16-1 : “暴蝕の森”
“東方戦役”と日を同じくして、“宵の国”、南方――。
時刻は、昼と夕暮れの狭間。
宵の国の南方に広がる、広大な“暴蝕の森”の上空を、1羽の鷹のような鳥が飛んでいる。どうやらそれは、“イヅの大平原”の上空を飛んでいた鳥と同種であるようだった。種が同じ異個体なのか、東方で繰り広げられた“戦役”を見届けたのと同個体なのか、そこまでは分からない。
ふと、その鳥の目に、“森”の梢に群れる虫たちの姿が映った。
その虫たちの塊を恰好の餌と認識した鳥が、梢に向かって急降下を開始する。
大形の鳥にふさわしい、鋭い爪の生えた脚を前に出し、虫たちを鷲掴みにせんと、木々の隙間を縫ってどんどん高度を落としていく過程で、突然、鳥が「ピュウゥーイッ」と大きな声で鳴いた。
鳥の翼の先端が、梢の先にぶら下がる粘菌のようなものにわずかに触れ、鳥もちのような粘着質の物質が羽を絡め取ったのだった。
途端に鳥は揚力を失って、枝の先に片方の翼を絡ませたまま宙吊りになってしまった。鳥は尚も「ピュウゥーイッ」と鳴きながら、羽に付着した粘菌を振り払おうと暴れ回り始める。
しかし1度付着した粘菌は、鳥がどれだけもがこうとも決して振り払えず、むしろ暴れるほどに鳥の全身に付着していった。そして一定量の粘菌が全身の羽に付着した瞬間、それまで全く動く気配のなかった粘菌が一斉にさっと蠕動して、鳥の身体全体を一瞬の内に包み込んでしまった。
翼はおろか、脚も嘴も塞がれ鳴くこともできなくなった鳥が、粘菌の膜の内側でピクピクと痙攣し始める。ほどなくして、半透明の粘膜の内側から、気泡のような物が泡立ち始めた。
――。
……“暴蝕の森”は、奇妙な魔物たちによって形成された独自の生態系によって成り立っている。その生態系の理解の助けとなる書物が、とある人間の研究者が書き記した“手記”が、“明けの国”の書庫に所蔵されている。ここからはその“手記”の引用を用いながら、物語を進めるとしよう……。
――。
§【――その特徴的な補食を行う粘菌に、我々は“梢宿り”という名を付けた。“梢宿り”はただじっと、その垂らした粘糸の先に鳥がかかるのを待っている。粘糸に鳥の羽が触れたが最後、そこから脱出することは不可能である。鳥が暴れて粘糸が刺激されると、粘菌は鳥の体全体を包み込んで、溶解液を分泌し始める――】
溶解液で溶けていく鳥の羽が、プクプクと粘菌の膜の内側で泡を立て続けている。
§【――“梢宿り”は、“暴蝕の森”の他の魔物と同じく、生物の特定の部位しか補食しない。“梢宿り”の場合のそれは、“鳥の羽毛”である――】
木々の間から差し込む陽光で、鳥にまとわりつく粘菌の膜が透けて見える。その内部に閉じこめられた鳥の影は、羽を毟られて露天に並べられた食肉用の鳥のように変わり果てていた。
§【――しかし、“梢宿り”自体は羽毛のみしか補食しないが、その溶解液は、肉と骨をも溶かしてしまう――】
陽光で透ける粘膜の内側で、捕らわれた鳥の影が少しずつ原形を崩し始める。肉が溶け落ち、骨の影が見えるようになり、やがてその骨も形を歪めてゆく。
そしてグズグズのヘドロ状になった骨と肉の混合物が、粘菌の膜からすり抜けて、遙か下の地面に向けて落ちていき、ベチャリと不快な音を立てて潰れた。
「ぎゃあぁぁぁ……!」
ヘドロの落下した位置から、人間兵の上げる悲痛な叫びが聞こえた。
§【――そのヘドロ状の獲物の残滓には、“梢宿り”の溶解成分が溶け込んでおり、決して素手で触れてはならない。一瞬でも触れれば、触れた箇所には腐食性の重度の火傷が生じる――】
「あ、熱い……! 痛い……! は、早くこれをどかしてくレぁバ……?」
頭の上からヘドロを被り、兜の隙間から流れ込んだその腐食性の粘液に触れてしまった騎士は、パニックを起こして助けを求めた。周囲が事態を把握できない内に、騎士の容態は見る見る悪化していき、最後には呂律が回らなくなり、騎士はその場に卒倒してしまった。
周囲の騎士たちが唖然としたまま、固唾を飲んで倒れた騎士を見やる。まだかすかにピクピクと痙攣している騎士だったが、その兜の奥から「ブクブク」と何かの弾ける発泡音が聞こえてくることに、周囲はおぞましさを禁じ得なかった。一体、兜の中はどうなっているのか……騎士が痙攣さえしなくなり、完全に絶命した後も、その兜を取って中身を確認しようとする者は、誰一人としていなかった。
§【――ああ、しかし“暴蝕の森”の生態系とは何とも奇怪なものである……“森”には、その危険極まりない腐食性ヘドロのみを食糧とする、別の生物が存在するのだ――】
「おぉい、後続ぅ、そこから早く離れた方がいいぞぉ?」
前方を行く総隊長、“烈血のニールヴェルト”が、大して関心もなさそうに、間延びした声で、未知への恐怖のために死体から目を離せないでいる騎士たちに忠告した。
騎士たちがニールヴェルトの忠告に従うより先に、上空に高く伸びた枝の一角から、大きな虫の塊がぼとりと落下してきた。黄色や緑のけばけばしい体色をした、巨大な尺取り虫のような姿をした虫だったが、それはヘドロを被って絶命した騎士の死体の上に落下した瞬間、身体の一部が粉々に飛び散って、全身の形状も一瞬平たく変形したように見えた。
目を凝らしてよく見てみると、それは1匹の巨大な尺取り虫ではなく、それぞれが黄色や緑の微妙に異なる体色を持った無数の蟻の塊だった。尺取り虫のような形状に集合していた蟻たちが、さぁっと分散し初めて、騎士の死体の兜の隙間から内部に入り込んでいく。大量の蟻で満ちた兜が、カタカタと揺れた。
§【――その蟻のような虫に、我々は“誘鳥虫”と名をつけた。“誘鳥虫”は“梢宿り”と共生関係にある魔物である。“誘鳥虫”は普段は高い木の枝先で、目立つ体色をした巨大な尺取り虫のような形に集合している。それを餌と認識して降下してくる鳥を、近くに群生する“梢宿り”に補食させるために、わざわざそのような擬態をしているのだ。“梢宿り”の吐き出す、腐食性ヘドロを補食するために、“誘鳥虫”はそのような進化を遂げたようである――】
「その蟻んこがいるとこはよぉ、さっきみたいに上から溶けるヘドロが落ちてくるぜぇ? ドロドロになりたくなかったらぁ、さっさと前に進めぇ」
「……ニールヴェルト」
隊列の最前列を行くニールヴェルトの後ろから、総隊長の名を呼ぶ声がした。
「本当に、この道で合っているのだろうな……?」
ニールヴェルトのすぐ後ろを歩く、“王子アランゲイル”が、苔と腐葉土と濁った水溜まりに覆われた地面を踏みしめながら、不快げな声で言った。
「問題ないですよぉ、殿下ぁ。言ったでしょぉ? ほら、俺、ここには何度か調査に来てますからぁ」
ニールヴェルトが振り返りもせず、後ろを歩くアランゲイルに手をヒラヒラと振って見せた。
「ただ、まぁ、道は間違いないですけどぉ、頭の上には御注意下さぁい。さっきの鈍くさい野郎みたいな目に遭いますよぉ? ヘドロが降ってきたらぁ、ちゃぁんとよけて下さいねぇ?」
ニールヴェルトが、ヘラヘラとした口調で言った。
「……よけるだと? この私がか?」
アランゲイルが、相変わらずの不快げな声で言う。
「そのような不格好な真似はせん――」
ふと、頭上に気配を感じた。ニールヴェルトが顔を上げ、それにつられてアランゲイルも顔を上げると、王子の頭上に、“梢宿り”の吐き出した腐食性ヘドロが、まさに落下してくるところだった。
「……!」
先ほどの、腐食性ヘドロの犠牲となった騎士の悲鳴を思い出し、アランゲイルの身体が、無意識のうちにピクリと強張った。
その過程で、アランゲイルはニールヴェルトと目が合ったが、総隊長は王子の緊張した表情をじっと見て、面白がるように目をにんまりと細めているばかりで、助けようとする仕草も、庇おうとする様子も見せなかった。
「貴様……!」
――ベチャリ。




