ああ愛しき婚約者殿
このビアンカとかいう伯爵令嬢——今はどっかに嫁いだんだったか。どうでもいいけど、この女について俺の中での心象は最悪だ。
キーラ殿の目の前で見せつけるようにバカ王子とベタベタしていた場面は、俺みたいな新参者でも一度や二度ではなく遭遇してきた。キーラ殿は王子殿下のことはなんとも思っていないと言っていたし、実際いつだって無表情で許していたけれど、きっと心穏やかではなかったと思う。
よく彼女の前に顔を出せたもんだ。面の皮が厚いってのはこのことだな。
「恐れ入りますが、今はソプラニーノ伯爵夫人を名乗っておりますの」
「……失礼しました、ソプラニーノ伯爵夫人。ご機嫌麗しゅう」
因縁のある相手の登場で、キーラ殿はすっかり人形のような笑みをその顔に貼り付けてしまった。
最近ではとんと見ることのなかったその表情を前に、俺に対してはそれなりに打ち解けてくれていたことを実感する。駄目だ、言ってる場合じゃ無いのはわかってるのにめちゃくちゃ嬉しい。
「あら、そちらは?」
ちらりとソプラニーノ伯爵夫人が見下ろしてくる。
「ヴィスコンティ男爵」は悪い意味で有名人だし、俺たちが婚約したのは周知の事実だ。だから俺が何者かなんて知ってるだろうに、こういうわざとらしい言い回しは貴族様の常套句だな。
「男爵位を拝命しております、アメデオ・ヴィスコンティと申します。お目にかかれて光栄です、ソプラニーノ伯爵夫人」
「あら、貴方がメルクリオ侯爵令嬢のご婚約者様でしたか。はじめまして、ヴィスコンティ男爵様」
——白々しいんだよ。邪魔だってわかったんならどっか行け。
俺は喉元まで出かかった暴言を無理矢理飲み込んだ。
駄目だ駄目だ落ち着け、キーラ殿の迷惑になる。彼女に恥をかかせるわけにはいかない。
「お二人でお出かけですか、仲が良くて羨ましいですわ。私はほら、一人で買い物に参りましたの」
尊大な仕草で扇で示した先には、荷物持ちと思しきメイドが二人も待機している。服飾品の納められた箱を抱えて大変そうなんだから、寄り道なんてせずにさっさと帰ったほうがいいと思うぞ。
「夫が欲しいものは何でも買えと言うものですから、つい調子に乗ってしまって」
……これは、あれだな。たまたまキーラ殿を見かけたから自慢をしにきただけのやつだ。
この女はもしかすると、誰かの上に立たないと気が済まない奴なんじゃないかね。そんな人間にとったら王子の恋人なんてのは垂涎ものの立場だろう。
「そうでしたか……。お幸せそうで、良かった」
それなのにキーラ殿はどこかホッとした様子で小さく微笑む。
そうだよな。自分が迷惑を被ったからと言って、相手の不幸を望むような人じゃない。俺としては人が良すぎてちょっと心配になるくらいだけど。
ところがソプラニーノ伯爵夫人の方は上から目線が通用しなかったことに腹を立てたのかもしれない。一瞬だけ目を細めた表情は、ぞっとするほど底意地が悪そうに見えた。
「それにしても、美味しそうなものをお召し上がりですのね?」
ソプラニーノ伯爵夫人がキーラ殿の手の中にあるパニーノを見て口の端を吊り上げた。明らかに嫌味のこもった声音のまま、つらつらと話し始める。
「侯爵家のご令嬢ともあろうお方が、外で平民の食べ物をお召し上がりになるだなんて。考えられませんわ」
「……とても美味しいパニーノです。美味しいものに平民も貴族も無いと思いますが」
「あら、随分と寛容でいらっしゃるのですね。婚約破棄から一日で元平民などと婚約なさった方はやっぱり違いますこと」
随分と好き勝手言ってくれるな。面と向かってすげえぞこの女。
それにしても、と思う。俺と関わったせいで、キーラ殿に恥をかかせてしまうのかと。
やっぱり俺みたいなのは彼女に相応しくないんだ。ゴロツキはゴロツキらしく、貴族と関わらずに市井で生きていけば良かったのに。
けど、それをわかっていてこの可愛い人を好きになったのは俺だ。
「恥ずかしくないのかしら。品のない方と付き合っていると、貴方の品性まで疑われてしまいますわよ。王子殿下に振られたからと言って、もう少しお考えになった方がよろしいのではなくって?」
頭の中で血管が何本か切れる音が聞こえた。
すまん、限界だ。
俺のことはどう言われても構わないが、キーラ殿を馬鹿にすることだけは許すつもりはない。
「おい、いい加減にしろこの——」
「品が無いのは貴方でしょう、ソプラニーノ伯爵夫人」
暴言が口から飛び出そうになったその時、キーラ殿が勢い良く立ち上がった。
言い返されたのは恐らく初めてだったのだろう。ソプラニーノ伯爵夫人はすっかり絶句しているようだ。
「初対面の相手を貶めることが貴方にとっての品格なのですか。もしそうだと仰るのならば、貴方からご忠告を賜る筋合いはありません」
「なっ……!」
「貴族だ平民だと仰いますが、貴方が貴族としてどれほどの貢献を成したのかお聞かせ頂けますか。身分など関係なく、素晴らしい仕事をした者は讃えられるべきですから」
「し、仕事……?」
「ええ。このパニーノを作るためにどれほどの人が関わったのか、考えてみるべきです。貴方は自らの糧を得るために働いたことがあるのですか」
キーラ殿は背筋を伸ばして真っ直ぐ前を向いていて、凛とした瞳の中に怒りを滲ませていた。静かに話す声は澄んで、自然と耳を傾けたくなるような説得力がある。
彼女に太刀打ちできる奴なんてそうはいないだろう。何一つとして返す言葉を持たないソプラニーノ伯爵夫人は、結局のところ黙り込むしかなかった。
「ヴィスコンティ男爵は素晴らしい方です。高い志を持ち、それを成し遂げた強い人です。彼を馬鹿にしないで下さい」
堂々と言い切ったキーラ殿を前にしたこの時の気持ちを、どう言い表したらいいんだろうか。好きな子に庇われるという己の無能ぶりすら最早気にもならなかった。
そんな風に思ってくれていたのか。義憤に駆られて怒ってくれただけなんだろうけど、それでも嬉しい。喜ぶような場面じゃないって頭ではわかっているのに、心が沸き立つのを止められない。
それに、知ってはいたけど貴方は格好いいな。やっぱりさ。
「参りましょう、ヴィスコンティ男爵」
キーラ殿の細い手が俺の腕を取る。ソプラニーノ伯爵夫人は真っ赤になって震えていたけど、呼び止めるほどの胆力はなかったらしい。
問答無用で歩き始めたキーラ殿によって、俺は無言のままその場を立ち去ることになった。
俺たちはしばらくの間無言で歩き続けた。広場を出て街を歩き、ちょうど小さな公園に差し掛かったところで、キーラ殿はぴたりと足を止めた。
それと同時に手から柔らかな温もりが遠ざかって行く。俺はあまりのことに呆然としていたので、彼女が自ら触れてくれた喜びを味わえなかったことに気付いて愕然とした。
くそ、何してんだ。こんなことはもう二度とないかもしれないってのに!
「……ごめんなさい」
しかし浮かれる俺に反してキーラ殿はすっかり俯いていて、表情を確認することはできなかった。
それでも明らかに声が沈んでいるのがわかる。どうしてそんなに落ち込んでいるのかが解らない俺はただ慌てた。
「一度ならず二度までも、貴方に迷惑をかけてしまいました。私が面倒ごとを抱えているせいで。嫌な思いをなさったでしょう? ……本当に、ごめんなさい」
そんな、まさか。
バカ王子が突撃してきたことと合わせて、俺に迷惑をかけたとでも?
そうじゃない、俺がこんなだから貴方に辛い思いをさせているんだ。そんな風に思わないでくれよ。
「キーラ殿は健気だなあ。何にも貴方のせいじゃないだろ。傍迷惑なカップルの騒動に巻き込まれただけ、言わばとばっちりだ。責任を感じる必要なんか、無いんだよ」
俺はできる限り明るく言った。
俺の葛藤なんか伝える必要はない。ただ彼女の気持ちが明るくなれば、それでいいんだ。
「……嫌には、なりませんでしたか?」
目を丸くしたキーラ殿が小さな声で問いかけてくる。俺は心が導くままに、何のためらいもなく頷いた。
「ならない。そんなことより嬉しかったんだ、貴方が庇ってくれたことが。俺のことをあんな風に言ってくれる人はそうそういないし、何よりキーラ殿だから……嬉しかった」
なあ、自惚れてもいいのかな。
俺が馬鹿にされたことで怒ってくれるくらいには、貴方にとって親しい相手になれたんだって。
「ありがとう。今度あんな風に絡まれることがあったら、キーラ殿のことは俺が必ず守る」
笑顔のまま言い切ったら、キーラ殿はぱちぱちと瞬きをして、その後にふわりと笑ってくれた。
近頃はふとした瞬間に見せてくれるようになった、心からの笑顔で。
「……はい。頼りにしていますね」
……可愛い!?
なんだよこれ、なんだよもう! 頼りにしてくれるの? 俺を!? 頼むから貴方を一生涯守る栄誉を今すぐ俺に授けてくれ!
「あの、近頃気になっていたことがあるのですが」
「ん、何だい?」
俺は浮かれていた。だからこの後すぐに新たな喜びがもたらされようとは考えもしなかったのだ。
「キーラ殿と呼ぶのは、ヴィスコンティ男爵にとってはあまり馴染みがありませんよね? 普通に、呼び捨てで呼んで頂けませんか」
……………………マジで?
「良いのかっ!?」
俺はつい勢いに乗って小さな手を握りこんでしまった。不躾すぎるからやめろという自制心も、今はまったく湧いてこなかった。
「は、はい。構いません」
「そうか、ありがとう! キーラ、俺は本当に嬉しい!」
自分で言い出しておきながら、キーラ殿……キーラが照れたように顔を赤くする。
愛しいなと思う。案外照れ屋なところも、気高い心も、責任感が強いところも。
キーラ。この先もずっと、貴方と共にいられたら。
「貴方もアメデオって呼んでくれ。頼む」
「……アメデオ様?」
「おしい! 様なんて付けることないだろう? 呼び捨てがいい、俺が貴方を呼ぶのと同じがいいんだ」
「ええ……!? それはちょっと」
もごもごと言って視線を彷徨わせるキーラに、俺は往生際も悪く食い下がった。敬語もやめてほしいと言ったら、本当に急には無理と言われてしまったけど。
最終的には呼び捨てだけ了承してもらって、初めて名前を呼ばれて。
「……アメデオ」
俺は昇天しかけた。
恥ずかしそうに顔を真っ赤にした彼女は、とてもとても、天使と表現しても足りないほどに、可愛らしかった。
〈続編 了〉




