39話 睡眠時間は最低限で
睡眠。
諸説あるが三大欲求の中でも一番強い欲求とされるもの。
人生という限られた時間の中で睡眠時間が占める割合は、一般的にはおよそ3割程度とされている。つまり人は睡眠以外の約7割の時間の中で仕事や食事や仕事や仕事などの活動を行うことになる。
なので活動時間を増やす一番手っ取り早い方法は睡眠時間を削ることだ。
とはいえ睡眠というのは非常に重要なもので、無闇に削減してしまうと様々なリスク・デメリットを生じさせてしまい、結果として「しっかり寝た上で活動したほうが効率良かった」ということにもなってしまいがちだ。
「――だから寝なかった時間分、他のことに費やしてもその分の結果が出せる訳でもないんだ」
ルミエナの睡眠不足問題。
それを解消するためファルのご指導タイムを中断して貰い、俺の持っている知識を教えている。
「確かにいつもより身体が重かったり頭がぼーっとしてたりしてたような気がします……」
睡眠不足により引き起こされる弊害を説明したところ、思い当たる症状があったようだ。
「でも結局それって、しっかり寝るぐらいしか解決方法がないのではないかしら」
「その通りだ。だから夜間業務がない時はルミエナにはしっかり寝てほしい。完徹も1日までだ」
俺の話にこくりと頷く。
例えばカフェインなどを摂取すれば睡眠不足でも集中力を高めたり、パフォーマンスの維持は可能ではある。しかしそれは一時凌ぎのようなもので根本的な解決にはならない。そもそも俺にカフェインを作れるような知識もないのでどのみち睡眠を取る以外の選択肢はない。
「ただ俺の言うしっかりと寝るというのは、睡眠時間を増やすという意味ではなく――睡眠の質を高めるという意味だ」
「……睡眠の質、ですか?」
言葉の意味が良くわからないとばかりに首を傾げるルミエナに、「そうだ」と頷く。
「二人には沢山寝たはずなのにまだ眠い、そんな覚えはないか?」
「……あるわね」
ファルが呟き、ルミエナはこくりと首を縦に振る。
「それは睡眠の質が低いから起きる現象だ。沢山寝ることが重要ならあらかじめ長時間寝ておけば眠くはならない筈だろう?」
「た、たしかにそーです……」
寝たのに眠い現象は実際のところ、栄養バランスだとかそういう病気だとか色々な要因があるので一概に睡眠の質が原因とは言い切れないところだが、今回は二人が納得できるような理由付けが優先。
「それで実際に睡眠の質を高める方法だが……深く眠ることが重要なんだ」
「ただ寝ることに深いとか浅いとかあるの?」
「あるぞ。実際に疲れが取れる睡眠ってのは深い睡眠の時がほとんどで――」
そうして俺は二人に前世での知識から、レム睡眠・ノンレム睡眠といった代表的なものから眠りに関する基本的な知識について説明した。
最初こそやや懐疑的な様子で説明を聞いていた二人だったが、「そういった睡眠の特性を知った上で俺は行動している」と言ってみたところすぐに納得してくれた。これも日々の積み重ねから得た信頼の賜物だろう。
「――いつも思うけれど、貴方の知識には驚かされるわね……どこから得た知識なのかしら」
「ま、まぁ俺の周りは仕事が全てな人が多かったからな。その辺りの分析や研究が進んでいるんだ」
嘘は言っていない。
実際(前世では)仕事に生きる人が周りには多く、俺が今した説明もこれからする説明も竹中さんから貸して貰ったビジネス本『寝る暇もないビジネスパーソン必読! 超時短睡眠テクニック! ~仕事減らさず寝る暇減らせ~』から得た知識なので(この世界より)分析・研究が進んでいるのは嘘ではない。
「それで実際に睡眠の質を上げる方法だが……ルミエナ、普段の睡眠時間を大体で良いから教えてくれ」
「えと……このギルドに入れてもらってからは6時間ぐらいです」
6時間か。
ルミエナの退勤・出勤時間を考えると帰ってすぐ寝ている感じだな。仕事の為に最大限体力を回復しておこうという心構えは悪くない。
「まず前提として、睡眠の質を高めるのに最も効果的なのは決まった睡眠時間を取って『この時間内で脳と身体を回復させなければいけない』と身体に覚え込ませることが必要だ。睡眠のリズム作りだな」
「はい」
睡眠の質を上げる方法は実に多彩。
ベッドや枕、カーテンといった就寝場所の環境から、夕食は3時間前に摂る、熱い風呂には入らない、水分を多く取らないなどといった就寝前の行動など、色々な説があり実際効果もある。しかしそういった手段よりも、規則正しい睡眠生活を送ることが短時間睡眠を実現するためには必要になる。
言ってしまえば結局は慣れだ。
人は環境に適応して進化してきた生物。前世でも人々の平均睡眠時間は年々減少傾向にあった。
2~3時間睡眠で済むような所謂ショートスリーパーは体質によるところが大きいが、それに近しいレベルまではやり方次第で不可能ではない。そのやり方こそが健康に害を及ぼさない程度の最低限の睡眠時間での生活に慣れることだ。
「それから自主的に取り組んでくれている仕事の振り返りや計画を立てる時間も非常に有益だ。その時間も確保しておきたい」
「はい」
仕事というのはただ闇雲にこなすだけでは成果も伸びないし成長にも繋がらない。計画・実行・評価・改善という各プロセスを繰り返しながら回すのが業務効率と成果を向上させる道。その時間を削ってしまうのはあまりにも惜しい。なので。
「ということで4時間睡眠に慣れるところから始めてみようか」
「はい――……ってあれ……よじかんだけ……ですか……? 完徹したあともですか……?」
「そうだな。ただ慣れないうちは休日だけ好きに寝てもいいぞ」
睡眠負債という言葉がある。
睡眠時間の不足が借金のようにどんどんと溜まり、あらゆる不調を引き起こしてしまうというものだ。
4時間睡眠に耐えうる身体を作るというのはすぐに出来るものでもなく、年単位掛けて取り掛かる必要がある。身体が短時間睡眠に慣れるまでの間、確実に睡眠負債は溜まってしまうのでそれを休日に解消して貰わなければ確実に支障をきたしてしまう。少なくとも半年は休日のみ好きなだけ寝てもらう必要はあるだろう。
「ひえー…………」
健康リスクや業務効率を踏まえてベストな時間設定だと思ったのだが、表情が曇ったのを見る限り、どうやらほんの僅かばかりに抵抗があるようにも見える。
睡眠は三大欲求のうちの一つ。健康を維持できるレベルでの最低限の睡眠を取ったところで、欲である以上慣れないうちはもっと眠りたいという気持ちにはなるのは当然のこと。
しかしだ。
睡眠への欲求を捨て去り、仕事へと活かせるようになれば、ルミエナは人として新たな領域に立つことが出来る。そしてルミエナは恵まれたことに、その領域に立ち入るための才能と環境がある。そう、これは言わば愛の鞭。前世での俺が会社からの愛あるご指導に死ぬまで気付かなかったように、今のルミエナもただ苦しい思いをさせられているだけと感じているかもしれない。だが俺は先輩として、領域を知る者として、前世で会社や竹中さんから教わった全てを以てこの才能を上手く育てなければならない。きっと気付いてくれる日が来ると信じて、俺は説得にあたるだけだ。
「じゃあ追加で質問だ。このギルドに入る前は毎日どれぐらい寝ていた?」
「たぶん8時間ぐらいだったと思います」
「で、今は6時間睡眠になっているがそれで体調を崩したりはしていないだろう?」
「えと………………それはそうなんですけど……で、でもお仕事中に眠くなるときが――いえ、なんでもないです。げんきにおしごとできてます」
ファルの「眠気を感じるほど仕事が退屈なのかしら? もっと増やすわよ?」と言わんばかりの視線圧によるフォローが入る。さすがは上司様。俺の意図を汲み取ってくれている。
「で、でもでもやっぱり慣れないうちは眠気でぼーっとしちゃってみなさんに迷惑かけちゃうかもしれないですし!」
ルミエナの心配はもっともだ。慣れていないうちはどうしても身体が睡眠不足を訴えてきて、集中力の低下や諸々を引き起こす。その状態での仕事は効率の低下や今日のようなミスを招いてしまうのは間違いない。
……さすがはルミエナ。その辺りのリスク管理も出来ているし、周りのこともしっかり考えてくれている。
しかしそこは安心して欲しい。
新しく仕事を覚えるときは効率よくこなせない、上手くやれないというのが当たり前。
そしてそういうときこそ。
「心配するな。同じギルドメンバーなんだ。俺がフォローする」
「そうね。頼もしい先輩に頼るのが良いと思うわ」
これが一般的なブラック企業の場合、自分の力だけでなんとかしなければいけない場面だったことだろう。
しかしイーノレカはアットホームなギルド。
成長しようと頑張る仲間のために一丸となり(トップ以外が)頑張るのは当然のこと。
そしてルミエナ自身もそんなギルドの社風に染まりつつあるので。
「………………が、がんばり……ます……」
と、その期待に応えざるを得ないのである。
◇
翌日。
イーノレカの朝は早い。
営業可能時間はギルド管理局によって定められているので24時間ギルドを開けておくことは出来ないが、あくまで営業(依頼の受付など)が出来ないだけなので、それ以外の仕事はいつでも可能だ。
今日も早朝から俺とファルはそれぞれの業務に取り組んでいた。
「あの子、今日出てこれるかしらね」
「心配ないさ」
ルミエナはまだまだ荒削りではあるが素質の塊だ。これまでの実績から考えてもきっと今回も仕上げてきてくれるだろう。
むしろ俺が心配しているのはファルの方だ。
営業時間内は依頼の受付をこなし、それ以外の時間は事務仕事だったり、今もこうやって俺たちへの仕事の割り振りを考えてくれている。もっと増員できるぐらいにギルドを大きくして我らがマスターにはしっかりと休んで貰わなければ……。
ギィィ――。
心の中で再度ギルドの為に尽くそうと決意していると、相変わらず立て付けの悪いドアが音を立てた。こんな時間の来訪者には一人しか心当たりがなく、その予想通り入ってきた人物はルミエナだった。
やはり俺の見立通りだと思った。……のだが。
「………………………………………………おあよ…………ございます」
今にも死にそうな声。ふらふらとおぼつかない足元。なんかもう、青白い気さえしてくる表情。
どこからどう見ても寝不足が加速していた。
「お前……ちゃんと寝てないだろ」
「すみません……聞いたこと纏めてたら……今寝たら起きられない時間にぃ…………」
どうやら俺はルミエナの真面目さと不器用さを見誤っていたらしい。
まぁいい。今はそれよりも今日を乗り切ることが重要だ。
なにせ我らが上司は――。
「じゃ、今日の担当分はこれよ。睡眠不足なのは貴方の体調管理の問題だからしっかりやるのよ?」
睡眠不足だろうがルミエナに容赦なく。
「あと後輩は先輩の貴方がフォローしなさいよね」
そして勿論俺にも容赦がなく。
「では、各自今日の仕事を始めて頂戴」
イーノレカは今日も通常通り営業を行うのだから。




