14-3 : 愛しいきみへ
ベッドの上でゴソゴソと身体を動かして、エレンローズが更に強くロランに身を寄せる。ロランの身体に押し当てられたエレンローズの寝間着は水で湿っていて、それが刻一刻と姉の身体から体温を奪っていく。
「……姉様、落ち着いて。ね? まずは、身体を拭いて、それから着替えて、自分のベッドで毛布に入ろう? 僕はミルクを温めてくるよ。何なら暖炉に火を入れてもいいし――」
震えているエレンローズに、優しい声音でゆっくりと語りかけながら、ロランがタオルを取りに行こうと、ベッドから起き上がる――。
「……」
指を絡めてロランの手を握りしめているエレンローズの手に、ぐっと力が入った。手を握ったまま、姉は子供のように弟の胸にしがみつき、ロランが起きあがろうとするのを止めた。
「……行かないで……」
ロランの胸の中で、エレンローズがぽつりと呟いた。
「……姉様、僕はどこにも行ったりなんかしないよ。ただ、タオルを取ってくるだけだよ……」
「……いや」
ロランの寝間着に冷たくなった顔を押しつけて呟くエレンローズの声は、くぐもっていて、感情が感じられなかった。
「……どこにも、行かないで……私を、独りにしないで……ぎゅっ、て、してよ……」
「……姉様。姉様は、ちょっと疲れてるんだよ……。大丈夫、僕は絶対、姉様を独りになんてさせないから。僕を信じて、姉様。温かい飲み物と、暖かい毛布を、取ってくるだけだから。すぐ、戻ってくるから」
その言葉を聞いて、エレンローズがロランの胸に深く埋めていた顔をごそりと上げて、弟の顔を見上げた。
エレンローズの灰色の瞳をした目は、赤く泣き腫れていて、目元は涙でぐしゃぐしゃになっていた。
「……何で……? ロラン……ロランも、私のお願い、聞いてくれないの……?」
姉のその目とその表情を見て、ロランは恐怖を感じた。目の前で全身を水に濡らして横たわっているエレンローズのそんな表情を、ロランは今まで見たことがなかった。一瞬、赤の他人がそこにいるのではないかと錯覚してしまうほどだった。
エレンローズの顔の部位それぞれが、まったくのバラバラに、無秩序に動作して、別々の表情を作り上げていた。
灰色の瞳は、濁って奥行きを欠いていて、眠っているようだった。
涙の溜まった目元は、ふるふると震えて、悲しみで一杯になっていた。
そして口元は、頬がわずかに上がっていて、微笑んでいるようだった。
――姉様……本当に、“貴女”は、姉様なの……?
「……ロラン……分かった……」
ふいに、ロランが起き上がるのを頑なに拒んでいたエレンローズが、弟に身体を密着させたまま、こくりと頷いた。
急に素直になった姉に、ロランは内心ほっと胸を撫で下ろした。
ロランの胸の中で、エレンローズがごそごそと身体を動かす。しかし、弟の言葉に頷いたはずの姉は、ロランの手を握りしめたまま離さなかった。
……プツ……。
何か、鈍く弾けるような音がする。
プツ……プツ……。
「! 姉様! 何を……!」
驚いたロランが、目を丸くして、身体を引いて、エレンローズの肩を掴んで揺すった。
「え……?」
驚き戸惑っているロランを見つめて、瞳と目元と口元がバラバラの表情を作ったまま、エレンローズが不思議そうに声を漏らす。
エレンローズが、寝間着のボタンを引きちぎって、胸元をはだけさせていた。
「何をしてるの、姉様……!?」
「……何、って……? だって……男って、こうすると、悦ぶんでしょ……? そしたら、私のお願い、聞いてくれるんでしょ……?」
エレンローズの虚ろな言葉を聞いた瞬間、ロランは姉を抱きしめていた。それは条件反射のようなものだった。怖いものは、見たくない。悲しいことは、聞きたくない。嫌なものは、どこかに隠してしまいたい。そういった負の感情から目を背けるための、反射的な行動だった。
「……もっと……」
ロランがエレンローズを強く抱きしめる。
「……もっと……ぎゅってして……」
もっと強く、ロランがぎゅっと、エレンローズを抱きしめた。
「……あったかい……」
ロランの胸元に埋まっているエレンローズの口から、子供のように安心しきった声が零れ落ちた。
「……姉様……」
両腕でエレンローズをぎゅっと抱きしめて、子供をあやすように頭を撫でながら、ロランが姉を呼んだ。
「……誰? 姉様、誰と会ってたの……?」
エレンローズが、ロランの胸の中で首を振った。“言わない”という意志表示だった。
「どうして……?」
そう尋ねるロランに、エレンローズが更に強くしがみついた。
「だって……ロラン、“あいつ”のこと、殺そうとしてる……」
ロランの背中に回されたエレンローズの腕に力が入り、双子の身体が尚一層密着する。
「分かるもん……ロランが今、すごく怖い顔してるの、私、分かるもん……」
弟の胸に顔を押し当てて、エレンローズが泣いているのが、流れる涙の熱さでロランにも分かった。
エレンローズの言うとおり、姉を抱きしめているロランの顔には、南部の町でニールヴェルトを殴り飛ばしたときと同じ、凄まじい怒りの形相が浮き出ていた。そのまま平然と、自分の大盾でもって、相手が人間だろうと容赦なくグシャグシャに砕き殺せる……そんな顔をしていた。
「どこにも、行かないで……。ずっと、こうしてて……。お願い……ロラン……」
エレンローズが、子供のように泣きじゃくりながら言った。
「……シェルミア様を、助けたいの……。“あいつ”が、約束した……。私たちなら、できるよね……? ロラン……力を貸して……」
ロランが、泣きじゃくるエレンローズの濡れた銀髪を優しく撫でる。
「うん……僕が力になれることなら、何だって……何だってやるよ……姉様……」
ロランの体温と声に包まれて、エレンローズの強ばった身体から、少しずつ力が抜けていった。
「ありがとう……ロラン……大好きだよ……。私のだぁい好きな……たった1人の、私の家族……」
……。
……。
……。
それから長い時間、双子は短い会話を交わしながら、ベッドの上で互いをじっと抱きしめ合っていた。冷え切っていたエレンローズの身体にも体温が戻り、姉はいつの間にか、弟の胸の中で寝息を立てていた。
眠りに落ちたエレンローズの隣に、ロランの姿は、なかった。
「……」
ベッドから降りた床の上で、膝を抱え込み、そこに顔を埋めたロランが、鋭い目つきの瞳だけを覗かせて、夜の闇の向こうを見ていた。
「……四大主を……殺せばいいんだね……? 姉様……」
自分自身に言い聞かせるように、ロランがぶつぶつと呟いた。
「そうすれば……シェルミア様を解放するって、“あいつ”がそう約束したんだね……?」
膝に隠れたロランの顔には、憎悪と殺意と復讐心が満ちていた。
「四大主を、殺して……“あいつ”が……“アランゲイル”が、約束通りにシェルミア様を解放したら……そうしたらその後に、アランゲイルも、殺してやる……。いっそ……約束なんて、破ってくれればいいんだ……そうしたら僕は……何のためらいもなく、いたぶりながら、アランゲイルを、殺せるから……」
ロランが膝に顔を埋めて、それまでずっと我慢していた大粒の涙を流し始めた。
「ごめんなさい……姉様……。僕は、姉様が想ってくれているほど、いい弟じゃ、ありません……」
――姉様が、僕のベッドに潜り込んできたとき、すごく、ドキっとした……。
――姉様が、抱きしめてって言ったとき、心臓が止まるぐらい、びっくりした……。
――姉様の、濡れた髪を撫でてると、とても、いい匂いがした……。
――傷ついて子供みたいに泣いている姉様の、柔らかい身体を抱きしめていると、姉様のことが……“きみ”のことが……愛おしくて、どうしようもなかった……。
「……僕も、大好きだよ……エレン……」




