28-17 ： 終わりをもたらす者
「肉の痛みなんぞ、どうということもない！ 私があの場所で味わってきた無力さと惨めさに比べれば、こんなもの！ はははははっ！」
「呑まれ゛ないで、下さい゛……兄上っ゛……！」
自分の言葉はもう兄には届かないと思い知りながら、それでもシェルミアはアランゲイルの下敷きになりながら、祈るように声を絞り出し続ける。
その祈りを否定するように、ゆっくりと着実に、兄の刃が妹の剣にのしかかっていく。呪剣によって補強されたアランゲイルの腕力は、真紅の手甲の下で腕の骨が折れているとは思えないほどの暴力を秘めていた。
「ひひ、ひひひ……！ そのまま寝言を呟き続けているが良いよ、シェルミア……！ 次にお前が無言になったときが、その首の落ちた合図になるように……！」
シェルミアの上に馬乗りになっているアランゲイルが、一際強い力でぐいと呪剣を押し込んで、その刃が妹の首に触れた。辛うじて受け止めた先で、肌を掠める真紅の刃は不気味な生暖かい熱を帯びていた。
「もう゛、目を背けたり、しま゛せん……！」
ブツリと首の皮が裂ける感触がして、一拍遅れて首筋が自分の血糊で濡れていくのが分かった。
「も゛う、貴方から゛、逃げたりしません゛……！」
刃が首の肉を切り裂くごとに、鋭い痛みが意識を分断しようとしてくる。声を出すことで余計な痛みが生じているのは分かっていた。口を噤めば幾分か楽になることも知っていた。
しかしシェルミアは、それだけは――言葉を止めることだけは、断固としてやめなかった。
「貴方が孤独なら゛……っ、私がここに゛います……！ 貴方を孤独に、してしまったのが、この私、だとしても゛……！ それでも、私は……ここにいま゛すっ……！」
首元を引き裂く剣に気道を圧迫されて、声が詰まる。息をするのも難しくなり、次第に目の前がぼやけていく。それでも妹は、兄を呼び続けた。
「ひひ……はははは！ いいぞ、ほざき続けろ……！ ニールヴェルトの言っていた通りだ！ “狩り”とは実に！ 愉快だよ！ はははははっ！」
シェルミアの鼻先に食らいつこうとするほど間近で、アランゲイルが目許と口角を三日月型に歪めて嗤う。
「兄゛上……貴方を゛孤独にさせてしまっても……もう、独りぼっちには、させたり゛しませんから゛……！」
呪剣に首を切り刻まれていく中で、シェルミアが両手で支えていた運命剣から、唐突に右手を離した。力の均衡が崩れ、身体の上にのしかかる兄の刃が妹の首にザクリと食い込む。頸動脈に致命傷を負わずに済んだのは、全くの偶然だった。
そうまでして剣から離した右手で、それを突き出したその先で――シェルミアの傷だらけの手は、アランゲイルの頬に触れていた。
……。
……。
……。
ポタポタと、シェルミアの頬に、それが滴り落ちていった。
……。
……。
……。
「だから、もう……泣かないで、下さい……“お兄様”……」
押し倒されたシェルミアの指先が、アランゲイルの涙を拭う。そして妹は、自分の首からどくどくと血が溢れているのも意に介さずに、血と黒い淀みと涙に汚れた顔で、兄に向かって微笑んだ。
……。
……。
……。
「……何を……」
アランゲイルの、掠れた声が聞こえた。
「何を……今になって……」
首に食い込んだ呪剣が、まるで何かを怖がるように小刻みに震えた。ふぅ、ふぅと、震える吐息を必死に呑み込もうとする息遣いが聞こえた。
「なん゛、で……っ、どうして、こんなに゛までなってしまってから゛……っ、そんなことを言う゛っ……！」
……。
「そん゛なことを……っ、う゛、うぅぅぅ……っ！」
そしてアランゲイルの、熱に浮かされ濃い隈の浮いた両目から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出した。シェルミアの首に食い込んでいた呪剣から力が抜けていき、感情の蓋が外れた兄の身体がへたり込んでいった。
「お兄様……」
シェルミアの左手が、アランゲイルの痩せた頬をゆっくりと撫でる。
「う゛、う゛ぅ゛……私は……私は……っ……見るな……見ないでくれ゛、シェルミア……シェルミア……シェルミア……っ」
シェルミアの身体の上に泣き崩れて、アランゲイルは嗚咽を漏らしながら妹の名を何度も呼んだ。それは孤独に蝕まれた少年が、かつて心を許していたたった1人の幼い少女の名を呼ぶ姿そのものだった。
「はい……私は、ここにいます……ここにいます……」
子供に言い聞かせるように、シェルミアが小さな声で囁きかえる。痺れて感覚の鈍くなった指先で、兄がそこにいることを確かめるように、妹は何度も何度も指を這わせた。
「ん゛っ……ふぐっ……！」
声もなく、アランゲイルが頬に触れているシェルミアの右手を左手で包み込んだ。骨ばった指が、弱々しい握力で、しかし決して離しはしないという意思の伝わってくる強さで、妹の手をぎゅっと握り締めてくる。
「お兄様……」
「……シェル、ミ、ア……」
……。
……。
……。
――ダンッ。
「！？！？……っ！……うあ゛ぁぁぁあ……っ！」
「――はははははははははははははははっ！！！！！」
アランゲイルの頬を撫でていたシェルミアの左手を掴み、自分の右手ごと真紅の剣で貫いて玉座の間に釘付けにしてみせた凶王が、高嗤いしていた。
「ははははははははっ！ どうだい、シェルミア……？ 救いを求めて必死に伸ばした手を払い落とされる絶望……これで少しは身に染みて分かっただろう……？ あははははははははははっ！」
呪いで編まれた手甲に補強されたアランゲイルの右腕が、凶悪な力で呪剣を押した。剣先がメキメキと音を立てて大理石にめり込んでいき、串刺しにした兄妹の手のひらに風穴を広げていく。
「あァあ゛ああぁ゛……っ！」
少女の顔に戻っていたシェルミアの表情が、苦悶の形に歪んでいった。
「ははははは……！ この呪剣は、痛みと引き換えに力を与えてくれる！ 楯突く者どもを押し黙らせる、大きな大きな力をねぇ！ お前にもこの力、教えてあげるよ、シェルミアぁ……！」
そう言うと、アランゲイルとシェルミアの手に突き立った“人造呪剣ゲイル”の剣身から、真紅の枝がわらわらと生え出ていった。それはヤドリギのように肉に絡みつき、骨にまで至る根を張り巡らせていく。
手のひらに開いた傷口から、呪いの枝葉が体内に侵入してこようとするゾッとする感覚に、シェルミアの顔が青くなる。
「……うわぁあああああぁっ！！！」
半狂乱になりながら、シェルミアが渾身の力を振り絞って、馬乗りになっているアランゲイルを突き飛ばした。その拍子に右手を貫いていた呪剣がずるりと抜けて、呪いによる補強を免れた傷口から鮮血がボタボタと噴き出した。
「何をそんなに恐れているんだい？ シェルミア……」
両脚に切り傷を負って立ち上がれないアランゲイルが、尻もちを突いた姿勢のまま、不思議がるように、嘲るように言った。シェルミアの右手もろとも風穴の開いていたその左手には、今は呪いが絡みつき、折れた右腕と同じように真紅の手甲が根を張って、ただ争う為だけの破滅的な補強がなされていた。
「どうして……どうして！ どうしてですか！！？ お兄様！」
「くどい」
シェルミアの悲壮な呼び声を、アランゲイルの棘のある言葉が跳ね除けた。
「兄上だの、お兄様だの……そんな者は、もうどこにもいない」
凶王の口許が、悪意に歪む。
「お前が兄と呼んでいた男は……あの日、あの夏の日、お前が目の前で魔族の凶刃に倒れた日に、半分死んだ。シェルミアという出来過ぎた妹の威光から、これで開放されると、心の底から安堵してしまった、あの日にね……」
そう呟きながら、アランゲイルが唐突に、自分の右脚に呪剣を深々と突き刺した。
「うっ……！ はは、ハハハ……！」
痛みに顔を引き攣らせながら、凶王が呪剣を前後左右にグリグリと揺り動かす。肉の抉れる鈍い音と、骨の削れる背筋が冷たくなるような音、そして小さな放物線を描いて噴水のように飛び散る血飛沫の音が、嗤い声に掻き消えていった。
そしてシェルミアが呆然となっている目の前で、アランゲイルの脚の肉と骨を貫通した“人造呪剣ゲイル”の剣先が白亜の床を打ってカツンと軽快な音を立てた。
「お、にい、さ……う゛っ……！」
凄惨な光景を目の当たりにして狼狽した声を漏らしたシェルミアの口が、こみ上げてきた吐き気で塞がる。
「ギ、ギギャ!」
呪剣が不気味な声で鳴き、呪いの枝が傷口から肉の内側に滑り込む。そして見る見る内に、アランゲイルの右脚は真紅の甲冑の内側に隠れていった。
「ッ……そして……お前の兄だった男のもう半分は、この“ゲイル”を手にしたときに死んだ。シェルミア、この剣の核にはね、あの夏の日にお前のことを傷つけた、あの魔族の男が持っていた短刀が使われている……私がずっと持っていたんだよ……お前の血を吸ったままの刃を、錆びつくに任せて、お守りのように大事に、大事にね……」
右手で振り上げた呪剣の剣身を左手で支え、真横にした刃をギロチンのように左脚の上に叩き降ろして、アランゲイルがシェルミアの反応を面白がるように言った。その一振りで左の太腿の半分近くにまで呪剣が食い込み、真っ白な大理石の床が真っ赤な血の池に変わり果てていく。
「ハハはハハは！ ははははハハはハハは！！」
凶王のその顔は、もう痛みに歪むことさえ忘れて、ただ破滅の衝動に嗤い転げるばかりだった。
「ふぅ……！ ふぅ……！」
吐き気に口許を抑えたままのシェルミアが、涙ぐんだ目でアランゲイルを見ていた。その瞳に、妹であった頃の光はもうない。
「あぁ、これが力だ……これこそ力だ……！ 溢れてくる！ 湧き上がってくる！！ 全てを塗り潰してくれるっ！！！」
真紅の甲冑で両脚を覆ったアランゲイルが、凶気を纏ってゆらりと立ち上がる。呪剣による補強で力を得た凶王の身体に、邪悪な闘志が漲っていくのが目に見えるようだった。
「もっと！ もっとだ！！ もっと私に力を与えろ！ “ゲイル”ぅぅぅっ！！！」
絶叫を上げて、アランゲイルが自分の脇腹に深々と呪剣を突き刺した。そして凶悪な力に任せてその刃を横に斬り払うと、引き裂けた腹部からどす黒い血が噴き出した。
メキリ、メキリ。と、“人造呪剣ゲイル”の伸ばす呪いの枝葉に包まれて、アランゲイルの全身が凶王の鎧に包み込まれていく。そしてシェルミアがよろよろと立ち上がる頃には、兄だった男の身体は頭部以外の全てが真紅の内側に消えていた。
「……もう、私の兄だった人は……アランゲイルという人間は……もう、いないのですね……」
解けた長い髪を俯けて、シェルミアが“運命剣リーム”を今一度握りしめる。利き手であった右手は潰れ、残っているのは左手と、消えかけの闘志だけだった。
「そうだ……ここにいるのは、名もない孤独の凶王……そしてじきに、こうして言葉を交わしている“私”も消える……」
「……ふぅぅぅ……」
シェルミアが目を閉じて、深く深く息を吸い込んだ。それから数秒間呼吸の止まる間があって、吸い込んだ空気を更に長い時間をかけて吐き出すと、そこには沈黙の中で過去を清算した碧い瞳があった。
「……」
「……」
互いに示し合わせるまでもなく、対峙した2人がゆっくりと剣を上げ、その剣先で相手を見据えた。
「――かつて貴方の妹だった者として」
「――いつかお前の兄であった者として」
……。
……。
……。
「――ここで、貴方を討つ」
「――今こそ、宿縁を断ち切ろう」
……。
……。
……。
グサリ。と、凶王の鎧から突き出した1本の棘が、アランゲイルという名だった男の喉元を貫いた。鮮血を浴びたその棘は何重にも枝分かれを繰り返し、やがて真紅の兜に包まれたその内側で、呪いそのものとなった名を捨てた存在が、破滅を呼び寄せようとニタリと嗤う気配があった。
「ソシテ、スベテニ、終ワリノ刻ヲ……」
……。
「……ケケケッ」
