17-17 : 悪足掻きと、冷たい目
――開戦より、数日前。深夜。
――“明けの国”、王都。
ギシリ。
真っ暗闇の中で、ベッドの軋む音がして、それに続いてシーツの擦れる衣擦れの音がした。
「ねぇ……起きてる……? ロラン……?」
シーツの中から、小さな声がくぐもって聞こえた。
「起きてるよ、姉様」
同じベッドの上から、もう1人のよく似た声がした。
「……よかった……」
それだけ言って、エレンローズがベッドの上にうつ伏せの姿勢でむくりと起き上がり、同衾している実弟の存在を確かめるように言った。
窓から差し込む微かな星の光に照らされて、エレンローズの銀色の髪が淡く光った。その目元には、病的な隈が浮かんでいた。心なしか、頬が欠けているようにも見えた。
「大丈夫だよ、姉様。姉様が眠るまで、僕はずっと起きてるから……」
ベッドの上に起き上がった、痩せ衰えた姉の姿を見やりながら、ロランがあやすような優しい声音で言って聞かせた。
「ありがとう……」
そう言って笑顔を浮かべたエレンローズの表情は、妙に大人びていて、同時に不気味なほどの幼さを漂わせていた。
「ねぇ……?」
エレンローズがベッドに手を突いて、その下で横になっている双子の弟に、再び問いかける。
「何? 姉様」
覆い被さる姉の目をじっと見上げて、ロランの方も問いかける。
「私たち、勝てるよね……?」
震えかすれる声で、エレンローズが独り言のように言った。
「勝てるよ、絶対。絶対に、四大主を、殺してみせるよ、姉様……」
ロランが優しい声音で、確固たる意志を秘めた声で、即答した。
「……怒られるかな……?」
「そんなことないよ」
「また、お仕置きされちゃうかな……?」
「大丈夫だよ。誰も、そんな酷いこと、しないよ」
「……ほんとに……?」
「うん、心配しなくていいよ、姉様……僕がついてるから」
……。
……。
……。
「……よかった……」
エレンローズの安心しきった声が、暗闇の中でぽつりと零れた。
……。
……。
……。
「……ねぇ……?」
ロランの顔の両脇に手を突いて、ベッドの上に起きあがった姿勢のまま、双子の姉が今一度問いかけた。
「……何? 姉様」
ロランはエレンローズの顔をじっと見上げたが、姉のその目元は垂れた前髪で隠れて見えなくなっていた。
「ロラン……私……眠れないの……」
「……うん」
「ぎゅって……してくれない……?」
「……」
「……」
「…………」
「…………」
「……うん、いいよ、姉様……」
……。
……。
……。
シーツの中にくるまる直前、その夜ロランが最後に見たのは、姉の白い肌の色と、エレンローズの双剣の柄にぶら下げられた、シェルミアの私室の合い鍵の煌めきだった。
***
「おぉぉ、らあぁぁっ!」
“星海の物見台”の大螺旋、その吹き抜けの空間に、隻眼の騎士の雄叫びが木霊する。
「うふふっ……」
命そのものを吐き出しているかのような、決死の覚悟を滲ませたその声を、“三つ瞳の魔女”が嘲るようにクスクスと笑い飛ばす。
ローマリアの右目がキョロキョロと揺れ動き、“塔”の蔵書をすべて読んだ己の記憶を、機械的に、正確無比に読み出した。
――第8002番書架、「火炎の顎の術式」。
ローマリアの手元に、大螺旋の書架に納められた膨大な魔法書の内の1冊が転位出現し、詠唱を省略して術式が高速発動する。その代償に、魔法書はそこに内包する魔力を失い、術式巻物のように意味消失し、灰となって崩れ落ちていった。
そうやって次々に、“宵の国”に連綿と受け継がれてきた魔法の叡智の結晶が、失われていった。ただ唯一、それを読んだローマリアの記憶だけを遺して。
火炎系統の魔法書が崩壊すると同時に、発動した魔法が隻眼の騎士に襲いかかる。足下と頭上に巨大な獣の口の形をした炎の塊が出現し、それらが上下から、ギロチンのように騎士の身体を切断せんと牙を立てた。
反応が一瞬遅れた隻眼の騎士の額に冷や汗が流れた瞬間、1人の紅の騎士が走り込んできて、騎士の身体を突き飛ばした。
螺旋階段の上に倒れ込んだ隻眼の騎士の目の前で、身代わりとなった紅の騎士が火炎の顎の直撃を受けた。燃えさかる灼熱の牙は鋼鉄の鎧を瞬時に溶かし、肉と骨を焼き切って、出血さえもさせぬまま、紅の騎士の身体を真っ二つに切断した。
「ちっ……!」
怒りと悔しさで隻眼の騎士が歯を噛みしめる前で、2つの肉の塊に分断された紅の騎士の亡骸が、螺旋階段から落下していった。
「……“すまねぇ”なんて言わねぇ……! “許してくれ”なんて言わねぇ……! あの世で見てろ、お前が命拾いさせた男の悪足掻きをなぁ!」
そして九死に一生を得た矢先、隻眼の騎士は間髪入れずに、再び死地へと切り込んでいく。それは“命知らず”であるとか、“無謀”といった言葉では言い表せない、“生き様”とでもいうべきものだった。
「嗚呼……その恐れを知らない、真っ直ぐな瞳……とてもとても、凛々しいですわ……そんなに熱烈に迫られますと、わたくし、ゾクゾクしてしまいます……」
ローマリアが、螺旋階段を駆け上がってくる隻眼の騎士を見やりながら、高揚した声で言った。
「そうかい! あんたがもっとお淑やかだったら、言うことないんだがなぁ!」
「うふふっ、わたくしは魔女ですもの……簡単に落とせる女なんて、つまらないのではなくて?」
嘲笑を浮かべたローマリアが、右目を使役する動作をとった。
――第10240番書架、「雷撃の檻の術式」。
……。
「……あら?」
魔女の記憶は、それを読み上げる右目の精度は、決して揺るがない絶対のものである。
しかしそのとき、魔女の手に魔法書は現れなかった。
「よし……! ロランっ!」
隻眼の騎士がロランの名を呼ぶと同時に、螺旋階段の階下から鋭い風が吹き抜けた。指向性を持った高速の気流がローマリアに向けて一直線に伸びていく中、その渦の中で何かが擦れ合うカサカサという音がした。
ロランの“風陣の腕輪”によって巻き起こった風の束が、魔女に振れると同時に――。
「……っ!」
――ローマリアの身体の複数箇所で、ボッと小さな火が舞った。
「……こ、れは……っ!」
それまで満面に嘲笑を浮かべていたローマリアの顔が凍り付き、驚きに見開かれた目が、階下に構えるロランの方へと向けられた。
「……魔法書を使い捨てるだけなら、僕にだってできるんだよ……魔女」
冷たい目をしたロランが、上階の魔女を睨み返していた。




