26-17 : 母親
「みっともないところを、見せてしまいました」
涙を拭って立ち上がったシェルミアが、少し恥ずかしがるようにしながらゴーダに言った。その傍らではエレンローズが、元々は自分の愛剣であり、今はシェルミアから託された“守護騎士の長剣”を携えて、静かに寄り添うように立っている。
「構わんよ。こちらこそ立ち去らなかった無粋な真似を大目に見てほしい」
2人の人間の騎士に交互に目をやりながら、暗黒騎士が言った。
「“明けの国”の神聖な儀式に立ち会えたこと、光栄に思っているよ。それに、ここにいるのは“宵の国”の暗黒騎士としてのゴーダであると同時に、貴公らの盟友としての“魔剣のゴーダ”だ。みっともないと思うことの1つや2つを見せたところで、何かが減るというわけでもなかろうよ」
「……そう、ですね……」
恥じらうように頬を赤らめながら、シェルミアが涙で詰まった鼻を啜った。
声を上げこそしなかったものの、エレンローズに抱き締められながら子供のように泣いていたシェルミアが落ち着きを取り戻したのを確認して、ゴーダがその傍らの守護騎士へ目を向けた。
「……随分と見違えたな、エレン。私の騎馬に乗せていたときとはまるで別人だ」
「…………」
ゴーダの声に、エレンローズがそっと目を閉じて軽く頭を下げて応える。双子の片割れをあるべき死の形へ還すその際に、一緒に連れて行ってと捧げた彼女の左腕と声は今度こそ永遠に失われてしまっていたが、その喪失は守護騎士の所作ひとつひとつに言葉より強い意味を含ませるに至っていた。
「魔女と、ローマリアと何があったのか、聞くつもりはない。奴の代わりに貴公に詫びる資格も、私にはない。己が力を自らの意思で振るい、その結末を享受する――“淵王”陛下より賜ったこの守護者の地位とは、そういうものでね……」
「…………」
暗黒騎士の言葉に耳を傾けながら、エレンローズはうっすらと開けた目を足元に向けて、何かに想いを馳せているようだった。
***
「――さて」
言葉少なに“星海の物見台”から歩き去っていく道中で、ゴーダがシェルミアとエレンローズに向けて口を開いた。
「リザリア陛下のお言葉の通り、“宵の国”領内へ攻め入っている“明けの国”の兵力について、それらへの対処に関する一切の権限は、私に一任されている」
暗黒騎士が切り出したその内容に、姫騎士と守護騎士が真剣な表情を浮かべた。
「シェルミア。陛下の前で切ってみせた啖呵に、偽りはないな?」
「無論です」
エレンローズと並び立ったシェルミアが、即答してみせた。
「よろしい。ならばシェルミア、そしてエレンローズ。貴公らに、盟友“魔剣のゴーダ”から、直接要請しよう――」
周囲に満ち始めている冷たい夜気と月明かりの静謐の中で、ゴーダがその後に続く言葉を継ごうとしたときだった。
……。
ドンッ。と、腹に響く衝撃と、空気を震わせる爆発音を轟かせて、要塞跡地の一角から火の手が上がった。
***
ゴーダたちが駆けつける頃には、そこは火の海になっていた。放棄され、風化しかけていた質素な調度品や、積まれていた材木に次々に炎が燃え移り、パチパチと火の粉が舞い、熱せられた空気がゴォォっと鳴いて渦を巻く。
その火の元は、1つしか考えられなかった。
「ガラァーンっ!」
炎に包まれた通路の先、焼け落ちつつある扉の向こう、かつて鍛冶場として使われていた空間に向かって、ゴーダが声を張り上げた。
「ガラン! 無事か!? 返事をしろぉ!!」
……。
……。
……。
ゴーダのその呼びかけに、声は返ってこなかった。
……。
……。
……。
カーン……カーンッ……。
炎に呑まれ崩れていく火事場の中で、銘刀“蒼鬼”に槌が振り下ろされる音が聞こえた。その音を耳にするだけで、赤熱した血管を浮かび上がらせ、2本の燃える角を生やした女鍛冶師の寡黙な背中が目に浮かぶようだった。
カーンッ……カーンッ……カーンッ……。
「ガラン! いつまで刀を打ち直している! そんなことをしている場合か!!」
「……黙れ……気を散らせるな……」
炎が巻き上がる音の間を縫って、感情のない低い声が微かに聞こえた。ガランが刀を打ち鍛える為に集中しきっているとき特有の、有無を言わせない凄みのある声――頑固な職人の声だった。
「馬鹿者! 要塞が焼け落ちるぞ! 下敷きになるつもりか!!」
「……火力が、足りん……こんな炉では、使い物にならん……」
暗黒騎士の声などまるで耳に届いていない様子で、女鍛冶師の独り言だけがブツブツと一方的に聞こえてくるばかりだった。
「……刃研ぎは、これでいい……曲がりも、これで取れようて……仕上げに、焼きを入れねばな……」
メキメキメキッ。と音を立てたのは、熱に晒された天井の梁だった。風化と黴と苔に侵食された太い石の梁が、表面だけを急激に高熱に晒されて歪み、それに耐えられなくなった箇所に小さなヒビが入って、それが見る見るうちに太い亀裂に成長していく。
「ガラン! 逃げろ! ガラン!!」
「……温い……こんな火では、温うて温うて……仕上げにならん……」
――ボリッ。
火の海の向こう側で、何か硬いものを齧るような音が聞こえた。次の瞬間、目を灼くような紫色の閃光がカッと走って、激しい熱波と膨張した空気の壁が、ゴーダたちを数歩後退りさせた。
「……まだ……まだ、足りん……」
――ボリッ。
紫の閃光の中で、石畳が粘土のようにぐにゃりと沈み、壁の一部が溶け落ちてボドリと不気味な音を立てた。
――ボリッ。ボリッ。
「……ン゛ッ、ゴホッ、ゴボッ……! ハァ゛……っ!」
女鍛冶師の咳き込む声が聞こえる。いつの間にか、槌を振り下ろす音は消えていた――そんなものは、“紫炎炭”の高温の炎でとっくにドロドロに溶け落ちたか、炭化して跡形もなく砕け散っている。
「お前……! それ以上はやめろ! 自分の熾した火で消し炭になる気か!!?」
……。
「……おぉ……何じゃ……誰かと、思えば……その声は、ゴーダか……」
目も開けていられないほどの閃光と熱波の向こう側から、普段の訛りに戻ったガランの途切れ途切れの声が、確かに聞こえた。
「おるなら、おると……早う、言わんか……ガハハ……」
頭上の階層で、何か大きな物が倒壊するズズンという肝を冷やす振動があった。
「そんなことはどうでもいい! 笑っている場合か! 早くこっちに来い!!」
ゴーダのその怒鳴るような声を、ガランの乾いた笑い声が一蹴した。
「ガハハ……すまんが、今は、手が離せんのじゃ……“紫炎炭”の火……あと少し……あと少しで、なまし終える……ゴーダよ、お主には、聞こえんかもしれんな……蒼石鋼の、“蒼鬼”の、この声が……可愛い可愛い、2度目の産声が……」
……。
「産みの親が……母親が……おぎゃあおぎゃあと泣きよる子を、置いていけるかや……この身を焼こうが、我が子を愛でずに、おれるかや……」
……。
……。
……。
「……ガハハハハ!」
……。
……。
……。
――ボリッ。
ガランが最後の“紫炎炭”を喰らう気配がして、それと同時に、形状を保っていられる限界を超えた火事場の仕切りが、グシャリと崩れた。
「ガラン……!」
「ゴーダ卿! ここももう、限界です!」
シェルミアが、語気を荒くして言った。
「……っ……」
「ゴーダ卿!!」
「…………」
そして焼け崩れていく鍛冶場を前に、半ば呆然となっているゴーダの腕をがしりと掴んだのは、エレンローズの右手だった。
「…………」
守護騎士の灰色の目が、ゴーダの兜の奥をじっと見据える。
「……っ……こっちだ」
倒壊の現場から無理やり視線を剥がすようにして振り返ったゴーダが、2人を先導して火の手とは反対方向の通路へ向けて走り出す。
上層階を支える梁と天井がメシリと悲鳴を上げて突き破れたのは、それから間もなくのことだった。