26-12 : 影の枝
「…………」
――『…………』
エレンローズの一切の声が止まる間が、数秒あった。
「うふふっ……ロラン様ったら、双子の姉の貴女のことを異性として、女として愛しておられたのですよ? 何度も何度もその想いを消し去ろうと、諦めようと苦しまれていたのがこの右目には視えました……ふふっ……ずっとずっと貴女にそれを告白できずに、数え切れない辛い夜を過ごしていたのでしょうね……嗚呼、素敵な方でしたわ……――アはははははははっ。本当に……本当にっ、可愛い人でしたわ! アはははははははっ!」
高ぶる感情が腹の底から溢れ出し、突然魔女が天を仰いで、狂気を孕んだ嗤い声を上げた。
夜空に呪詛のように響き渡るその嗤い声に呼応して、星座を成す星々は出鱈目に動き回り、青白い光を帯びていた月が真紅に染まる。
そして身体を仰け反らせて嗤い続ける魔女の傍らに、闇そのものが捻れて形を成したような、樹のような物が出現していた。
無数に枝分かれした、ただ濃い影のように暗いだけの存在がグニリと捩れ、次の瞬間、その枝葉が一斉にエレンローズへ向かって勢い良く伸びた。
「……っ」
エレンローズが、動かない左腕と左側面を庇うするように横に飛び退く。影の枝は進行方向上から標的を見失い、石畳の上に枝先を叩きつけた。
その不気味で理解の及ばない存在をまじまじと見ると、やはりそれでも、それはどこまでも影と闇と暗がりでしかなかった。
空中に、空間に木の枝のような影が浮いている。ただそれだけである。影を映し込む媒介もなく、影を発生させている本体もなく、ただ影だけがそこにある。生物なのか無機物なのか、物理的な現象なのか魔法の類いなのか、そもそも本当にそこに存在しているのかあるいはただの目の錯覚なのか――そんな基本的なことすら、判然としなかった。
そんな“何か”の得体の知れなさに判断が鈍ったことと、影の枝が何の前触れもなくグネリと新たな枝を伸ばしたことが重なって、エレンローズは次の身体の反応が一拍遅れた。
右腕に、新たに枝分かれした細い影が纏わりつく。
「ぅ……っ!」
何も感じなかった。感触も気配もない。熱も冷気もない。ただ何か、とても弱い力で引っ張られるような感覚があった。その感覚にしても、身体の外側から受けている力というよりも、体内から自分の意思とは無関係に身体が勝手に動こうとしているような、言葉にし難い気味の悪い拘束感があった。
反射的に、本能的にエレンローズは影の巻きついた右腕を振り払う。影の枝は何の手応えもないまま空中にできた影法師を千切らせて、その断片が風もないのにヒラヒラと舞って夜空の暗闇の中に溶けていった。
痛がっているのか、それとも怒っているのか、影の枝がグネグネとのたうち回り、そして次の枝を伸ばす。それに合わせてエレンローズが鞘に収まったままの“運命剣リーム”を振り払うと、更に影が千々に散る。
がくり。と、急激に全身から力が抜けていくのを感じたのはそこからだった。
手応えもないまま小さな断片に千切れて、闇夜に消えたように見えていた影の枝の残骸が、気づけばエレンローズの全身に付着していた。それらは菌類の撒き散らす胞子のように微細な根をウネウネと伸ばして、女騎士の身体を影の内側に包み込んでいく。
「ぁ……かはっ……」
いつの間にか、ぜぇぜぇと息切れを起こしていた。空気が薄くなったであるとか、首が締め付けられたというようなことではなく、エレンローズ自身が呼吸することを失念していた。必死に空気を吸い込むという行為を意識してみるが、今までどうやってその生命を維持するための基本的な動作をこなしていたのか、全く思い出すことができなくなっていた。
辛うじて窒息しない寸前のところで、ヒューヒューと効率の悪い呼吸を繰り返す中、エレンローズは自分の胸元に手を当ててみる。違和感を確かめるように、手のひらに意識を集中する。
鼓動が不安定になっていることに、まず気がついた。そして次に、自分の心臓がどうやって動いていたのかが分からなくなり、小さな恐慌状態がやってくる。完全に無意識下で血を全身に送り出していたはずのその臓器に対して、今は「動け動け」と全神経を注力して念じ続けなければならない有様だった。
そして、その違和感に戸惑い、あるべき状態を意識している自分自身の自我そのものが、虫食いにあった羊皮紙のようにぶつ切れになり始めていることを、エレンローズはぼんやりとした思考の中で確認し、確認したはずのその認識自体を忘却することを繰り返し始める。
五感と、それを統合する意識、さらには無意識の部分まで溶けていく。意味を失っていく。
それがこの纏わりついた影のせいであると気づいたのは、それとも忘却したのは、これで何度目だったろうか。
「アははははははっ。理の外側に触れた感覚はいかが?」
興奮した笑い声を上げながら、右目を手のひらで隠したままのローマリアがうっとりと影の枝の幹と思われる箇所に頬ずりする。
「それがわたくしの“星の瞳”に視えている、神秘の断片ですわ。意識も意味も失って、ですけれど死という相とはかけ離れた、全く別の何か……わたくしはそれを“第3概念”と呼んでいますの……肉体も魂も魔力も捨てて、ただ神秘の中に溶け合いましょう? 身体を重ねるよりも、もっとずっと深くて背徳的な快楽に、導いて差し上げますわ……」
魔女が左手を伸ばし、誘惑するように指を踊らせる。
「ぁ……かっ……?……?」
全身に付着した影の胞子に侵食され、力の入れ方が分からくなった肉体を抱えたエレンローズは、最早立っていることもできず両膝をついていた。呼吸は止まり、時折思い出したように不規則な鼓動を打つ心臓が、辛うじて肺に残ったわずかな酸素を巡らせていたが、意識がどんどんと虫食いになっていくエレンローズは、開けた口の端から呆けたように涎を垂らして夜空をぼんやりと見上げているだけである。
「うふふっ……さぁ、ひとつになりましょう? λιλι……」
……。
……。
……。
……――■◆□。
「……!」
瞳孔が開き切り、何も写し込んでいなかったエレンローズの灰色の目に、一瞬だけ理性の光が戻った。
「……あら……?」
その変化に勘付いた魔女が、怪訝な声を漏らす。
ダンッ。と、“第3概念”の片鱗に身体の半分までを侵食されて影と同化しかけていたエレンローズが、“鐘楼”の石畳を蹴って前に飛び出した。
「また、わたくしの愉しみを邪魔なさいますの……そんなに、気持ちよくなることがお嫌い……?」
ふっとローマリアの顔から嘲笑が消え、代わりにそこには興醒めしたとでも言いたげな冷たい無表情が現れた。
興味をなくした玩具の後始末をするかのように、突進してくるエレンローズを迎え撃たんと、魔女が腕を伸ばす。
そしてエレンローズは――魔女の横をすり抜けて、影の枝の幹へと、意識を溶かす暗がりの中へと自ら飛び込んだ。
「! 貴女、何を……」
影の枝の中に消えていく直前、魔女の白い手の下で開かれた“星の瞳”は、エレンローズの判読可能な最後の思考を読み取っていた。
……。
……。
……。
――『……ロラン』
……。
……。
……。




