28-20 : “次元の海”
感覚を喪失したシェルミアが、金と黒の髪に隠れていた顔を上げた。その左眼から垂れ流れていた黒い淀みは左腕を伝い、手甲を汚し、傷口を舐め、手のひらを濡らし――そして、“運命剣リーム”の刃を染めた。
運命剣に組み込まれた魔導の力が起動する直前、運命剣の魔法の光が“明星のシェルミア”の流した黒い淀みを遡った。姫騎士の中の壊れた魔力の流れがそれに共鳴するようにして、左腕と左頬、そしてトカゲの目のように瞳が変形した無色の左眼の中に、淀みを墨とした黒い魔方陣が浮かび上がっていった。
“運命剣リーム”の見せる可能性の形が、シェルミアの身体に刻まれた壊れた魔導の回路によって、合わせ鏡のように連なり、ぐるぐると回転を始めていく。
――……。
過去から現在へ。現在から未来へ。放たれた矢が決して戻ってはこないように、ただ進み続けるだけの時の流れ。その目に見えないほど巨大で抗いようのない“時間”という概念の塊を、シェルミアの意識は世界の外側から見つめていた。
古い古い忘れ去られた魔法の法則によって作り出された、意識だけの空間には、時間という概念が存在しない。世界を満たす時の流れから開放された者の前には、無数の像が写り込んだガラス細工のような存在が、万華鏡のごとく連なってどこまでも広がっているように見える。
人はそれを、“運命”と呼ぶ。“可能性”と呼ぶ。
その像の中から、意思の力で以てたった1つを選び取り、無限に広がる可能性をそこへ向けて収束させる――それが、由来の忘れ去られるほどの古代から存在する魔導器“運命剣リーム”に刻まれた解析不能の魔導回路の性質だった。
“魔法院”の研究者たちも、シェルミアも、そう理解していた。
そしてシェルミアは今、その理解が誤りであったことを知る。
時間の概念から逸脱した1つ上の世界に、未来の形が写り込んだ万華鏡が存在する。これまで運命剣の魔導の力を使うたびに何度も見てきたその場所を、“シェルミアは今、更に上の世界から俯瞰して覗き込んでいた”。
目の前いっぱいの可能性の万華鏡に、平面的に張り付いて見えていた未来の形。それが奥行きを持って、果ての見えない地平の向こう側まで立体的に組み合わさって、“次元の海”とでも呼ぶしかない光景を形作っていた。
“運命”と呼ばれるたった1つの線の上を、過去から未来へ向かって渡っていく世界。その世界が取り得る“運命”の形を、“可能性”という平面に映し出す万華鏡の世界。そして、その万華鏡が立体となって無限の果てまで満ち満ちた、“次元の海”。
――この剣は……“運命剣リーム”は……この魔導器に刻まれた回路は……力を得る為のものではなかったのだ……。
そして、シェルミアは理解する。
――この剣は……“これまでずっと、封じられてきたのだ……”。
世界を見下ろす神がいるとするならば、シェルミアの意識はその神の国をさえ遥か足下に置き去りにして、遠い遠い次元の彼方から文字通りの意味を超えて、“全て”を見ていた。
“次元の海”の1点にシェルミアの意識が近づくと、そこには1つの“可能性”の万華鏡が広がっている。1つの“可能性”の万華鏡の中には、無数の“運命”が写り込んでいる。彼女の意識がもっと接近していくと、その“可能性”の万華鏡には“死の運命”だけがあるのが見えた。
どうやっても、“4人の侍女の形の呪い”を従えた凶王には勝てないと、運命づけられていた。
しかしそれは、封じられた“運命剣リーム”の力が――“未来を観測し、収束させる力”が及び得る限界にすぎない。
――届け……。
シェルミアの意識が万華鏡から離れていき、再び“次元の海”を見下ろす場所に戻っていく。無限の地平の果ての果てまで満ち満ちたその海の別の場所へと近づいていくと、そこには全く別の“可能性”が万華鏡のように回転していて、その中にはそれまでとは違う“運命”の像が散りばめられていた。
――届け……届け……。
“運命剣リーム”だけでは届かない“可能性”へと、壊れた魔導回路の刻まれたシェルミアの手が“次元の海”を掻き分けて、渡り泳いでいく。
――届け……届け……届け……。
“運命”だけでなく、“可能性”まで捻じ曲げて、彼女の想いが、世界を組み替えていく。
――届け……!
そして世界は、収束する。
……――。
……。
……。
……。
「……」
「……」
玉座の間に、本来の無音と静止が戻っていた。
“4人の侍女の形の呪い”も、凶王も、“明星のシェルミア”も、全てがぴたりと止まり、誰も動かなかった。
「……我ハ……終ワリヲ、モタラス者……」
凶王の羽虫の羽ばたきのような声が、ぽつりぽつりと言葉を零していった。
「ドコマデ、オ前ハ抗ウ……」
「どこまでも、抗います」
凶王の問いに、シェルミアが間を置かず即答した。“運命剣リーム”と繋がり、左手と左の頬と左眼に浮かび上がっていた壊れた魔導回路が、ゆっくりと光を弱めてその形を崩し、ただの黒い淀みへと戻っていく。
「たとえ、運命が届かなくても……可能性が存在しなくても……私の見たあの“次元の海”をどこまでも泳いで、貴方に届く世界に辿り着くまで……私は、抗い続けます」
「……ソウ、カ……」
がくりと、凶王がシェルミアに寄りかかった。その真紅の胸当ての中心を真っ直ぐに貫いて、“運命剣リーム”の剣身が黄昏の光の中で煌めいていた。
「我ハ、凶王……終ワリノ、刻ガ……見エル……」
だんだんと消えていく声に乗せて、凶王が静かに言葉を並べていく。
「孤独デ……冷タイ……終ワリノ、光ガ……」
……。
「光……ガ……」
……。
……。
……。
“4人の侍女の形の呪い”が、真紅の花弁のように解けて舞い散っていく。その中に埋もれていくようにして、まるで歩き疲れて眠るように、凶王の身体が静かに横たわっていた。
「…………」
世界を呪う凶王の哀しい声は、もう聞こえてはこなかった。
「……」
“明星のシェルミア”が天を仰ぎ見て、深くゆっくりと、息を吸い込んだ。
……。
……。
……。
――ドロリ。
そして形を失い溶け落ちた凶王の鎧に、“中身は入っていなかった”。
……。
……。
……。
「…………え……?」
……。
……。
……。
――ズチャリ。
細い細い真紅の枝葉がただ1本、凶王の鎧の成れの果てである血溜まりから伸びていた。
あの悍ましい水音を立て、宵の玉座の眼前で実り膨れた呪いの陰から、それが姿を現した。
……。
……。
……。
「……取ったぞ……“淵王”……」
“王子アランゲイル”が、静かに言った。
頬杖を突いたまま、“淵王リザリア”が無感情のまま唇を動かした。
「……まこと、人とは……――」
黄昏の光を受けて、真紅の閃光が疾った。
……。
……。
……。
貴き者の言葉が、それ以上続くことはなかった。
――パタリ……。
ずっと頬杖を突いていた小さな白い手が、玉座の肘掛けの上に倒れる音がした。
“宵の国”の絶対君主が、深い沈黙を纏ったまま玉座に座している。
首が落ちても尚、その居住まいは侵し難い荘厳さを帯びていた。
そしてドサッと音を立てて、貴き者の身体が白亜の床に引き摺り降ろされていった。
それから間を置いて、宵の玉座が、ギシリと鳴く。
「……ははは……」
……。
「ははは……はははは……」
……。
「ご覧、シェルミア……“宵の国”の、終わりだよ……」
その玉座に座したアランゲイルが、終わりを讃えて、哀しい声で笑っていた。




