16-4 : 伝染する狂気
「「「「「キイイィィィ」」」」」
腐敗沼の泥の中を歩くニールヴェルトたちの背後で、“骨喰らい”どもの甲高い声が聞こえたのは、これで何度目だろうか。
「ぎゃあぁぁぁぁっ!」
“骨喰らい”どもの鳴き声に混じって、人間の断末魔が聞こえるのも、もうこれで何人目になるのか分からない。
バシャバシャバシャ、と、断末魔の叫びに混じって、腐敗沼を転がるように走ってくる、何十人分もの水音が聞こえる。
ビシャアッ、と、時々誰かが腐敗沼の泥に足を取られて転倒する音も聞こえた。腐った水を飲み込んでしまい、「おげぇ」っとむせ返った挙げ句に吐瀉物をまき散らすビチャビチャという音が続く。
背後で繰り広げられる半狂乱の音の重なりを耳にして、ニールヴェルトはニヤァっと口角を吊り上げて嗤っていた。
「……くくくく……あぁ、イイなぁ……この“死”がすぐ隣にある感じぃ……狩る方も、狩られる方も、命がけの、この感じぃ……ゾクゾクするなぁ……愉しいなぁ、えぇ? くくくく……」
「ニールヴェルト!」
ニールヴェルトと、真っ先にその後に続いて腐敗沼に足を踏み入れた“特務騎馬隊”の背中を呼び止める声があった。“骨喰らい”に追われ、腐敗沼の中を走り、跳ね返った泥で顔を汚したアランゲイルと300人近い銀の騎士たちが、ゆっくりと進んでいたニールヴェルトたちに追いついたのだった。
「あぁ……アランゲイル殿下ぁ。追いつきましたねぇ」
ニールヴェルトが気怠げに声のする方へ振り返って、悩ましそうに目尻の下がった特徴的な垂れ目を向けながら言った。
「どうやら、喰われずに済んだみたいですねぇ……」
「貴様……っ!」
肉の腐ったような、酷く不快な臭いを放つ泥で汚れた姿のまま、アランゲイルが怒りの表情を浮かべて近づいてきて、ニールヴェルトの胸ぐらを掴み上げた。
「貴様、あの蜘蛛どもがつけてきていることに気づいていたな!」
「……。だったら何だっていうんですかねぇ?」
「ふざけるな、ニールヴェルト……! 気づいていたのなら、なぜ対応しなかった! なぜ指示を出さなかった! 総隊長の責任を果たせ、ニールヴェルト! 貴様のその無責任な行動で、隊の騎士たちが100人は喰われたぞ……!」
「……あぁ……そうですかぁ」
ニールヴェルトのその声は、酷く無関心な声だった。「ふぅん、それでぇ?」という言葉が、続いて聞こえてきそうだった。
その余りに無関心な声音を聞いて、アランゲイルは背筋に悪寒が走った。ニールヴェルトという男が何を考えているのか全く分からず、ただただ不気味だった。
「あの状況でぇ、喰われたのが“たった100人”程度ならぁ、優秀な方だなぁ」
ニールヴェルトがそう言いながら、「離してくださいよぉ」と、胸ぐらを掴むアランゲイルの手に腕を伸ばす。ニールヴェルトに対する不信感と猜疑心で一杯になっているアランゲイルは、総隊長の指先が自分の手に触れるより先に、さっと胸ぐらから手をどけた。
「……。アランゲイル殿下ぁ……殿下はちょぉっと、勘違いしてますよぉ。俺が“骨喰らい”どもの群れに気づいてたぁ? 今後のために正確に言っておくとぉ、それは半分正解でぇ、半分間違いですねぇ」
ニールヴェルトが、胸元の鎧の位置を直しながら言葉を続ける。
「俺はぁ、この“暴蝕の森”がどれだけ危険な場所か知ってるぅ。何度も調査に来てますからねぇ。だから俺はぁ、この“森”に入ってきてから、ずぅっと考えてるんですよぉ。『もしかしたらぁ、後ろを何かがつけてきているかもしれない』だとかぁ、『次の瞬間にぃ、目の前にヤバイ魔物が飛び出してくるかもしれない』だとかねぇ。だからぁ、俺はそういう意味では“知ってましたよぉ”。もっと正確にいうならぁ、ずぅっと、“覚悟”してましたぁ。後ろに“骨喰らい”どもの群れがいるってねぇ。でもぉ、“それ”が起きるのがあの瞬間だってことはぁ、さすがに分かりませんでしたねぇ。俺はぁ、ずぅっと考えてるだけですよぉ……『どうやったら死なずにいられるか』ってことだけをねぇ……」
ニールヴェルトは、自分の信条を交えながら、淡々と状況を説明した。“死”というものが常に隣にあるものと認識していながら、飄々《ひょうひょう》としているニールヴェルトの強靱な精神力に驚愕する一方、アランゲイルは背筋をザワザワと走り続ける悪寒を抑えられなかった。
全周から命を狙われている“暴蝕の森”の中にあって、「どうすれば生き残れるか」を語るニールヴェルトの目は、ニンマリと嗤い、心底愉しげだったのだ。
「どうですぅ? 殿下ぁ……俺たちのすぐ隣に、俺たちを喰おうとする“死”がわんさか潜んでるんですよぉ……? “最高に興奮しませんかぁ……?” ひははは……」
“狂人め”という言葉が、まさに喉まで出かかったが、満足そうに嗤うニールヴェルトを前に、アランゲイルはぐっと口を噤んだ。
少なくとも、この“森”を抜けるまでは、この狂騎士の傍から離れないことが、生き残るための最善の選択だと、アランゲイルと銀の騎士たちは認めざるを得なかった。
***
――“支天の大樹”の根本。日没後。野営陣地。
「それじゃぁ、“作戦”の復習といこうかぁ」
野営陣地内に点々と灯された篝火の一角に、ニールヴェルトを中心にして、隊長級の騎士たちが集まっていた。
腐敗沼を無事渡りきってから、“踏査部隊”の中には奇妙な連帯感が生まれていた。常に“餌”として命を狙われる極限のストレスが、ニールヴェルトの狂性をカリスマ視する心理を生み出し、この狂騎士の言動がすべて正しいもののように感じられるようになっていた。
「この“暴蝕の森”はぁ、お前らも身を持って知っての通りぃ、手加減一切抜きの弱肉強食の世界だぁ。はっきり言ってぇ、正面切ってここを越えて“宵の国”に踏み込むのは、ほぼ不可能だなぁ……甘っちょろい生き方をしている、俺ら人間にはなぁ」
ニールヴェルトを囲む騎士たちが、ゴクリと固唾を飲んだ。
「だからぁ、俺らは魔物の群れを力業で正面突破なんかしないぜぇ……人間はここの魔物どもに比べたら弱っちぃけどぉ、人間には、魔物にはない“ここ”があるからなぁ」
ニールヴェルトが、自分の頭をコツコツと突いて言った。
「俺らには、“切り札”があるぅ。俺の隊が北の大山脈から回収してきた、“遺骸”だぁ。あれを使えば、“森”の中の大半の魔物どもをおびき出せるぅ。連中は“遺骸”に目がなくてなぁ。“森”に踏み込んだ人間なんぞ、どうでもよくなるぐらいに夢中になりやがる」
ニールヴェルトの話す“切り札”の存在に、一同は「おぉっ」と感心した声を上げた。
なぜそんなものをわざわざ開戦前の段階で回収していたのか。ニールヴェルトの口調の中に、“遺骸”がもたらす誘引作用を直にその目で見てきたかのような調子が含まれているのはなぜなのか。冷静な頭で話を聞いていれば、此度の開戦に絡む穏やかならざる情報が含まれている発言だと気づけただろうが、命を脅かされる極限状態の中で、そんなことにまで気の回る者は誰一人としていなかった。
「しかし、総隊長……ではなぜその“切り札”を出し惜しまれるのです……? その誘引作用を利用すれば、“森”の魔物どもをすぐにでも一網打尽にできるのでは……?」
銀の騎士の1人が、ニールヴェルトにおずおずと尋ねた。
「いいぃ質問だぁ……この“森”にいる連中はぁ、“遺骸”に誘われてホイホイ出てくる単純な奴ばかりじゃぁないってことだぁ……それが、“道具を持った獣”どもってわけだなぁ」
ニールヴェルトが、足下に転がっていた歪な形状の枝を拾って、地面にガリガリと2本足で立つ“道具を持った獣”の落書きを描き始める。
「こいつらだけはぁ、“遺骸”の誘いに馬鹿みたいに乗ってはこないぃ。『“遺骸”の臭いのついたものを傷つけられない』っていう、他の魔物どもとは違う決定的な弱点がありはするがぁ、おそらく作戦で使う“遺骸”の誘いには乗ってこねぇだろぉなぁ」
ニールヴェルトが、手の中で枝をボキリと握り折った。
「つまりぃ、こいつらだけが、“誘導作戦”に支障を来しかねない要素ってことだなぁ。俺たち“踏査部隊”の目的はぁ、“誘導作戦”前にぃ、こいつらの集落を壊滅させることだぁ……。出発前に一応は説明していた内容だがぁ、ここでこうしているとぉ、この作戦の意味がよぉく分かるだろぉ? ははっ」
パチパチと爆ぜる篝火が、不気味に嗤うニールヴェルトの顔に陰影を刻む。火が風に揺れると陰の形も変わり、狂騎士の表情がグニャグニャと歪んでいくように見えた。
その火を囲む銀の騎士たちの顔にも、ニールヴェルトのそれが伝染したかのように、乾いた嗤いがうっすらと浮かんでいた。
“踏査部隊”の中に、野性と狂気が蔓延し、人間性が後退していく不気味な気配が漂っていた。




