じように外に出る。
今日もまた、愁の「日常」がほんのちょっぴり、騒がしく始まった。
昨日出すつもりが今日になってしまいました・・・・・。
編集ばかりでなく続きも書いていますが、やっぱりこっちを優先でやっています。
感想、指摘などがありましたらぜひ。