終章
離婚して1年半が過ぎた四月の初旬、私は相変わらず同じ会社に勤務し、三十六歳の春を迎えていた。
娘は市内の公立高校に入学が決まり、一週間後からは高校生になる事になった。
娘は急に背丈が伸び、私の身長を越すくらいに迄成長し、髪型や服装に気を遣いだした。
そんな娘を見ていると、私自身が急に歳を取ったような錯覚をした。
私は離婚後の一年半を振り返り、娘を見て月日の経つのは早くなったと実感していた。
そして三十六歳という微妙な年齢になって、これからの人生を考えなければいけないとも思ったりした。
高校入学を控えた春休みの或る日、娘は三月の誕生日祝いに社長から買って貰った、ピンク色のワンピースを着て友人と遊びに行き、夕方に颯爽と自宅に帰ってきた。
娘はニコニコしながら私に言った。
「さっき、帰り道でママの会社の社長さんに偶然会って、また服を買って貰っちゃった」
私は娘の話す内容が解らず聞き返した。
「どういうことなん?」
娘は、ブティックの大きな紙袋から洋服を出して言った。
「高校進学祝いにって、四条河原町のブティックで、社長に買って貰ったんやもん」
私は、呆れ顔で娘に言った。
「そんな高い服を買って貰ったって、簡単に言わんといてよ。もう・・・」
娘は、私の言葉を上の空で聞いて、嬉しそうな顔で服を見ながら言った。
「結構ですって断ったんやけど。お祝いやし、とか言って買ってくれやはったんやもん」
私は、娘の無邪気な顔を見ながら言った。
「貴女のパパじゃないのに、進学祝いって貰う筋合いじゃないでしょう?」
娘は、ニッコリ微笑み言った。
「だって、買ってくれやはったんやもん。仕方ないやん」
私は、娘の顔を見て大きな溜息をついた。
暫くして、娘は私に言った。
「でも、ママの会社の社長さんが、私のパパならいいのにね。ママも、そう思わへん?」
私は娘の言葉に驚き、少し考えてから言った。
「あのね・・・社長にも奥さんいらっしゃるんやから、今後は甘えたらアカンよ!」
「ママが変な風に思われたら困るし、その辺は解るでしょう。貴女にも・・・」
娘は口を尖らせながらも、意地悪な笑いを含んでいった。
「でも、ママだって社長の事を好きなんちゃうん?社長はママの事を好きみたいやしね」
私は、娘の爆弾発言に呆れて返す言葉が無かった。
私は娘が社長の事を、そんな風に思っていることを始めて知った。
確かに社長は、離婚した私たち親子に気を遣って接してくれているが、それは社員としての親しい関係であって、恋愛関係では無い筈である。
私も、社長に対しては社員として尊敬をしているが、以前のような浮ついた気持で接しては居ない。
それより、娘には父親という存在が消えて淋しいのだろうかと心配した。
理想の父親像を、娘は社長に重ね合わせているのでは無いだろうかとも思った。
私は、娘が言った言葉が気になった。
”でも、ママだって社長の事を好きなんちゃうん?社長はママの事を好きみたいやしね”
その言葉の中に隠されているものは何なのだろうと考えてみた。
娘は私が社長に好意を持っているのを知っており、社長も私に好意を持っているものと誤解している。
そして、その裏には娘が社長を父親として、好意を持っているのではないかと私は理解した。
私は思い出したように社長の携帯に電話を入れ、娘の高校進学祝いを貰ったお礼を言い、あまり気を遣わないように言った。
彼は、たまたま繁華街で私の娘と出会ったからと言って、ただ笑っているだけだった。
彼は、さり気無い心遣いで、人を喜ばせる事の出来る人だと私は改めて思った。
彼は電話を切る前に、会社の事で私に大事な話があるから、明日の夜は少し時間を欲しいと言った。
私は素直に了承し、時間を作る事にした。
彼が予定している新しい事業の事だろうと私は思った。
自社ビルの新しい活用方法を練っていた彼は、方向性が決まったら私に意見を聞きたいと以前から言っていた。
会社の資産状況と営業管理や税金などについて充分把握し、数字に詳しい私の意見を取り入れ新規事業に反映さそうと考えているようだった。
翌日、私は会社の勤務時間が終わっても残業し、夕食も摂らずに社長との打ち合わせの資料を作成した。
社長は経済団体の会合を終え、午後八時過ぎに会社に帰ってきた。
私は、社長室に入り数字で埋め尽くされた資料を広げ、コーヒーを飲みながら社長との打ち合わせに入った。
夕食抜きで、コーヒーを飲むと少し気分が悪かったが、熱心な社長の質問や数字の解説に対応した。
やがて、社長は数字を把握して新規事業の青図面を実行する事を決断したようだった。
二人が会議を終えたときは午後十一時を回っていた。
社長は残業に礼を言い、私は席を立って帰る準備をしようとした。
その時、目眩に似た感覚を感じ、私はデスクに手を突き体を支えた。
急な目眩と共に気分が悪くなり、貧血症状になっている自分を別の私が冷静に見ていた。
社長は、大丈夫かと私に尋ね、救急車を呼ぼうかとも言った。
私は、ただの貧血だと上の空で言ったような気がした。
私が気がつくと、社長室のソファーの上で座って居ることを知った。
私は長い間意識を無くしていたような気がした。
そして、気分が随分楽になったことを自覚して時計を見ると、午後十一時十分だった。
ほんの五分ばかり意識を失っていたようだった。
私が次に気づいた事は、私がソファーに腰を下ろしながら、彼の胸に抱かれている事だった。
私は、彼の吸う煙草の匂いの付いたワイシャツとネクタイが、私の顔の横にあるのに気づいて驚いた。
体を元に戻して起き上がろうとする私を、彼は優しく抱いたまま、まだ動かないようにと静かに言った。
私は、私の肩を抱いている彼の温もりを感じながら、甘えているような格好で暫くの間、彼にもたれかかっていた。
私の意識が正常に戻った時、私は恥じらいを感じて彼に言った。
「すみませんでした。もう大丈夫ですから・・・」
彼は優しく私を起して、冷たい水をグラスに入れて言った。
「最近、君は過労気味だから無理しないようにしないとね」
私は頷き言った。
「ご心配かけました。もう大丈夫みたいです」
彼はにこやかに微笑んで私に言った。
「もう、何だかんだで君も一年半過ぎたね。頑張ったもんな君も」
私は褒められた子供のように、俯き加減で頷き言った。
「そうですね。もう、離婚して一年半過ぎましたね。早かったです」
彼は頷き、そして言った。
「君は、これからどうするんだ?再婚とかは考えていないの?」
私は首をかしげながら言った。
「どうなんでしょうね。自分でもわかりません」
彼は、社長室の壁に掛る海を描いた絵を見ながら言った。
「人生なんて不公平なものだし、海の波の満ち干きのように思えるなあ」
私は、彼の言った言葉の意味が解らなかったが頷いた。
彼の話を聞きながら、彼のような人と再婚できたら良いのにと思っていた。
それは”彼のような人”ではなく、彼と結婚できたら幸せになれそうだった。
けれど彼には、夫人が居ることは確かであり、結ばれる事は無い運命だと諦めていた。
彼に対する感情は、恋愛と言うのかどうか私には解らなかった。
学生時代の恋愛のような、恥ずかしくて顔も見ることが出来ないとか、心臓がドキドキして顔が赤くなると言うモノではなかった。
私の体と心が本能的な繋がりを持ちたいと言う、欲求から発せられるものかも知れなかった。
彼と居れば落ち着くとか、彼と居れば優しい気持になれるとか言う幸福感に似た感触だった。
そして、彼のために何かをしてあげたいとか、ただ彼の隣に居たいと言う素直な気持が、彼に対する感情だった。
それが恋愛感情なのかどうかと言うことに、私は答えが出せないでいた。
しかし、私は夫人のいる彼と不倫”に走るような事は無いと思った。
自分が夫と親友の不倫によって、大きな心の痛手を受けた被害者なのに、私自身が他の人を不倫によって傷つける事は出来なかった。
不倫と言う言葉は、私の深い心の底に身を横たえ、生涯に渡ってケロイドのように払拭できない嫌悪感を漂わせる嫌な言葉だった。
もし、彼が私に対して不倫関係を示唆しても、私は彼から離れていく覚悟は出来ていた。
私と彼との不確かな関係は、最終的には社長と社員と言う簡単な関係なのかもしれない。
暫くの間、私は部屋の天井を見ながら、そんな事をぼんやりと考えていた。
私は、煙草を吸って黙って何かを考えている彼に目をやった。
私の視覚に捉えた彼の服装に、何かそぐわない色彩が混じっているのに気が付いた。
私が、もたれかかっていた彼の胸に、何となく目を落として血の気が引いた。
彼のワイシャツの胸の辺りに、私の赤い口紅がハッキリ付いていた。
私は、それを見て慌てて彼に言った。
「社長、すみません。シャツに私の口紅が・・・。どうしましょう」
彼は、自分のワイシャツの胸に目を落として笑って言った。
「ああ、いいよ。家でクリーニング出すから大丈夫だ」
私は顔を引きつらせたまま彼に言った。
「でも、奥さんに・・・」
彼は大声で笑ったかと思うと、真面目な顔で言った。
「ああ、誰にも言ってなかったけど、僕もバツイチになったんだ。もう、二年前だけどね」
私は開いた口が塞がらなかった。
彼は私の顔を見ながら、にこやかに笑っていた。
私は、彼が離婚したのは知らなかったし、社員も全く気づいていなかった。
私は、彼の顔をぼんやり見ながら、不思議にも悲愴感が心の中に広がっていくのを感じていた。
私は、何故か涙が目に溜まっていくのを感じていた。
それが、どういう意味の涙か自分でも解らなかった。
同じ境遇にいる彼にシンパシーを感じたのか、世間体で離婚を言う事ができなかった彼の苦労を感じ取ったのか、自分でも解らなかった。
もしかすると、”バツイチになったんだ”と言う彼の言葉と、その後に笑った彼の顔が、私には異常に淋しく見えたからかも知れなかった。
彼は、不思議な涙を流している私の頬に手を当て、優しく微笑みながら私の顔を覗き込むように見た。
そして、彼は両手で私の頬の涙を拭き取った。
私は、彼の温かくて柔らかい掌の感触を頬に感じ、奇妙にも幸せな気分になっていた。
私は、彼の目を見上げて思った。
彼の目は、いつも優しく温かく見守っていてくれていたのだと、何となく私は気づいた。
私は頬を挟んだ彼の手に導かれ、彼の胸に再び顔を埋めている自分に気づいた。
彼は、私の肩を優しく抱きしめながら大きく溜息をついた。
私は、私の肩を抱く彼の優しい薬指に、リングがないことを始めて気づいた。
無言のまま彼と私は、体を寄せ合ってソファーに座っていた。
私には、何の言葉も浮かばなかったし、この現実に何の抵抗も無かった。
彼も何の言葉も言わなかったし、ごく自然な成り行きの結果のように思えた。
逆に言葉は、無言の二人の心の会話を邪魔するような存在だったのかも知れない。
長い時間、彼の胸で甘えている私を、別に私が不思議な気持で見ていた。
私は次の瞬間、何故か急に可笑しくなって笑い出した。
そして、私は彼の胸に抱かれたまま奇妙な笑い顔で言った。
「社長って、じゃあ、独身だったんですね」
彼は、奇妙に笑っている私の顔を覗き込んで言った。
「そうなんだ。でも、君だって独身やん」
私は言った。
「じゃあ、社長に恋しても不倫にならない訳やんね・・・」
彼は不思議そうな顔で答えた。
「ええ?まあ、そういうことになるかもな」
私は、声を出して笑って言った。
「そうなんや。不倫じゃ無いんや」
私は笑い続けた。
でも、私自身も何が可笑しいのか自分でも気づかず笑っていた。
彼は自分の胸で笑い続けている私を、左手で抱きながら言った。
「これから始まる僕の第二の人生に、君の素敵な笑顔を添えてくれないか?」
私は笑うのを止めて、彼の言葉の意味をじっくりと考えてから答えた。
「私は、あなたの腕の中で、ずっと笑顔で生きられますか?」
彼は、少し考えて言った。
「ずっと君の素敵な笑顔が咲く、家庭と言う”庭”を大事にするから」
私は、ゆっくりと再び目の前が、滲んで見えなくなって行くのが解った。
私は彼の手を強く握って、小刻みに震えながら泣き出していた。
私は自分の熱い涙を頬に感じながら、言葉で言い表せないような至福感に浸っていた。
そして私の頭の中に、私の一番欲しかった言葉が浮かんできた。
”不倫じゃないんや・・・”
私は滲んで見えなくなった瞳の奥で、新しい未来の光景を思い浮かべていた。
ここまで読んで頂いて有難うございました。恋愛と言う世界なのか不明ですが、こんな風に落ち着きました。




