16-13 : 南の不条理
……ボルキノフの蔵書のひとつである、かつて“暴蝕の森”の深部を探索した研究者たちの“手記”。 “森”を探査しながら現地で書かれたのであろう、その最後の数ページは、酷く震える手で書き殴られ、何枚かが欠落していた。
§【――……(欠落)……――】
§【――……あぁ、何と言うことだ……“森の民”とは……“カースの揺り籠”とは……あの寄生虫……“カースの宿仔”の器なのだ……。恐らくは、“あれ”の体内でしか繁殖できない“カースの宿仔”が……自分たちを“あれ”に喰わせるために……“カースの揺り籠”に寄生しているのだろう……。効率的に“あれ”の体内で繁殖を行うために……“カースの揺り籠”たちに知性を与えているのだ……――】
「……供物、ヲ、捧げ、マす……」
カース――“カースと呼ばれた女”――“カースの揺り籠”が、“それ”を崇めるように両手を広げ跪き、カタコトの言葉を繰り返す。
§【――この“暴蝕の森”は……“あれ”を中心に形作られているのだ……私は……たった1人生き残った私は……今、それを知るに至った……。偏食生物の巣窟である“森”の中で、唯一、全ての魔物にとって最高の餌となる存在……。すべての魔物から狙われるが故に、すべての魔物に打ち勝つ強さを得るに至った存在……――】
“支天の大樹の虚”の前に跪くカースの背中越しに、その暗い穴の奥を見やっているニールヴェルトは、自身の顔に、冷や汗が流れるのを感じた。
§【――“暴蝕の森”という、ひとつの巨大な生態系……いや、“生命体”を作り上げた、創造神に等しい存在……。途方もない“あれ”を、私は一体、何と呼べばいい……?――】
「つ……カえ……ヌシ、さま……」
カースの声は、ほとんど唸り声に成り果てていた。その声音は、“道具を持った獣”の出す鳴き声へと退化していた。
§【――“先導するもの”……? “覆い隠すもの”……? “嵐を産むもの”……? いや、どれも違う……“あれ”の名前は、“彼ら”がとっくに、教えてくれていた……――】
寄生虫“カースの宿仔”から与えられた知性を失ったカースが、獣の声で、最後にたった一声、“その名”を呼んだ。
§【――“あれ”の名前は……“蝕み”……“蝕みの――】
「……――カース ”……」
§【――……(欠落)……――】
――バクンっ。
“支天の大樹の虚”から巨大な嘴が伸び、“カースと呼ばれた女”を喰らった。嘴が閉じる拍子に千切れた右手と両足首を除いて、“カースと呼ばれた女”の姿は、跡形も残らなかった。
「……は、はは……」
その様子を見ていたニールヴェルトが、気の抜けた笑い声を漏らしながら、ジリジリと後ずさりを始める。
「……クロロロロォ……」
巨大な嘴から、空気を震わす鳴き声が響いた。
「……はは、ははは……何だぁ、こりゃあよぉ……悪い冗談だぜぇ……」
ニールヴェルトが、ゴクリと固唾を飲んだ。
「クロロロロロォ」
巨大な虚から頭が覗き、ごわついた毛に覆われた胴体が現れ、鋭い爪が“支天の大樹”の幹に食い込んだ。
「……はは……やぁっぱり、“森”に入っておいて、正解だったなぁ……」
翼が、途方もなく巨大な翼が広がり、“支天の大樹”の枝葉から漏れ差すわずかな陽光までも完全に遮って、辺りを闇で包み込む。
「……“遺骸”なんてよぉ……誘い出すだけだぁ……それ以上は、どうしようもねぇ……どうしようもねぇよぉ……こんなのを誘い出して、どうしろってんだぁ……」
……バサリっ……バサリっ……。
巨大過ぎる翼の羽ばたきで、周囲に突風が吹き荒れた。
「――クロロロロロロォォォッッッ!」
「……っ!」
耳をつんざく鳴き声と、全てを吹き飛ばす嵐を巻き起こして、“仕え主”――“真の蝕みのカース”が、飛翔した。
「うっ……おぉ……!?」
大嵐の前に、“烈血のニールヴェルト”は、何もできなかった。ただ、足を踏ん張り、両腕で頭を庇い、その場で姿勢を低くしていることしか、できなかった。
そして、逆巻く風で吹き飛んできた拳大の岩が眼前に迫ってきた記憶を最後に、ニールヴェルトの意識は消し飛んだ。
***
「クロロロロロォ」
“誘導作戦”の劇的成功に沸き立っていた部隊が、しんと静まった。
見張り台の上に立つ監視兵が、誰よりも先に、大規模魔方陣から迸る炎の壁の隙間から、その巨大な翼を目撃した。
初めの内は、それが翼だとは分からなかった。突然、“暴蝕の森”の高い木々が揺れ、その樹冠から何かが覗いたのだが、監視兵には全く意味が分からなかった。
それは、余りにも、余りにも巨大過ぎた。それが生物の一部だなどと、信じられるはずもなかった。目に映る光景に理解が追いつかず、何が起きているのかと思考することもできなかった。
次に監視兵が感じたのは、奇妙な浮遊感だった。目の奥が重たくなり、視界がぐるぐると回って、腋から汗が滲み出た。背筋がびりびりと痺れて、脚に力が入らなくなり、吐き気を催した身体が、自分の意志とは無関係に、その場にへたり込んだ。
その感覚が、“畏怖”だと理解したころには、朝を迎えた“森”の外周部に、夜の帳が降りた。
「クロロロロォ」
天から、“蝕みのカース”の鳴き声が聞こえた。
途方もなく巨大な翼が、昇りゆく太陽を覆い隠し、周囲を夜に逆戻りさせていた。
「……隊……長……」
目を見開いている工作兵長が、青白い顔で上級騎士を呼んだ。
「……諦めるな……」
指揮所の中で、上級騎士がぽつりと呟く。
「……あきら……めるな……」
上級騎士は、机の上で祈るように手を重ね、肩を落として目を閉じながら、呟き続けていた。
その手は、ぶるぶると小刻みに震えていた。
――。
「……あ、あ……“森”が……」
見張り台の上でがっくりと膝を落とした監視兵が、虚ろな目で“森”の方角を見つめ続けている。
飛翔した“蝕みのカース”に導かれ――いや、正確には、“森”に住むもの全ての共通の餌であるその存在を追い求め、“森”そのものが、移動を始めていた。
木々が蠢き、沼が波打ち、大地が揺れ動く。“森”が見る見る内に地形を変形させ、アメーバのようにゆっくりと動き出す。
「……大規模魔方陣……再起動、用意……」
上級騎士が、目を瞑ったまま、震える声で呟いた。
「……了、解……」
工作兵長が、深く息を吸い込みながら復唱した。
その場にいる誰もが、人間の作り出した物で“蝕みのカース”に太刀打ちなどできないことは、理解していた。
だが、その場にいる誰もが、手を動かさざるを得なかった。たとえ無意味であったとしても、何か僅かでも意味を見い出せる行為をしていなくては、その“絶望”の声を聞いてなどいられなかった。
「――クロロロロロォ……」
陽の光を蝕みながら、その巨大な翼が、バサリ、バサリと羽ばたく音が聞こえた。
“蝕みのカース”は、ただ、飛ぶために羽ばたいた――たった、それだけのことだった。
ゴオォォォー。
遙か天頂で、空気の捻れる音がした。
……ゴオオオオオオォォォォォォォッ。
それは、人間にはどうしようもできない、“天災”の音だった。
指揮所の中で、上級騎士が、指を重ね組んだ手を額に当て、何もかもを諦めた声で、ひっそりと呟いた。
「……ああ……すまない……すまない、みんな……。何もかも……全くの、無駄骨だったな……」
……。
……。
……。
――ドッ。
“蝕みのカース”の羽ばたきが産んだ嵐の塊が、“誘導作戦部隊”を直撃した。
“爆風”とでも言うべき風圧が、見張り台も、指揮所も、大規模魔方陣も、人の作り出した物を悉く吹き飛ばしていく。装備品が埃のように浮き上がり、兵士たちが塵のように舞い上がった。
空高く吹き上げられたそれらが、広い大地に点々と落下していき、バラバラに砕け、破裂した。
そして、移動を続ける“森”が、大地もろとも、その全てを呑み込んでいった。
……。
……。
……。
「クロロロロロォ」
“蝕みのカース”が、羽ばたくたびに嵐を産み、太陽の陽を覆い隠して、静かに鳴いた。
……。
……。
……。
欠落した“手記”の、消失した最後のページには、こう書かれていた。
§【――……人間の知恵など……人間の道具など……ここでは、一切通用しない……。ここは“暴蝕の森”……魔族でさえも手に余り、南方の護りとして存在を容認する他ない場所……。貪欲に生を求め続けるものたちの、煉獄にして、楽園である……――】
……。
……。
……。
――怪鳥“真の蝕みのカース”及び 巨大群体生物“暴蝕の森”、明けの国騎士団4000の人間と“仕え主の遺骸”を、最後の一片まで、完全捕食。




