28-22 ： “原初の闇”
「……？」
重たい瞼を薄っすらと開けて、シェルミアが黄昏に沈む玉座に目を向ける。
「旧き盟約も、汝ら人の王たちが伝え遺せず忘れ去った言葉も差し置いて、ただその玉座へ至ることだけを求むるとは、度し難きものよな」
2つの金属光沢をした金色の煌めきが、玉座の間を満たす黄昏の影にぼぉっと浮かび上がった。
「余は、“昏き淵の者”。“原初の闇”を鎮める神代の巫女にして、この“宵の国”の王である」
その声に導かれるようにして光が筋を伸ばしていくと、白亜の床に転げ落ちた“淵王リザリア”の首が、能面のように何の感情も浮かんでいない少女の顔で語りかけている光景が照らし出された。
「……淵、王……貴様、は……不死か……？」
シェルミアと同じく、その“少女の姿をした何か”の声で目を開けたアランゲイルが、玉座に座したままリザリアの首を見て言った。
「余は不死ではない。“死なぬようになっている”というだけのこと」
生首が、何でもないというふうに、淡々と言葉を返した。
「どういう、ことだ……？」
「……人の命は短すぎる。余が何度、汝らに同じことを言って聞かせたか、汝ら人間はそれすらすぐに忘れ果てる」
感情のないリザリアが、それでもどこか呆れているような影を見せた。
「旧き盟約が破られることはない。たとえ汝ら人間がそれを忘れようと、余は決して忘れはせぬ」
――。
「盟約を忘れ、魔族の地を欲するならば、其を渡すことで汝ら人間が本来の役割を果たすならば、我らは故郷を明け渡してきた。汝らが忘れるたびに、幾度も繰り返してきた。が、これ以上魔族の地を汝らに渡すことはできぬ。“原初の闇”を封ずるこの地は、痩せ過ぎた」
――。
「それでも汝ら人間は、この地を欲しようとする。なればこそ、守護者を置くより他になかった。“原初の闇”をいだすわけにはいかぬ故」
“淵王”の首を失った身体から、何か真っ黒なものが立ち上り始めていた。
「決して、あの虚ろを解き放つことは許されぬ。それを封ずる結界を乱すことは罷りならぬ」
黄昏の光を呑み込んで、ただ純然たる“闇”以外の何ものも孕んでいない“それ”が、リザリアの身体からオゾオゾと滲み出ていく。
「北の地を守護していたものを、リンゲルトと言った。あれは最も外郭を成す結界たる“明けの国”を落とさんとした。ゆえに余は、この“原初の闇”の力で以て、あれを“消した”」
リザリアの生首が語る言葉を聞いて、シェルミアが眉をひそめた。
「……リンゲルト……？ “誰のことを、言っているのですか”……？」
「語るだけ無意味ぞ。“元より存在せぬ者”のことを、これ以上言って聞かせる道理はない。余だけが覚えている夢のようなものに過ぎぬ」
リザリアの首が話す横で、闇が見る見るうちに玉座の間に満ちていく。気のせいか、シェルミアにはその純粋な闇が、何か意思のようなものを持っているようにも感じられた。
「余を傷つけること、あまつさえ殺めようとすることは、誰であろうと決して許されぬ。第1の結界たる“昏き淵の者”は、己が封ずるこの“原初の闇”の力を行使してでも、巫女たるこの身の滅び得る“可能性”を排除せねばならぬ」
闇が、ドレスを纏った長身の女の形に寄り集まっていく。
「余とて、始まりはただの魔族の女に過ぎぬ。余の役割は、ただ、この“原初の闇”とともに在り続けること――この身の朽ちる可能性を改竄し続け、永遠にこの場に座し続けること。感情と心を殺さねば、“昏き淵の者”の役割など、果たしようもなし」
女の形の影法師としてくっきりと浮かび上がった闇が、宵の玉座の上で微睡むように薄目を開けているアランゲイルに向かって、ゆっくりと両手を伸ばしていった。
「私、は……そうか……消える、のか……」
深く長い呼吸を繰り返しながら、アランゲイルが闇を見つめる。
「まぁ、いいだろう……誰も、覚えていなくても、構わんさ……私が、私自身を、納得させる、ことが、できた……それだけで、十分だろう……」
そう言って、人の身でありながら魔族の王の玉座へまで至ってみせた王子が、鼻で嗤ってみせた。
「アラン、ゲイル……っ」
シェルミアが、眠るに任せていた身体を再び起こそうと藻掻く。
「ははっ……やめて、おけ、シェル、ミア……お前も、直に、忘れ果てる……喜、べ……私の、呪縛、から……開放、されるの、だから……ははは……」
「忘れ、ません……！ 忘れる、ものですか……！！」
そう言って歯を食いしばるシェルミアの頬に、涙が次々に伝い落ちていった。
「はは……なら、ば……せい、ぜい……抗うがいい……」
そう嗤ったアランゲイルの表情は、柔らかく、穏やかだった。
「“原初の、闇”よ……」
焦点も定まらなくなった目をうっすらとだけ開けて、アランゲイルが女の形の闇を見た。
「お前に、消されると、しても……私の、この死は……私の、ものだ……」
ニヤリと、王子が口角を吊り上げて見せた。
「わ、たし、の……勝ち、だ……は、はっ……ざまぁ、ない……な……」
そして最期に、もう一度だけ、アランゲイルが鼻で嗤った。
「…………」
宵の玉座に座したまま、王子は2度と、目を開けなかった。
ドレスを纏った長身の女の影法師がアランゲイルの躯に触れて、どこまでも昏い闇が、玉座を包み込んでいった。
「忘れたり゛、なんか……しま゛せんっ……！ お兄様……！」
“明星のシェルミア”の絞り出すような声が、闇に向かっていつまでも語りかけ続けていた。
……。
……。
……。
■■■。
■■■。
■■■。
「――大義ぞ」
“淵王リザリア”が、玉座の上で頬杖を突き、感情のない顔と声でぽつりと言った。
金属光沢のある金色の瞳が、玉座の間をじっと見つめる。
「何を泣いておるのか、シェルミアよ」
興味があるわけでもない様子で、リザリアが問いかけた。
「……分かりません……」
シェルミアが、玉座の前にぺたりと座り込み、ただ小さく首を横に振りながら、両手に顔を埋めて泣いていた。
「なぜ、涙が流れるのか……自分でも、分からないのです……ただ、とても悲しくて……涙を流さなければいけないと、心の中で、私ではない私の声が、囁いているようで……」
そこまで言って、嗚咽で喋れなくなったシェルミアは、いつまでもいつまでも、肩を震わせて泣いていた。
「そう、か。……大義であるな」
リザリアのその声はわずかだけ震えていたが、涙が止まらないシェルミアには、その違いは分からなかった。
――“王■ア■ンゲ■ル”、宵の玉座へと至り、直後、死亡。“原初の闇”により、存在そのものを抹消。
――“明星のシェルミア”、実兄と凶王との因果の果てに、生還。
――“第3結界：大回廊の4人の侍女あらため淵王城”、修復完了。
――“第1結界：淵王リザリア”、己の滅び得る可能性を改竄し、健在。
……。
……。
……。
――中央戦役、決着。
