冤罪があるから私は死刑制度に反対している層って、実は相当勘違いしているよね
皆さんこんにちは!ふりがなです。
オウム事件と恩赦前も絡みまして、法相が1カ月間か何だかの戦後記録を後進しました、あ、死刑執行のね。
で、記録更新の度に、死刑制度の話題が世間に出るんですよ。
その中にですね、みなさんも聞いたことがあるかもしれまんせん、冤罪(の可能性)があるから私は死刑に反対します!っていう、話題に流されちゃってる層がね、一定層居ますよね。
これは多分、間違った受け売りの拡散です。
何故なら、ここ大事ですよ、今日は覚えて帰ってくださいねー、
……冤罪問題での、死刑制度の論理的合理性とは
『司法当局の能力が弱すぎるか、もしくは冤罪が多すぎる時に、生まれるものだからです。』
はい、今あなたは混乱しましたね?
でも上記が事実なんです。
つーまーりー、
司法制度が能力的に強くなって、冤罪がなくなってきたから、私は司法制度に反対する。
これが本来、冤罪問題で死刑反対側が行き着く主張なのです。
原理的には
・司法当局が弱いか、冤罪が多ければ→死刑制度を強くすべき
・司法当局が強いか冤罪が少なければ→死刑制度は無くてもOK⭐
という事ですね。
でも、流されちゃっている層はこう主張してますね。
司法制度は(まだ弱くて)信じられなくって、冤罪が(たくさん)あるから、僕は死刑に反対するんだ!
ならば、冤罪の確率が今より100分の1の可能性になるとします、その時彼らはまだ反対しているでしょうか?
更に100分の1なら?
更にその10000分の1になるなら?
死刑制度は冤罪確率が0.00%でも悪いことなんだ!
って流されちゃっている層は答えますよね?
もう冤罪問題は関係ないと思っているのではとさえ思いますが……
司法制度が弱いからではなく、司法制度が強いから死刑制度は合理性を失なって、冤罪の存在は無くなるとかあるからではなく、可能性が少なくなるからこそ死刑制度は合理性を失うのです。
逆転現象ですね、何故こうなるのでしょうか。
⭐⭐冤罪問題でのありがちな勘違い⭐⭐
まず、司法制度は、トラブルの仲裁と私刑の代行に、その本質があります。
司法制度の無い共同体は人口500人が限界点で、それを超えると人口が500を切るまで、分裂か崩壊をしてしまうと言われています。
その理由とは、個人が一度にきちんとした知り合いと呼べる仲になれるのは200人少しという限界点があり、ちょうど人口が500になる辺りで、諍いの仲裁を務められる当事者同士の知り合いが居なくなってしまうからです。
司法制度の無い場合、トラブルの解決手段は3つだけ『両者が信頼の出来る第三者による』仲裁か、当事者同士の話合いか、もしくは私刑となります。
この内、仲裁が失われると、その共同体で致命的な何かが起こり、共同体が人口を減らすという現象に見舞われるんですね。
仲裁が失われて、私刑と当事者同士の話合いだけになった共同体に何が起こるというと、それは報復に次ぐ報復、負の連鎖です。
では、この負の連鎖のきっかけ、いったい何が中核となるのか、解る方は居るでしょうか?
仲裁、当事者同士の話合い、私刑の中に、『冤罪』を入れて考えてみましょう。
仲裁→冤罪となっても恨まれないように第三者は振るまわなければならない。
当事者同士の話合い→解決出来なかったら私刑へ
私刑→冤罪は致命的な問題となる、かつ正しい側が勝つとは限らなく、私刑には歯止めが無い。
そう、負の連鎖において、最も致命的な問題になるケースは、実は冤罪が私刑で起きた時となるのです。
今の瞬間まで、私刑で冤罪が起こると最悪だ、負の連鎖が始まる、負の連鎖のきっかけで大きな要素は私刑での冤罪だ、なんて考えた事、みなさんはありましたか?
でも実生活ではこのパターン結構あるハズなんです。
私は旦那、もしくは奥さん、父、母にやってない事で疑われて罰を負わされた、あれは冤罪だ、絶対に許さない。
これが赤の他人だったらどうなるでしょうか?
そして、真犯人が他に居るのなら、被害者にもまた恨みは残っているのです。
負の連鎖とはこのような悪感情の拡大です。
一方で、やったらやり返されたの1パターンは、直ぐに負の連鎖に繫がるでしょうか?
周りを巻きこんでいくと負の連鎖は大きくなります。
私刑冤罪はその最初で周りを巻きこんでいるのです。
みなさん冤罪は、行政府しか産み出さないと勘違いしていませんか?
違います、私刑が横行している時に、私刑で冤罪は起こり得るのです。
共同体の統治機構が仲裁と私刑を代行すると、冤罪の恨み先は共同体の統治機構となり、負の連鎖は止まる。
死刑制度に反対している層が、政府が政府がと言っているのもこの証左となりますね。
では、何故、司法制度が弱いか、冤罪の可能性が高い時に、死刑制度は論理的合理性を持つのか?
私刑冤罪の問題点を理解した後なら、解る方は居るでしょうか。
私は解る方が居ると思うんですよね、私刑冤罪による負の連鎖こそが、死刑制度の大きな要素になるからです。
でも、重要なヒントである私刑での冤罪を指摘できる能力がある方が、世の中に存在しない。
だからねじ曲がった主張が横行すると思うんです。
⭐⭐司法制度というシステムは冤罪を産み出すシステム⭐⭐
何故日本では冤罪が産み出されるのか?等のとんでもない論調が世の中にはあるようですが、あらゆる司法制度は冤罪が避けられないシステムです。
特に科学捜査が発展する現代より前は、司法制度には証拠立証能力があまりに有りませんでした。
近代法の成立に必要不可欠な立証責任が成立不可能だったのです。
では、その頃の社会がどうしていたかというと--
はい、冤罪を無視していました。
疑わしかった罰しろ、冤罪を調べるリソースはどこにも存在しない、犯罪者(容疑者)を保護しておくリソースも存在しない、はやく殺っちまえ!
拷問で自白だ!犯人を見つけられる行政府って凄ぇ!
となっていました。
そう、死刑制度の大きな要点は司法制度の証拠立証能力にあるのです。
これでこそ、現代まで司法制度システムは成立していました。
では近代法の「疑わしくは罰せず、疑わしくは被告人の利益に」という検察官が証明責任を負うという考えが当時には無かったのでしょうか?
普通にあったのです、あったのですが、証明責任に繫がる証拠立証能力がそもそも無かったので、厳密に実行しようとすると、司法制度システムが機能不全となり、今度は私刑が横行してしまいます。
そして、私刑が横行すると今度は冤罪が発端となり負の連鎖が始まってしまいます。
この代表例が、神明裁判の禁止と魔女裁判です。
司法制度システムにおける証拠立証能力の欠陥に対する解決手段の一つが『死刑制度』です。
こういう話、良く聞きませんか?
死んだら責任はもう取れないんだぞ--
これは言い換えると、
もう死んでるから責任は取らなくて良い--
となるんです。
さらにこの論調は自明的に
生きているからこそ責任を取らなければならない--
となります。
※まあ、冤罪問題の責任なんて実質誰も取らないだろと常々思っていたりしますが
まとめて死刑にしちゃうと色々な問題が一気に解決する場合が、過去にはあったのです。
そして、証拠立証能力の欠陥問題であるこの冤罪の構造は、今日の現代日本でも変わりません。
冤罪問題を少し調べると疑わしくは--の原則は守られずに、検索はここまで証拠を出すからそれに文句があるなら、お金払って被告人が立証責任を果たしてね。
冤罪は無視するから、となっているのです。
これは近代までの死刑制度と同じ冤罪もまとめて執行するの好例ですが、ある意味で合理的です。
特に死刑に繫がるような重犯罪においては、その世代における証拠立証能力は最高になり、軽犯罪になるにつれ低くなるのです。
なのに、肝心の重犯罪が冤罪だらけになる、とするなら、まとめて執行も致し方ないとなると思いませんか?
あらゆる刑罰において、冤罪の確率、%が高くなるにつれ、冤罪を無視したまとめ執行は合理性を帯びるのです。
だから、例えば痴漢冤罪は、被告人に立証責任があると、暗に日本の司法制度は定めているのです。
⭐⭐司法制度システムの弱い国が死刑制度をやめたらどうなるのか⭐⭐
以上から、予想出来る事ですが、司法制度が薄弱で、冤罪だらけの国がまとめ執行をやめるとします。
すると司法制度システムが機能不全を起こし、今度は私刑が横行し始めます。
※例えば日本の痴漢では被害者側の情報を非開示にして私刑を防ごうとしていますが、私刑防止は顔見知りの場合には厳しい
すると、原理上負の連鎖で治安がどんどん悪化していきます。
死刑制度では、相当する重犯罪の証拠立証能力が低い、もしくは冤罪確率が高い場合に、合理性を帯びてきます。
これは近年、フィリピンでドゥテルテ大統領のやった、麻薬撲滅での死刑問題が相当します。
合理的観点からすると、彼の行為は治安を改善させるハズです。
そして、実際フィリピンの治安は改善したのです。
逆の行為、証拠立証能力もない司法制度、もしくは司法制度そのものが弱い所で、システムが機能不全を起こすほどに、冤罪回避を厳密に運用させると、治安を悪化させます。
例えば南米やアフリカでの刑務所問題です、一部の人は出入り自由の量刑に果たして抑止力はあるのでしょうか。
それで困るのはその地に住む市民ですから、何にでも無闇に死刑廃止や冤罪廃止を叫ぶのは、合理性を無視した野蛮な行為と言えます。
--あなただって日本の痴漢容疑に冤罪問題を厳密に適用しろといったら反発するでしょう?代替案がありませんから
冤罪を気にしないまとめて施行するケースが有効な時は必ず存在します。
⭐⭐加害者と被害者って本当に人権上公平になる?⭐⭐
被害者に人権があるように、加害者にも人権はあるのだと聞いたことはありませんか?
私はここには足らない人が居ると指摘します、冤罪被害者です。
ここで書いたように、司法制度は証拠立証能力に従って必ず冤罪を産み出します。
しかし、冤罪を産み出して居るのは多くの場合において、司法制度ではなく『加害者』になるのです。
多くの犯罪で加害者が居なければ冤罪問題は生まれません。
加害者は、被害者と冤罪被害者を産み出します。
そして犯罪という物は、原理上犯罪者が最も有利になるのです。
彼らは、犯罪しても見つからなければ罪には問われない上に、万が一見つかっても罰せられなければ得しかしない。
一方で、被害者と冤罪被害者はどうでしょうか?
有利な所はあるのでしょうか?
犯罪者を見つけられない、罰せられない、冤罪被害を出す、間抜けな司法制度というシステムが悪いのでしょうか?
間違いなく、あらゆる観点から本当に悪いのは『加害者』です。
そして犯罪者は、常に被害者や冤罪被害者よりも有利なのです。
被害者と冤罪被害者が、加害者と人権上公平である必要はどこにあるのでしょうか?
この公平であれって主張は不思議ですよね。
被害者と冤罪被害者の不利な分はどこに行ったのでしょうか?
⭐⭐司法制度は証拠立証能力の欠陥問題に性善説を代用としてきた⭐⭐
さて、まとめて執行だけが、司法制度の欠陥問題への対応策ではありませんでした。
冤罪被害者をただまとめて執行してしまうのはやり過ぎです。
ここで必要になるのがお題目、つまり、正義や倫理の話でした。
冤罪被害者をまとめて執行するには、とにかく疑われる奴が悪いという論調が必要になります。
となると、善い人は疑われるような事はしないだろ、という帰結が必要になるのです。
犯罪者は善い人ではない。
疑われないために善い人であれ。
--人の根は善人である
--善人は犯罪を起こさない
--だから疑わた人は悪人である
何か心当たりがある人も居るのでは無いでしょうか?
現代までは、まとめて執行と倫理観が司法制度の中核になってきました。
そして、司法制度がより強力になると、合理性を失ったまとめ執行が批判されるようになり、倫理観もまた破棄されるようになるのです。
同時に司法制度が弱くなる時には、何らかの冤罪を無視したまとめ執行を再開し、倫理観を強化すると言えましょう。
⭐⭐本当にただの勘違いなの?⭐⭐
さて、今回、冤罪問題における根本的な誤解を書いてみましたが、如何でしたでしょうか。
私刑に着目するなんて、意外でしたか?
私は単なる挙げ足を根拠にした物だと思うんですよねぇ、冤罪があるから死刑は反対だなんて勘違いは。
心理的に政府に信頼できない、個人的に何かしらの不安を抱える層が、一つの根拠とされる物に乗っかっているだけというのが冤罪問題説の本筋ですが、政府が信頼出来るようになったから、冤罪問題が無くなりつつあるから死刑の無い世界に出来るんだと、彼らは主張を正せるのでしょうか。
きっと冤罪問題が解消しようがしなかろうが彼らにとってそんなものは関係無いと思うのです。