29-15 : 阿修羅
「きゃぁぁぁああああっ!!」
“ユミーリアの花”が、振るい落とした筈の虫けらにまだ息があることを察知して、異形の腕を振り上げた。
大小数十本の青白い腕が絡み合い、一際巨大な手のひらを形成する。それがまるで蠅叩きのように、地上に灯った火柱目がけて飛来した。
“イヅの城塞”をそのまま包み隠せるほどの巨大な手。それが地面を叩くと、押しのけられた空気が突風となって吹き荒ぶ。
……いや。
異形の手の真下で、暴風にもめげず健気に葉を揺らす花が見えた。
雨の日も、風の日も、夜露の冷たい夜も、陽の照りつける暑い昼も。文句の一つも漏らさず咲き誇ってみせる花たちが、確かにそこに、まだ生きている。
天から落ちたその超重量を、地に着けることなく支える、“腕”があった。
『……さぁて、なぁ……』
異形の巨手の陰から、ゴォゴォと渦を巻く声が聞こえた。
『雲の上には……髭面のジジイも、羽の生えた女子も、おりゃせんかったが……』
声が、確かに聞こえる。が、それは酷く聞き取り難い声であった。
声量は、とてつもなく大きい。その聞き取り難さは声の大小にではなく、その音の発生源にあるようだった。
生身の声に、聞こえない。
『天には誰もおらんでもなぁ……地べたにゃ、鬼がおるんじゃぞ……』
……。
……。
……。
『ふんがぁぁああっ!!』
ユミーリアの巨大な腕が押し返されて、その陰に揺れていた鬼の姿が現れる。
『悪いことをする奴はのう……鬼が、懲らしめに来るんじゃあ……』
炎が直接、空気を揺らして声を発する。
折れたままの腕が2本。それとは別に、紅蓮に猛る腕が1本、2本……“3本”、そして“4本”。
『ワシが……その、鬼よ……』
怒りに燃える鬼の形相が、1つ……“2つ”、そして“3つ”。
『天に変わって貴様を裁く……この鬼の姿を、焼き付けい……』
そこに立っているのは、鬼神であった。
三面六肢の鬼神。
紅蓮の炎が命を宿し、折れた2本の腕に変わり、4本の火柱を新たな腕とした者。
劫火に怒りの情を焼べ、女鍛冶師の顔の左右に鬼の顔を生やし、天の法さえ及ばぬ異形の者に、手ずから裁きを下さんとする者。
たとえ天が赦そうと、このワシだけは許しはせんと、立ちはだかる者。
阿修羅。
ガラン自身にもそれが何なのか分からない、炎の身体。
『じゃが……これだけは分かるわい……これで、貴様を思う存分、ぶん殴れらぁ……』
炎の腕が手のひらを向け――チョンチョン。と、指招きした。
『……来いや……化けもん』
……。
「きゃぁぁぁあああぁっ!!」
“ユミーリアの花”の咆哮が空気を震わせ、先の巨大な腕が握り拳を作って飛来する。
――ビタッ。
超重量・高速で飛んできた筈の異形の拳が、唐突に速度をゼロにして、完全に静止した。
メラメラと燃える炎の音だけが聞こえる。
『何ぞ……撫でたか? 木偶の坊』
ガランの小さな身体よりも、二回りほど大きな炎の身体。“ユミーリアの花”に比べれば、余りにも矮小なその身体。
しかし、炎の腕はたった1本で、異形の拳を受け止める。
『ワシゃあ、今……生まれてこの方、なかったぐらい……腹ぁ、立てとんじゃ……舐め腐るでないぞ……』
――ゴォッ。
2本目の炎の腕が拳を握り、ただ怒りのままに殴りつける。
どこまでも単純な、それだけのことで、超重量のユミーリアの拳は弾き飛ばされた。
異形の肉を、紅蓮の炎が灼く。
「きゃぁああああぁぁあ!!」
“災禍の娘”が悲鳴を上げた。
『じゃかぁしぃいっ!!』
ガランの3つの顔が、揃って怒声を叫ぶ。それはユミーリアの悲鳴を掻き消すほどの声量である。
片や天に届く異形。片や地に燃え上がるちんまりとした女鍛冶。
余りにも比率の違いすぎる両者の対峙は、それでも拮抗を見せていた。
それほどの、ガランの気迫。鬼の怒り。阿修羅の迫力。
本能だけで存在している“ユミーリアの花”が、そこに最大級の敵対心を抱いたのは至極当然の流れであった。
それまで個別に蠢くだけであった全ての異形の腕が、一箇所に集合していく。それだけに留まらず、肉の幹から次から次へと細胞片が湧き出して、極太の筋繊維を編み上げる。
あっという間に、“ユミーリアの花”そのものが1つの拳へと変貌を遂げていった。
“イヅの大平原”に濃い影を落とすそれは、まるで夏の日の入道雲のよう。
ガランの姿は、まるで蟻のように小さく見える。
天を突き上げる、異形の拳。それが叩き落ちれば、地形すら変わり果てるであろう、超弩級の肉塊。
「――きゃぁぁぁああぁぁぁぁぁぁぁああっ!!」
自ら侵した大地もろとも、小さなガランを消し潰さんと、ユミーリアが殴りかかる。
醜い異形が、それを見上げるガランの視界をいっぱいに埋め尽くす
一生物にどうこうできる規模ではない。ましてや力比べなど、まこと馬鹿馬鹿しい。
そんなものを、前にして。
『――……どぉすこぉぉおいっ!!』
そんなものが降ってくるのを前にして――ガランは、四股を踏んだ。
高く振り上げた右足を叩き付けると、それは大地に深々とめり込む。
『――ぃよぉいしょぉぉおいっ!!』
続いて左足も振り上げて、同じく地面を踏み抜いた。
逃げる素振りなど、つゆほどもなかった。ガランは“イヅの大平原”に己の身体を釘付けにして、根を張るようにして自らを固定したのである。
『こぉぉぉぉぉ……』
四本の炎の腕を振りかぶり、阿修羅の口許から噴煙が上がる。
……。
『……ひとぉつ……』
右肩に生えた2本の炎腕が、互いに溶け合い1つになる。
『……ふたぁつ……』
左の炎腕も、同じく融合していく。
『……みぃっつ……』
右の炎腕が左腕をむんずと掴むと、それは無数の火の粉となって霧散して、やがてたった1本の紅蓮の拳へと集約していった。
『ッしぃぃぃぃ……』
ガランが下半身を深く沈めて、大地に打ち込んだ両足で以てどっしりと構える。
折れた両腕を揺らしながら上半身を仰け反らせ、紅蓮の拳を引き絞る。
腹に空いた風穴からの出血は、いつの間にか止まっていた。傷口越しに、ガランの体内で燃え盛る炎が覗く。
彼女の全身に浮かび上がる赤熱した血管が、形を変えていく。それはそれまでの生物的な模様から、何か象徴的な紋様へ。
燃え上がる炎を記号化するように。何かを物語る入れ墨のように。
それは見るものの本能に、「鬼」という存在を焼き付ける紋章となる。
曇天を背に、ユミーリアの拳が地表に激突する間際。パチリと爆ぜた火の粉が、ガランの後方に鬼神の顔を描いてみせた。
『――“阿修羅! 金・剛・砕・きぃ!!”』
地形を変え得るユミーリアの大拳と、ガランの紅蓮の拳とが、かち合った。
閃光と、轟音と、爆風。
規模の大きすぎる両者の衝突は、それだけで熱波を生じさせ、地表を焦がすどころか溶融させる。
炎の輝きは、影さえも消し飛ばす。
力と力の正面衝突が、厚く垂れ込める雲まで揺らすようだった。
『ぉぉぉぉぉぉぉ……っ』
ガランの声が――大地と一体となった阿修羅の声が、光の中に聞こえた。
『ぉぉぉぉぉおおおおおおおオオオオオっっ!!』
ゆっくりと……ゆっくりと、隕石のように巨大な異形の拳が、大地から押し返されていく。
『オオオオオオオオオオオオオッッッ!!』
ガランの紅蓮の拳の後方、肘の部分から、炎の渦が噴き出して、爆発的な推進力を生み出していく。
“ユミーリアの花”にとって、それは全身全霊・全力全開の力の解放であった。
それを、ガランはその小さな身体で押し返していく。
そして――喧嘩人の一念が、その想いを、穿ち通す。
『――届きゃああぁぁがれぇぇぇぇえええいっ!!』
……。
……。
……。
パンッ! と、大きな風船の弾けるような、気の抜けるような軽快な音があった。
……。
ユミーリアの拳が、空中で停止していた。
ガランは、束ねた紅蓮の拳を、振り切っていた。
……。
パンッ! ……パンッ! ……パンッ! と、弾ける音が続く。
それはどんどんと音の間隔を短くしていって……次の瞬間、“ユミーリアの花”の内部から、無数の火柱が一斉に立ち上った。
「……きゃぁぁああああっ!!」
ユミーリアの悲鳴が聞こえる。肥大の極みに達していた肉の幹の至る箇所を突き破り、まるで花火のように、紅蓮の炎が燃え上がる。
もがき苦しむ“災禍の娘”の体内で、熱源が膨れ上がっていく予兆があった。
ガランの怒りの情に招かれ、彼女の身体を薪として、現へと招来した阿修羅が、あの世の炎をもたらすかのように。
肉の幹は、紅蓮に屠られ、異形の内からブクブクに膨張していく。
「き、や……きゃぁぁあああ……きゃぁぁぁあああああっ!!」
死ねなくなった少女の叫び声が、苦痛に歪んでいく。
たとえ、生きとし生けるもの全ての害敵であろうとも。その悲鳴は、ほんの少しだけ、聞く者の胸を痛めるものだった。
『貴様にゃ悪ぃが……ここは、ワシらの家じゃ……何度も、言うたろう……』
……。
『覚えておけい、娘っ子……てめぇの家を守ると決めた女はのう、この世で一番しぶとくて、この世で一番強いんじゃ……』
「きゃぁぁぁああ……ああぁぁ……ああ、あ……」
……。
……。
……。
『――あばよう』
――ボンッ!!
臨界に達した紅蓮が、“ユミーリアの花”の内部、そのずっと奥深いところ――少女を侵した“石の種”の核で、炸裂した。
その内部爆発は、残り2枚であった“偽天使の翼”を根こそぎ爆散させ、その後から炎の翼を広げさせた。
元々、再生能力を放棄して、異常な増殖能力を獲得していたユミーリアの“石の種”は、核の崩壊をどうすることもできず、消し炭へと帰す。
“ユミーリアの花”を貫通し、音の速さを超えた衝撃波が、空中を一直線に駆け抜けて、垂れ込めた雲の一角に穴を穿った。
降り注ぐ陽光が光の柱となって、荘厳な光景を作り出す。
「……――」
ズズンッ。と、大地を揺らして、“ユミーリアの花”が倒壊した。
……。
いつの間にか倒れ込んでいたガランの姿が、差し込む陽光の中心に転がっていた。
「……見たかやっ! こんにゃろめぇぇぇええいっ!!」
――女鍛冶師“火の粉のガラン”……“災禍の娘ユミーリア”、爆砕。