17-12 : 魔女の右目
酷い目眩と動悸、そして体内の魔力の流れがグチャグチャになっている感覚があった。身体の表面が氷のように冷たくなって、力が入らず、震えが止まらなかった。逆に体内は火傷をしそうなほど熱くなっていて、冷えきっているはずの皮膚から流れ出る汗で、ローブがぐしょぐしょになっていた。
落下の衝撃を和らげようと乱発した転位魔法の精度は狂いに狂っていて、どうやって自分が階下まで辿り着いたのか、全く記憶に残っていなかった。壁と地面に全身を強く叩きつけた激痛で、身体が悲鳴を上げていたが、それを知覚する意識には霞がかかっていて、苦痛に苛まれているのが自分の身体なのかどうか、それさえよく分からなかった。
朦朧とする意識の中で、ローマリアは螺旋階段を駆け上がってくる大勢の人間の足音を聞いた。
――嗚呼、まさか人間に、ここまで追いつめられるとは、思いませんでしたわ……。
ローマリアは、螺旋階段の上階から駆け下りてくる、1人の騎士の足音を耳にした。
――魔力の流れが、制御できませんわ……これでは、まともに魔法は使えません……。
「魔女を討て! 進めぇ!」
人間たちの怒号が頭痛をもたらし、階段を伝わってくるわずかな振動さえ、ボロボロになった身体には激痛となった。
――手足の骨が、折れてしまいました……内蔵も、傷んでいるかもしれません……。
……。
……。
……。
――嗚呼、ゴーダ……貴方ならこんなとき、どうするのでしょうね……? 騎士らしく、潔く負けを認めるのでしょうか……? それも、悪くはないのかもしれません……。
……。
……。
……。
――ですけれど……ですけれどね……?
……。
……。
……。
――わたくしは……西の四大主ですわ……。
……。
……。
……。
ローマリアが、右目の眼帯に、手をかける。
……。
……。
……。
――わたくしは、“魔女”……“三つ瞳の魔女ローマリア”……貴方に、遅れはとらなくてよ? “魔剣のゴーダ”……。
……。
……。
……。
……パサリ。
ローマリアの右目から外された眼帯が、螺旋階段の遙か下方へと、ヒラヒラと舞いながら落ちていった。
透明で美しい翡翠色をした左目とは対照的に、その右目は濁りきり、光を失い、何も見えなくなっていた。
その何も見えないはずの右目が、騎士たちの足音が刻一刻と迫ってくる中で、せわしなく左右にキョロキョロと揺れ動いた。
100年以上前に、完全に光を失ったその右目は、しかし、“何かを読んでいた”。
――第3705番書架、下段より5列、右から14冊目……「生体内における魔力の調律」。
「往生しろ! 西の四大主!」
いち早く螺旋階段を駆け上がってきた隻眼の騎士が、横たわるローマリアに剣を突き立てた瞬間――ローマリアの姿が消失した。
バサバサバサ。
頭上から、何かが落下してきた。それは空中で回転しながら、飛び方を知らない鳥のように、羽ばたくような音を立てながら、階下へと落ちていった。
それは、数冊の魔法書だった。
「ああっ! 貴重な魔法書が……我らの追い求めた至宝が……!」
螺旋階段を上ってきている魔法使いたちが、悲鳴のような声を上げて、身を乗り出して魔法書の落ちていった階下を見やった。まだ螺旋階段に足をかけていなかった別の魔法使いたちが、餌を与えられた雛のように、我が子をいたわる親のように、落ちてきた魔法書に群がった。
「馬鹿野郎! 本なんかに気を取られるな!」
魔法への探求心のために魔法書に執着している魔法使いたちを、隻眼の騎士が強い語気で咎めたが、その言葉を素直に聞く者はごく一部だった。魔法書とは、無数に存在する魔法体系のひとつを抜き出し、そのすべての知識を書き記した集大成である。明けの国でも1冊で金貨数十枚の価値がつく魔法書――しかも今目の前にあるのは、魔族のみが知る魔法体系が編まれた魔法書の山であった。その価値は、計り知れない。
「くそ……! 四大主は……魔女はどこに行った?!」
「……あそこです! 上!」
ローマリアの姿を探して周囲を見回していた隻眼の騎士に合流したロランが、頭上の螺旋階段を指さした。
ロランが指し示すその先に、力なく書架に倒れ込んでいるローマリアの姿があった。魔女は“巨人の魔力”に侵され感覚のなくなった手を書架に並ぶ魔法書の列に突っ込み、何かを探しているようだった。そうしている間にもローマリアは何度もバランスを崩し、そのたびに書架から魔法書をばらまいた。魔法書の束は、そこから落下してきていたのだった。
そしてロランたちは、ローマリアが書架から1冊の魔法書を手に取り、口元を吊り上げて笑う姿を目にした。
「……っ! 何かする気です!」
ロランが警戒の声を上げた。
「やろう……! させるか! 矢を撃て! 狙う必要はねぇ! とにかく数を撃て!」
騎士たちが弓を手に取り、矢を速射する。“点”で魔女を狙うのではなく、“面”で回避不能の矢の弾幕を張った。
一斉に放たれた矢の壁を前に、満身創痍のローマリアは――。
「嗚呼……残念でしたわね……」
その顔に、深い嘲笑を浮かべていた。
魔女の曇った右目が再びキョロキョロと左右に揺れ、何かを読んでいるような動作を見せる。
――第1083番書架、最上段、左から54冊目……「外乱魔力の波動解析」。
ローマリアの姿が蜃気楼のようにぼやけて、矢の束が届くより先に、その場から消失する。
騎士たちが、再び魔女の姿を探して周囲を見回した。
「! ロラン隊長! あんなところに!」
重装歩兵の1人が、今度は階下を指さして声を上げた。
つい先ほどまで、ロランたちのいる段よりも上に位置する螺旋階段上にいたはずのローマリアが、今は騎士たちよりも下方の書架の前に立っていた。
依然として魔女の足取りはふらついていたが、先ほどのように書架に倒れ込み、魔法書をなぎ倒すようなことはなかった。
それを見て、ロランも、隻眼の騎士も、自らの直感が警鐘を鳴らすのを感じた。
ローマリアが、今度は何の迷いもなく、書架から1冊の魔法書を手に取った。
「本当に……惜しかったですわね……あと半歩で、わたくしを殺し切れたでしょうに……ふふっ」
嘲笑を浮かべるローマリアの手の中で、魔法書がボロボロに朽ちていき、砂埃となって手のひらから零れ落ちていった。
「……? 何だ? 魔女は何をしている……?」
隻眼の騎士が怪訝な顔を浮かべたが、その問いに答えることができる者はいなかった。
ローマリアが、嘲笑に顔を歪めたまま、骨折して動かなくなった左手を見つめる。
「嗚呼……あとはこの外傷と、内蔵の損傷を……」
魔女がゆらりと顔を上げ、何も見えていない右目で、騎士たちの立つ螺旋階段を見上げた。
「……ふふっ」
ローマリアの右目が、にんまりと嘲りにねじれる。ただそれだけのことで、騎士と魔法使いたちの背筋には寒気が走った。
――第2206番書架、上段より9列、左から35冊目……「重度外傷の魔力的治癒法」……及び、同書架、下段より7列、右の1冊目……「内臓器官の自然治癒力、その加速度的増強術」。
ローマリアに向けて、騎士たちによる2度目の矢の斉射が放たれた。その弾幕を前に、魔女の姿は蜃気楼にさえならず、忽然と姿を消した。まるで、最初からそこに魔女など存在しなかったかのように、予兆も、痕跡も、何も残さず。
「……ごきげんよう……」
その声は、不気味なほど近くから聞こえた。ロランたちが顔を右に向けると、まさにその目の前に、ローマリアの姿があった。