憎まれっ子世に憚らない
久しぶりに訪れた美術館は、随分と展示物も増えていて見応えがあった。
特に花を描いた絵が良かったな。鈴蘭を題材にした作品は、我が家に欲しいくらいだった。
私は文化的なものを好む。時間があれば民俗学や美術史、音楽史なんかも本格的に学んでみたかったのだが、王妃教育が忙しくてそれどころではなかったのだ。
これからはそうした時間も持てるかもしれない。根拠のない期待に目を輝かせていると、ヴィスコンティ男爵がおもむろに口を開いた。
「美術館が好きなのかい」
「ええ。芸術というのは素晴らしいものです」
「そうか、わかった。ここを買おう!」
うん?
あれ、おかしいな幻聴かな。まだ十九歳のはずなんだけどなー…。
しかし私があまりの発言に固まっている間にも、彼は早速係員さんに声をかけているではないか。
「君、館長に会うことは可能かね。実はこの美術館を買しゅ」
「はいちょっと待ってくださいヴィスコンティ男爵!!!」
私は叫んだ。最近でも一番の大声だった。
「大事にしてください、常識! 忘れないでください、常識! 貴方が一番に尊ぶべきは常識です!」
「それは違う、私が一番に尊ぶのはキーラ殿だ」
「そういう話をしているのではないのですよ!」
高い位置にある瑠璃色の瞳を見つめて言い募る。
お願い、わかって。こんなに大きなものをポンと買うのはおかしいことだって気付いて!
「少なくとも私は美術館なんて要りません。公設美術館だからこそ可能な展示もあるのです!」
「ああ、なるほど。さすがはキーラ殿だ。わかった、美術館の買収はよそう」
良かった、案外あっさり納得してくれた!
ああもう……うっかり口にしたことからとんでもない買い物に発展したりするから気を抜けない。
もしかすると、私のこれからの使命はこの人に常識を教えることなのかも。
「ふむ、困ったな。それなら貴方はどんなものなら望んでくれるというんだ?」
美術館を出て馬車の停車場まで歩きながら、ヴィスコンティ男爵が思案顔をする。
「今のところ何も要りませんよ。お陰様で物に不自由はしておりません」
「では私は、どうやって貴方の心を手に入れたらいいんだ」
予想外に寂しそうな声が上から降ってきて、私は思わず足を止めて隣を見上げた。青い空を背にした瞳に嘘は見当たらない。
どうやって心を手に入れればいい、とは。まるで先程の言葉が全て本当だとでも言うような台詞だ。
だとしたら不器用に過ぎる。お金でしか人の心を買えないと思っているのなら、それはお金でのし上がってきた彼が持つ悲哀なのだ。
そう考えてしまえば、私は切なくて、彼の顔から目が離せなくなった。
私たちは案外似た者同士なのかもしれない。片や王妃になるためにあらゆるものを犠牲にしてきた女、片や金のためにあらゆるものを犠牲にしてきた男。
何かが欠けた二人。それを埋めることができるのなら、共にいるのも悪くない、のかも。
……いや、何を考えてるの、私。この人のことを信じると言っているようなものだ。出会って一週間で、しかもこんなに曰く付きの婚約で、そう簡単に心を許せるわけがない。
それでもせめて彼には悲しい顔をしてほしくないと思う。どんな目的があったとしても、こんな私との婚約を承諾してくれたことは嬉しかったから。
「それはーー」
持ち得る答えを口にしようとしたところで、私たちの前に何者かが立ち塞がった。
一瞬誰なのかわからなかった。美しかった筈の黒髪は乱れ、優美な輪郭を描く顎には無精髭を蓄え、茶色の瞳がギラギラと輝いている。それでも仕立てのいいコートと伸びた背筋は、彼が何者であるかをすぐに認識させた。
「殿下!」
そこにいたのは元婚約者たる第一王子殿下だった。供も付けずに何故と考えて、その答えはすぐに見つかる。
彼は王位継承権を失い謹慎を言い渡されたはず。ここにいるということは、つまりは王城を脱走してきたのだろう。
「キーラ! 僕と共に来てくれ」
「はい……?」
「僕が間違っていた。やはり我が妻にはそなたこそが相応しい」
鬼気迫る様子で手を差し伸べてくる殿下を前に、私はただ目を細めた。
胡散臭い上に今更だ。もはやツッコミを入れる気力もない。
それでも一応不敬に問われてはいけないので言葉を返すことにする。しかし目の前に濃紺のフロックを纏った腕が現れたと思ったら、私はあっという間にヴィスコンティ男爵の背に庇われてしまった。
「これは王子殿下、ご機嫌麗しく」
それはいつもの声だった。明るく丁寧な言い回しも、王族向けの礼儀に満ちている。
王太子殿下は自分より背が高く美しい男の登場に半歩足を引いたが、何とか再び胸を張ると、私たちに向かって棘のある視線を注いできた。
「お前がヴィスコンティ男爵か」
「はい。お初にお目にかかります、殿下」
「……婚約したというのは本当だったか。キーラ、この尻軽め」
先程は妻に迎えるようなことを言っていたのに、今度は真正面から罵ってくるとは。
だが騒動も冷めやらぬうちに婚約したのは本当だ。言い返す言葉を見つけられずに黙り込んでいると、視界に映り込んだヴィスコンティ男爵の手が握りこぶしの形を作った。
「ビアンカは僕の地位しか見ていなかった……それがようやくわかったんだ。お前が他の男にうつつを抜かしていたのは目を瞑るから、僕の元に戻ってこい」
王太子様は居丈高に胸を反らしてそうのたまった。どうやら地位をなくした途端に伯爵令嬢に捨てられたらしい。
うん、ぞっとしましたよ。婚約を破棄したのはそちらなのに、どうしてこんなに上から目線なんだろう。しかも私が戻ってくると信じ込んでいるのは何でかな。
「僕は王位継承権を取り戻す。お前を妻とすれば、父上も怒りを収めてくださるはずだ」
夢見る瞳で妄言を撒き散らす元婚約者に、私は恐怖心すら覚えて一歩後ずさった。思わずヴィスコンティ男爵の袖口を掴むと、はっとこちらを振り返る瑠璃色の瞳。
どうしてこの人に頼ってしまったの。私は動揺したのだけど、ヴィスコンティ男爵はもっと驚いているようだった。
「キーラ殿。殿下と共に、行かないのか」
「行くわけないです。あんな人は嫌ですもの」
早口で言い切ると、彼は一瞬だけ目を見開いて、それからすぐに笑って見せた。それは今まで見てきた中で一番頼もしい微笑みだった。
「キーラ、何をしている。この僕が直々に迎えにきてやったんだ、早くーー」
「すっこんでろこのクソガキ」
……ん?
何だろう。幻聴だと思うのだけど、今とんでもなく凄みのある声がヴィスコンティ男爵の口から飛び出たような。
しかし王子殿下の方も、だらしなく口を開けて呆けているではないか。
「……今何と言った?」
「聞こえなかったのか。その臭い口を閉じろって言ったんだ」
ーー幻聴じゃない!
確かにヴィスコンティ男爵の発言だ、間違いない。
え、でも、何、どういうこと? 今まで口調と立ち居振る舞いだけは貴族然としていたのに、いきなり下町の青年っぽい雰囲気を身にまとっているし、そのお顔に浮かぶ不敵な笑みも見たことがないのだけど。
「あんたみたいな寒気がするほどの馬鹿が、キーラ殿の視界に入るな。彼女の綺麗な瞳が汚れるだろうが」
「なんだと……!」
「王位継承権を取り戻すだあ? 本当におめでたいお花畑なんだな、あんた。あの賢明な陛下なら今回のことで息子を見限っただろうよ。いい加減に現実見ろ、箱入り坊ちゃん」
すごい、ものすごい罵詈雑言の羅列だ。
温室育ちの王子様は罵られた経験すらなかったのだろう。すっかり蒼白になって固まった殿下は、やがて顔中に血を巡らせると、勢いづいてがなりたて始めた。
「貴様ぁ! 成金男爵の分際で、よくもこの僕にそんなことを! 覚悟はできているんだろうな!」
「何の覚悟だよ」
「もちろん、不敬による断罪だ! ここまでの発言をした者を父上が許すはずはないからな!」
勝ち誇ったような王子殿下に、私は俄かに青ざめた。そうだ、こんなことを言っては不敬罪は免れない。
どうしよう。私のせいで、ヴィスコンティ男爵にとんだご迷惑を。
「で、殿下! お願いします、男爵をお見逃しください。私なら如何様にでもーー」
しかし懇願は途中で断ち切られた。ヴィスコンティ男爵が、震える私の手にそっと触れたからだ。
「大丈夫だ、キーラ殿」
「でも」
「本当に大丈夫だから。貴方は何も心配しなくていいって言っただろう」
細められた瑠璃色は、優しかった。
一体この人は何を考えているの。私は恐怖と何故だか得てしまった安堵で胸の中がぐちゃぐちゃになって、二の句が継げなくなってしまった。
ヴィスコンティ男爵は王太子殿下に向き直る。彼の態度と声には、呆れ果てたと言わんばかりの色が滲んでいた。
「陛下が俺を断罪するはずがないだろ。俺が何の功績で爵位を拝命したのか、どうやらあんたは知らないらしいな」
一人称まで変わっていることへの驚きは、彼の話の内容にかき消されていった。
私は回らない頭で考える。金満ぶりが凄すぎて意識していなかったけれど、彼の功績は。
「確か病気を得ない強い麦の開発、でしたよね」
「その通りだ。さすがだよな、やっぱ」
そう、彼は世界的農学博士なのだ。農業研究所を設立して大学での研究を引き継ぎ、ついには強い麦の開発に成功した。今世界で育ち始めた麦は、貧しい土地を飢饉から救っていると聞く。
ああそうだ、思い出した。科学誌に載っていたヴィスコンティ博士のインタビュー。確か幼い頃は下町で育ったのだと書いてあった気がする。大飢饉の時に家族を亡くし、それ以来農業の研究者になると誓ったのだと。
「俺を断罪なんてしたら世界中から大顰蹙だぜ。ましてや今回は完全にあんたが悪いんだ、陛下が問題になさるはずもない」
「な……! 何、を……!」
「わかったらとっとと帰りな、王子様。あんたの不在が大問題になる前に」
しっし、とぞんざいに手を振るヴィスコンティ男爵。しかし彼の気遣いもどうやら無駄骨だったらしく、大勢の足音が鳴り響き始めた。
「いらしたぞ、王子殿下だ!」
「怪我はさせるな!」
「早く確保しろ! 陛下がお怒りだぞ!」
口々に叫びながら押し寄せてくる近衛騎士の面々に、殿下は諦めたように頽れてしまった。




