28-15 : それでも――
「私の呪いさえも……使い捨ての道具どもさえ……私を、置いていくのか……」
……。
「……ひひ……」
……。
「ひひひ……」
……。
「ひひひひっ……!」
そこには、救いも拠り所も、爛れた心の支えさえも失くした、ただの孤独な人間が立ち尽くしていた。
「……“淵王”よ……」
ボロボロの案山子のように身体をゆらゆらと震わせて、アランゲイルが平坦な声を漏らしながら口を開いた。
「私はただ、終わりをもたらすために、ここまで来た……」
酷い猫背になっていた孤独な背中が、ゆっくりと伸びていく。
「魔族を蹂躙して、“宵の国”に終わりを……人の世を貪り尽くして、“明けの国”に終わりを……そしてその果てに、この凶王の器に、私そのものに、終わりを……」
乾いて血の気を失っていた薄い唇に、わずかばかりの朱が差した。
「何だろうと、構いはしなかった……凶王の器が終わりをもたらすだけのものならば、せめてその過程の中で、恐怖と命乞いと憎悪に塗れて、“アランゲイル”という存在が認められるなら……」
熱に浮かされたようなぼんやりとした茶色の瞳に、意思の光が微かに灯る。
「孤独を、埋められるなら……それだけで……」
冷たい空気を壊れた鞴のように吸い込むだけだった口許から、熱を帯びた吐息が流れ出ていく。
「私に、最も要らない孤独のみしか、貴様が与えてくれないならば……」
そして切っ先を引き摺るばかりだった手と腕にぐっと力が籠もり、“王子アランゲイル”が、“人造呪剣ゲイル”を天に向かって掲げて見せた。
「その虚ろな玉座……いっそ私の孤独で塗り潰そう」
アランゲイルがぐずぐずに焦げ付いた感情のままに言葉を並べていくのを、リザリアは能面のような顔で見つめ続けた。“明けの国”の王子が思いの丈を語り尽くして口を噤むその瞬間まで、“宵の国”の絶対君主は一言たりとも口を挟む真似はしなかった。
「……」
そして貴き者が、頬杖を突いたまま唇を動かす。
「……ただそれだけの為に、戦を引き連れ余の下にまで参じたと申すか……」
……。
「余には、分からぬ。まこと、人とは、分からぬものよ」
……。
「それが汝の求むるものだと言うならば――その凶王の器がそこへ届くに足るものか否か、試してみるがよい」
「言われるまでもない……」
天を指していた呪剣の切っ先を“宵の国”の玉座へと向けたアランゲイルの顔には、劣等感も怨恨も後悔も狂気も、もう浮かんではいなかった。
ただ、終わりをもたらす為に。
ただ、孤独を埋める為に。
ただ、己に宿った爛れた器が、その玉座へと至るに値するか、確かめる為に。
――ズチャリ。
脈動した真紅の剣を核として、“人間の騎士の形の呪い”が玉座の間に溢れかえった。
「“淵王リザリア”……その首、貰い受ける」
真紅の呪いの群れを引き連れて、“王子アランゲイル”が1歩前へと踏み出した。
「……」
凶王の器を宿し、孤独の埋め方を忘れ、ただ終わりを求めて前へと進む王子の腕を、ぐっと掴み止めるものがあった。
「……もう、何もしなくていいと、私はそう言ったよ……」
それはアランゲイルを離すまいと、その腕を力の限り握り締めて、呪いの群れを引き止めていた。
「離せ」
アランゲイルが、ぐいと腕を振り払おうとする。しかし呪いに爛れたその手に幾ら力を籠めても、王子の身体は自由にはならなかった。
「離せ……」
何度同じことを繰り返しても、その手は決して離れなかった。
「離せ……!」
「――離しま゛せん゛っ……!!」
涙で潰れた喉をこじ開けるようにして、シェルミアの泣き声混じりの声が響いた。
「たとえ゛っ……私に゛っ……何の資格もなくても゛……っ……貴方の孤独が、私の゛せいでも……それでも……それ゛でもっ……!」
「何を……今更ぁっ!」
アランゲイルのその声に呼応して、リザリアの座す玉座の方向を向いていた“騎士の形の呪い”たちが、座り込んだまま兄の腕を握り締めているシェルミアへと振り返った。
そして次の瞬間、シェルミアへと斬りかかった呪いの群れは、黄昏の光の中で翻る剣閃に斬り伏せられていた。
“運命剣リーム”の剣身に浮かび上がった魔方陣が、ぼぉっと淡い光を残して消えていく。
「……っ!」
“呪いたちを斬り伏せる未来”を選択したシェルミアの手の中で、運命剣がずしりと彼女の腕を引く。固く目を瞑り、何かに抗うように嗚咽を噛み殺して、妹の顔は涙でぐしゃぐしゃになっていた。
「今さら゛でもっ……! 私は……わ゛たしは……!」
運命剣の剣先をガツンと床に突き立てて、兄を傷つけることしかできない己の無力に打ちひしがれて鉛のように重くなった身体を強引に引き起こしながら、シェルミアが色を失いトカゲの瞳のように変形した左眼でアランゲイルを見やった。
「私は……! 貴方のそんな哀しい姿をっ……黙って見ていることしかできない妹には……っ、なり゛たくないっ!!」
そんな妹の見つめる先で、兄の形相が見る見る内に怒りに呑まれて歪んでいった。
「聖人ぶるなぁあ! 私をこんなにまでしておいた分際でぇぇええ!!!」
「グヴァァアアァ!!!」
「ガァァァアアァ!!」
アランゲイルの激しい怒りを喰らって、真紅の呪いたちが獣のように四つん這いになり、自らの顎を裂き開いて剥き出しにした牙で飛びかかる。
兄が次に見たのは、“運命剣リーム”に再び魔方陣が浮かび上がる光景と、その直後に屍血の血溜まりへと還った呪いたちの姿だった。
「っ……! シェルミアぁああ!――」
「……うっ……あ゛……あぁ゛ぁぁあ゛あああ゛っ!」
アランゲイルの咆哮を遮って玉座の間に響き渡ったのは、シェルミアが苦痛に耐えきれずに上げた悲鳴だった。
「う゛……うぅ゛……!」
変わり果てた左目の上に左手を被せて、シェルミアが頭を抱え込み、腰をくの字に曲げて苦悶の声を漏らしていた。右手には、魔方陣の消えかけている“運命剣リーム”が握り締められている。
「……はぁっ! はぁっ!……はぁ……!」
やがて運命剣が魔法の光を収めると、頭が内側から割れてしまいそうな激痛から解放されたシェルミアが、額に脂汗を浮かべながら肺の空気を一気に吐き出した。
「……はは……ははは……!」
その光景を暫し呆然と眺めていたアランゲイルが、全てを察したように勝ち誇るような声で嗤った。
再び、“人造呪剣ゲイル”が剣身から枝葉を生やし、数十体に上る“騎士の形の呪い”がシェルミアへ襲いかかる。
「さぁ……運命剣を使うがいいよ、シェルミア……」
「うっ……」
雪崩込んでくる呪いの群れを前に、シェルミアの頬に一筋の汗が流れた。
「でないと……お前1人の力ではどうにもできないよ……ははは……」
アランゲイルの表情が、骨の髄にまで染み付いた憎しみでニタリと歪んだ。
「ガウアァア゛ア!!」
“騎士の形の呪い”たちが、生前の剣技など忘れ果てて手にした獲物を無鉄砲に振り回しながら飛び込んでくる。それをシェルミアは、“運命剣リーム”の魔導器としての力を使わずに迎え撃った。
「はぁっ……はぁっ……!」
姫騎士の流れるような華麗な剣捌きには、幾分かの曇りが生じていた。先ほどの耐え難い頭痛の余韻で、頭の芯がふらふらと揺れている。
淵王城に陣取ってアランゲイルを迎え撃ち、その過程で“運命剣リーム”の“未来を選択し収束させる力”を使うたびに酷くなっていく頭痛に、シェルミアは覚えがあった。
混濁した意識の中に沈んでいる、忘れてしまいたい激痛の記憶――耳元にクスクスと聞こえる嘲笑と、裸の背中を這い回る魔女の細く冷たい指先の感触。
――『貴女の狂ってしまった体内の魔力の調律が元通りになることはないと、予め言っておきますわ……こんなにどうしようもなく壊れてしまった流れは、わたくしも見たことがありませんので……ふふっ』
“宵の国”西方の守護者、“三つ瞳の魔女ローマリア”の囀るような声が耳の奥で鮮明に蘇る。“不毛の門”で亡者の群れを迎え撃った代償に負ったものの意味を、シェルミアは今、身を持って思い知っていた。
――あと……何回、使えるのでしょうか……。
“騎士の形の呪い”を斬り倒しながら、シェルミアがボロボロの自分の身体に尋ねるように、心の中で呟いた。
どんなに強く歯を食い縛ろうと、それを無視して悲鳴を上げなければやり過ごせないほどの激痛。それを思い出すだけで、甲冑の下で嫌な汗が流れ出る。
そして次に運命剣のその力を使えば、もっと酷い痛みがやってくるという確実な予感があった。
未来を選択し、絶対の優位を取れることは、約束されている。しかしその直後に、どれだけの隙を晒すことになるのか、それだけは想像もできなかった。
「はははははっ!」
1体、また1体と“騎士の形の呪い”を沈黙させていく中で、人の形を真似た真紅の群れの向こうから、アランゲイルの嗤い声が聞こえてくる。自身の凶気に沈んだ、哀しい声が。
――兄上……そんなにまで、傷ついてきたのですね……。
……。
――そんなにまで、私は……貴方を傷つけてしまってきたのですね……。
……。
――今更、「許してください」なんて、言いません……言えません……。
……。
――それでも……!
……。
――それでも、貴方を、あの玉座に至らせるわけには、いきません。
……。
――そんな哀しい声で笑う貴方が、これ以上、人ではないものになっていくのを見ているだけなら……私こそ、最低の人間だ……!
……。
……。
……。
「――“運命剣”っ……!」
そして、“運命剣リーム”に魔方陣が浮かび上がり、淡い魔法の光が黄昏の薄闇を照らし出した。




