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俺の婚約者は天使である

 その後は色々あって、割合早い段階で猫を被るのをやめた俺は、ありがたくも素のままでキーラ殿に接している。

 嫌ったりしないと言ってくれたことがどれほど嬉しかったか、彼女はきっと知らないんだろう。


「それでは、本日も頑張って参りましょう」


 今日のキーラ殿は俺の贈った薄水色のドレス姿だ。メルクリオ侯爵家の大ホールに佇む彼女は、昼の陽光を浴びて優美な美しさを湛えている。


「ああ。よろしくな、先生」

「その呼び方はおやめになって下さい。おこがましいですから」


 キーラ殿は困ったように小首を傾げた。俺の婚約者はほんの些細な仕草でも破壊的なまでに可愛い。

 近頃の俺はキーラ殿にダンスの稽古をつけてもらっている。

 社交界のオフシーズン、かつ結婚前の今のうちに覚えておくことになったのだ。俺はずっとダンスなんて面倒だと思っていたんだが、キーラ殿と手に手を取って踊れるとなれば話は別だ。やる気の度合いが天と地ほども違ってくる。


「ヴィスコンティ男爵はとても上達が早くていらっしゃるので、今回で形になると思います」

「……そっか。そうだな、頑張ってみるよ」


 キーラ殿は嬉しそうにしてくれていたが、下心満載の俺はちょっとがっかりしていた。

 合法的に腰が抱けるのも今日までか。格好悪いところを見せるわけにはいかないから張り切ってしまったが、もう少し引き伸ばしてみても良かったのかもしれない。

 俺は本来はっきりスケベなんだけどな。せっかく打ち解けてきた彼女にまた引かれる危険性を考えると、どうしてもむっつりスケベになってしまうとは。恋とはかくも恐ろしきものか。


「そんじゃ、お手をどうぞ。お姫様」

「……はい。喜んで」


 ほんの少しの躊躇いの末、俺の手にキーラ殿の白い手が重ねられた。彼女の態度に一抹の寂しさを抱いて、その直後に触れた喜びに吹き飛ばされるのも、もはやこのレッスンの恒例行事だ。

 そうして俺たちは踊り始めた。

 彼女の細い腰に手を当ててステップを踏む。キーラ殿は幼い頃から名門貴族の令嬢として教育を受けてきただけあって、重力なんて無いみたいに軽やかに動く。

 右、左、腕を上げてターン。くるりと回転したのに合わせて水色のドレスが翻り、ストロベリーブロンドがふわりと舞い上がる。

 彼女は笑っていた。楽しそうに、嬉しそうに。

 ああ、綺麗だなあ。冗談抜きで天使が舞っているみたいで、とても手の届く存在とは思えない。こんなに美しくて良くできた人と結婚するだなんて、夢みたいだ。


「ヴィスコンティ男爵、お笑いになって下さい」


 不意にキーラ殿が微笑みかけてきたので、俺はいよいよ息が止まりそうになった。

 だめだ、馬鹿か俺は。ダンスというものは余裕を持って楽しめるようになって初めて一人前だって、最初に教えて貰ったってのに。


「悪い。貴方に見惚れたせいで呆けちまってた」

「え」


 次の瞬間、つま先に容赦なくハイヒールの踵が食い込んだ。

 凄まじい衝撃の後に激烈な痛みに襲われて、俺は無様な呻き声を上げてしまった。


「きゃああ!? ごめんなさい!」


 キーラ殿がこの世の終わりみたいな顔をしたので地面に蹲るのは我慢できた。

 穴が空いたかと思ったが大丈夫だ、耐えろ俺。こんなもんは我慢してりゃすぐに痛みも引く。キーラ殿を気に病ませるんじゃない!


「ヴィスコンティ男爵、大丈夫ですか……!? 痛むんでしょう? 本当にごめんなさい!」

「い、いや、平気平気、全然痛くないよ。俺が変なこと言って驚かせたから悪かったんだ」

「そんなこと……! 本当に大丈夫なのですか? 手当てをした方が良いのでは」

「大丈夫。怪我にもなってないって、これくらい」


 背中を冷や汗が伝っていったけど気にしないことにする。

 はあ、格好悪いなあ。キーラ殿を驚かせたばかりか心配をかけるなんて、大失態にも程ってもんがあるだろ……。

 キーラ殿は心配が拭いきれなかったようで、ダンスはその場で終了と相成った。それによってもう一度レッスンが行われることになったのだから、これがいわゆる怪我の功名ってやつなのかもしれない。


 *


「はい、これでもう完璧ですね。ヴィスコンティ男爵は本当にお上手です」


 エメラルドグリーンの眼差しが幸福な時間の終わりを告げる。

 足踏み騒動が起きたのが前回、ダンスの稽古は今を持って終了した。俺は好きな子に触る大義名分を失ったというわけだ。はあ……。


「キーラ殿のおかげで本当に楽しかった。貴方が勧めてくれなけりゃダンスを習おうなんて考えすら起きなかったんだから、不思議だよな」

「ヴィスコンティ男爵の努力の賜物ですよ。私は一緒に踊っただけのことです。今度時間ができたら、他のダンスも練習してみましょうか?」

「是非頼む」


 力強く頷いたら、キーラ殿は気のせいではなくとても嬉しそうに笑った。彼女は俺に貴族のしきたりや教養を教えようとしている節があって、俺が知りたいと言うと輝くような笑みを見せてくれる。

 彼女のそういうところが好きだと思う。外見だけ着飾った姫君たちとは違う、芯の通った思いやりがあるところ。

 しかも俺にとっては勉強になる上に、また彼女の時間を貰うことができるという最高の一石二鳥だ。天使に感謝。


「あの……お忙しいなら、仰ってくださいね。ヴィスコンティ男爵が必要ないと思われるなら、無理に覚えるようなことではありませんから」


 それなのに、キーラ殿は俯いてそんなことを言う。

 俺のこの幸福感が伝わっていない……!? 馬鹿な、何でだ!

 俺は慌ててキーラ殿の手を握りこんで、じっとエメラルドグリーンの瞳を見つめた。俺が今この時どれほど幸せか解ってもらいたかった。


「必要あるとかないとか、そんなことは関係ない! 俺は貴方と過ごす時間が幸せなんだよ」


 キーラ殿がゆっくりと目を丸くする。

 しまった。せっかく教えてくれていたのに、そんなことは関係ない宣言はまずかったか。


「私……押し付けがましくはないでしょうか? ものを教えるようなことをして、生意気とか」


 後悔に苛まれていた俺は、キーラ殿からあまりにも予想外の発言を受けてすっかり驚いてしまった。

 そんなことを悩んでいたのか。聡明で知的好奇心が旺盛で、更には面倒見がいいところは、彼女の数多ある長所のうちの一つなのに。


「そんなこと思うはずないだろ。キーラ殿が教えてくれるから、俺は面倒だったはずの貴族社会に歩み寄ろうと思えるようになった。貴方は俺が少しでも恥をかかないように考えてくれているんだろう?」


 キーラ殿がエメラルドの瞳を大きく見開く。花の顔にはそれを解っていたのかと書いてあって、俺はますます必死になった。


「感謝してる、すごく。俺は貴方とならどこに行ったって、何をしたっていいんだ。貴方がいてくれるならただそれだけで楽しいからな」

「ヴィスコンティ男爵……」


 キーラ殿は俺を見上げたまましばらくの間静止していたのだが、やがて顔を真っ赤に染め上げると、慌てたように目を伏せてしまった。

 え、なんだその反応。可愛いんだけど。


「それならば、よろしゅうございました。その……私も、楽しいです」


 まって。


 頼むからちょっと待ってほしい。


 可憐に微笑みながらそんなことを言ってくれるだなんて、可愛すぎるし嬉しすぎる。胸がぎゅっとなって心臓が痛い。

 本物の天使? もしや天国から迎えが来た? 俺……死ぬのか?


「あの、私。すっ……!」


 キーラ殿は何故か決死の思いといった様子で顔を上げたが、言葉の途中で唐突に口を噤んだ。

 す。す? なんだろう。すごく疲れたとか、そういう?


「……スローワルツも踊れると、何かと役に立つかと」

「おお、そうなのか。それじゃ、今度教えてもらうかな」


 キーラ殿は本当に一生懸命だな。ちょっと口ごもってしまったことを恥じてか、肩を落としたりしてさ。そんな仕草まで全部可愛いんだから本当に困ったもんだよ。


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