3-1 : “三つ瞳の魔女ローマリア”
――“イヅの大平原戦”より3日後。深夜。“イヅの城塞”夜勤体制中。
夜露に濡れ、静まり返ったイヅの大平原を、碧く大きな月が冷たい光で照らしている。その弱い光の下で、シルエットだけが浮かび上がっているイヅの城塞には、見張り台の松明以外に光は灯っていない。
いや、1か所だけ、灯りが灯っている窓があった。暗黒騎士ゴーダの執務室である。
「では、留守を頼んだぞ、ベルクト」
全身に漆黒の甲冑を纏ったゴーダが、背後に立つベルクトに告げる。
「承知いたしました。ゴーダ様御不在中の城塞の運用、お任せください」
ベルクトが直立した姿勢のまま応える。
「まあ、そう気を張るな。淵王陛下の御機嫌次第だが、何もなければ明日の夜には帰ってくる」
「他方の“四大主”の方々も集われると伺いましたが?」
「関係なかろう。お互いそれほど、話し込むほどの話題もない。それに皆、自分の管轄領を不要に放っておく訳にもいくまい。移動に苦がないのは、私と、”魔女”ぐらいのものだからな」
話しながら、ゴーダは壁際に立てかけていた刀に手を伸ばす。先日の戦闘で折れた刀の代用品である。
刀を腰に帯刀すると、ゴーダは執務室の出口へ向かって歩き出す。ベルクトはゴーダの後ろを無言で見送っている。
扉から3歩ほど離れた位置で、ゴーダが立ち止まった。扉は閉じられたままである。
「ベルクト。すまないが、扉の修繕を手配しておいてくれ」
そう言うとゴーダは、おもむろに刀の柄に手をかけ、閉じられたままの扉に向かって抜刀の姿勢をとった。
「はい、問題ありません。既に手配済みです」
ベルクトが淡々とした口調で応える。
「よろしい」
ベルクトの手際の良さに、ゴーダは兜の内で口元を緩めた。
窓から碧い月光の差し込む執務室の中に、沈黙が降りる。
「――“魔剣三式:神道開き”」
ゴーダが目にも止まらぬ速さで抜刀し、執務室の扉を斬った。木材が切断されるくぐもった音がして、扉が真っ二つに割れる。
扉の先には、城塞のそれとは明らかに異なる建築様式の、荘厳な作りの大回廊が広がっていた。
「行ってらっしゃいませ。ゴーダ様」
ベルクトが告げる。
「ああ、行ってくる」
ゴーダが壊れた扉を跨いで、大回廊へと足を伸ばす。ゴーダの姿が完全に“あちら側”に移ると、それを見送っているベルクトの目の前で、ゴーダとその背景の大回廊がぐにゃりと歪んだ。一瞬の後、ゴーダと大回廊は跡形もなく消え去り、扉の向こうにはふだんの城塞の通路があるだけになった。
「“淵王城”……お早いお帰りを。ゴーダ様」
執務室に1人残ったベルクトが、小さく独り言を呟いた。
***
――宵の国の中心地“淵王城”。
ゴーダの甲冑の靴底が、灰色の大理石で作られた大回廊を踏み、カツンと小気味のよい音を立てた。それが広大な大回廊の内部に反響して、物寂しい残響となって吸い込まれていく。
天蓋窓からは碧い月光が差し込み、大理石を氷のように冷たく光らせている。大回廊は横幅・高さともに20メートルはある巨大な作りになっていた。
まっすぐに淵王城の奥へと伸びる大回廊だが、まるで合わせ鏡を見ているように、向こう側が点に見えるほどに果てなくそれは続いている。
「あら。あらあらあら。ゴーダではありませんの。御機嫌いかが?」
“魔剣”によって扉ごと斬り開いた次元の歪みを通り、数百里を一瞬で移動した先でゴーダを出迎えたのは、背後から聞こえてくる女の声だった。
「……わざとらしい挨拶はやめろ、ローマリア」
ゴーダが刀を鞘に収めながら、背後に一瞥をやる。だが振り返りはしない。
「貴様のことだ。私がこの位置に“出てくる”と分かっていて、待ち伏せでもしていたのだろう?」
「あら、嫌ですわ。待ち伏せだなんて。それではまるで、わたくしがずっとここで、貴方が来るのを待っていたようではありませんの」
ゴーダの背後から声が返ってくる。
「事実そうではないか」
「いえいえ、待ってなどおりませんもの。ええ、それはもう」
ゴーダの背後から、大回廊の大理石の床を歩く、こつこつという足音が聞こえてくる。その足音はまっすぐゴーダの背後に近づいてきて、それからゴーダの右側面に回り込んできた。
その間も、ゴーダはまっすぐ前を向いたまま、首を動かそうともしなかった。
やがて、ゴーダの横を素通りした足音の主が、視界の中に現れる。
「貴方が“跳んだ”のが分かったもので、わたくしもそれに合わせてここに。つい今し方参りましたのよ? 貴方よりも後に“跳んで”、貴方よりも遠くから、貴方よりも先に」
ゴーダがローマリアと呼んだ妙齢の女が、からかうようにクスクスと声を潜めて笑っていた。
ローマリアは真っ白な絹のローブを纏っている。軽く柔らかい生地が、ローマリアの身体の輪郭を浮き上がらせていて、女性らしい細いラインを強調している。長くまっすぐな黒髪が肩まで伸びていて、顔の前に回された髪が右目を覆い隠している。その髪の隙間から、右目につけられた眼帯が垣間見えた。
美しい容姿をしている分、その眼帯の歪さが余計に際立っていた。
「勝手に競われても困るのだがな」
ローマリアが目の前にまで歩き寄ってきたところで、ようやくその女の方へ目を向けて、ゴーダが苦言を漏らした。
「あら、まあ、嫌ですわ。そのように邪険に扱わないで下さいまし」
ローマリアが、わざとらしく“まあ”と口に手をやり、クスクスと笑った。
「滅多に逢えないのですもの。こういった場を借りて、優劣ははっきりさせておかなければいけませんわ。転位の精度で“弟子”に劣るようなことがあっては、“魔女”の名折れですもの」
ローマリアのその言葉を聞いて、ゴーダが鼻で笑った。
「貴様はもう“師匠”でも何でもない。ただの外法者だ」
「嗚呼……酷いことを仰いますのね……。“彼ら”が聞いたら、とても悲しみますわ……」
ローマリアが右目の眼帯に手をやり、わざとらしく悲しげな素振りを見せた。
「それに、理から外れているのは、ゴーダ、あなたも同じなのではなくて? 魔族の肉体に、人間の形をした魂を持って転生した貴方ほど、異端な者はおりませんわ」
「……。時間の無駄だ。貴様と2人で世間話をするために、ここまで来たわけではない」
「まあ、ゴーダ、貴方も失礼な方ですのね? 私と貴方の2人きりではありませんわよ? そちらにも1人いるというのに」
ローマリアが、数メートル先の、巨大な柱の根本を指さす。そこには確かに、若い魔族の男が立っていた。