五話:雷光纏いしその一閃
「ねーえ、凛さーん!」
「どうしたー愁!」
少し大きな声で尋ねる愁と、こちらも少し大きな声で返す凛。
「とりあえずー聞きたいことはいっぱいあるんだけどー。今はーとりあえず一つだけー。一つだけどうしても聞きたいことがあるんだー!」
「いったい何だー!」
そう聞く凛に、愁は――
「どうしてさー、俺たちっていつもこういう状況にいるのかなー」
午後五時三十七分。そろそろ帰宅者が増えてくる今日この頃。郷凪愁と美作凛は|地上から約一キロ離れた上空を翔ける一頭の飛竜の背に乗っていた。
事の始まりは今から三十分ほど前。
今日から非日常に戻った愁は自分の作業机に向かって束になっている書類と格闘していた。休みが終わって早々、いきなりなんとも味気ないものだと思いつつも、とりあえず黙って、黙々と文明の利器で印刷された活字に目を通しながら記入する所には記入を、間違っている所には修正をしながら一時間が過ぎようとしていた。
「あー……眠い」
ぐうっと背伸びをして椅子にもたれかかる。
愁がいるこの部屋は司書になったときに与えられたものであり、広さは約二十畳ほど。因みにここは昔、俊瑛が使っていた所で、彼が残した者がそこら辺にまだ残っている。他には愁が好んで読んでいる様々なジャンルの本が詰まった本棚や、仮眠用のベッド、郷凪家が代々引き継いできた刀が数本、立てかけられている。
つい先日、恵に刀の制作を頼んでいた愁だったが、別に刀が無いと言う訳ではない。というより、十分なほどに刀はあるのである。ただ今回、愁が頼んでいるのは「ある事」の為にどうしても必要と言うだけであり、普段の戦闘で必要なものは全て此処にちゃんとあるのである。
「少し寝たい……」
などと口にはするものの今寝たら確実に睡魔にやられて夢の国へご招待、なんて事になることは目に見えているのでベッドにダイブしたいという誘惑を振り切って再び書類の方へと目を向ける。
その時、コンコンと部屋の扉がノックされる音がしたらと思ったらガチャリと扉が開かれる音。
「愁、茶を沸かしたんだが飲むか?」
とりあえず一通り終わりを迎えたちょうどその時、ちょうどいいタイミングで凛がやって来た。ちょうど何か飲みたかったと思って振り返り見てみると、いつもは整えられている髪の毛が少しだけ乱れているのに気付く。礼節を重んじている凛は髪の毛の手入れも毎日欠かしていなかった。
「さんきゅう凛さん。で、もしかして昨日泊まったの?」
「ああ……まあ、そんなところだ」
そう答える凛の声に疲労が宿っているように思った愁。ここ最近は昨日以外あまり顔を出していなかったから、いま此処がどうなっているのか分からないでいた。といっても、忙しいと言う事に変わりは絶対にないだろうが。
愁の前にお茶が入った湯呑を置くと、近くにあった椅子に腰をかけると目をぎゅっと抑える凛。余程疲労が溜まっているのか、昨日会った時より老けて見えてしまうくらいだった。
「疲れているみたいだけど、何かあったの?」
「ああ……ちょっと『家』の方が、な」
「あー……成程ね」
それを聞くとつい苦笑してしまう愁。
凛の実家である【美作家】のことを愁はよく知っていた。いや、この書籍館にいる司書全員は知っているだろう。それほどにまで周知であり、そして思わず苦笑してしまう事なのである。
美作家は歴史の表では明治維新後に偶々やってみた海運業が大当たりして、一気に富裕層に転じた成金の家である。それは現在も続いており、今では日本の約三十パーセントを占める貿易を行っているほどで、その筋の人で知らない人はいない。が、それもやはり表の姿であって、裏の姿は霽月館を支えるスポンサーの一つである。それに加えて、美作家は武の名門としても知られており、凛自身も愁に負けず劣らずの細剣の使い手である。
そしてその美作家現当主であり、凛の父親である美作郡司は、今現在も一流の剣士として知られており、巨大な貿易会社【美作商事】のトップにいる人である。
これだけを言ってしまうと、立派な人物なのだな、という印象だけがありそうだが、ここ霽月館で働く司書たちにとってはそれだけではなかった。
郡司氏はとっても、いや、大変な子煩悩であった。
一人娘という事もあってか郡司氏は、それはもう、こっちが引いてしまうほど凛の事を可愛がっており、それは二十代後半である今現在も継続中だった。
「子供思いの良い父親、といえば聞こえはいいが、結局は向こうが子離れ出来ていないと言うことにもなると言うのに……」
「あははは……」
ふうっと溜息をつく凛に苦笑するしか出来ない愁。
「でも、俺は凄い人だと思うけどね。凛さんがどう思うかは別として、人間としてはとっても出来ている人だと思うな」
「まあ、それはそうなんだが、な」
またもや溜息をつく凛。その様子に愁はふといつもと違う何かを感じた。いつもだったら最後に「まったく」といってそれで終わりなのに対して、何故か今回はやたらと沈んでいた。
「なあ凛さん。なんかいつもと違うような気がするのは俺の気のせいかな?」
とりあえず思いきって聞いてみることにした愁。
「……ああ。やっぱりそう言う風に見えるのか。いまさっき飛鳥にも言われたよ」
「飛鳥さんに?」
「ああ。いつもと様子が違うからどうしたのか、とな」
ふっと苦笑する凛。
「実はな……ついさっき電話で話をしていたんだが……その時に、見合い話を切り出されたんだよ」
「み、見合い?」
これは流石に予想外の事で、愁は眼を真ん丸にして驚いた。
「驚いたか?」
「そりゃあ、ね。まさかあの親バ――あ、ごめん」
本人がいる前では流石にと思った愁はすぐに謝ったが「いや、気にするな。本当のことだしな」と言って流した。
「いやでも、まさかあの人がそんな事話すなんて思いもしなかった」
「私もだ。突然、電話がかかって来て何事かと思ったら、急にその話だったから少し困惑してしまった」
普段冷静な凛が困惑する所を思い浮かべて思わず噴き出しそうになるのを堪える。それを知ってか知らずか、話を進める凛。
「相手は取引先の社長の二男で、私と同年代だそうだ。明照大卒で今はそこの研究機関の責任者を務めているらしい」
明照大とは明照理科大学の略で、理科系では東大を凌ぐと言われている超難関大学の一つ。そこの卒業生で、しかも研究機関で責任者ともなれば経歴はとても輝かしい物と言える。
「その人とは何回か会った事があってな。とても仕事熱心な人で人との関わり合いを大切にしている素晴らしい人だ」
それを言う凛の表情は何処か慈愛に満ちていた。それを見るに相手の事を悪く思っているどころかむしろ好意的に思っていることは言うまでもなかった。だったら、どうしてさっきはあんな表情をしたのか愁には分からなかった。
「だったら、と思うだろ? でもな、自分でも分からないんだ。何で拒絶したのか。その場の勢いなのか、それともその人以外に気になる異性でもいるのか」
まったく、私も我が儘なものだな、と自らを自嘲するかのようにそう呟いた。
そんな凛にどう言葉をかけたらいいか分からない愁。どうしようかと悩んでいる時、じりりり、と一つの音で静寂が破られる。それはこの部屋に置いてあったアンティーク風のダイヤル式電話の音で、内心ちょっぴり助かったと思いながら受話器を取る。
「はいもしもし――」
『愁ちゃん! すぐに中央に来てくれんか』
電話の相手は恵だった。が、いつものノンビリとした口調と違ってやや声が荒かった。
「メグさん? 一体どうしたの?」
『説明は後じゃ! そこに凛ちゃんもいるんじゃろ? 二人ですぐに、大至急! あんまり時間が無いから本当に急いでくれ!』
ぶちりと乱暴に会話が途切れる。
なにやらとても急いでいた。そして、こういう電話の際、一体何が起こったのか愁はとっくの昔に理解していた。
「凛さんメグさんから。大至急、中央に来てくれってさ」
「分かった。すぐに行こう」
凛もいちいち聞いたりせず、すぐに状況を理解していた。
愁は壁に立て掛けてあった刀【水鏡】を手にとって腰のベルトに付ける。凛の方も傍に置いておいた細剣を装備し、二人して部屋を後にする。愁の部屋から中央室までは五分と少々。二人は駆け足で向かう。無駄な会話は一切せず、無言で走る。かちゃかちゃとベルトと刀、細剣を繋いでいる金具が鳴らす音以外何も聞こえず、足音も無い。
バタンッと大きい音を響かせて扉を開ける。部屋には恵が一人、ノートパソコンの画面に向かっていた。
「メグさんどうしたの? ていっても、大方の予想はつくけど」
「おお、二人とも。ちょっくらこれを」
と言って二人の方に画面を見せ、それを見て二人の表情が一気に硬くなる。
画面に映し出されていたのは電車が線路を走っている映像だった。愁はこれを見て、初めて桜花とここに来る時に乗った弥生線の電車と言う事に気付く。ただしそこには|電車の屋根に灰色一色で統一された服装の細身の男がいた。更にその男の前には三人、別々の服装で男を囲むようにして立っている。その三人の手にはそれぞれ、長剣やら銃やらが握られていて何処かシュールに見えた。
「これ……【貫く剣】?」
「そうじゃ。弥生線涼月駅始発の電車上空でこれを録っておる。【貫く剣】が一ヶ月前から追っていた奴らしい。名前は島津信介。性別は男で年齢は三十五。練成式を主とする術師で、【幻想曲】日本支部に所属。じゃが、一ヶ月とちょっと前に不法実験がばれて除名され逃走。ようやく見つけたらこの通り、という訳じゃ。」
愁や恵が言っている【貫く剣】や【幻想曲】というのは、よくRPGなどに出てくる【ギルド】と呼ばれる組織であり、書籍館とは協力関係にある。【貫く剣】は『こちら側』で起きた小から中規模の犯罪を取り締まりつつ魔物を倒している討伐ギルドで、【幻想曲】は全ての術師の把握や術式の管理を務めている魔術ギルドである。霽月館はこの両者に深い信頼を持たれており、愁や凛に関してはこの二つのギルドマスターと友人関係にある。
「ふーん、成程ね。でもなんだってこんな所に」
もっともな疑問を口にする愁。
「それがじゃな、何でも十数分前にここに逃げてきたと思ったら一時停止みたいに動かなくなったんじゃとよ」
「……また何とも理解しかねることだな」
「まあ、その理由は本人に聞けば済むことじゃて」
肩をすくめる恵。
「ところで今思ったけど、この電車って普段走っている奴と外見が随分違うけど」
よくよく見てみると、本来なら電車の屋根に着いているはずのパンダグラフ――電車が通る空間の上部にある電気が流れている架線から電気を集める集電装置がそれには付いていなかった。愁のその疑問に恵が答える。
「なんでもこの電車は最近、鉄道会社が開発中の試験車両らしいの。従来の架線から電気を流して動かすのではなく、車両に大型のリチウムイオン二次電池を何個も搭載してその電力で走っているみたいじゃの」
「で、その試験中にこいつがやって来たってこと? またなんと言うか……」
疲れたように溜息をつく愁。
「では、私たちが呼ばれたのは加勢、という訳か」
「そうじゃ。今し方【貫く剣】から要請があった。今からすぐに此処に向かってくれんか?」
「それは全く構わないが……ちなみにこの電車は今、何処を走っているんだ?」
弥生線は他の路線と違って終点が無く、ぐるっと一周する形になっており、この霽月館がある宝楼町もそれに含まれている。それ自体に特に問題はないが近いことに越したことは無い。他にも、これはあくまで通常通り運行している電車であり、乗客に危害が及ばないかなどの心配もあった。
「今は宝楼町と名護町との間じゃな。ああ、それに乗客の心配はいらん。どうも遠隔操作できるみたいでな。車掌もいなければ乗客もいないんじゃよ」
「そっか。ほんじゃま、ちょっくら行きますか」
「そうだな。だがどうやっていく? 車やバイクだと追いつけるとは思うが……」
などと思索を始めようとした凛を手で「まあ、すとっぷすとっぷ」と制する恵。
「凛ちゃん。今さらはぐらかしても仕方が無かろう。【あれ】が苦手なことは知っとるが、今この状況で【あれ】を使う以外なかろうて」
「……やっぱり、【あれ】しかないのか?」
珍しく難色を示す凛に、ああ、と愁は独り心の中で納得して苦笑する。
「凛さん。今回は流石に【あれ】じゃないと無理そうだよ。だからがまんがまん」
「……仕方無い。【あれ】で行くか」
また一つ、溜息をついた凛は愁と共にこの場を後にした――
「――以上で回想終わり、と」
「? 何か行ったかーっ!」
「いやいやー気にしない気にしなーい。どうせ俺らの次元だと確認できない人たちに、今この状況を説明したものだから」
愁の返答に首を傾げたものの、すぐに今はそれが問題ではないという事を思い出し、ちょっとは良くなりかけた顔色が再び青くなるのを愁はちらりと振り向きざまに見た。
びゅうと強い風が二人の顔に叩きつけるように吹き荒れている。髪の毛は当然の如くごわごわになっていて、寝癖頭の愁の髪の毛はいつも以上に酷いことになっていた。凛の髪の毛は愁ほど酷くはないが、今本人は髪の毛を気にしている所では無かった。ぷるぷると小刻みに震えながら愁の腰の辺りをぎゅっと掴んでいる姿は普段の凛を見ている限りでは想像できない姿であり、その姿を見て愁は噴き出しそうになるのを必死で堪えていた。
恵が言っていた【あれ】というのは、司書が非常時用の移動手段として契約式と呼ばれる、ある特定の存在――ゲームで言う所の精霊と言った存在との繋がりを作る術式を用いて契約をした【飛竜】の事である。因みにこの飛竜と契約をしているのは愁で、体表全体を覆う鱗が白銀なことから、名を月華と呼んでいる。因みに、二人と一匹の飛竜の周りには薄い半透明の天幕のようなものが包み込むようにある。これは凛が張った隠蔽の術式で、周りからは見えないようになっている。
地上からいけない。だったら飛べばいいじゃないかと言わんばかりの物凄い飛行だが、凛はこれが大の苦手だった。というより、美作凛。大の高所恐怖症なのである。愁がこの事実を知ったのはちょうど三年前。どういう訳か小型飛行機に乗った時だった。初めて乗った愁は仕事としてでもほんの少しの楽しみを持って搭乗したのだが、一緒に組むことになった凛はと言うと終始顔がほんのりと青く、少しでも揺れるとびくんとして屋根を突き抜けてしまうのではと思うくらいのビビりようだった。あの出来事は今でも忘れる事が出来ないとても印象強いものになっている。
そんな事を思っていると、急に飛竜が地上へとゆっくりと降下し始める。本当にゆっくり、乗っている人間に全く負担を描けない程度にもかかわらず、凛の握る力が先程より増していて半端なダメージを受ける愁。
「り、凛さん……そ、それ以上掴むと生命の危機が……」
「む、無理だ! こわくてこわくて……はっ! もしちょっとした弾みで此処から落ちてしまったら……」
「いやいやいやそれは幾らなんでもありえないっての」
パニック寸前の凛を宥めつつ、だんだんと見えてきた電車の屋根の状況を確かめることに。
六両編成のその車両の屋根には男が四人。が、先程恵が見せてくれた物とは状況がかなり変わっていた。まず、ただ立っているだけだった灰色の服の男――島津が両腕をぶらりと垂らし、無表情だったその顔はにたにたと卑猥な笑みを浮かべており口元からはだらしなくよだれが出ていていかにも、と言った感じだった。
そして島津から少し離れた所にいる三人の男――ギルド【貫く剣】の団員だが、一人の男を除いて二人が膝をついていて息遣いが荒い。
霽月館から出て大体十分程度。その間に一体何があったのか、と思った愁だったがその思考を振り払うように消す。
「まあ結局のところ、いつもの『非日常』だしね」
誰に言う訳でもなくポツリと呟く。
「凛さーん。そろそろ降りるよー」
「わ、分かった」
こくりと頷く凛を見て、愁は「頼むぞ、月華」と白銀の飛竜に言うとそこから一気にスピードを増して電車に接近する。後ろから「うわうわうわうわうわっ!!!」などと聞こえるが無視する。
周りの風景が走馬灯のように過ぎていき、電車の屋根にぶつかるかという距離まで近づき二人はそこで月華から降りて綺麗に着地。その時に凛が「生きていてよかった……」と言った事に対してはあえて聞かなかった事にする。
「ふう。到着っと」
「よし、さっさと済ませるとするか」
つい先程の様子とは百八十度変わっていつも通りの冷静な方に戻った凛が前を見て言う。
遠目でしか見てなかったので詳しくは分からなかったが、【貫く剣】の団員二人が所々に傷を負っていた。特に右にいる男は左肩が大きな刃物で切り裂かれたような切り傷がありそこから出血していた。命に関わると言うものではないもののしばらくは動けなさそうな傷ではあった。
「おお! 愁の旦那じゃないですか。こりゃ心強い」
そう言ったのは団員の中で唯一倒れていない男で、愁の顔を見るや否やかなり安心しきった表情になった。
「ソドムのおやっさん。相も変わらず歳をとったからといって何もかもが老いる訳じゃないことを証明してるね……」
「がはははっ! そんな旦那も相も変わらずといったところですな」
愁を旦那と言ったその男は【貫く剣】の団員であるソドム・リオルド。現在の中でかなりの古参の剣士で年齢は五十過ぎといった所だろうか。灰色がかった短髪に顔には深い皺が刻まれていてそれが老練といった雰囲気を醸し出している。体の方も五十すぎとは思えないほどガッチリとしており、それは右手だけで持つ大剣で示されていた。
「お久しぶりです、ソドムさん」
「おお、美作の御令嬢もいましたか。ならこの場に老いぼれは必要ありませんな」
がははと豪快に笑うその様子からは疲労を全く感じられない。愁や凛が最初にあった時からこの老剣士はよく笑い、そしてその長年鍛えられた腕から繰り広げられる豪快な剣で全てを薙ぎ伏せてきており「まだまだ若いもんには負けられませんわな」と言ってはまた豪快に笑ってきていた。この老剣士には年齢というものは全く関係ないようである。
「で、状況は?」
前から吹き付ける風を浴びながら愁はソドムに尋ねる。
「まあ、見てのとおりと言ったところで。あの男、急に動き始めたと思ったら襲い始めましてな。わしは何とか防ぎましたが若いもん二人が怪我をしてしまいまして」
「島津、だっけか。術式で?」
「ええ。やっこさん、【幻想曲】の中でも結構な使い手だったようで。しかも不意打ちときたら・・・・・流石に高位の術師相手には若いもんにはきつかったようです」
そう言っているソドムの表情はどこか硬かった。他の二人が傷ついた事に責任を感じているのか。この老剣士ならそう考えると愁は思った。
「なる。ほんじゃま、おやっさんはその二人の介抱を。後のことは、」
言いながら、男――島津の方を向き、
「なんとかすっから」
と、軽く笑って言った。
それを見たソドムは頷くと、傍で倒れていた一人を慎重に抱えて車内に入れ始める。愁と凛は島津の方を向き、それぞれ剣を構える。
島津は相も変わらず虚ろな表情をしているが、ただ呆けている訳ではないと一瞬で判断する二人。大気中に流れているマナ――術式を使う上で行使する対象となる力を自分の体にため続けているのが二人の目には見えていた。
「にしてもさ……あの不気味な表情は何だと思う? 見たまんまだとただの異常者にしか見えないけど……」
「分からないな。ただあの男、どうにも奇妙だというのは分かる」
「奇妙?」
「なんと言うか……普通の人間に持っていない何かを持っている、というのか」
どうにも言葉で表現するのが難しいようで、濁すように言う凛。
「美作の御令嬢の言う通りですよ、旦那」
そこに、怪我をした二人を運び終えたソドムが入ってくる。
「どうも島津の奴、精神体の構造について研究をしていたようですよ。ただその研究っていうのが人をさらってきてやっていたみたいで。だから除名されて追われる身になったようですが、どうも逃げる直前に自分に対してその実験途中の術式を施したみたいです」
「実験途中の術式?」
「ええ。どうも精神体に直接干渉してマナの行使量を無理やり上げようしたらしいんですが……ま、結果はご覧の通り、ですな」
と、呆れたように島津を指差す。
術式を使うためには大気にあるマナを行使する。ただし、それらすべてを行使できるという訳ではなく、行使できる限界が個人によってかなり異なる。鍛錬によって上げられるが、島津はそれを無理やり上げようとして精神体を傷つけたらしい。
「成る程。思考領域のところまで術式が干渉してしまい自我が崩壊。残っているのは生存本能だけ、ということか」
話を聞いた凛は憐れむような目で島津を見る。そう言う目をしている時は大抵、樹がくだらないことをした時だけに向けていたので愁は少し驚いた。
「……まあ。とりあえず、だ」
そう言うと、しゅるりと鞘から細剣を抜き切っ先を地面に向け下段の構えを作る。
「あいつに施されている術式を破壊すればいい。それで終わる」
「ですね」
愁もベルトに着けている金具を外して水鏡を鞘ごと左手に持ち、居合の構えを作る。ソドムも加勢しようと大剣を構えようとしたが、逆に二人の邪魔になると思い後ろに下がった。
――どんなに相手を警戒していても、必ず隙が生まれる。そこを突く!
自我が壊れているなら警戒も薄いかと最初は思った愁だが、よくよく見てみると島津の周囲に密度は薄いが煙らしきものが漂っている事に気付く。恐らく、思考がはっきりしていない島津の目の代わりだと思う。
とはいえそれも完全ではなく、時々あらぬ方向を見ている時があり、そこに隙が生まれることに愁は気付き、横目で凛を見てみると、ふっと笑った事から気付いている様子。
「……」
風が強く吹き抜ける中、島津の荒い息遣いだけが聞こえる。
どれくらい時間が経ったのか。一秒が一分に。一分が十分に。十分が一時間に感じる世界の中に此処にいる全員がいた。二人は五感すべてを研ぎ澄まし、島津の動きを全て把握していた。まだ隙は出来ない、それでも二人は焦らない。待っていれば必ず来ると分かっているから。
そして、それは意外にも速く訪れた。
突然、風が今まで以上に強く吹き抜けた。その風に島津は少しだけ目を細め、周囲に浮いていた煙もちょうど二人から少しだけ、本当に少しだけ目を離す。
二人の中に響く、始まりの合図。
愁と凛は同時に、殆ど同時に島津に向かって電車の屋根を一蹴り。破裂したような大きな音と共に二人は一気に距離を縮める。それに少しだけ遅れた島津だったが、術師は鈍重という見解を見事に打ち砕く反応を見せ、迫ってくる二人に向けて左手を突き出すと掌から陣が生まれ、そこから無機質めいた黒く細い紐状のものが溢れ出て二人を襲う。
「「――っ!」」
互いに言葉を交わすことなく、愁は左へ凛は右へ移動してそれを避け、愁はそれを抜刀して切り裂く。さん、という音がしたと思った時には黒紐は綺麗に切断され、音もなく消滅する。が、元の部分――術式と繋がっている根の部分は残っており、それが再生し再び襲ってくる。
「ま、そんな事だろうと思ってたけど」
特に驚くこともなく次々と迫る黒紐を右に左に避けながら一本ずつ確実に切り落としていく。一本切ったら素早く右に少しの跳躍で避け、その途中で一本二本。着地したと思ったら右回りで回転。後ろから襲ってきた黒紐を切り裂く。
「凛さん、こいつらは俺が引きつけるからあいつを!」
「分かった」
短く会話を交わすと凛は前へ走り始め、愁はそれを遮る黒紐を切り落としていく。永久に出てくるのではと思いそうになるが、流石に疲れが出てきているのか。先程よりも再生されている数が確実に減ってきていた。
さん、とまた一本切ると後ろにバックステップ。着地しその場で前傾姿勢。水鏡を鞘に戻して、
「風月」
鋭く言い放ち、抜刀。素早く抜き放たれた刀身から可視できるまで濃縮された「風」が吹き荒れる。それに当たった黒紐はばさりばさりと切断され消滅していく。
その様子をちらりと見ていた凛は再び視線を島津に戻し、前を防いでいた黒紐を切り落として再び駆けだす。何としてでも阻止しようと黒紐が凛に集中するが、いつの間に抜いたのか、左手にはマンゴーシュが握られ、右手の細剣と共に切りつけていく。基本、相手の攻撃を防ぐことを主とするマンゴーシュだが、凛はそれを逆手に持って二刀の形で使いこなしている。
「はっ」
短い気合と共に斬撃。あっけなく消滅していく。
「ガッ……ガガッ……」
見てみると、島津の様子が先程よりおかしくなっていた。陣を展開している左手が小刻みに震え始め、空いている右手で胸の辺りをおさえている。顔からは玉粒ほどの汗がでており、その表情は苦痛に染まっていた。
「何だ……?」
その様子を訝しく思う凛。だがそれがすぐに、無理やり行使量を上げた副作用なのではと結論を出す。
「なら、この好機は逃せないな」
その場で立ち止まるとマンゴーシュを腰の鞘に戻し、右手の細剣を電車の屋根に接するか接しないかというぎりぎりの所まで下げる。
近くでは愁と黒紐が格闘を続けていた。戦いの喧騒が、吹き抜ける風の音が耳に響く。
が、次の瞬間には、それら全ての音がふっと聞こえなくなった。
ついさっきまでは周りを警戒していたが、再生速度の低下と愁のおかげでその必要はなくなった。自分の意識を、島津と切っ先に集中させる。普段はある程度隠すが、その必要もない。
――ジジッ……ジジジッ……ジジッ……
切っ先から青白い光を放ちながら電気が生まれる。微かな音、わずかな規模しかないそれが、次第に大きく、広くなっていき、刀身全体がそれに包まれる。周囲に電気が弾けるような音と共に踊りくねっている。
ゆっくりと、切っ先を島津の方へと向ける。島津は展開している陣を凛に向け、最後の抵抗と言わんばかりに、最初に出した時よりも二倍近い量の黒紐を生み出し、凛に襲いかかる。
が、凛は微動だにしない。むしろ視界にすら入っていない。
理由は簡単。その必要が無いから。
「無駄だ。その程度でこの一撃を防ぐことなど――」
黒紐が目の前に迫る中、その視線は島津の目を射抜くように据えていた。
「――出来はしないっ!」
言い放った刹那。凛の姿が消え、それと同時に轟音が響き、一瞬だけ強い光――雷光が生まれた。
その光に後ろにいた愁は眼を細めたが、それも少しの間だけですぐに視界が開ける。
そこには、泡を吹きながら直立している島津と、その真正面に前傾でいる凛。島津の横腹には、凛の細剣が見事な胴を決められていた。
凛の十八番である、雷の術式を用いた神速の一閃。今回は対人という事でいつもより抑えられていたが、それでも普通の人間が食らえば確実に感電死威力であることは疑いようが無かった。
「相も変わらず、とんでもない突きだね」
愁ですら、抑えられた技にも関わらず凛の動きがぶれて見えた。それが悔しいのか、少しむっとした表情をしている。
「まあ、これだけはお前には譲れないな。だが斬りの方はお前の方が上だろう」
「それでもね。ちょいと悔しい」
そんな愁を見てふっと笑う凛。あれほどの動きをしたにもかかわらず、二人は息切れもせず汗もかいていない。
「がっはっはっ! まったく、私の出番はありませんでしたな」
豪快な笑いと共にソドムがやってくる。
「他の二人は?」
「なに、心配ありませんて。車両の中で休んでいますよ。傷の手当てもお二人が戦っていた時に済ませたんで」
「そっか。よかった」
ふうっと一息ついて刀を鞘に納める。
「この後はそちらに任せていいのだろうか?」
「ええ、事後処理はこっちでやりますよ。ただ……すぐにそっちに回ってくると思いますがね」
ふうっと、こちらは面倒そうに溜息をつくソドム。それに凛が頷く。
「だろうな。とりあえず、雄真か静穂さんにでも聞いて――」
そう言おうとした時だった。
「カハッ」
それは突然だった。島津が倒れている屋根に黒褐色の陣が現れ、禍々しい色彩を放ち始めた。それと同時に島津の口から苦痛が宿る声が洩れ、体全体が大きく震えていた。
「やばっ!」
とっさに危険だと感じた愁が再び抜刀。陣そのものを切りつけ、光が消えて消滅する。
「今のは……?」
凛がそう呟く中、島津の様子を確認する愁。ぴくりとも動かない島津に少しふれた瞬間、
「え……」
その体は一瞬の内に灰色に染まったかと思ったら、それが崩れ灰になり、風に乗って消えた。
「……こういうのは、ないだろ」
ぽつりと、そう呟いた。
連続です。かなり長ーくなっております。